106ワンライ
お題「動物」
久しぶりに重なったオフを二人で過ごすために龍之介の家に訪れたナギは、ダイニングの床に直接膝をそろえて座り、目の前のものをまじまじと眺めた。
「……その、ごめんね。急に預かることになって」
「わんっ! わんっ!」
龍之介の言葉に重なるように、ナギの視線の先にいるもの――茶色い毛並みの子犬が鳴いた。自分を抱えている龍之介の腕から抜け出そうと暴れては、今にもナギに飛び掛かりそうな勢いである。
まだまあるく手足も短い子犬の鳴き声の妨害を受けながらも、龍之介は懸命に状況を説明した。
なんでも昨夜帰宅する直前に、八乙女事務所のスタッフの一人が急遽実家の都合により二、三日ほど家を空けることになったらしい。そのスタッフは飼い始めたばかりの子犬が家にいたのだが、近場のペットホテルは運の悪いことに手一杯で預かってもらえなかった。時間帯も零時を回るすこし前ということもあり誰かに連絡をとることも憚られ、もしできたとしてもあまりに急なことに預かってもらえそうな者のあてもなく、途方に暮れていたところを龍之介が見つけたのだそうだ。そして事情を聞いた龍之介は、自身の家がペット可であり、かつ翌日がちょうどオフであったことから預かることを決めたらしかった。
龍之介の家にいるのは今日だけで、あとはペットホテルに預ける手筈となっているそうだ。
「なんだかナギくん見たらすごく興奮しちゃったみたいで……あっ」
子犬は龍之介の腕からついに抜け出し、弾むように跳んでナギのもとにやってきて、膝の上に片足を乗せた。
へっへっと舌を出して荒く息をしながら、粒のように小さな濡れた瞳でナギを見上げる。その後ろでは小さな尻尾が、はちきれんばかりに激しく左右に振られていた。
しばらく子犬と見つめ合っていたナギは、やがてふっと頬を緩ませて、子犬の脇に両手を差し込み持ち上げる。
「とても元気な子ですね。この種は……もしかして、シバイヌですか?」
「そうみたい」
「ワオ! この子がそうなのですね! 初めてナマで見ました!」
写真などで知る柴犬は成犬の姿がほとんどだ。ナギはまじまじと子犬の姿を眺める。
「さっきまで御主人と離れて寂しいのか元気がなかったんだけれど、ナギくんが気に入ったみたいだね」
「ワタシの魅力は動物にも通じるものですからね。近づきたいと思うのも仕方がないことでしょう」
身体が安定するようにしっかりと腕に抱き直せば、子犬はそこから精一杯首を伸ばして、ナギの顎を小さな舌でちろちろ舐めた。
くすぐったくて思わず笑うナギの姿を、龍之介が面映ゆげに目を細めて微笑む。
「そういえば、ナギくんも犬を飼っていたんだよね?」
「YES。大人しく賢い子でしたよ。ふふ、アナタは有り余るほど元気がおありのようで、良いですね」
まだ両手で持っていられるほどに幼いので、躾けをするのはこれからだろう。世界でも忠犬だと有名な柴犬を実際に見るのは初めてだ。こうも熱烈に歓迎されているのに悪い気など起きるはずもなく、龍之介が飼い主から預かったいう玩具でしばらく子犬と戯れた。
「ナギくん、喉渇かない? なにか飲む?」
ふと背後から声がかかり振り返れば、ソファに移動していた龍之介がそこから微笑かけていた。
子犬が取ってきたボールを受け取り、また膝の上を乗り顔に突撃してきそうな勢いの子犬を制しながら、ナギは軽く首を振る。
「いえ、結構です。それよりも、この子ばかりでアナタを放っておいてしまいましたね」
「いいよ、俺のことは気にしないで。ナギくんが楽しそうなら俺は嬉しいし、見ていて楽しいよ。その子も構ってもらえてすごく嬉しそうだから良かった」
「Hm……」
にこにこと人良さげに笑う姿は、その言葉のまま一切他意は感じない。
それが少しばかり、ナギの心のどこかに引っかかったようだ。
「ワタシと会えるのは久しぶりだというのに、アナタは随分と余裕のようですね」
「え?」
漫画的展開であれば、ここは他を構ってばかりの恋人に嫉妬心を出して迫ってきてもいいところでもあるのだが、そこはさすが龍之介というところだろう。人のいいこの男ではそんな展開があるわけもなく、むしろ邪心の一切ない笑顔を見せている。
ナギの言葉に理解が追いついていないようで、えっと、と戸惑ったように眉尻をわずかに下げる。いつもならもうちょっと、意地悪くもつんとした態度をとってやるところではあるものの、ナギの瞳を見たがる子犬がそうもさせてくれそうにない。
構って、構って! と全身全霊で訴える小さな存在を無下にもできず、苦笑しながらナギは自分の隣を龍之介に示した。
「どうせなら、アナタもご一緒にいかがです? 子犬のパワーは案外侮れませんよ」
「それじゃあ、俺も参加させてもらおうかな」
ソファから腰を上げ自分たちのもとに歩み寄ってくる龍之介に気がついた子犬は、はっとしたように振り返る。
先程までは龍之介に見向きもしていなかったのに、遊び相手が増えたのだと理解でもしているというのだろうか。歩み寄ってきた龍之介の足元に行くと、ナギにしていたようにぴょんぴょんと跳ねるように飛び掛かり、抱え上げてもらったら嬉しそうに顎を舐めだす。
「はは、くすぐったいな」
小さな舌先から顔を逃がす龍之介の姿を見つめていたナギは、しばしの沈黙後に彼の手から子犬を奪う。
「ガードがゆるいのも困ったものです」
「ん?」
「なんでもありません」
聞こえていなかったらしい龍之介は言葉を確かめたそうな目線を向けてきたが、つんと顔を背けるナギに諦めて、代わりに犬の玩具を手に取る。
わざわざ口に出してしまったが、果たして聞いてほしかったのか、聞こえなくてよかったのか。
自分のなかで答えは出さないまま、ナギも龍之介に対抗すべく、子犬の興味を得られそうな縄の玩具を持ち出して、すでに引っ張りっこで遊んでいる彼らの間に割り入った。
全力で遊んでもらった子犬はやがて疲れ果て、電池が切れた玩具のようにぱたり動かなくなったと思ったら、そのまま眠ってしまった。
飼い主から預かった、ベッド代わりにしているという円形のクッションの上に子犬を運んだ後、安らかな愛らしい寝顔を二人で覗き込みながら、揃って相好を崩す。
「いっぱいはしゃいでいたし、疲れたんだね」
「あれだけパワフルに動き回ったのですから、しばらくは目覚めないでしょうね」
まるで嵐のように激しく遊んだ時間を思い出した二人は、互いの髪までもが乱れていることに気がつき、揃って手を伸ばした。
相手の髪を手櫛で整えているうちに、ふとどちらからともなく顔を寄せていく。
突然舞い込むことになった一時は激しくも楽しかったが、だがこれからの本来過ごす予定だった二人の時間も負けず劣らず濃厚に過ぎゆく――はずだったのだ。
そのはずだったのだが、子犬の眠る傍らで不埒な行為に耽ることもできず。
眠ったままぶしゅりとくしゃみした子犬に驚き振り返った二人は、それから顔を見合わせて、肩を竦めて笑い合った。
おしまい
2018.9.1