27

 

 ひどく喉が渇く。身体が火照っていて、汗まで出ているのに、それなのに身体の芯が凍りついてしまっているかのように寒い。
 息苦しくて、呼吸をしたくて、喉を掻きむしれば不意に手が動かなくなる。
 誰かに掴まれているのだと理解した瞬間、全身を多くのてのひらが這いずりまわっている錯覚に捕らわれる。逃げたくて暴れれば、その手が身体を拘束していく。
 思うように動けなくて、リアリムは唸った。
 うまく足が持ち上がらない。右手に力が入りづらい。こんなことでは逃れられない。逃げられなければ、ずっとことままだ。
 てのひらたちが黒く粘ったものに変わった。暴れれば暴れるほどリアリムの肌をのみ込んでいき、力を奪っていく。浸食された場所は氷漬けにされたかのように冷たく、身動きがとれない。
 ついには口元を覆われて完全に息ができなくなった。
 このまま呼吸ができなくなるのではないかという恐怖に苦しさが増していったとき、頬に走った衝撃にぱっと目を開いた。
 その瞬間身体をとりこもうとしていた黒いものは消え去り、肺に空気が流れ込む。

「っは、はぁ、っ……」
「深呼吸しろ」

 傍らの声に指示をされるが、できなかった。呼吸の仕方がわからないのだ。
 これまで当然のようにしていたことなのに、また息が詰まっていく。喉を手で押さえたことでそれが伝わったのか、相手はリアリムの耳に口元を寄せた。

「落ち着け。ゆっくりでいい。吸って、吐いて」

 相手の呼吸の音に合わせて、言葉の通りに空気を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出す。
 初めは吐いた息は震えていたが、やがて収まっていく。胸元を握り締めていた指先からも力が抜けていき、残ったのはやるせない虚脱感だった。
 なにも考えずぽうっと目先に見える壁を眺めていれば、不意に視界の端で動く自分のものではない手に気がつき、リアリムは咄嗟に頭を抱えて身を縮めた。
 瞬時に全身の痛みが蘇る。
 リアリムが怯えれば怯えるほど、やつらは面白がっていた。幾度も刃は肌を滑り、傷口は爪で抉られて。痣がつくほど肌を捻られもしたし、火のついた煙草消しにもされた。痛いと、やめてほしいと訴えれば蹴られ殴られた。
 裂傷の鋭い痛みも、打撲の鈍い痛みも、ひりつく熱も、堪えきれぬ嫌悪も、すべて認めてはもらえない。限界を迎えてもなお冷水をかけられ、身体に痛みを与えられ、強引に現実に引き戻された。闇に意識を委ねることさえ許されなかったのだ。
 がたがたと、純粋な恐怖のみに身体が震えあがる。
 その肩を叩かれ、リアリムは咄嗟に手を振り払って逃げ出そうとした。けれども寝台から降りた途端に足に力が入らず、膝から崩れ落ちる。
 床に倒れ込みそうになったとき、腹に回された腕に助けられた。しかし今のリアリムにとってそれが救いであるかさえ認識ができずがむしゃらに暴れた。

「ひっ、や……やだ、離せ、離せっ」

 振り回していた手の甲が何者かによって捕えられる。恐慌状態に陥るリアリムは構わずばたつかせようとするが、相手の腕力のほうがはるかに上でびくりとも動かない。
 暴れ続けて、やがてリアリムが疲れて抵抗が弱まると、再び耳元で声がした。

「よく周りを見ろ。声を聞け。おれだ」

 逃れようとか首を振れば、顎が捕らわれ、強引に上を向かされた。
 咄嗟に強く目を瞑ろうとしたが、視界の中に煌めく金と澄み渡る色を見つけてはたと動きを止める。

「ぁ……」

 か細い声が喉の奥から零れる。全身から力が抜けていき、ゆるゆると振り上げていた手が下りていく。

「おれがわかるか」

 問いかけに、ごく浅く頷いた。
 手首に絡まっていた指がゆっくりと解かれる。解放とともに支えを失ったリアリムはふらつき倒れそうになるのを、両肩を掴まれ防いでもらった。

「ここがどこだかわかるか」

 首を巡らせて初めて、周囲の状況を確認する。
 見知らぬ場所ではあるが、既視感がある。宿屋によくある作りをした、いつもの二人部屋だった。

「あ、れ……? おれ――」

 困惑するリアリムを、勇者はただ黙して見守った。
 傍らに勇者がいて、自分は寝台の上にいる。町に泊まればいつもの光景。その事実にひどく安堵して、けれども違和感を覚えた。
 何故ここにいるのだろう。どうして、戻ってこられたのだろう。
 ――夢、だったのだろうか。あまりにも生々しく、おぞましく、けれども現実には遠い悪夢。
 そうだ、そうに違いない。あんなこと、あるはずがない。きっと長旅の疲れが出ていたのだろう。
 何故だか笑みがこぼれた。
ははは、と乾いたそれに勇者はわずかに眉を寄せる。
 どうしてそんな顔をするのだろう、と思ったとき、つきりと頭の奥が痛み、リアリムは背を丸めててのひらで顔を覆う。そして、気がつく。

