30

 

「どうだ、リアリム。裏切られてつらいか。その男を失うことが悲しいか」

 彼にとって、ラディアの死でさえ自分を苦しめるための材料なのだろう。そのことがひどく憎たらしく思えるが、もしかしたらそれさえも彼の計算のうちであるのか。 
 まだ理解していないし、ラディアがこれまでのことにどれほど加担していたのかもしれないし、実感が沸いていないだけなのかもしれない。ひとつ言えることがあるとすれば、リアリムはラディアに対してまったく恨みを抱えていないと言うことだ。それどこか裏切られた、という思いすらない。
 もし、本当にラディアが勇者を裏切っていたとして、リアリムは彼が悪人には到底見えなかった。むしろ男とのやり取りを見る限り、ラディアは従わざるをえない状況にされているように感じ取れた。ならば今すべてを決めつけ彼を拒絶することは早計にしかならないだろう。
 まだラディアは死んでいない。どうにかこの場を切り抜け手当をすればきっと助かる。話はそれから聞けばいい。

「もう終わりにしよう。さあリアリム、わたしとともに来い」

 差し伸べられる手に、けれどリアリムはそれに目もくれぬまま男を睨んだ。

「行くわけがないだろう! もしおまえが魔王ならばなおさらだ」
「父の言葉が聞けぬと?」
「っ、おれは人間だ、魔人の父などいるはずがない! 惑わされるものか!」
「――ならば仕方ない。ここで済ませてしまうか」

 リアリムの答えに、男は小さく息をついた。
 なにかをしようとする男に身構えると、彼は瞳を妖しく光らせ、ぐわりと両手を振り上げた。

「さあ、わたしの力の一部となれ!」

 男の足元から膜のような影が、リアリムを覆うように伸びてくる。咄嗟にラディアの身体を庇うように抱きしめ強く目を閉じた瞬間、目の前に光が溢れた。
 ただ眩いだけではない。温かく柔らかな気配の混じるもの。リアリムはこの希望のような光を知っている。
 遠くで狼狽える男の声が聞こえた。やがて光は収集していき、リアリムはそっと瞼を持ち上げる。
 ラディアの肩に押しつけていた額を離して男に振り返り、その姿に息をのむ。

「なんだこれは……」

 リアリムに害をなそうとした男に、勇者の守護印が発動したのである。
 男は全身を鋭いなにかで裂かれたように無数の傷を追い、鮮血を溢れさせていた。

「力は封じていたはずだ!」

 男は戸惑いとわずかな恐れ、そして怒りに目を吊り上げていた。なにが起こったのかまったく理解できていないようだ。
 片目も怪我をしたのか左手で押さえている。指の隙間から血が流れ出した。
 ふらつきながらも男はリアリムを睨むと、右手を翳す。

「おまえではわたしに勝てない。わたしは何十人もの魔人の力をとりこんだ。今やわたしの魔力は膨大である。なにも知らぬおまえが敵うわけがない!」

 再び男の足元から影が伸びてくる。先程の一枚の布のような形状とは異なり、幾本もの触手状になっていた。それらがすべてリアリム目がけて襲いかかる。
 今度こそ衝撃を覚悟したとき、ラディアが起き上がった。リアリムを自分の背に押しやって、剣を抜き影を弾き返す。

「鼠、リアムに剣を!」

 ラディアが叫ぶと同時に、どこからからか現れたヴェルが目の前に現れた。

「ヴェル!?」

 何故ここに、何故ラディアの呼びかけに応えて現れたのか。リアリムは困惑するが、自らのなすべきことを理解しているヴェルは自分の尾を小さな前足で掴んだ。
 尾の先端に着いている赤と青のふたつの石のうち、赤いほうを前歯で砕いた。その瞬間に石と同色の光が溢れ、リアリムの身体は無意識に動いていた。
 赤の閃光のなかに手を伸ばし、まだ形半分の存在を握り締める。それを男に投げ放った。
 輝きの軌跡を空に描きながら、投げられたそれは一直線に男の胸に吸い込まれていった。
 男がよろめくと同時に光は収まり、その胸には漆黒の剣が形を持って現れた。指の隙間から深々と突き刺さった刀身の残りが顔を見せている。

「おのれ、裏切ったかズェーラ!」

 男は憤怒の形相でリアリムの前に鎮座し己を見つめ返す鼠を睨みつける。だがすぐに目を逸らしてリアリムを見た。

「寄越せ、おまえの魔力はわたしのものだ!」

 男はリアリムとの距離を詰めはじめた。後じさろうにも足はろくに動かせず、恐怖からか腕に上手く力が入らない。
 ラディアがリアリムを庇うように前に立ちはだかったが、男は舌打ちをひとつして手を薙ぎ払う。その動きに合わせ、なにかにぶつかられたかのようにラディアの身体が吹き飛ばされた。幹に身体をぶつけ、動けなくなる。

「っかは」
「ライア!」

 ついにラディアは吐血した。胸の傷も影響しているのか、起き上がろうとするもできずにいる。そうしている間にも傷口からの出血はひどくなっていく一方だ。
 痛みに顔を歪めながら、ラディアはリアリムを見て、はっと顔色を変えて叫んだ。

