「――わたしが魔物であった、といったな」
ふと幾度も魔王の言葉でも自分の胸中でも繰り返された、対という言葉。
それを思い出した勇者がまさか、と魔王を見つめると、彼は浅く頷いた。
「そう。おまえとわたしの本来の性質は魔人でも人間でもない。どちらかに寄っているというわけでもない。我らは魔物であるのだ」
度重なる衝撃の事実に、またも勇者は言葉を失うより他なかった。
魔物とはこの世に生きるすべての者の孤独や絶望、苦しみや猜疑心といった負の感情が集まり形を成したものだとされ、もしくは魔人が生み出した衝動のみを抱える人形だともされている。それが自分と同じであるなど到底理解できなかった。
「そもそも魔物は魔族とされているが、闇の眷属ではない。獣と魔獣、人間と魔人。魔王と勇者。それぞれこの世界には対なるものが存在する。しかし魔物にはいない。あれは狭間の者であるからだ。あれらはただ、母の温もり求めているだけだ。彼らが欲求に従っている当然の行動が破壊と殺戮をしているように見えるだけで、その内にあるものは生物誰しもがもつ純粋な母と生への望みだ。だがその願いが強すぎるからこそ、近くにいるすべての他者から生気を奪う。まさに生と死を司る光と闇の狭間の者らしき存在だろう」
本来魔人と人間とは世界に在るべき理が異なるため、交わったところでふたつの種族の間に子が宿ることはない。しかし、稀に命が生まれることがあるのだと魔王は語った。
しかし本来は生まれるべきでないと世界そのものに決められている者。故に世界の仕組みから生じた不具合で作られてしまった形に神が魂を入れることはない。そのため形だけを持ったそれが母体からこの世に出たとき、魔物として恐れられる化け物が誕生するのだ。
それが、極稀に魔物という存在が出現される理由である。
産まれたばかりのときは人の赤子ほどの大きさであるのだが、魔物は周囲の生物の生気を吸って成長をしていく。その結果ときに災害とも呼べるほどに膨れ上がるのだ。
しかしながら産まれたばかりの姿のまま始末されることが多く、狭間の子であるがために公言するものはいない。これまでに大きな被害になる前に闇に葬られた魔物もいることだろう。そんななかで生きのびた魔物は、人の気配を求めるために人口の多い国などに現れることが多いのだそうだ。
「魂の与えられぬはずの魔物。しかし世界のどこかで同時に生まれたふたつの魔物にだけ、神は魂を授ける。それが我らだ」
「――世界の、審判のため」
「そう。そのために双方を戦わせ、結末を見て判断するためだけの我らは道具。故にわれらは本来魂が宿らず、本質の満たされぬ欲求を満たそうとするためだけの亡霊のような存在とは違って確立されているのだ。己の意思をもち、他者の生気を奪うことさえない。――狂わせることはあってもな」
勇者が持つ狂わせの力。今まで何故自分がそんな力を持つのか説明がつかなかったが、魔王の話を認めるとするならば決して見当はずれは話ではない。
なにより、神殿に遺されていた文献にあった神の存在により魔王の話すべてに説得力は増していく。
魔王と勇者の起こりが記された石版には、光の眷属側に立つ者、闇の眷属側に立つ者を戦わせ、その勝敗によって世界の在りようが今どちらに傾いているのかを見定めるためだとされていた。
そのため勇者も魔王も道半ばで朽ちることはなく、互いの命を賭けあった殺し合いでなければ死はないのだとされている。実際勇者も一度死にかけたことがあったが、かろうじて一命を取り留めていた。
だが石版にはそれぞれの眷属側に立つ者、と称されているだけで、そのふたつが魔人と人間であるとはなかった。あくまで双方に与する者であればいいとも受け取れることに今更ながらに気がついてしまう。むしろ優劣のない魔物であるものをぶつけ合わせた方が公平とも言えるだろう。
