31

 

 真なる魔王が舞い戻ったその日より、西の大陸にて魔王城が出現した。それは移動をすることもなく、消えることもなく、まるで勇者を誘うかのように道しるべとなる。
 勇者たちは大河を越えて、導かれるままに魔王城を目指した。
 西の大陸の大部分は以前から瘴気に汚染され、人の住みづらい土地となってしまっている。魔王城周辺にも瘴気は溢れ、禿た大地が続く不毛の土地となっていた。流れる小さな川ですら毒が含まれ、魔の眷属たちがあちらこちらを闊歩する。常に曇天に太陽は塞がれ、昼でも薄暗く肌寒さが続いていた。
 勇者は従者をたった一人つれ、魔の大陸との呼び名があるその場所に足を踏み入れ、襲いくる魔族たちをすべて薙ぎ払いながら突き進んでいった。そしてそびえたつ魔王城へとついに足を踏み入れたのだった。
 城壁に侵入すると同時にこれまで追いかけてきた魔獣どもは波が引くよう消えていく。正面から城の中に入るが魔族の気配はなく、しんと静まり返っていた。
 朽ちかけた城はあちらこちらの壁が欠けていたり、ひびが入っていたりする。その隙間から茨が伸びて天井にまで貼りついていた。
 床をも覆う蔓に足を取られぬよう進んでいけば、やがて謁見の前への巨大な扉が見えた。そしてその前で一人の魔人と対面する。
 勇者も魔術師もよく知る鼠と同じ毛の色の髪を持つ男は、恭しく頭を下げた。

「よくぞいらした、勇ましき人の子よ。この先に魔王さまがお待ちです」

 すっと足と音も経てずに男は扉の前から脇に避けていく。
 勇者は手にしていた剣を構えて、魔人に問うた。

「おまえは戦わないのか」
「わたしの魔力値は最低で、あなたを疲れさせることすらできないでしょう。時間稼ぎもいらぬ今、戦う理由などございません」
「魔族と勇者、それだけで理由はあると思うが」
「だからと言って、死ぬとわかっていて戦いません」

 魔人は言葉の通り一切の武装をしていなかった。戦うつもりは初めからなかったのだろう。その場に跪き、勇者が前に進むことを見守る体勢へと変わる。
 小柄な魔人を見て、勇者は幾度も見かけたすばしっこい鼠を思い出す。
 鼠のヴェルもまた、リアリムをとりまく不可解のうちのひとつであった。
 種類によって異なるが、鼠の寿命は三年ほど。
 しかしリアリムは八歳の頃からヴェルの付き合いがあると言っていた。つまり十二年も彼らはともにいたことになる。それは偶然長寿の鼠であった、というにはあまりにも無理がありすぎた。
 だからこそ勇者はヴェルを、魔獣の一種かと考えていたのだ。それがまさか魔人であったとはさすがに予想できなかったが、さして驚きはなかった。ましてや彼がリアリムの監視役であったとするならば納得がいく。近すぎず、遠すぎず、鼠の友達であればよい距離を保ちやすかったことだろう。ときに長らく姿を消していたとしても、動物なのだからで済まされてしまう。
 勇者はヴェルであった魔人ズェーラから目を放し、正面の扉を見据えた。
 城の状況と同じく、塗装が剥がれて今にも倒れてきそうなそれに両手を当てる。ゆっくりと押し開き、魔王の待つ謁見の前へと足を踏み入れた。

「やはり来たか」

 聞き慣れた声に勇者は悠々と王座に鎮座している者を見つめた。相手も同じく、漆黒の瞳をわずかに細めて勇者を見つめる。
 そこにいたのは魔人の特色である褐色の肌を持つ男だ。しかしその顔はつい最近までともに旅をしてきた平凡な青年そのものである。人間であったはずの彼は赤い瞳に黒髪であったが、今やその色も取り替わってしまっていた。
 知っている者であるはずなのに、まるで知らない者でもある。表情のない顔にはなんの思惑も読み取ることはできない。
 二人はほんの一時視線を絡めて、やがて魔王が一度瞬いたことで永遠のようなときは終わりを告げる。
 魔王は王座から腰を上げた。長く伸びた緋色の髪が肩から滑り落ち毛先を揺らす。
 勇者は口を開くことなく、手にしていた剣を構えた。それは勇者に受け継がれし名もなき聖剣。ふたつめの神殿で手にして以降、ずっと苦楽をともにしてきた頼もしき相棒である。
 歩き出した魔王は高い位置にある王座から二段降りて、勇者と同じ目線に立った。
 黒に染まった爪先を腰に向け、魔王も携えていた闇色の剣を取り出す。
 切っ先を勇者に向けて、静かに常闇の瞳を閉ざした。

