咄嗟に傍らに転がっているリューデルトに目をやったが、彼はまるで人形のように大人しく静かな寝息を立て眠っている。身じろぎするどころか唇が動いている様子もない。
 また声がする。もしやと思い勇者の方を見てみると、伏せがちな彼の顔が苦痛を味わっているかのように歪んでいることに気が付いた。
 いびつに噛みしめられた唇から、うめき声が漏れる。手は組んでいる腕を強く握りしめていた。 
 ひどくうなされているようだ。しかし目覚める気配は一向になく、まるで苦しみが深まっていくかのように勇者の口からは息苦しい声が漏れている。
 リアリムはリューデルトを起こそうと考えた。しかし離れた場所からひっそり聞こえる悶える声に気づくことなく穏やかに眠る姿を見ていれば、伸ばしかけた手は引っ込む。
 悩んでいる間にも勇者は冷や汗を流しはじめた。腹を下しているらしいラディアが戻ってくる気配もなく、呼びに行ったところですぐに駆けつけられるとも思えない。
 リアリムは音もなく立ち上がり、無意識に息を押し殺しながら、忍び足で勇者に近付いていった。
 これまでリアリムの気配を忘れたことのない勇者であったが、傍らにしゃがみ込んでも自身の悪夢にうなされるばかりで気づく気配もない。
 初めての距離から勇者を眺め、変わることのない苦痛の様子に、躊躇いながらも覚悟した。
 勇者には近づくな、とリューデルトから忠告を受けている。それも手の届く範囲にはいくなと。しかし今リアリムはその中にすでにいる。そもそも勇者の意識は今眠りの中にあるし、気づかれなければどうにかなることだろう。
 目を覚まさせることはできないし、悪夢を追い払うこともできはしない。だがせめてその汗くらいは拭いてやれるだろうと、懐から手巾を取り出した。
 起きないだろうかと不安を抱きつつ、そっと布を額に押し当てる。勇者が反応を見せる様子はなく、不穏な休息とはいえどもその妨げにはならぬよう注意しながら汗を拭っていく。
 時々ちょんと指先が素肌を擦って冷や汗を流すこともあったが、それでも勇者の苦悶の表情が変わることはない。それに安堵していいのか不安に思えばいいのか、心中は複雑に渦巻いていた。
 余程深い眠りについているのだろう。そう思うと、異様に緊張していた身体の強張りはほどけていく。何かあるとすれば勇者が目覚めてしまい、きっと勝手に触るなと拒絶されるだけなのだろうが、あの青の瞳が冷たげに鋭い光を宿すのを想像しただけで肩をすくませてしまいそうだ。 
 それでも、見なかった振りをして彼をほっとこうとは思えなかった。
 次に首筋を拭こうとそこへ手を伸ばしたところで、これまで耐えるようにきつく閉じていた勇者の瞳がぱっと開いた。
 突然の目覚めに驚いたリアリムは悲鳴を上げるゆとりすらなく咄嗟に身体を後ろに引く。しかしそれよりも先に首に宛ててしまった手が勇者に捕まれた。
 加減もなく握りしめられあまりの強さに骨が軋みをあげる。掴んでいた力が抜けていく指先から手巾が滑り地面に落ちた。
 はじめての勇者からの接触であったが、それに気づく余裕すらなく痛みに顔が歪む。その表情にようやく状況をのみ込んだ勇者ははっと我に返り、リアリムを突き飛ばした。
 今度は力加減されていたのか、しゃがんでいた身体はただ後ろに倒れ尻餅をついただけだ。臀部を打ち付けた痛みはあれども自分の体重分だけで勢いはなく、腕を掴まれたときのような軋みはない。
 なにが起きたのかよくわからず、呆然と互いに見つめ合う。
 やがて勇者が唇を震わせた。

「おまえ、今おれに、触れていたのか」
「――え?」
「おれに触れていたのか!」

 口先で溶けた言葉は聞き取れなかったが、繰り返された鼓膜を殴る声にリアリムはびくりと肩を跳ねさせた。
 気圧されながらも頷くと、勇者は戸惑うような、ひどく不安げな表情を見せる。あまり表情を変えることのない彼の初めて見せる顔だった。

「リュドウ!」

 勇者は眠っているリューデルトを叩き起こすためにするどい声を上げる。それまで身体を横にして穏やかに眠っていた魔術師は、勇者の尋常ではない呼び声に飛び起きた。

「今すぐこいつの身体に異変がないか調べろ」

 起きたばかりのリューデルトに事情も説明せず勇者は命じる。
 何も知らないはずのリューデルトはそれでも頷き、すぐさま尻餅をついたままのリアリムの傍らにしゃがみ込んだ。
 そこへ腹を擦りながらラディアが戻ってくる。