「勇ましく武に長けた者だけならば多くいるだろう。魔族とて統率者は必要なため、わたしの父のように魔王代理をする者もいた。しかしどんな強者であっても、魔術に長けていたとしても、世界の命運分かつ真なる勇者、真なる魔王とされるのは我らだけだ」
魔王は勇者を見据え、きっぱりと言い切った。
「勇者なる者、魔王なる者は同じ時に生まれ、そしてやがて対峙する定めにある。覆られないこの世の創造主によって仕組まれた歯車のひとつ。――これでわかったか。我らが本来形があって魂なきものに与えられた意思。勇者と魔王になるべくして生まれたこの世でただ二人だけということに」
一度ゆっくりと瞬き、魔王は深く息を吐く。
「神の手の上で踊らされることは癪だが、しかし逆らえぬものであるならば仕方がない。われらの戦いは定められたもの。逃れることもできはしない。たとえ今なにもせずとも、いつか必ず、わたしが力を取り戻したように再び剣を握らねばならぬときがくる」
魔王は下していた手を持ち上げ、静かに剣を構えた。
「まどろっこしく繰り返すのは御免だ。これで互いに終わらせよう。さあ剣を構えよ、我が宿敵よ」
勇者も同じく長く息を吐き、そして剣を握り直す。
切っ先を魔王に向けたところで、勇者の前に魔術師が躍り出た。
「待ってください!」
「なんのつもりだ、魔術師よ」
剣を持つ二人の手がわずかに下がる。
これまで沈黙を続けてきたリューデルトは、悲痛な叫びのように声を張り上げた。
「本当に、本当にもうリアムはいないのですか?」
「リュドウ」
「あなたが魔王であってもリアムが消えたわけではないのではないですかっ?」
勇者が止めようとしても無駄だった。リューデルトは一心な想いをリアリムであった者に向ける。
リアリムに頑なだった勇者の心が動かされていたように、リューデルトもまた、リアリムに癒されていたのだ。
自分にできることはないとよく気落ちしていた彼であったが、戦いに身を置く勇者たちにとって、穢れなき手を持つ者の存在がどれほど励みになっていたか、彼は知らない。その清き手を守らなければと、ときに勇者たちは自らの果てなき旅への意欲としていたことを。
確かに戦えぬリアリムは勇者の旅にとって荷物でしかない。しかし戦うということで疲弊するのは身体だけではない。常に張り詰めなければならない精神に、肩にかかる重圧に、見つからぬ魔王の居場所への焦燥に、心も疲れ果てることがある。そんなときに何者でもないリアリムは厚く垂れこみそうになった曇天から差し込む一縷の光のように清らかで、ときとして何物にも代えがたきもののように思わせた。
そんな、自分たちの根を支えてくれていた者がまやかしであったなとど、信じたくはなかったのだ。
魔王はこれまで一度として向けることのなかった視線を魔術師に向ける。
その常闇の瞳の底知れぬ深さに気づいた勇者がリューデルトを庇おうとするが、遅かった。
「これはわたしと勇者の戦い。それにおまえは不要だ」
「――っ!」
それは一瞬の出来事だった。
魔王が剣を持つのとは反対の手を振ると、そこから拳ほどもないひとつの氷の玉が出現する。それらは一直線にリューデルトに飛び、彼の胸に入り込んだ。
「リュドウ!」
氷の魔弾が打ち込まれた胸を押さえ込み、リューデルトはその場に崩れ落ちる。
勇者がしゃがみ込みその身に触れようとしたところで、己の体質を思い出して手を引いた。
リューデルトはしばらく悶絶していたが、やがてふっと糸が切れたかのように静かになる。
勇者が再び声をかけようとしたところで、気配を感じ、握ったままでいた剣を振り上げた。
きぃん、と甲高い音が鳴り響く。交えた刃を一旦退かせた魔王は、次に勇者目がけて先程と同じ氷の魔弾を放った。
玉が襲いくる前に飛び退くと、魔王は一息も入れさせさせないと再び剣を構えて襲い掛かってきた。
魔王の剣を受け止めながら、手の届く場所まできた黒と青の瞳を睨みあう。
「魔術師は、死んだ」
「……っ」
「これは勇者と魔王、二人だけの戦い。傍観者になれぬのならば部外者はいらぬ」