「勇ましき者よ。我らはどちらか一方しか存在が許されぬ。それなればこそ、戦う定めが覆ることはない」

 勇者が持つのは、太陽の輝きを宿したような黄金色の髪に、澄んだ空を想わせる青い瞳。何の汚れも浮かばぬ闇を跳ねる白い肌。
 対する魔王が持つは、すべてを燃やし尽くすような紅蓮に染まる髪に、何ものをも引きずり込む常闇の瞳。魔の者の象徴である褐色の肌。
 光の象徴とされし者と、闇の化身とされし者。相反する二人は、これから互いの存在を賭けた最期の戦いに身を投じる。
 勝利を得た者にこの世の命運は委ねられ、世界の進むべき道が定められるのである。それが、この世界の創造主たる神が設けた仕組なのだ。
 魔王と勇者の対峙は運命によって決められた必然であり、逃れることのできぬ世界の理でもある。
 だからこそ互いに剣を取る。

「さあ、はじめようか。これが最後だ」

 すうっと開いた魔王の瞳。今まさに死闘が幕明けんとしようとしたときに、勇者は剣を構えたまま口を開いた。

「ひとつ、聞きたいことがある」
「よかろう」

 魔王も剣を持つ手を緩めぬまま、応える。
 ここまで来ても闘志さえも窺えぬ瞳を見つめたままに勇者は尋ねる。

「おまえは、魔王であるのか」
「リアリムは死んだ」

 勇者が真に求めようとしていた答えを、魔王は躊躇いも迷いもなく言い切った。

「おまえと旅をしていた男はもういない。あれはまやかしの姿。身体は同じものであるが、今のわたしは奪われていた記憶をすべて取り戻した、勇者たるおまえの対。この世で唯一の王となる者である」

 以前のリアリムであれば決して口にしない言葉の数々。そうであるのに声は彼のものであるからなのか、まったく馴染んでいないように聞こえてしまう。ただそっくりな別人がいるように思えてならなかった。

「まだ納得していない、という顔だな。このままでは戦いに身が入らぬか」

 魔王は小さく息を吐き、剣を下した。勇者も同じく手を下げる。
 そして静かに語り出す。

「――あの男は、わたしの本当の父にあたる男は、わたしの力を増幅させるために様々な困難を与えた」

 始めは愛する故郷と義家族の喪失。ときに人間の悪意を煽り、ときにその脳に魔種を仕込み操り、リアリムが強い恐怖を覚えるようにした。一度目に三人の男に襲われかけたときも魔王が仕組んだことであったが、あえて勇者に助けさせて、二度目は来ない助けにより絶望するようにという算段もされていた。リアリムは父の目論見通り、痛みと恐れのなかで幾度も勇者に助けを求めたのだ。しかし、彼が来るのはあまりに遅かった。
 魔獣どもにはリアリムを自分のもとに連れてくるように命じることもあった。他はどうなってもいいから、息子を来させろと。勇者が傍らにいるリアリムを攫うなど魔獣にとっては無謀な話である。実際触れることさえできなかった。だが初めから父はただリアリムを傷つけることだけを考えていたのだ。
 リアリムが魔王であることなど知らぬ勇者たちは、リアリムを魔を呼ぶ者として判断するだろう。そうすればリアリムは強制的に勇者の旅に同行して、より多くの不運を装った事故を起こしやすくなる。さらには己の体質を恨み、ときに故郷が襲われた原因は自分でないかと疑うのではないだろうかと。