「あ……」

 そろりと顔から剥がした自分の右手を見て呼吸が止まった。
 欠けた小指。そこから下に視線を辿っていけば、長袖が下がって露わになった手首には縄が残した痣があり、そこから続く素肌にも線のような痕がいくつも描かれている。
 痛みはない。けれども、紛れもない現実の証。拷問のような、地獄のようなあの地下牢。
 再び錯乱状態に陥ったリアリムを勇者は止めようとするが、今度こそ声は届かなくなった。
 やがて騒ぎを聞きつけ部屋に現れたリューデルトが宥めようにもリアリムは落ち着くことができず、やむを得ず魔術によって強制的に眠らせた。

 

 


 精神的、肉体的に追い詰められただけでなく、薬物も使用されていたリアリムは長らく中毒症状に苦しめられた。
 身体を覆おうとする黒い影。それを振り払おうと暴れ、全身を掻きむしろうとする。それを止めるために触れれば尋常でない震えを起こし、ひどく怯えながら抵抗をする。少しでも周囲が声を荒げれば身を守るように縮め 謝罪を繰り返す。
 勇者を認識できたのは、目覚めてからほんの一時の間しかなかった。
 およそ一か月と少し、その状態は続いた。ろくに食事もとれず、リアリム自身の身を守るために魔術で眠らせる日々ばかりだ。
 それでも日が経つにつれ、投与されていた薬は少しずつリアリムの身体から抜けていく。
 とある日、リアリムは静かに目を覚ました。
 これまでは起きてはすぐ暴れていたのだが、そうはせず、天井を眺める。
 どれだけの時が経っただろう。ろくに水分も取らずにいたせいでひどく掠れる声で、リアリムはぽつりと呟いた。

「死にたい」

 静穏な水面に小さな花弁が落ちたほどの声量だが、けれどもすべてをのみ込む死の沼に片足を突っ込んでいるような絶望に満ちている。

「許さない」

 いつだって傍らでリアリムの介抱をしていた勇者は言った。

「もういやだ」
「それでも生きろ」

 すぐに返される彼の声。
 勇者の真っ直ぐな視線を感じながら、リアリムは拳を握った。けれども爪と指が欠けた今、以前ほどの力強さは失われている。
 リューデルトの魔術によって傷はすべて癒されている。痕は残ってしまっているが痛みはない。そのはずなのにリアリムの全身は鈍い痛みに苛まれていた。
 幾度も滑らされた刃が、押し当てられた肌を焼く高熱が、執拗に追いかけてくる男どもの欲が、この身には、この心には刻まれている。たとえ傷そのものが消えたところで忘れられるわけがないのだ。
 あの仄暗い光も届かぬ場所で行われた男たちのための肉欲の宴を、一瞬たりとも忘れられない。

「――放っておいてくれよ、もう。町の外にでも置いてくれれば魔族が勝手におれを食ってくれる。もうそれでいいだろう」
「そんなことはしない。おまえの体質は封じてみせる」
「……どうやって? おれをまだ連れて行くって言うのか?」
「ああ」
「できるわけないだろっ!」

 喉が裂けそうになるほどにリアリムは叫んだ。勇者のいるほうから顔を背けて、力の入らぬ拳で強く己の腿を叩いた。

「どうやって、この足でどうやって旅をするんだ! もう歩けもしないのに……!」

 じわりと鈍い痛みが広がっていく。そんな痛みを感じることですら苛立たしい。
 男たちはリアリムの身体にも心にも傷を刻んでいった。そう簡単には癒えることのない、もしかしたら二度と忘れられないかもしれない深いものを。けれどもそれだけではない。
 やつらは、まず先に捕えたリアリムの指を切り落とした。そしてその直後、痛みにのたうち回るリアリムを押さえつけ、両足の腱を断ち切ったのだ。逃げられぬようにと、それが失われればどうなるかを知っておきながら。
 二度とリアリムは歩けない。自力で起つことさえ困難だろう。
 それなのにどうやって旅に同行しろというのか。歩けないのにどう道を進んでいけというのだ。

