ルカは家まで送ると言ってくれたが、店もあるし、何よりお腹にもうひとつの命を抱える彼女を不要に歩かせるわけにはいかない。
 ただでさえ蜜夜の影響でどんな事件が起きるともわからないのだからと言うヒューに、「だからこそ付き合うんでしょ」と息巻いたルカをどうにか宥めて帰宅の途に就く。

「ふー……」

 歩きながら、深く息を吐いた。
 なんだか朝から熱っぽさを感じていた。だるいというわけではないが、腹の奥がなんだか燻っている感じだ。
 少しの違和感よりもルトに会うほうが大事だと飛び出したが、時間が経つほどにその熱が高まっている気がする。じりじりと全身に広がり始めていて肌がざわつく。
 ここ最近、この日を迎えるにあたって緊張していたからなのかもしれない。それにさきほど感極まって泣いたせいもあるのだろう。
 ルカの前で泣き出してしまうし、もしかしたら自分は思っていたよりも精神的に疲れていたのかもしれない。身体も重たく感じるのはきっとそのせいだ。
 そうして自身の不調に気を取られているうちに、目の前に人が来たのに気がつかずぶつかってしまった。

「っ、すみません」

 すっかり油断していたヒューはよろけて、慌てて足を踏ん張る。それに対して相手はまったく動く気配はなく、ただ煩わしそうにぶつかった場所を手で払った。

「ってえな」

 目を向けた先の人物を確認して、声には出さなかったものの内心で「あ」と呟く。

「んだよちくしょうが」
「おい、どうしたよ」
「このチビがぶつかってきたんだよ」
「だはは、おまえがのろのろ歩いてるからだろ」

 じろりと無遠慮な二対の瞳が同時にヒューに向けられる。
 確かに考え事をしていて気もそぞろに歩いていたヒューが悪いが、それを差し引いても目つきも態度も悪い姿には見覚えがあった。
 例の、ナンパしまくって迷惑がられている出稼ぎの二人組だ。
 それぞれ象と豹の獣人である彼らもまた獣の頭を持つため表情はわからないものの、言動から見るに苛立っている様子は明らかだった。
 ぶつかった象の獣人とは軽い接触程度で、ヒューだってうっかりよろけたが大して痛みはない。相手の種族の特性である厚い皮膚とどっしりした体格の良い身体は衝撃を感じたことさえ怪しいほどで、どうやらヒューのことが原因と言うよりも、まだ蜜夜の相手が見つかっていないことは容易に見当がついた。

「つか、この匂い……」

 ふと、象の獣人が鼻を持ち上げる。
 それが自分に向けられていることに気がつき、慌ててヒューは頭を下げた。

「あの、すみませんでした。それじゃあ失礼します」
「おい、待てよ」

 八つ当たりされかねないと早々に立ち去ろうとしたが、象に腕を掴まれてしまう。それだけでなく、長い鼻が伸びてきて首筋に押し付けられた。

「っ」

 生暖かい感触や肌にかかる鼻息にぞわりと鳥肌が立つ。
 咄嗟に身体が逃げようとしたが強く腕を握り込まれて叶わなかった。
 個体差やその種族にもよるが、大抵の獣人は人間より背が高く筋力もある。その中でも象の獣人は最重量級で、同じ獣人であっても長い鼻と巨体を持つ彼らに抑えつけられると逃げ出すことは容易ではない。

「その人間がどうしたよ」

 仲間の反応に興味を示したのか、豹の獣人もヒューを取り囲むよう背後に回り込む。

「放せよ!」

 ヒューの声に耳も貸さず、象は長い鼻をヒューの首筋にあてながら深く息を吸いこんだ。

「……っ」

 吸引されるようなあまりの気持ち悪さに悲鳴を上げてしまいそうだったのを、どうにか歯を食いしばり耐えた。
 そうしておぞましいほど長く感じた一瞬が終ると、信じられない言葉が耳を打った。

「――こいつ、発情期だ」
「はあ?」

 象の獣人自身も信じられないといった様子で、豹の獣人も相棒の突拍子もない言葉に胡乱な声を上げる。
 だがそれは発情を指摘されたヒューも同じだった。

「なに、言って……」

 だってヒューは人間だ。確かにいつでも盛んな性交を行えるため万年発情期と言われるものの、人間に明確な発情期というものはない。しいていうならば、その時々に応じて発情しているだけだ。
 そのため明確な発情期があるのは獣人だけであるはずだった。