「どうした、騒々しい」
「こいつがおれに触れた」

 短い勇者の言葉に、二人の仲間はさっと顔色を変えた。ようやく状況を理解したらしいリューデルトは息をのみ、ラディアまでも傍らに寄り膝をついた。
 二人からまじまじと顔を覗き込まれ、つい後ろに逃げたくなる。しかしそれが出来なかったのは、不安が混じる彼らの表情を見てしまったからだろう。
 もし今が暗がりでなかったのなら、はっきり青ざめた顔色が確認できたかもしれない。

「リアム、勇者さまにどう触れたのですか?」
「え、っと……ひどく、うなされていて、汗も掻いていたから。だから拭こうと思って」
「素肌に触れましたか?」
「指先を少し掠めただけだけど」

 感情を押し殺した声音は淡々と質問をする。そのひとつひとつに何が起こっているかわからないまま、怯えたままに頷いた。その度にリューデルトの表情は強張り、ラディアからは色が失われていく。
 勇者は一度口を閉ざして以降、押し黙ったままだった。

「リ、リアム……こちらへ。こちらへいらしてください」

 先に立ち上がったリューデルトはリアリムに手を差し出した。素直にそれをとればひどく冷えた指先と重なる。
 助け起こされ、手を繋いだまま木の影につれていかれた。
 繋がりは解かれ、リューデルトが振り返る。

「すみませんが、上だけでいいので服を脱いでください」

 切羽詰まったリューデルトの言葉を断れそうにはなかった。もとより首を振る理由もないと、リアリムはすぐに上着を脱ぎ、上半身裸になる。
 ひやりとした肌寒い空気よりも、一言声をかけ触れてきたリューデルトの冷たい手にふるりと身体が震えた。しかしそれに気づかぬままリューデルトはぺたぺたとリアリムの素肌に触れていく。

「気分はどうですか? 身体に、なにか違和感は?」
「なんともないよ」
「本当に?」

 腹のあたりで手を止めたリューデルトが、やや上半身を倒した状態のままじっと顔を見つめる。
 何かよくないことが起こっているかもしれないという不安から妙な心臓の高鳴りはあるが、しかしそれを除けばリアリムは至って健康体だ。未だ乗馬の疲れが尾を引いているがそれもそれほどのものではない。
 リアリムが遠慮して答えていると思っていたリューデルトだが、疑いに少しずつ困惑を混ぜていく。

「――本当に、なんともないのですか?」
「ああ。別に、これといっては感じてないよ」
「勇者さまに、あの方の素肌に触れたのですよね?」
「指先だけ。……その、ごめんな。近づいちゃいけないって言われていたのに、勝手なことして」

 真っ直ぐな視線から逃れるよう、リアリムは俯いた。
 リューデルトは繰り返し、勇者には近づくなと警告をしていたのだ。それを無視して勇者に触れ、彼らにとってただならぬ事態を招いてしまった。もしこれで自分の身になにか起こっていたとしても、自業自得というものだ。
 呆れられても、見離されても、仕方ないと己の浅はかさに身体を縮めていくリアリムに、リューデルトはゆるく首を振った。

「勇者さまがうなされていたのを放ってはおけなかったのでしょう? 勿論約束を違えたことはいけませんが、その優しさまでも責めようとは思いません。むしろ勇者さまを見ていてくださったことだけは感謝すらしたいとも思えます」

 気遣う言葉に、なおのこと自身がしでかしたことをリアリムは恥じた。リューデルトはそれを理解していたからこそ、一切リアリムを責めなかった。なにより言葉に偽りはなかったからだ。
 勇者の肌に触れた指先を持ち上げられる。しばらく真剣な眼差しで眺めていたリューデルトは、小さな息を吐きながら様子を見守る二人に振り返った。

「異変は見当たりません」
「確かに、見た目はなにひとつ変わっちゃいないが……だけどよ、触れたんだろう?」

 向けられたラディアの視線に、リアリムは表情に影を落としながら頷いた。
 一体、自分が犯してしまった過ちはどれほどのものであるのだろうか。リューデルトとラディアの反応は不安を覚えるものであったが、なにより勇者の態度が気がかりだった。
 怒鳴り声と、心もとなさそうな不安げな表情。それをさせたのは、他ならぬリアリム自身である。
 常として大きく変化のなかった顔に一石を投じ、波紋のように表情を変えさせた。それが笑顔であったのであれば問題はなかったのだろうが、今こちらを見る勇者の視線は険しい。
 勇者の隣に立つラディアは、困惑したまま頭を掻き乱した。