「もういいだろ……っもういやなんだよ! こんな姿になってまで、あんなことまでされて、なんで生きてなきゃいけないんだ!」

 切られた指も足もろくな治療をしてもらえないまま、リアリムは髪を掴まれ引きずられあの地下へと転げ落ちた。その後に待ち受けていたものは忘れたいのに、それなのにはっきり記憶に残っている。
 力でねじ伏せられ、男たちの欲の剥げ口にされた。若い男が六人も集まれば終わりなど来るわけもない。
 後ろにねじ込むだけでは足りず、男たちのものを咥えさせて、飲むことを強要された。何度も何度も繰り返し、地面に吐きだしたら叱られ、殴られ、それを舐めとるように指示された。血の滲む傷痕にも白濁をかけられた。
 単調な行為に飽きてきた彼らはやがて、妙な薬をリアリムに飲ませた。しばらくすると恐怖に縮こまっていた自分のものが反応するようになって、それを見た男たちは淫乱だと罵りながら踏みつけて。望んでもいない浅ましい言葉を言わされた。
 足を傷つけられ歩けぬ身となったリアリムの前に、大型の犬が現れたときもある。誰かの飼い犬と言ったか、そこらからの野良犬と言ったか。リアリムの尻を叩き逃げろと男たちは笑った。そうすれば犬は退けてやろうと。
 ろくに歩けないのだから、逃げ切れるはずがない。這いつくばって男たちに助けを請うた。けれども縋りついた手は蹴落とされ、背後から覆い被さった犬に――
 あまりの非道が行われた。それだけでもリアリムの精神を押しつぶすには十分だった。
 だがなによりリアリムの心を抉ったのは、最愛の少女の存在だ。
 リアリムはリアーナの目の前で犯された。彼女の瞳が見つめる中で、すべての所業は行われたのだ。
 見せないでくれと、見ないでくれという願いは叶えられることはなかった。男たちはリアリムの反応を面白がり、意志の宿らぬ人形に目を閉じることはできないのだから、だれも聞き入れてくれるはずがなかった。
 半身が腐るリアーナを見て、彼女の命はそこにはないのだとリアリムとて理解していた。けれどもリアーナはリアーナだ。虚ろな瞳が自分を見ていないとわかっていても見える場所にはいたくなかった。それなのに男たちはリアリムを無理矢理リアーナの前に連れて行くと、彼女との口づけを強要した。
 そのときリアリムは、嘔吐した。男どもへの憎しみが溢れたわけではない。妹に触れたことでもない。亡骸が放つ腐臭に耐えきれず、吐いてしまったのだ。それもまた深くリアリムの心を傷つけた。
 男たちは飽きることなくリアリムを蹂躙していった。とても勇者たちに言うことはできないことをされた。妹の瞳の中で、すべてを見られながら行われた。
 それで心が保てるわけがない。
 魔を呼ぶ力。きっとそれに誘われ、ヘルバウルは集落を襲った。リアリムの体質に呼ばれ魔物まで出現した。
 その力を封じる術を探すべく勇者の旅の同行者となったが、特別なにができるわけでもない。
 そんな自分に、なんの価値があるというのだろう。さらにはもう歩けなくなってしまった。
 ここに来るまで、大小さまざまな不幸がリアリムを襲った。その度に傷つき、己の無力を痛感し、それでも亡くなった皆のためにと己を奮い立たせてきた。
だがそれももう限界だ。

「なんで、なんでおればかり……っ」

 自分ばかりが不幸な気がしてならない。もしかしたらリアリムの力のせいでなくなったかもしれない皆を棚に上げ、魔族たちを恨みたくなる。ときには間に合わなかった勇者たちまで憎みそうになった。
 すれ違う家族を羨み、笑いあう人々の声が棘となり、幸福気な姿を妬みそうになる。そんな自分が情けなく、愚かしく、あまりにも弱く、なぜ強く在れないのかと自分を責めて。
 己の責を立派に果たそうとする人々が傍にいることは、ときに励まされた。しかしときに己の未熟さを引き立たせることもあった。彼らのように特筆したなにかがあれば自分はもっと違う心持になれたのではないか、と無いものねだりしたことなど幾度あっただろう。
 彼らの重責を知ってなお、人それぞれの苦悩があると理解してなお、己の不運を嘆かずにはいられない。
 だって仕方ない。自分は苦しんでいる。他人の影の努力も苦しみも知る由もない。死を望みたくなるほどの苦痛があるのだけが信じられる確かなことなのだから。
 全力を出してもまったく力の入らない拳を握り締めながら、幾度も己の足を殴りつけた。けれども次に振り上げたとき、勇者に手首を掴まれる。
 以前のように力が入ったとして、勇者に膂力に敵うはずもない。それでも逃れようと腕を引いたが、勇者は解放してくれない。
 リアリムを思ってのことだ。だが今は、無力な自分を際立たせるだけ。勇者ほどの力があったのなら、きっとあの場から逃げ出せたのだろうと。
 体力は限界まで落ちていたリアリムはすぐに力尽き、ついに抵抗を止めざるを得なかった。