リアリムであったはずの彼は、事もなさげにリューデルトを攻撃し、そして躊躇いなく命を奪った。
故郷を失った喪失にいつまでも苛まれていた彼が、亡き妹との思い出を宝物を見せるかのように語っていた彼が。動物に嫌われ悲しい顔をしていた彼が、柔らかい笑顔を浮かべられていた彼が、仲間であった魔術師を殺した。
認めたくはない。だがもう、認めなくてはならないだろう。
勇者は剣を薙ぎ、獣のように唸りながら魔王に切りかかる。
もう、あいつはいない。魔王の役割にのまれて消えた。きっともう、欠片ですら残されてはいないのだろう。
ついに覚悟を決めた勇者は、魔王との死闘に身を投じた。それを察した魔王もまた、その瞳についに色を灯して殺気を滲ませる。
激しく剣を交え、一進一退の攻防を繰り返すなかで魔王は言った。
「何故闇の眷属たる者どもは疎まれなければならない」
甲高く剣がぶつかりなり合う中で、ときに弾かれながらも勇者を睨む。
「確かに闇とは死を司るものではあるが、夜の時間も、休息も、それらとて闇からなるもの。なのに何故死と負の感情ばかりに目を向けられ悪にされる。破壊と再生を繰り返しこの世は成り立っている。喪失とて世界にも必要不可欠なものであるのに、何故人間は光の者が祝福を受けていると思い込む」
「知るか……っ」
首を狙い突かれた切っ先から寸で避け、剣の腹を籠手で押し退ける。魔王の体勢が崩れかかったところに切りこむが、彼の足元から伸びてきた影のような触手が弾いた。
魔王は一歩飛び退き間合いを取る。
「今日の終わりがなければ明日の始まりはないというのに。死があるからこそ新たな生命の美しさは際立つというのに! だからこそより命が貴きものだと思えるのに、何故だ!」
「終わりを恐れる心があるからだ! 終わることで救われるものがあれば、悲しむこともある。始まることで喜びが込み上げるものもあれば、絶望の幕開けとなることもある。おまえこそ光というものを輝かしいすべてと思い込み、妬んでいるんだろう!」
「妬みなにが悪い。対等なものであるのに多くの者から疎まれる者の立場がおまえにわかるか!」
今度は勇者が切りかかり、魔王が風を巻き込み唸る聖剣を受け止める。その足元から再び噴き出た影の触手が襲い掛かってきた。それに気がつき周囲に光の矢を精製し放ち相殺するも、消しきれなかった影が肌を掠った。
これまで優勢に持ち込んでいた勇者であるが、影の触手に襲いかかられ注意を散らさざるを得なくなった。その隙をついて氷の魔弾が放たれて、咄嗟に炎の壁で防御する。
蒸発した氷が霞のように広がる合間に再度二人は距離を取り合った。
もとより勇者は剣を得意とし、魔王は魔術を得意とする。その差から、勇者には狂わせの力があったとしても、魔王は制御できるのだ。
そのため魔王は魔術を用いれば状況はどちらに傾くでもなく、拮抗する。
魔王と対面した今ならばわかる。
彼には魔王たる存在を名乗るだけの十分な魔力が備わっている。しかし、勇者はこんなに傍にきても一切感じることができなかった。それは魔王と勇者の魔力が、まったく同質であるからだ。自分自身の魔力を感じることができないのと同じ原理だ。
リアリムであった頃は父に力を封じられていたというが、魔王ほどの魔力を隠しきれるはずがない。リューデルトのような人間の魔術師なら目晦ましにもなろうが、勇者が感じ取れなかった理由はそこにあるのだろう。そしてまさかリアリムが魔王だとは思わなかった勇者は、彼を持たざる者と勘違いしてしまった。
狂わせの力も、同質の魔力を持つものだから発動しなかったのだ。
再び交わった二人は、次第に細やかな傷を負っていく。
勇者が繰り出す剣が魔王に掠り、魔王の払った刃が勇者の肌を滑っていく。それでも互いに怯むことなく、さらなる闘志を燃やして雄たけびを上げる。
彼らの戦いはまるで踊るようでもあった。初めて剣を交えるというのに、互いの呼吸を熟知して、次に出される一撃を読み合い寸で避けては反撃に剣を翻して。