「リアム!」

 ラディアの視線の先を辿り、リアリムは凍りつく。
 傷ついた仲間に気を取られている間に、男はすぐ傍まで迫っていたのだ。

「我こそが、魔王、我こそが世界の真理! おまえの力を寄越せ!」

 逃げようとしたがすでに遅く、男の血で濡れた手に左腕が掴まれる。
 もう駄目だ、とリアリムが絶望したそのとき、右手が勝手に動いて男の顔面を覆った。
 男の身体に触れた瞬間、リアリムの中に膨大なものが流れ込んでくる。

「あ、あ……ぅ、あああっ!」

 めまぐるしく脳内を巡る数多の情報に、リアリムは逃れようとする。しかし男に張り付いた手が剥がれない。

「やめろ、やめろ、わたしから奪うな、やめろ!」

 男のほうもリアリムから離れようと、顔を覆う手に爪を立てながら引き剥がそうとするが、それでも吸いついたかのように離れない。
 しばらく二人は互いに苦悶と苦痛の声を上げ、やがてふっと静寂が訪れる。
 ついにリアリムは手を放し、支えにしていたものを失った男は地面に転がった。その身体はすべてが吸い取られたかのように干からびて、全身に負った傷から溢れていた血ですら乾いてしまう。
 すでに彼に命はなく、ただの器だけがそこに残されていた。

「リア、ム……」

 痛みに耐えながら、ラディアが掠れた声で呼ぶ。けれどもリアリムは応えない。

「う、うう――」

 リアリムは背を丸め蹲った。

「いやだ、ちがう、おれは、おれは……おれは――」

 ラディアとヴェルが見守るなかで、リアリムはすべてを拒絶するようにさらに身体を小さくして頭を押さえる。
 変化は唐突に、されども必然に起こり始めた。
 てのひらの下の髪が伸びていき、リアリムの背を覆い横顔を隠してゆく。肌は反転するように褐色へと染まっていき、髪は根元から紅蓮に色を変えていった。
 ざわりと森が揺れる。辺りの空気は冷え込んでいき、なんの音もない静寂が訪れる。ラディアもヴェルも息をのみ、呼吸を止めていた。
 不意にリアリムが動いた。頭を押さえていた手を地面につけて、顔を上げる。
 ゆっくりと身体を起こして、彼は立ち上がった。己の、腱を切られたはずの足で。
 空を見上げたリアリムの傍らにヴェルが駆け寄る。
 リアリムに跪くように立ち止り、頭を垂れる。ヴェルの小さな身体は膨らんでいき、やがて一人の小柄な男に姿を変えた。
 褐色の肌に鼠の毛と同じ髪を持つ男は、鼠の尾先に着いていた飾りと同じ青い石を耳に煌めかせながら、さらに深く頭を下げる。

「お待ちしておりました、魔王さま」

 男の声にリアリムはゆっくりと振り返る。紅蓮の瞳は、常闇を宿す黒になっていた。
 顔立ちはリアリムのままである。しかし髪と瞳の色は入れ替わり、肌は褐色に染まり、その表情は無だ。欠けた小指も復元されており、歩くことは愚か立ち上がることさえできなかった足も完治している。それどころか服の下に隠された、全身に残る傷痕さえ消失していた。

「リアム」

 起き上がる体力すらもはや残されていないラディアは、胸を押さえながらリアリムの名を口にした。
 リアリムはラディアを一瞥するも、すぐに目を逸らし、目の前に次元の扉を出現させる。
 これまで鼠に扮していた従者ズェーラを一人連れ、闇のなかに消えていってしまった。

 

 


 リアリムが立ち去って間もなく、莫大な魔力を感じてやってきたリューデルトが、木の根元に倒れ込むラディアの姿を見つけた。

「ライア!」

 胸から薄く広がる血の輪に血相を変えて駆け寄り、ラディアの顔を覗き込む。
 ひどく息は浅くなっていて、多量の出血に顔色は青を通り越し白くはなっているがまだ息はあった。ひとまず安堵するが、まだ油断ならない状況だ。
 すぐさま意識を集中させて治癒術を施そうとしたところで、意識を途切れさせていたラディアが薄らと目を開けた。

「リュ、ドウ」
「喋らないでください。今、治療しますから!」

 ラディアは首を振り、胸に翳されるリューデルトの手を掴んだ。空いたもう片方の手で服を開いて、傷口のある胸元を晒す。
 魔術の矢が突き刺さった跡は、今もなお血が溢れ続けている。だがそれだけでなく、傷を負ってからそれほど時間が経過していないにも関わらずすでに腐り始めていた。
 リューデルトはラディアが止めようとした理由に歯噛みする。

「腐食の魔術……!」

 この魔術は闇の眷属たる魔人のみが操れるものであり、治療にはシロサイカの蜜と清らかな泉から汲んだ水とで作る聖水が不可欠だ。しかし今手元にはなく、宿屋に置いてきた荷物の中に仕舞われている。
 今すぐ取りに行かねばならないとリューデルトが立ち上がろうとするが、腕を掴まれ引き留められた。

