24

 

 翌日、昼を少し過ぎた頃に神殿から戻ってきたリューデルトは、ラディアから魔獣に襲われたことを聞き、リアリムをひどく心配してくれた。
 リューデルト自身も魔獣の出現は結界の効果が薄まってしまったからだと判断し、術をかけ直してもらう。そこでようやく安堵できた。二重の結界の中にいたとはいえ、確実なものだと約束されてはおらず不安だったのだ。リューデルトが傍にいてくれればもう心配もないだろう。
 今回の神殿での実りは勇者の新しい魔術習得のみで、魔王の居場所も、魔を呼ぶ者の体質を封じる術もなかったと報告を受ける。
 リューデルトは申し訳なさそうにしていたが、それどころではなかったリアリムは曖昧な表情で励ますしかなかった。
 一晩野宿をして翌朝森を出て町に戻ることを話し合い、それまで各々休息をとることにした。
 そうと決まるとすぐにリューデルトは休むと言いつつ、ふらりとどこかへ行ってしまう。ラディアも狩りに行くと告げてその後に続き消えてしまって、短期間の拠点している場所にはリアリムと勇者だけが残された。
 ラディアのように食料調達も考えはしたのだが、それは行動に移す前にリューデルトから禁止されている。もしかしたら結界が弱まっている間に気配を感じ取った魔族たちが来ているかもしれないので、念のため大人しくしていてほしいと言われてしまえば従うより他ない。
 とくにやることもなく、ヴェルと戯れていたリアリムだったが、ふと彼のことを勇者に紹介したことがなかったのに気がつく。
 旅のなか、勇者にヴェルを紹介する時間があまりなかったのだ。ヴェルが気まぐれで、ゆっくりと腰を落ち着けられているときに傍にいなかったせいだ。そのくせ忙しないときや、会話が弾んでいるときにひょいと姿を現すのだから話しようがなかった。
 折角の機会だからと、後ろのほうでいつものように木の幹に背を預け、腕を組んで目を瞑っていた勇者に振り返る。
 逃げないようにとヴェルと掴んで、彼の傍らまで歩み寄った。

「隣、いいですか?」

 薄らと開いた瞼から蒼く瞳がちらりとリアリムを見やる。
 なにも言われなかったが、それを肯定ととらえて、失礼します一声かけてから隣に腰を下ろした。

「まだ勇者さまにご紹介していませんでしたよね。こちら、おれの友人のヴェルです。って言っても、鼠なんですが。長い付き合いになります」

 今にも逃げ出しそうなヴェルをしっかりと捕まえたまま勇者の前に出す。ちらりと横目が流されるだけだったが、少しは興味があることがわかる。
 勇者と目を合わせると、ヴェルは大人しくなり、彼の瞳を見つめ返していた。
 これならいけそうかもしれないと人知れず思惑を抱え、はやる気持ちを押さえ込む。

「勇者さまもおれと同じく、動物に嫌われやすいんですよね。もしかしたらヴェルなら平気かもしれません。こいつは昔からおれの傍にいてくれたから」

 旅の途中、リアリムと同様に勇者もまた動物たちに威嚇をされたり、落ち着きを失くされたり、騒々しくされることが多かった。静かに受け止めてくれたのは勇者の愛馬シュナンカだけだ。
 遠くからでもこちらを警戒してくる鋭い動物たちの視線を感じながらも、離れた場所から眺める勇者の目は、本音は彼らと触れあいたいと思う自分と同じ願いを含んでいるような気がした。だからこそいつか、自分と仲良くしてくれている小さな友を見せたかったのだ。
 自慢したいのではない。リアリムのように、勇者もヴェルと親しくなれるのではないか、という淡い希望があったからだ。そうすれば勇者が触れられる動物も増え、少しは彼の心が癒されるのではないだろうか。
 シュナンカの世話を甲斐甲斐しく焼く勇者の姿を見ていればこそ思い立ったのだが、はたして勇者自身はどう思うのか。

「いつ頃、出会ったんだ」
「あれはおれが八才くらいの頃ですかね。雨の日に家の軒先にいて、雨宿りをしていたんです。そこから餌づけしてったら懐いてくれて、今ではこうして傍にいてくれます」

 反応は薄く、声音も平淡なままであるが、食いついてきたのではないかとリアリムは内心で拳を握った。

「まあ、結構気まぐれですぐにどこかいっちゃうんですけどね」
「その尾の飾りは、そのときからあったのか」

 ヴェルの顔からつうっと下にたらりと垂れる長い尾に勇者の目線は下がる。尾の先端に毛のふくらみがあるのだが、その根元には赤い輪が二連嵌められているのだ。

「はい。もう会ったときにはつけていましたね。触ろうとするとすごく怒るんですよ。人馴れしていたし、もしかしたら以前飼い主でもいたのかもしれません」

 ヴェルを紹介すると必ず皆尋ねてくることなので、リアリムは淀みなく答える。

「……噛みつきは、しないか」

 この質問への助走だったのか、という考えがつい顔に出そうになり、慌てて引き締めながらも頷いた。
 疑うようにリアリムに向けられた視線からついと顔を横に向ければ、その隙を突くように勇者の手が持ち上がる。
 そろりと指先がリアリムの手の中の者に伸ばされるが、触れる直前にヴェルが暴れ出し、押さえきれなかったリアリムの緩んだ指の隙間から逃げ出してしまった。

