旅の途中、幾度も困難は立ちはだかった。
勇者たちが向かったほうとは逆に位置する町村が襲われ、間に合わなかったこともあったし、依頼を受けて凶悪な魔獣の討伐に出向いたこともある。
あるときには突如として現れた魔人と直接対峙することがあった。
魔王の配下である彼は町中であるにも関わらず、強烈な魔術を放ち、リューデルトはそれを防ぐことに精いっぱいだった。魔人が引き連れていた魔獣は逃げようとする人々を襲い、ラディアは一人それを押さえ込み、諸悪の根源たる魔人には勇者が立ち向かう。
勇者一行は、各々の役目を果たしていた。だからこそ誰もが一瞬リアリムのことを忘れたのだ。
魔人は勇者たちの荷物のなかでもっとも脆く弱いものを知っていた。そして隙を逃すことなくリアリムに風で作り出した凶刃を放ったのだ。
リアリムは己の死を想像したが、勇者が身を挺し守ってくれたおかげでまったくの無傷で済んだ。代わりに勇者は大怪我を負ったのだが、それでも回復を後回しに魔人を倒し、町の動乱を収めたのだ。
すべてを終えた後、重傷であるにも戦い続けた勇者の心臓は一度止まった。
ラディアが蘇生を試みても鼓動は鳴らず、あのときリアリムはすべての思考を止めてただ呆然と勇者を眺めていた。勇者が死ぬなど信じられなかったのだ。
なにも考えられないままリアリムが勇者の頬を撫でていると、心臓を止めたはずの勇者の瞼が震えた。
まさかと思って顔を見つめれば、空色の瞳が現れる。あのとき、どれほどの安堵が全身を熱くさせただろうか。あまりに衝撃的なことが続いたせいで、当時のリアリムの記憶はどこか曖昧になってしまっている。
一度は目覚めた勇者が静かに眠りについた後、宿屋で彼を休ませてやっているときにリューデルトが教えてくれた。
勇者は、死ねぬ身であるのだという。その身に課せられた役目を果たすまで、道半ばで朽ちることは許されないのだ。
勇者に与えられた役割は魔王と対峙すること。そのため勇者を殺せるのは魔王だけなのだと言う。
竜でさえ一滴でもがき苦しみやがて死に至る劇薬であっても、苦痛はあれども勇者は毒を自らの体内で中和してしまう。心臓とて一度停止してもやがてまた動き出す。そのため、魔人の魔術によって受けた傷で勇者が死ぬことはなかったのだ。
その事実を勇者本人が知ったのは、リアリムを仲間にしてから初めて立ち寄った神殿でのことだったという。
勇者は魔王の手でなければ死なず、魔王も勇者の手でなければ倒れることはない。そのため、未来にある彼らの死闘は逃れることも、二人が会う前に終わってしまうこともあり得ないのだ。
それは創造主たる神が定めた世界の命運を分かつための儀式だとされている。
勇者と魔王をぶつかり合わせ、その勝敗によってこの世の今のありようが闇の眷属か光の眷属か、どちらに傾いているのかを見定めるためだという。
勇者といえども神に会ったことはないし、神託を受けたこともない。真であるかもあやふやで、信仰はあれども存在の確証はない。しかし勇者のために遺される神殿に偽りの情報が置かれていることもないだろう。
この世の神はどうであれ、勇者の生死に関する事柄は重要であった。しかし確認する方法などない。魔王以外の手による死ならば生き返るとされているとしても、リューデルトもラディアも不安であったというが、文献通り勇者は一命を取り留めたのだった。
それは単なる偶然だったかもしれない。神に愛されし者とも呼ばれる勇者であるからこそ、奇跡的に蘇ったのかもしれないから今後も油断はできない。
しかし、これで説明がつくこともあった。
自分の命を脅かす勇者を倒しに大勢の魔族を送ればいいのに、魔王がそれをしないこと。それは勇者が強いだけではない。勇者が死なないからだ。それならばいくら刺客を送ったところで意味はない。
歴代の魔王と勇者の対決も、道半ばにしてどちらかが倒れた、という話も聞いたことがない。すべてが記録されているわけではないが、必ず勇者は魔王のもとに辿り着き、そしてどちらかが死ぬことによって終結される。
このことについては、他の神殿にも回って確信を深めていくということで一度話はまとまったのだった。
そんな出来事があったのは前回の町で、いくら自己治癒力の高い勇者といえども一度死んだからか、消耗した体力は著しかった。未だ戻りきっていないようで、リアリムが傍におらずともちゃんと寝台に横になってくれていた。それは熱心にリアリムが頼み込んだからでもあるが、なにより介抱役を務めるリューデルトが許しそうにもなかった、という事情もあるだろう。
