第4章


 真夜中に六番隊の人たちが城へ帰ってきてから、三日が経った。それからというもの、色々と忙しいのか誰も顔を出していない。
 今まで毎日誰か一人ぐらいは顔を出してくれていたから、少し寂しい気持ちもあった。だって、ようやく少しずつだけど打ち解けてこれたところだし……だけど、大変なんだろうからしかたない。
 おれにもできることがあったらいいのに、そんなものないから、この三日間はずっと岳里と一緒に部屋にこもりきりになってた。
 大抵チェギを指したり、他に持ってきてもらったおもちゃで遊んだりもして、暇はしてない。岳里は話し相手にはなってくれないけど、遊び相手にはなってくれるし、何より一人じゃないだけよかった。
 こんな時にも岳里のありがたみを感じながら、おれはそこそこに上達したチェギで今も岳里と対戦していた。はじめてチェギをやった時の名残で、チェギをするときは必ず岳里のベッドの上だ。
 盤に駒を並べて、向かい合わせになって二人でそれを覗き込む。
 岳里に勝とうなんて思ってないけど、どうにか一泡吹かせてやろうと作戦を練るのは楽しい。結局岳里に見破られて返り打ちにあうんだけれど、その時の返しを見るのもまた楽しいからどうしようもない。
 次はおれの番だと鳥の駒を持った時、かりかりと扉を引っ掻く音が聞こえた。

「あっ、ネーラだな」

 おれは駒を一旦は元の場所に戻すと、ベッドから降りて音を立て続ける扉へ向かい、そこを開けてやる。
 すると、その隙間を縫うようにするりと身体を滑らし、一匹の黒猫が入ってきた。その猫は入ってくるなりおれの足に身体をすりよせ、喉を鳴らす。

「今日も可愛いな、ネーラ」

 そう声をかけながら身体を屈め、ネーラという名前の黒猫を抱き上げる。
 逃げることも暴れることもせず、大人しく腕に収まったネーラは小さく鳴いた。その声にも、顎の撫でてくるざらざらとした舌にもでれでれになりながら、ネーラを抱えたまままた岳里のベッドの上に戻って座り直す。
 岳里はどうもネーラが苦手らしく、じとっと一瞥するとすぐに目を逸らした。
 こんなに可愛いのに、なんでだろう。それとも猫自体が苦手なのか? 心の中で疑問を巡らせながらも、膝の上で丸くなる身体を撫でてやる。ちょこちょこと頭をさするように触ると、気持ちよさげに目を細めた。
 ネーラはなんでも、この城の中で飼われてる猫らしい。ちょうどみんなが慌ただしくなりだした三日前に、おれたちの部屋の扉をかりかりと引っ掻いてきて、中に招いてやってからはじめてその存在を知った。
 その時見張りをしていた兵士の人に聞いて、ネーラという名前を教えてもらったんだ。

『え、名前、ですか? えっと……名前、名前……ね、ね――ネーラです、ネーラ!』

 兵士の人はなんだか慌てながら、そう言った。あの時の態度は今でも疑問に思うけど、あの人ももしかしたら猫が苦手だったのかもしれない。こんなに可愛いのになあ。
 顎をと掻いてやると、ネーラは一鳴きした。
 その姿、声を見て、しみじみと懐かしいあの姿をおれは思い出す。

「ネーラってさ、何度見てもルナそっくりなんだよな」
「……昔飼っていたという猫か」
「ああ。鳴き方もおんなじ。右足の先だけ白いのもおんなじ。こんな偶然もあるんだな」

 なー、とネーラに声をかけながら、その右足の肉球をふにふにと堪能させてもらう。ぷにぷにと柔らかいそこに、自然とおれの頬は緩んだ。
 おれは昔、ネーラそっくりの黒猫を飼っていたことがあった。元は野良猫で、満月の夜に拾ったから、ちょっとくさいけど月って意味のある、ルナという名前を母さんがつけたんだ。
 ずっとペットが欲しかったおれは大喜びして、よくルナにちょっかいをかけすぎて引っ掻かれたりしてた。でも、おれが寂しかったり悲しかったりすると黙って隣に座ってくれたり、普段触らせてくれない肉球をいじらせてくれたり、そんな素直じゃないルナが大好きだったんだ。
 父さんと母さんが死んだ時は、ルナはいつも傍にいてくれたっけ。それで、ずっと尻尾でぺしぺしとおれを叩くんだ。まるで元気出せよって言うみたいに。それに実際おれも元気をもらって、兄ちゃんが仕事で忙しい日でもひとりでも頑張れた。感謝してもしきれない、相手が猫といえども頭が上がらない存在だったんだ。
 そんなルナだったけど、父さんたちの三回忌の三日後に突然息を引き取った。
 うちに来てからまだ三年しか経ってなかったけど、その存在は本当に大きくて。その死を受け入れることができなかったわけじゃないけれど、両親がいなくなったときと同じぐらいに辛かった。
 ルナの死はあまりに突然で、お別れを言えてなかったから。だから今こうして、別の猫だとわかってても、ルナそっくりのネーラを見てるとついありがとうと言いたくなる。いっぱいいっぱい助けてくれて、ありがとうって。
 ネーラが現れる度に、おれと岳里はチェギを中断する。正確には、おれがネーラばかり構うようになるからだ。でも岳里は何も言わず、その時にはいつもおれとネーラを眺めていた。
 あんまりにもじっと岳里がおれたちを見つめるもんだから、てっきり岳里もネーラの肉球触りたいのかな、っと思ったんだ。だから一度ネーラを足を差し出してやったことがあったけれど、岳里は無言で距離を空けて拒絶した。
 たぶん、ネーラが怖いんだろうなあ。苦手だから、つい相手の行動をじっと見る……っていうのはあると思うんだ。なんていうか、自分に少しでも近づいてくるような素振りがあれば逃げだせるように。常に構えて。
 でも、何が怖いんだと岳里に聞けばいつも怖くないって返ってくる。確かに岳里の表情に猫が怖いだなんてのは浮かんでないけれど、なにせあの岳里だし、無表情で怯えててもおかしくない。
 ……怯えてる岳里なんて想像できないな。
 自分で自分の考えに内心で苦笑する。あの岳里に苦手なものがあるというのはなんだかしっくりこない。でも意外な岳里の弱点を、おれは密かに嬉しく思っていたりもした。ついに弱点を見つけた、っていう嬉しさじゃなくて、岳里の人間らしいところが見つかったからだ。
 あまりにも超人すぎる岳里には怖いものなんてないと思ってたけど、猫が怖いだなんて意外すぎてちょっとかわいいじゃないか。