「あっ、ヴェル!」

 地面に落ちるように着地をすると、そのままさあっと風のように草の生い茂る中に突っ込んでいく。
 あっという間に姿を消した小さな友に、リアリムは落胆と申し訳なさから肩を落とした。

「その……すみません」
「いい、気にするな」

 リアリムに傾けていた身体を前に戻して、勇者はさらりと言い切った。特に気にしている風には見えず、無表情の仮面をつけることの得意な彼の本心は窺えそうにない。

「多分あいつ、人見知りしているんでしょう。おれと初めて会ったときだって、なかなか近づいてこなかったので……今度餌をやってみます?」

 いつもリアリムが夜にヴェルの餌を用意していることは周知の事実だ。そのときリアリムからではなく、勇者からであれば少しは懐いてくれるかもしれないと打算していた。なにせリアリム自身が、そうしてヴェルを手懐けていったのだから。
 勇者はどこか遠くを見つめながら、答えではない言葉をぽつりと呟いた。

「――おまえは、おれが怖くないのか」

 人類の憧れである勇者たる者がそんなことを口にするとは、と平和呆けしていた頃のリアリムであったら驚いていただろう。
 けれども今は違う。何故なら勇者を、彼自身を知ったのだから。
 リアリムはすぐには答えられず沈黙を返してしまう。それを勇者はどう受け取ったのか、いつもよりやや口早に言った。

「人を守る立場にありながら、人を傷つける。人を狂わせる。たとえおまえが例外だとして、いつ自分がその対象になるか不安で仕方ないんじゃないか。本当は恐ろしくて堪らないんじゃないのか」
「勇者さま、おれは――」
「勇者であるからとか、恩人であるからだとか、そんな理由で耐えているのなら、もういい。無理しておれに付き合う必要もないし、こうして話かけずとも。慣れあわずともおまえのことは最後まで面倒みるから心配はするな」

 リアリムの言葉を遮ってまで、普段寡黙な勇者はすべてを言い切った。
 リアリムの目を見ようともしない彼は、その青い瞳で本当はなにを見つめていると言うのだろうか。
 何故、勇者が突然このような話を振ったのか、リアリムはなんとなく察する。恐らくリアリムがヴェルの話を持ちかけたことで、己の体質を思い出したのだろう。
 動物の魔獣の違いは光の眷属であるか闇の眷属であるか、とされているが、それだけでなく魔力の有無でもあるのだと以前リューデルトに教わっていた。
 魔獣は多かれ少なかれ個々に魔力を有しており、対する動物は稀に魔力持ちが現れる程度なのだという。
 つまり動物は大抵魔力を持たぬ者だ。そのため、相手の魔力を狂わす力を持つ勇者が触れても狂わされることもない。そのため勇者は魔力のないシュナンカの世話は素手でやることさえあった。
 しかし魔力を持つ魔獣相手では狂わせの力は発揮される。勇者が極力魔族との戦いに参加しないのは、それが理由なのだと彼の仲間たちに教えてもらった。
 人間を相手にするのと同様に、勇者の素肌に触れた魔獣は全身の血を煮えたぎらせてやがて蒸発するのだ。その光景を未だリアリムは見たことがないが、地獄のような苦痛を伴うのだと言う。
 たとえ敵であっても、そのような惨い死を与えることはできないと、それ故に勇者は参戦を控えてラディアに任せているそうだ。
 動物と違い、光の眷属に属しながらも魔獣同様に皆少なからず魔力を持つ人間。ヴェルやシュナンカと触れあうことができても、仲間であるリューデルトやラディアの手助けをすることすら勇者は躊躇わねばならない。けれども接触を許される動物たちには嫌われてヴェルのように逃げられてしまう。
 動物たちに遠巻きにされるのは、本能で恐れられているから、と思うのだろう。そして彼らに拒絶される度、改めて勇者は傷ついているのではないか。
 人を傷つけ、人を狂わせながらも、けれども人々を救う立場にある。命運の矛盾に苛まれているのではないだろうか。
 以前の勇者ならばきっとされなかった問いかけは、唯一魔力を持たぬ者であるリアリムとの関係に少しだけ整理がついたからなのだろう。
 間違えぬようにリアリムは、尋ねながらも耳を塞ぎたげな、答えを欲していなさそうな勇者のために口を開いた。

「初めは、畏怖しておりました」

 それは偽りないリアリムの本心だ。だが、それがすべてではない。

「確かにあなたは勇者さまです。ときに勇者なる者として皆の前に立ち剣を掲げ、励ましと、魔王を討ち果たすと約束してくださる姿はまさに我らの希望です。ですがあなたも血の通う人間だということをおれは知っています」