ラディアと休憩がてらの昼食を取りながら、リューデルトは怒らせると恐ろしいという話をしていた。特に頻繁に魔術師を怒らせる剣士は身に染みているらしいが、それでも懲りた様子はない。
いつか魔術で氷漬けにされそうだ、と肩を竦めるラディアにリアリムは苦笑した。
「さあて、ちゃんと働かないとあいつまた怒るしな。またそろそろ情報を集めに行くとするか」
「そうだな」
「んじゃその前に、ちょっくら用足しに行ってくるわ」
席を立ったラディアを見送り、リアリムは食後の茶を一口啜る。ふと視界の端で、開いた店の窓からきらりとした輝きが見えた。
何気なく外を見て、紅蓮の目を見開かせる。
陽光のもとで煌めくは、金色の髪。それはまだ頼りない未熟な身体をする少女のもの。
長髪に見え隠れする横顔にリアリムは立ち上がり、手にしていた杯を放るように机に置いて駆け出した。
店を飛び出して少女が向かっていた先を探す。
通りを行き交う人々に隠れそうになりながら、建物の隙間に入っていく彼女を見つけた。
「っリアーナ……!」
リアリムの大声に町人たちは何事かと振り返る。
注目を集めていることなど構わず、周囲の人間を気遣うゆとりもなく、リアリムは人々を押し退けながら彼女を追いかけた。
そんなはずはない――頭では、わかっている。
けれども先程の少女は、リアーナに、亡くなったはずの妹にあまりにも似ていた。
リアーナはヘルバウルに食われたはず。集落の生き残りはリアリムだけなのだし、勇者たちもそう言っていたのだから他に生きていた者がいたとは思えない。
しかしリアリムは、妹の遺体を確認したわけではない。ヘルバウルの腹の中だと諦めていたのだ。
だからこそ、可能性はあるのではないか。
他人の空似だ。そうに違いない。けれどももしかしたら。奇跡があるのなら――
少女が進んだ路地に入り込めば、視界の先の角で翻る服の裾。
それに誘われるよう同じく角を曲がったリアリムは、ついに追い求めた少女の顔を見つける。それと同時に、驚愕に目を見開いた。
「そん、な……」
あまりの衝撃にすべてをのまれていたリアリムは、背後から忍び寄る影に気がつかず、頭を殴られそのまま意識を手放した。
日暮れまで戻らないはずのラディアから事情を聞いたリューデルトは、さあっと顔をこわばらせた。
「リアムが消えたとはどういうことですか!」
「戻ってきたらいなかったんだ! 勝手にいなくなるようなやつじゃねえし、ここに戻ってきてると思ったんだが……」
ラディアはぐるりと視線で部屋を一巡する。けれども見えぬ姿に歯噛みした。
「いないのに気がついてすぐに戻ってきたんだ。それほど時間は経ってねえ」
「それならばそう遠くには行っていないはずですね。ですが、一体どこへ……」
切羽詰まる表情をする従者たちを一瞥した勇者が拳を握ったことに、リューデルトは気がつけなかった。
いくらリアリムが消えたとして、心配し過ぎているのかもしれない。しかし以前暴漢に襲われかけたこともあるリアリムの姿が頭に過る。
あのときは運よく勇者が追いかけたことで未遂で済んだが、もしもあのとき落し物をしていなかったならばどうなっていたことか。
また似たようなことが起きているかもしれない。もしかしたらそれ以上の事件に巻き込まれている可能性も捨てきれないと思うと、ひどく心が騒ぐ。
自分たちが勇者一行であることも悠然と構えていられぬ要因のひとつであるだろう。
勇者は確かに人々の希望ではあるが、ごく一部の人間でありながら闇に染まった者どもからは恨まれることがある。魔族がもたらす争いによって利益を得ている輩だ。
極稀に、己の技量も弁えず突っ掛かってくるようなこともあったが、当然勇者も従者二人もそこらのごろつき遅れをとるようなことはない。しかしリアリムは違う。彼は勇者一行の一員といえども、一般人であるのだから。
本来であれば、すでに出会ったことのある人間を町のなかから探し出すことは勇者にとってそれほど困難なことではない。相手の持つ魔力の質さえ知っていれば、その気配を探り探し出すことができるからだ。
しかしリアリムは魔力を持たざる者。これでは察知することができない。
リアリムの体質は勇者と唯一気兼ねなく触れあうことができると歓迎したが、まさかこのような障害になるとは思いもよらなかった。
「周囲の方々に聞かなかったのですか? リアムはどうしたのかと」