「いや、間違いない。発情している。この匂いはそうだ」

 それなのに象の獣人は再び耳裏の匂いを嗅ぎ、確信を持って言った。

「匂いって……べったり他のやつのがついててよくわかんねえよ」
「おまえはそうでも、おれの鼻の良さは知ってんだろ」
「そりゃ、知ってっけど……ああ、そうか。なるほどねぇ」

 何か思い当たる節があったらしい豹の獣人は、それまでの疑いの眼差しを一変させて、舐めるようにヒューを上から下まで眺めた。

「人間のくせに発情してるってこたぁ、おまえ先祖返りだな」
「せんぞ、がえり……?」
「その顔、自分でも知らなかったらしいな」

 先祖返り。その言葉は知っている。
 本来、人は両親どちらかの種の姿で生まれるものだ。だが時折、先祖の誰かにあった種で生まれたり、ひとつの種ではなく混じりあった姿で生まれることがあり、その稀な者を先祖返り、または混じり者と呼んだ。
 この世界で同じ種だけで紡いだ血筋など、もはや王族などの血筋に重きを置く高貴な身分の者たちくらいなものだろう。
 ヒューの両親もどちらも人間であるが、祖母が狼獣人であった。それより古き血の話をしたことはないが、狼以外にも混じっている可能性は十分にある。
 だがヒューは両親の姿を継いだし、混じり者にあるような獣の特徴が身体にあるわけではない。
 当然これまでに先祖返りだと指摘をされたことなど一度もなかった。

「聞いたことがある。先祖返りたちの中でも殊更貴重なのが、発情期がくる人間だってな」
「発情期がくる、人間……」
「それ以外はまんま人間だ。だが蜜夜になれば獣人と同じく発情期を迎えるんだと」

 ふと、身体に渦巻いている熱を思い出した。緊張状態からくるものだと思っていたが、もしそれが発情期の兆候だったとするのなら。
 ルカの前で感情を制御できず泣いてしまったのも、ただの強い感傷だけでなく、満ちた赤月の影響が出ていたせいだとするのなら。
 発情期がある以外はただの人間と変わらないというのなら、確かに思い当たる節がいくつかある。

「――っふざけんな!」

 だが十八年間ずっとただの人間として生きていたのに、絡まれた相手にいきなり先祖返りと言われて信じられるはずもない。

「放せ! 放せよっ! オレはそんなんじゃないっ」
「お、そういや俺も聞いたことがあるんだけどよ。発情期持ちの人間って人気なんじゃなかったか?」
「ああ。普段からちょっと触れば反応してくる簡単な身体なのに、おれたちのような発情期があるんだ。そりゃあものすごく乱れるらしく、物好きの間じゃ引く手数多らしいぞ」

 暴れるヒューなどまるで存在していないかのように、不穏な会話が交わされていく。

「へえ。こんな子猿みたいなのでも?」

 覗き込まれて顔を背けるも、むりやり顎を掴まれ前を向かされる。
 きつく睨みつけるが、検分するような目つきの豹の獣人にはまるで効いている様子はない。

「おまえ本当にわからないのか? 相当濃い発情の匂いがあるぞ。まだ本番前だってのにこれは……」
「だから、他のやつの匂いがべったりなんだっての。俺ぁおまえみたくそんな鼻がいいわけじゃないんだよ」
「まあ確かに、がっつり牽制の匂いはついているがな。これは――狼だな」 

 男たちの話は理解できなかったが、ひとつの単語を拾った瞬間、それがルトであると直感した。
 匂いというのはヒューにはわからないし、ルトがヒューに対して匂い付けなんてものはしたことがない。
 そもそも匂い付けは所有の証であって、つがいに行うものだ。非常に残念だがヒューはルトのつがいではない。
 それなのにどうしてそう思うのかといえば、単純に今着ている服がルトのお下がりだったからだ。
 ルトはそれほど外見に頓着しないわりに、短い周期で服の入れ替えを行っていた。しかし無頓着ゆえか適当に選んでいるらしく、服の大きさを間違えて買ってしまうことがよくあった。
 そうして手元にあるルトでは着れない服はヒューに提供される。他にも着なくなった服や使わなくなった小物もくれるので、彼らに勘違いされるくらいにはべったりとルトの匂いがついていても何らおかしな話ではない。