「まんまとあの男に踊らされ、わたしは深く悲しみ、人を恨み、この世を憎み、己の運命を呪った。そして魔力は高められていった――そうまでしてわたしの魔力を高めようとした理由が、わかるか」

 応える者はいない。それをわかっていて問いかけた魔王はすぐに答えを口にする。

「己が魔王に成り代わろうとしていたのだ。わたしを吸収するついでに魔力を奪い得るつもりで。ただの魔人ごときが、このわたしになろうと。魔王の父である役目しか持たぬ命運は変わらぬというのに」
「どういうことだ」

 ついに勇者は口を挟んだ。
 ここまでの話はある程度ラディアから教えられたリューデルトからすでに聞き及んでいたことである。それを魔王が予測していなかったとは思えない。そしてなにか意味を含ませる言葉に焦れてしまった。
 リアリムが魔王となり去っていった事実を、勇者はまだ受け止めきったわけではないのだ。あまりに突然のことに、ただ真実を求めここまできた。
 魔王との決闘を二の次とは言わないが、すべてを理解した上で最後の戦いに身を投じたいと思った。そのために勇者は知らねばならない。しかし魔王と対峙した今、悠長にしていることもできない。

「……勇者よ。何故おまえが勇者でなくてはならないのか。何故わたしが魔王でなくてはならないか。その理由をおまえはまだ知らぬのだな」

 腑に落ちた、とでも言いたげに目をわずかに細めた。
 巡るべき神殿をいくつか残してこの魔王城に勇者はやってきた。そのため、本来は得ているべき知識がいくらか欠けてしまっているのだ。だが記憶を継承する魔王は、勇者が今持たぬ真実さえ有している。
 その事実を認識した魔王は、今の勇者に足りぬものを語った。

「おまえは自分の出生さえも知らぬか。ならば教えてやろう。――我らはともに狭間のもの。魔人と人間との間にできた、闇も光の加護も持つ混沌の者であるのだ」
「こん、とん……」
「そう。わたしは純粋な魔族ではないし、おまえも人間ではない。血が混じりあっているのだ」

 勇者は初めて耳にする事実に言葉を失った。
 その反応を予測していたであろう魔王は淡々と続ける。

「しかし我らは互いに血が混じり合いながらも、片や魔族を統べし者である魔王、片や人間の希望を担いし勇者となった。我らを分かつものがなんであるか、おまえにわかるか」

 ふと勇者は、この話が切り出される前に初めに出された内容を思い出す。そして自分に言い聞かせるように答えを告げた。

「負の感情、か」
「そう。おまえは他を守りたいと願う正しき心で魔力が強まり、わたしは他を憎む黒き心で魔力が高まる。それが我らの決定的違いだ。――わたしが生まれたときの話をしよう」