リューデルトの問いかけに、ラディアは戸惑ったように眉を寄せた。
短い沈黙を置き、躊躇いを残したまま答える。
「――突然飛び出したそうだ。リアーナと叫んで」
「リアーナ……その名は――」
それはリアリムの故郷とともに失われた、彼の妹の名だった。
これまでの旅のなか、何度も話を聞いたことがあった。勇者と同じ金髪の持ち主で、体温まで似ているのだと、以前彼はこっそり教えてくれたか。
いずれにせよ、すでにこの世にはいないはずの存在である。
思い出のなかにしか登場しない少女の名を呼んで消えてしまったリアリム。リューデルトは、リアリムがリアーナそっくりな娘を見つけたのではないか、と推測をした。
我を忘れ追いかけているうちに、道に迷い、帰れず困っているのかもしれない。
以前迷子になったときに使うようにと渡していた魔導具の発動は感じられないが、もしかしたら存在自体忘れてしまっているのかもしれないとリューデルトは椅子から立ち上がる。
「とりあえず、もう一度周辺を捜してまいりましょう」
「おれも出る」
「勇者さまはこちらでリアムが戻ってくるのをお待ちください」
万が一入れ違いになっては困るし、勇者自身を外に出すこともよくない。まだ身体は万全ではないのだ。
寝台に腰を下ろしたまま、勇者は浅く頷いた。
早速ラディアが部屋を出ようとしたとき、取っ手に手をかける前に扉が叩かれた。
もしかしてと思い慌てて開ければ、そこに望んだ姿はなく、いたのは町の子供だった。
少年はラディアを見上げると、ん、と右手に握ったものを差し出す。ちいさなてのひらの上にあるものは、無造作に丸められた薄汚れた麻布だった。
ラディアは膝をつき、少年と目線を合わせる。
「これは?」
「わたしてっていわれたの。ちゃんとわたしたからね、それじゃあね!」
押しつける形でラディアに布を手渡した少年は軽やかに踵返して、そのまま走りながら立ち去った。
扉を閉めて、ラディアは勇者のいる寝台の傍らに赴く。勇者に布を渡し、リューデルトと並ぶように一歩引いて待機した。
粗雑な包みを受け取った勇者は、簡易的な結び目を見つけてそれを解く。
布が開き現れたものに、リューデルトもラディアも息をのんだ。
「それ、は……そんな、まさか……」
リューデルトの顔から色が消えた。ラディアも信じがたいものを見るように、包まれていたものに目を奪われる。
従者の動揺など気にも留めぬ勇者は、躊躇いもなく、てのひらの上の切り落とされた誰かの小指を摘まみ上げた。
第二関節から断たれたそれの断面から垂れる血はまだ乾き切っていない。温もりさえ失われ切っていないようにも見える。切断されてからさほど時間は経っていないのだろう。
魔力とは、血に溶け込んでいる。
傷から落ちた血でも、半日以内であれば魔力の残滓を感じ取ることができるのだ。しかし未だ濡れているものからはなにも感じない。
つまりこれは、魔力を持たぬ者から落とされた指なのだと判断できる。
「リアム――」
ラディアがぽつりと漏らした言葉に、いよいよリューデルトは言葉を失った。あまりの衝撃に、生々しい傷痕から目を逸らすことができない。
少年の手で届けられた、見つからぬリアリムの指先。それが意味するものを深く考えようにも、心が拒否している。
不意に、座っていた勇者が動いた。寝台から立ち上がり、従者たちと目を合わせる。
彼の瞳の深さに、リューデルトは底冷えする恐ろしさを感じた。その瞬間、リアリムの身に起こった出来事を心配するよりも勇者が怒りに捕らわれてしまうことを危惧する。
勇者は、不自然すぎるほど冷静に告げた。
「小指だけだ。ならばまだ殺されてはいないはず。もし見せしめにでもするつもりであれば死体を運ばれていただろうからな。――これはおれに対する挑発にすぎない。あいつはまだ、生かされている」
「勇者さま……」
ふと、気がついてしまう。
切断された指を支える腕とは反対の、身体の横に垂らされている左手。そこが、強く拳を握るあまりに爪が食い込み、それが肌を裂いて血を流していた。力みすぎているせいか細かく震えている。
無表情の仮面の下、一体どれほどの怒りを抱えているのか。
長い付き合いのなか、勇者の苛立ちを感じたことはあれども、彼の憤怒に触れたこともなければ目の当たりにしたこともない。
彼が自らを戒める枷を外したとき、なにが起こるというのだろう。
リアリムの身を案じるとともに、魔術師は勇者に恐怖した。