「まあでも、つがいではない……な。まだヤってもないだろう。強い牽制だがそのわりに染み込んでない。まだ抱いてはいないらしい」
「へえ、もったいな」
「こいつ、自分が先祖返りだって知らなかったんだから、今回が初めての発情期なんだろ。発情期がなけりゃ普通の人間だからな」

 どうやら象の獣人は相当鼻がいいらしく、匂いだけで暴かれたくない事情まですべて明らかにされていく。

「なあ、おまえの鼻でもこの狼の匂い、覚えてんだろ」
「あ? ――ああ、なるほど。これはあの自警団のやつのだな」
「そうだ。大事な蜜夜のためだってのに散々邪魔してくれたやつらの一人だ」

 獣人にとって蜜夜が大切なことくらい、獣人を中心に組織された自警団のみんなは当然理解している。それでも彼らの相手探しを妨害せざるを得なかったのは、あまりに強引で自分勝手な誘い方だったからだ。

「とくに俺らにガンくれてたやつだろ。覚えてるぜ」

 その事実を棚に上げて自警団に恨みを抱いているらしい二人は、すでにルトと接触していたらしい。
 ルトは蜜夜を理由に暴走しがちな獣人の抑制にはとくに積極的に動いていると、以前にキリトから聞いたことがある。それはヒューが獣人に襲われた一件があった頃かららしく、恐らく身内にも等しい弟分の身の危険を目の当たりにしたためだろう。
 自らの目つきの悪さを自覚しているルトだが、彼らに注意を促す際にはあえて睨みをつけていたらしい。
 だがルトが危険視していたのも当然だ。彼らは先程から、ヒューを無視して話を続けている。そんなやつらでは、蜜夜という環境下に強硬手段に出ることもありうると判断していたのだろう。
 そしてルトの危惧が今まさに現実のものになろうとしていた。

「まだこれ、あの狼のつがいにはなってないんだよな?」
「ああ。匂いを嗅ぐ限りはまだだな」
「――なあ俺、一儲けできること思いついちまったんだけどよ」
「奇遇だな、相棒。おれも今、いいこと思いついた」

 獣の顔には出ないが、にやついた声に嫌な予感がした。

「こいつを好きものの金持ちに売っぱらっちまおう」
「けっこう高値で買い取ってくれるらしいぞ、発情期持ちの人間は。こんなところでちまちま小銭稼ぐよりよっぽどいい稼ぎになる」

 その物騒な会話の対象が自分であることは明らかだ。
 本気でまずいと思ったヒューは、大声をあげようと大きく息を吸い込んだ。
 運の悪いことに周りに人の姿はないが、耳のいい獣人が多く在住しているこの街では騒いだだけでも助かる可能性が格段にあがる。
 しかし――

「おっと、騒ぐなよ」

 長い鼻が顔に巻きつき、口元を塞がれてしまった。
 引き剥がそうとしたが、凄まじい力でそのままどこかへ連れて行かれそうになる。

「まあまずはおれたちで楽しませてもらおう」
「なんたって蜜夜だからなぁ。相手が見つからずじまいかと思ったけどこんな拾いもんがあるとは、ついてんな」

 踏ん張ったところで力の差は歴然だ。たった鼻の一本だけでも、象の獣人には抵抗はないにも等しく身体は引きずられていく。
 もし仮に奇跡的に逃げ出せたとして、もう一人は豹だ。こちらは力はそれほどではないが足が早く、すぐに捕まってしまうことは火を見るより明らかだった。
 このままでは本当に連れて行かれてしまう。
 ルトに抱いてもらえていないのに、こんなやつらの相手をさせられるというのか。さらには売り払われようとさえしている。
 そんなの受け入れられるわけがない。いやだ。絶対にいやだ。
 ルト以外なんてありえない。ルトがだめなら他はいらない。誰にも触れられたくない。
 ヒューはがむしゃらに暴れた。
 拳を振り下ろし、足を蹴飛ばしてやる。遠慮なんてしている余裕はなかった。