「なんだよ、なんで生かそうとするんだよ……っ。もう旅だって、歩けなきゃ本当のお荷物にしかならないだろ! 救いを求める者を救うのが勇者なら、ならおれを解放してくれよ。できないというならもう放っておいてくれ!」

 もう一度、強く腕を引く。それでもなお勇者の手は離れない。リアリムを引き留めようとする。

「あんたは魔王を目指すんだろう、多くの人々を救うんだろう。おれはもう、勇者さまとは一緒に行けないんだよ、もういやなんだよ、離せよ! 離せ、離せ離せ……っ、もうおれを置いてってくれよ……!」

 手首に絡みつく勇者の指に、もう片方の手を伸ばして爪を立てようとする。しかし抵抗をなかなか止めないからという理由でひとつひとつを男どもによって剥がされていて、どんなに力を込めたところで彼を傷つけることなどできはしない。それどころか痛みにのた打ち回るときや、逃げようとしたとき、地面を指で掻いたせいで未だに指先はかさぶたとなっている。
 勇者の肌を擦っているうちに、かさぶたが取れたか裂けたかしたのだろう。ぴりっとした痛みを感じたが、今更だ。それなのに怯んだように指先に込める力が弱くなる。
 己の腿を叩いても、かさぶたが剥がれても。それ以上の痛みをいくらでも教えられたと言うのに。
 心は死を望む。それでも身体はまだ痛みに怯える。生きる本能が残されている。
 ついにリアリムは、引っ掻く真似事をしていた指先を、縋るように勇者の手に置いた。

「もう、もういやだ……なんで、こんな……」

 今にも泣きだしそうな情けない己の声音。
 唇を噛みしめたとき、繋がった手首を強引に引き寄せられた。
 わずかに浮いた背の隙間に腕を差しこまれ、身体を起こすと、リアリムは勇者の胸に抱きしめられていた。
 手首に感じていた温もりが、全身を包んでいく。

「たとえ歩けまいが、おまえを置いていかない。魔族の餌にも、死なせもしない」
「いつかおれの存在は、勇者の道を阻むものになるかもしれない。それでもいいのか」
「そんなものにならない」

 力強く返される言葉に偽りは感じられない。この場凌ぎの偽善でもなく、本心から言っているような熱がある気がした。

「……死にたい」
「許さない。生きろ」

 リアリムの心からの叫びを聞いても、勇者は繰り返した。
 抱擁をわずかに解いて、掴んだままでいたリアリムの手を持ち上げる。リアリムも顔を上げてようやく勇者を目を合わせた。
 彼の澄み渡る瞳はいつもと変わりない。だが、彼が感情を隠すのが得意なことを知っているからこそ、その心中でなにか思っていることがあるのはわかっていた。
 勇者は欠けたリアリムの小指に口づける。

「誓おう。おれはおまえを守る。これ以上、泣かせたくはない」

 真っ直ぐにリアリムを見つめる瞳。確固たる意志が込められているが、それなのにリアリムを包み込むように柔らかい。

「……おれは泣かない。昔から、涙は出てこない」

 ふと物心がついたころから、リアリムは己が涙を流せないことに気がついた。転んで痛くても、叱られても悔しくても、悲しくても、いつだって溢れそうになるなにかがあるだけで瞳から零れるものはなかったのだ。
 集落が消え去ったあの日だって、無残な妹の姿を見せられたときだって、今だって、リアリムはほんの少し瞳を潤ませるだけだ。泣けたら少しは楽になるのだろうか、と思い悩んだ日は幾度もあっただろうか。

「おまえはいつだって泣いていただろう」

 するりと目元が指で拭われる。そこは濡れていないのに、まるで涙をとるような仕草に、リアリムは自ら勇者の胸に身を預けた。
 一度として、勇者の前で涙を流したことはない。それは独りきりでいたときも同じだ。
 けれども勇者の瞳には、きっと泣いて映っているのだろう。
 すべてを失ったあとのときも、己が背負った不幸を招く力も、暴漢に襲われかけたあのときも。無慈悲に痛めつけられていたときも、こうしている今だって。
 故郷はなくなった。家族ももういない。
 けれどあの日、唯一残されていた希望。
 それは決して自分一人のものではないけれど、今このときだけは、独り占めしたとて許されるだろうか。
 リアリムは勇者の胸に顔を埋め、雫なき涙を流してすすり泣いた。

 

back main next