魔術も交えた戦いの中で、勇者の左の拳が魔王の鳩尾に叩きこまれた。痛みに怯んだ一瞬を逃さず聖剣を払う。
しかしそれが魔王の首を刎ねる寸前、勇者は躊躇った。その隙を突かれて死角から忍びこんだ影が腹に食いついた。
「ぐっ」
光で形成した剣で影を断って飛び退く。
互いに息を荒げあいながらも、それでも視線を逸らすことはない。
勇者が腹を押さえると、そこからは血が溢れ出していた。魔王は口の端から血を垂らす。
普段の戦いであれば損傷した箇所に治癒術をかけるところだが、これは勇者と魔王の戦い。どんな傷も癒せても、この二人が互いにつけあった傷だけはどちらかが命を落とすまで癒すことができないのだ
「まだわたしに、リアリムの影を見るか。ならばそうしていろ。そしてその幻想を求める甘さに足元を掬われるといい」
口に溜まった血を吐き捨て、魔王は片手に魔力を集中させる。
剣士としてではなく、魔術師としても秀でる勇者は集められる膨大な力に、それに彼がすべてをかけていることがわかった。
これまで続いた戦いも、これで最後にしようというのだろう。
勇者も大きく息を吸い込み、己の聖剣に力を込めていく。
互いに渾身の魔力を練り込んでいく。最後の一撃は、死力を尽くしたものとなるだろう。
勇者と魔王は目を閉じて、呼吸を整える。
古城が二人の高まる魔力に呼応し、微かに震えはじめた。地響きが腹の底まで揺らして、壁には亀裂が走る。室内であるにも関わらず二人を中心とした風が緩やかに巻き起こり始めた。
ついに崩れた天井の一部が、魔王と勇者の脇に残骸となって轟音を立てる。しかし精神を研ぎ澄ませた二人は意識を逸らされることもなく、さらなる力を重ねていく。
やがて魔王城が限界を迎えようとしたとき、すうっと双方の瞳が開いた。
魔王は濃縮された暗黒の魔術をその手に携え、勇者は光り輝く聖剣を構える。
二人は同時に駆け出した。
「うおおおっ!」
「はあああっ!」
光と闇、ふたつの魔力がぶつかり合い、二人を中心に爆風が吹き荒れる。
魔王城は天井をすべて飛ばして、壁も崩れ去りながらもかろうじて形を保っていたが、余波は空にまで影響をもたらし、西大陸を暗澹とさせていた曇天が一瞬して風に押し晴らされた。
雲ひとつない晴天の下、遮るものもなく陽光に照らされた二人の身体は重なる。
やがてひらりと、勇者の目の前にいちまいの花弁が舞い落ちた。それと同時に支え合うようにぶつかっていた魔王の身体が崩れ落ちる。
「おいっ」
勇者は咄嗟に彼の身体を抱きとめた。しゃがみ込んだ己の腕で支え、顔を覗き込む。
「おい、これはどういうことだ、説明しろ!」
魔王の身体には、勇者の聖剣が深々と突き刺さっていた。彼が震える手で剣を抜き取ると、腹からはどっと血が溢れる。
出血する傷口を押さえながら、魔王を支えながら、勇者はひどく混乱する頭で叫んだ。
「何故おれに魔術を放たなかった……!」
動揺する勇者の声音に、魔王は静かに微笑んだ。
「これで終わりです、勇者さま」
「――おまえ、は……」
柔らかな笑み。最低限に残された線引きにと、決して止めることのなかったその口調に、勇者は言葉を失う。
その姿は魔人そのものであるが、その微笑も、声音も、それらは消えてしまったと思っていたリアリムそのものだった。
だがリアリムは、もういないのだ。いるはずがない。だから勇者は剣を取った。そしてそれを、リアリムであった者に向けたのだ。そして彼を、刺したのだから。
「何故だ、おまえはおれを殺そうと、魔術を!」
魔王が手に集めていた魔力は膨大なもので、だからこそ彼の本気を理解した。勇者は相討ちを覚悟して己も聖剣に力を込めていったのだ。
それなのに自分に向かって放たれたはずの魔術はどこにもなく勇者は 二人で衝突したのは幻であったかのようにさえ思える。しかし勇者の剣は確かに魔王と貫いていた。あれだけの力をぶつけ合って勇者は無傷である。これは、現実だ。