「離してください、死にたいのですか!」
「もう、いいんだ。もう間に合わない」
「そんな、まだ間に――」
「リューデルト」

 手を振り払ってでも戻ろうとするリューデルトは名を呼ばれ、彼の意思の強さを知ってしまった。
 ラディアがどう思おうと、それでも彼を救いたいとすぐにでも走り出したい。このままただ時間を過ごしてゆけば間違いなくラディアの命は消えていく。
 引き留めるてのひらはあまりにも力ないのに、このままではいけないのに、けれどもリューデルトは動きだせなかった。

「それよりも、聞いて、くれ。リアムの、ことを」

 今にも顔を歪めそうにする魔術師に、ラディアは時折痛みに言葉を詰まらせながら、すべてを打ち明けた。
 自分が、リアリムの父であり、魔王を名乗る魔人と内通していたこと。勇者の動向を伝え、ときに誘導し、そしてリアリムを傷つけるための行動に出たこともあったと。
 本来は、リアリムこそが真なる魔王である。魔人はそのリアリムをとりこみ、自らが魔王となる計画を立てていた。そこでラディアは、リアリムの監視役を任され鼠のヴェルに扮していた魔人と結託し、リアリムの父を謀ることにしたのだ。
 守護印の存在を隠した状態で、それが伝ってしまう前に頃合いだとリアリムと彼の父とを引きあわせたのだ。
 ラディアの目論見通り、魔人は勇者の守護印に身体を裂かれた。そして力を大幅に失ったところで、ヴェルであった魔人が密かに隠し持っていた、代々魔王に受け継がれし魔剣をリアムに渡して、逆にリアリムが魔人を吸収することに成功したのだった。
 本来の姿に戻ったリアリムは、きっとそのときすべてを思い出したのだろう。本当の己が何者であるのか、なにを成すべきものであるのかを。
 そして、ラディアの前から――勇者のもとから、立ち去ったのだ。
 己の罪もすべてを伝え終えたラディアは、今にも崩れ落ちそうになる魔術師を、正反対の穏やかな心で見つめた。
 驚愕の事実に、そして信じていた仲間からの裏切りに言葉を失ったリューデルトの心中を知らぬはずがない。それなのにラディアはこれまで謝罪の言葉のひとつも口にしない。
 こうしている間にも、剣士の体温は失われていく。

「おまえにひとつ、だけ……頼みが、ある」
「――なんです」
「はか、を……墓を、作って、やってくれ。せめて、ちびどもの、形、だけでも……」

 リューデルトは手を置いた場所にあるラディアの服をきつく握りしめた。
 彼の言葉にすべてを悟った魔術師は、引き結んでいた唇をそろりと解いて、震える声を押さえて告げる。

「許しは請わないのですね」
「……できるわけ、ないだろ――」

 こんなときであるのに、ラディアは困ったように苦笑した。それはいつもリューデルトの小言を聞き流すときに浮かべるものと同じで、リューデルトは握った拳を震わせる。その手にそっと、かたい掌が重なった。
 ひどく冷たくて、リューデルトはさらに自分の手を重ねて握り締める。

「わたしは……わたしは、あなたを恨みます。一生、恨みますからね」
「ああ、そうしてくれ……――」

 ぽたりとラディアの目元に雫が落ちて、それがこめかみを流れていく。まるでラディアが泣いているようであったが、その表情には安らかな笑みが浮かんでいた。
 最期まで魔術師の顔を見つめていた剣士は、やがて静かに目を閉じて、重ねていたてのひらからは力が抜けていく。
 リューデルトは身体中を駆け巡る感情が溢れ出さぬよう、背を丸めて唇を噛みしめた。
 しばらくして、背後に気配を感じた。
 目元を拭ってリューデルトは立ち上がり、膝に着いた土埃を払う。
 一度鼻を啜り、もう一度顔を拭いてから振り返った。

「勇者さま」

 背後にいた勇者に跪く。

「ラディアが裏切りました。リアリムはこれまで魔王を名乗り活動していた魔人を吸収し、自らが魔王となり立ち去ったそうです」
「そうか」

 報告を聞いた勇者は西の方角に顔を向ける。長らくそうしてからリューデルトに目を戻した。

「西に向かう。今すぐ出立だ」
「はい」

 リューデルトが立ち上がると勇者は動き出す。しかしその足は来た道を戻るのではなく、魔術師の背後にある亡骸に向かった。
 近くに落ちていた大剣を手に取り、かつての仲間であった者の頭上にそれを突き立てる。
 真上から微笑を残す男の顔を眺めた勇者は、やがて柄から手を放し、亡骸はそのままに今度こそ町に向かって歩き出した。
 守護印を作り出した影響により未だ万全でない勇者は身体をふらつかせるが、それを支えてやれるものはいない。勇者の旅の唯一の供となった魔術師は彼の隣を、振り返らずに歩いて行った。

 

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