 そして魔王は語り始める。己の本当両親である魔人の父と人間の母のことを。
 本来交わらざる魔人と人間であるが、この二人は数奇な運命によって巡り会い、そしていつしか女の腹には子が宿った。
 女は魔人として上位の存在である男に守護されながらも出産のときを待っていた。そしていよいよ産まれるか、というほど腹が膨れてきた頃に、突如として人間たちが現れたのだった。彼らは魔族に与する人間がいると聞きつけやっていたのだ。
 噂通りに魔人の子を身ごもった女を人間たちは魔に染まりし者として、断罪すべきだとして彼女に剣を向けたのだった。
 時悪くして魔人は出てしまっていたときで、以前は騎士をしていた女も膨れた腹では戦うことも逃げ出すこともできない。
 女はまず真っ先に、暴れられぬよう逃げられぬようにと両手両足の腱を切られた。そして抵抗もままならぬ姿にしておきながら、彼らは命を断たせる慈悲を与えることはなく、子が宿る彼女の腹を生きたまま八つ裂いたのだ。
 腹の中で生まれるときを待ち眠りについていた赤子にまみえたとき、人間たちは皆息をのんだ。そこにいたのは褐色でも人間の持つ肌でもない、全身が真っ黒ななにかがいたからだ。それは人間の形すらしていなかったのである。
 腹を裂かれながらもかろうじて生きていた女は最期、人間たちに呪いの言葉を贈り事切れた。
 母の残した呪詛を、彼女の憎悪の気持ちごとその身に吸収した赤子であるはずのものは、生まれてすらいないはずの存在ながらその身から幾本もの触手状の手を伸ばし、その場にいた人間全員を絞殺したのだった。
 やがて異変に気がつき屋敷に戻ってきた魔人の父は、そこで全身をいびつに折り曲げた人間たちの死体と腹を裂かれた最愛の人、そしてその乳房に吸いつく黒い塊を見つけた。
 魔人は直感として、それが己の子であることに気がついた。しかしそれはどうみても、人々の負の感情の集合体とされる魔物だったのである。
 魔物とは、形があって、形なき者――身体があって、魂がなき者。破壊の衝動だけを抱えたまさに人形である。
 魔人はそんな姿の子を残すことはできなかった。だからこそ、本能で母の乳房に吸いつき乳を吸おうとしている赤子であるはずのものを始末することを決意した。
 女を襲った人間たちへの憎しみ、無残な姿となった最愛の人の哀れな姿に、生まれながらにその生を否定せねばならぬ我が子。そして守ることもできず、ただすべてを終わらすことしかできない無力な己を呪いながら、殺すための魔術を我が子であるものに放った。
 しかし魔術はそれに触れた途端にただの魔力と分解されて、黒い身体に吸収されたのだ。
 黒い塊であった身体は一瞬溶けて、次に人の形になった。その肌は褐色で、今までなかった緋色の髪も生えている。ただ張りついていたように見えたところが口の形になり、はっきりと母の乳を吸おうとする姿が認識できた。
 あり得ぬことに恐怖した魔人はさらに魔術を放ったが、それらすべては赤子に吸収されるばかり。しばらく呆けて、ようやく理解した。
 ――この子は、魔族の頂点に立つ魔王である者なのだ。
 それを悟った魔人は大陸の隅にある小さな集落の傍の森に赤子を置き、人間の夫婦に拾われたのを確認して立ち去った。その後信頼のおける腹心を一人監視役に送り、我が子の成長を待ったのである。
 やがてその魔力が大きく膨れ上がるときを。そして息子のすべてを吸収して自らが魔王に成り代わる日を。
 その日が来ることは決してないというのに、人間たちへの憎しみをその身で燻らせながら待ち続けたのだ。

「反対にわたしが父を吸収したことで、このすべてを知ることができた。わたしは、母の憎しみを吸い込み魔王となったのだ。恐らくおまえの母も殺されたはずだが、その人は他を恨まず光ある未来をおまえに望んだのだろう。故におまえには光の祝福が授けられ、わたしには闇の呪縛が与えられた」
「何故、おれの生みの親が、殺されたとわかる」
「わたしはおまえの、おまえはわたしの対。だからこそ決定的に違うものを持つが、その根本は同じであるのだ。我らは同じく魔人と人との間に成され、この世に生を受けるときでさえ我らは共有している。時同じくして母が他者に殺され、そのときに今に留まりこの世を呪うか、それとも明日に進み希望を見るか選ばされる。そのときの答えが違うだけだ」

 何者であるのか、それどこか顔も温もりさえも知らぬ両親がそれぞれ魔人と人間であるなどと、仮定の域を抜け出すことができない。しかし単なる戯言だと切り捨てることもできない。それはなにより、魔王である者が語ることであるからだ。
 彼が自分の対である存在というのは勇者も自覚している。彼と対面して、長きにわたるこれまでの旅が魔王と会うためだけにあったのだと本当の意味で認識できた。目指していたのは周りに言われていたからではない、勇者であるからと流されていたわけではない。天によって与えられていた使命であるからだ。
 だからこそ魔王の推測は外れてはいない。人類側に立つ勇者でありながらきっと自分は、この身に魔族の血も流れているのだろう。
 しかしそう知らされたところで、魔王が揺らがなかったかのように、勇者もまた使命を捨てることはなかった。たとえ血がどうであれ、これまでそうであったように自分たちの立場に違いはないからだ。
 勇者に迷いがないのを剣を握り締める力にゆるみがないことを魔王は確認しながら、再度口を開いた。

 

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