「どういうことだ。なんで勇者に触れていながら無事なんだ? そんなことあり得るのかよ」

 その一言を最後に、四人の間には長い沈黙が訪れる。その訳を知る三人は、顔を突き合わせるでもなく、それぞれが思案する顔を見せた。話し合ったところで解決するようなことではないのだろう。
 なにも知らず、そしてこの状況を招いてしまったリアリムは、ただひとり小さくなっているしかできない。
 やがて静寂を破ったのは、リューデルトだった。

「リアム。あなたは確かに、勇者さまに触れたのですね? 決して、思い違いではありませんか?」
「ああ。ほんの少し、指先程度だけれど、触ったよ」

 再三にわたる確認の問いかけに、リアリムは己の罪を突きつけられるような気持ちで頷いた。

「勇者さま。提案がございます」
「なんだ」

 振り返ったリューデルトに、勇者は低い声で応えた。

「リアムと、触れあってみてはいかがでしょうか」
「――おい。正気か、リュドウ」
「ええ、勿論正気です」

 二人の間に割り入ったラディアは、まるで緊張するかのように表情を硬くさせていた。それにリューデルトは冷静そのものに頷きを返す。

「もしかしたら、リアリムは勇者さまと触れあっても平気かもしれません。先程本当に勇者さまの肌に触れ、そして今のように平然といられるのであれば、可能性は十分にあるかと」
「もし駄目だったら?」
「暴走すればわたしが制御します」

 しばしラディアはリューデルトを探るよう見つめたが、揺らがぬ瞳に静観を決めたのだろう。腕を組み、傍観者であることを示すように木の幹に背を預けた。

「勇者さま。こちらへ」

 リューデルトに誘われるがまま、勇者は心なしか力ない足取りでリアリムの傍らにやってくる。
 一度、手を伸ばしても触れることのない際で足を止めた。
 空色の瞳がリアリムを見つめる。表情はいつものようにまるで色がないのに対し、そこだけが不安定に揺らいでいるように見えた。
 立ち止まったその足は、躊躇いを表しているのだろうか。リアリムの傍らにいくことに。勇者ともあろうものが、武器も持たぬ一般人を相手に。
 彼が今なにを思いそこで足を止めたのか、リアリムにはわからない。だが理由を知っているのであろうリューデルトもラディアも、勇者自身が踏み出す次の一歩を待っているように思えた。けれども勇者は動かない。しかし、瞳をリアリムから逸らすこともなかった。
 勇者がリアリムを見つめているのを知るように、リアリムもまた、勇者を見つめる。
 無意識のうちに、そうっと、彼に向って手を伸ばした。
 なぜそうしたのか、自分でもわからなかった。気がつけば腕を持ち上げていたのだ。
 片方が手を伸ばしても届きはしないが、互いに手を差し出せば十分に繋がることができる。
 勇者はこれまで一度も取るところを見せなかった手袋を脱ぎ、言葉がないままに指先を伸ばす。そしてリアリムの掌をそっと突いた。
 それは一瞬のことで、すぐに慄いたように離れる。けれども再び触れてきて、すうっと掌を指先が撫でながら、やがてそれらはリアリムと指を絡めた。
 握り込まれて、ようやく我に返ったリアリムは咄嗟に肩が跳ねるも、身体を繋げているはずの勇者はそれには気がついていないようだった。
 その瞳は、重なった手を見つめている。二度瞬くと、空いたもう片方の手を持ち上げ、手袋を歯で噛んで脱いだ。
 咥えたそれを地面に落とす。咄嗟にリアリムが目で追おうとすると、伸ばされる指先に気がついた。
 俯きかけた顔を上げると、そっと頬に、震える指先が触れる。素肌を撫でる力はあまりにもか弱く、くすぐられているようにもどかしい。
 空色の瞳は、確かにリアリムを見詰めていた。奥にある色を、はっきりと動揺に揺らがして。

「ゆう、しゃ――」

 思わず唇が勇者の名を形作る。
 掠れて零れた言葉に、勇者ははっと我に返ったようにわずかに目を見開いて、さっと手を引いていった。
 これまで瞬きも忘れて瞳に収めていたリアリムから顔ごと逸らす。

「リュドウ、こいつの魔力を計ってみろ」
「はい」

 勇者の声が、震えを抑え込むようにかたくなっていたように、そうリアリムには思えた。しかし彼の顔は見えず、それ以上声を放つこともなかったため、真偽はわらかないままだ。
 命じられた通りに勇者に代わりリアリムの前に立つことになったリューデルトは、失礼します、と一言声をかけ、リアリムの胸に手を置いた。
 瞳を閉ざし、掌で感じるリアリムの呼吸に己の息遣いを合わせる。
 やがて瞼は持ち上がり、手は離れていった。

「どうだった? リアムの魔力は」

 待ちきれなかったラディアが問いかける。リューデルトは集中するがあまりになくしていた表情を取り戻すと、困惑した様子を表した。

 

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