 そこまで言って、はたと自分の発言に気がつき慌てて訂正する。

「あ、勿論初めから人間だと知っていましたが、なんていうか、その……あまりに、おれとは立場が違う方なので、雲の上の人だったんですよね。感性だって、見ているものだって、背負っているものだってすべて違う。大げさかもしれませんが、人類の光であるあなたを神と同列視していたのかもしれません。おれなんかじゃ到底理解できない高みにいらっしゃる方だと思っていました。実際、そうなのでしょう。ですがすべてがそういうわけではないと知りました」

 きっかけは、冷たい指先。
 触れあった肌を通して、彼の怯えを知ったときから、すべては変わり始めたような気がする。

「――ご本人を目の前にして言うべきではないのですが……あなたはきっと、繊細な方なのでしょうね。それでいて、己の使命を果たすべく道を突き進んで行ける強き方でもあると思います。そして人を――命を思う気持ちを決して忘れない」

 立ちはだかるものは斬り捨てても、すべてを目の敵のように殺そうとはしない。魔族の命すらも感情的に奪うことはない姿に、リアリムは気高く生きる術を教わったのだ。

「あなたが勇者であるからおれは救われました。そんなおれがあなたを恐ろしいと思うわけがありません。勇者さまを知れば知るほど、おれは忘れてはならないものを学ばせてもらっているのです」

 確かに、狂わせの力は恐ろしい。けれども勇者はそれを悪用しようとはしないし、自ら傷つけられている。痛みに晒されながら、周囲にその苦痛を与えまいと皆を遠ざけて。その姿に何故、不安を覚えねばならぬというのだろう。
 視界の端で勇者がリアリムのほうを向いたのに気がつき、リアリムも勇者に振り向く。
 リアリムの深紅の瞳を、対面する空色の瞳がじっと見つめた。

「おまえは変なやつだな」

 彼は面映ゆげに、小さく笑った。
 初めて見る表情にリアリムが目を瞬かせているのにも気がつかず、勇者は身体をずらして横になり、リアリムの胡坐を掻いた腿にぽんと頭を乗せた。

「勇者さま?」
「眠る。誰かが戻ってきたら起こせ」

 言い終えるなり目を閉じてしまう。さすがにまだ眠りにはついていないだろうが、彼を退かすわけにもいかず、他にやることもないリアリムはそのまま腿を貸してやることにした。
 勇者の笑顔もそうだが、こうして気軽に触れてくるのもこれが初めてだ。毎度抱き枕の代わりにされてはいるが、それでもいつも触れるときには恐る恐る指が伸びてきていたのに。
 自分のほうを向いている横顔を見下ろして、リアリムは逡巡した後、小さく鼻歌を歌った。眠れぬ妹によくせがまれていた子守唄のようなものだ。リアリム自身も幼い頃には両親にせがんで、眠りにつくまで聞かせてもらったものでもある。
 勇者はリアリムと出会うまで横になって眠ることがなかったのだという。必ず剣を近くに置くか抱くかして、ただ座って目を閉じるだけだった。リアリムとともに寝台の上で眠るようになってから、勇者は朝まで一度も起きることなくいられるようになったことをリューデルトやラディアから教えてもらった。
 町の外で魔族や獣の襲撃を警戒しているというのならまだわかるが、宿屋に来て、安全が確保された場所でさえ彼は横にならないのは、ろくに眠れないからだ。眠気を誘う香を焚いても、魔術を施しても、勇者の身体というだけで効かないのだそうだ。そして睡眠が不足した身体でも動けてしまうからこそそう深刻に考えることができなかったという。
 しばらくして足にかかる重みが増した。すうすうと聞こえる安らかな寝息に、勇者が眠りについたことを悟る。
 それでもリアリムは鼻歌を続けた。
 ともに眠ることは多かったが、大抵リアリムは背中を向けて寝ているので、彼の寝顔を見るのはこれが初めてだ。
 神殿内では休まず文献を漁っていたと言っていたから疲れているのだろう。よく見れば目の下には薄らと隈がある。もしかしたら睡眠時間も削っていたのだろうか。
 疲労は窺えるが、それでも重圧から解放されたような穏やかな寝顔は少しだけ彼を幼く見せる。いつも表情がなく、変化があるとすれば難しい顔をしていたり、険しくなったりするばかりだから新鮮だった。
 眠っているときばかりは、勇者とてすべてのものから一時の解放を得るのだろう。
 もし勇者がただの青年であれば、同じ立場であれば、もっと親しくなれていたのかもしれないなとリアリムは思った。
 彼は、あんなにも柔らかく笑うことができるのだから。
 本当は飢えている温もりに自ら手を伸ばすことすら許されず、周りの期待に応えるべく甘えも許されない。自らを律する彼の息苦しさは、ただ傍らにいるだけのリアリムでさえ感じそうだ。
 そんな、己に厳しくあらねばならない勇者の拠り所に、一時でもいいから自分がなれたらいいと思う。
 そうして彼に教えられている善きことを返せたらとリアリムは願った。
 離れていたヴェルがリアリムの身体をかけ登り、肩の上から勇者を見下ろす。
 鼻歌を続けるリアリムは心の中で、仲良くしてくれよ、と伝えながら指先で頬を撫でる。
 ヴェルは小粒の瞳でじっと勇者を見つめていた。

 

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