「おれ、ちょっとトイレいってくる」

 ネーラが来て休憩してる今のうちに行ってしまおうと、おれは膝の上のネーラを毛布の上に置いて、ベッドから立ち上がった。
 本音を言えば、岳里とネーラだけになった時、帰ってきたらどんな状況が待っているか気になったっていうのなんだけど。勿論それは告げずに、おれは部屋を後にする。

「――おまえのおかげで随分な勘違いをされてしまったな、ネル」
「ふんっ」

 そんなふたりのやり取りがあるとも知らずに、おれは呑気にも想像のできない岳里の姿を曖昧に思い描いていた。

 

 

 

 おれが帰ってくると、そこにはネーラを抱っこした王さまがいた。岳里のベッドの傍らに立つ王さまは、おれと目が合うなりにこりと笑う。

「え、あっ……」

 あまりの予想外の展開に、おれはとりあえずこんにちは、なんて挨拶をして頭を下げた。
 それにくすくすと笑った王さまは、おれのところまで歩み寄ってくる。

「すまないが、こいつに用があってな。借りてゆく」

 こいつ、と言って王さまが指したのは、その腕に大人しく抱かれるネーラだった。
 構いません、とおれが言うと、王さまはすまないな、と繰りかえし、すぐに部屋から去って行く。
 おれはしばらく扉を見つめたまま、岳里のベッドに腰掛けた。

「ネーラ、王さまにも可愛がられてるんだな」

 そんな風に呟けば、何故だか岳里が溜め息を吐く。それが何を意味するかわからなくて、今は聞こえなかった振りをした。
 それにしても王さまはいったいネーラに何の用があるんだろう、と思いながらも、おれはチェギを再開するため盤に目を向ける。岳里も同じように、背けていた身体をおれと向かい合わせた。
 淡々と駒を動かしながら、王さまもネーラに癒されるんだろうかなんて考えてみる。あの柔らかい肉球は、王さますら虜にしてしまうぐらいに気持ちいいからな。
 うんうんと自分の組み立てた想像に頷いていれば、どこかむすっとした表情になった岳里が、爪で二度、盤面を叩く。促されるままにそこへ目を向けてみれば、おれの獅子が窮地に立たされているところだった。

「うわ、いつの間に……!」

 慌てて獅子を救い出す策を練っているうちに、王さまとネーラのことは頭の片隅へと飛ばされていた。

 

 


 自室へ着いたシュヴァルは、抱えていた猫をそっと下ろしてやった。彼女はするりと床に降り立つと、自分の毛並みを舐め整え出す。
 小さな舌を何度も出して毛を舐める姿に、シュヴァルは笑った。

「ネーラ、か。癖でネルと呼んでしまいそうだ」

 その言葉に、彼女はふん、と大きく鼻を鳴らす。それから、猫の姿から人間の姿へと形を変えた。薄青い光の粉を纏い、それが晴れた時にはすでに、機嫌良さげに笑顔を作るネルがそこにはいた。

「気をつけてくれよう。でもまあ、あいつも咄嗟によく名付けてくれたなあ。おかげで真司には気づかれねえで済んだあよう」

 あいつ、というのは、ネルをネーラと呼んだ兵士のことである。
 ネルは以前からよく猫の姿で徘徊していたため、城中でその存在を知らぬ者はまずいない。無論、あの兵士も黒猫の正体がネルだと気がついていた。だが、真司に抱えられた腕の中でネルが睨めば、その真意を汲み取りどうにかネルではないと誤魔化してくれたのだ。
 ネルという名前のネ、までは言いかけたため、ネーラ、とネルと似た名前になってしまったが、まあ上出来な方だろう。何より、真司が気づかなかったのならばそれでいい。そう、ネルはシュヴァルと毎夜行う互いの報告の際にも笑顔を浮かべていた。
 以後、ネルは皆からネーラを呼ばれるようになり、真司もネーラがただの猫だとしか思っていないようだ。

「真司には気づかれない、か。ではやはり岳里は気づいていたか」

 ネルの言葉にひっかかったシュヴァルがそう苦笑しながらも指摘すれば、ネルは先程までの明るい表情を一変し、ぷっくりと頬をふくらました。尖る唇は不満げだ。

「……一発で見抜かれたよう。今日なんて、おれの名前呼んできたしさあ」
「はは、だからそう不貞腐れているのか」

 ネルはふん、と鼻を鳴らしてシュヴァルから顔を逸らした。猫のときと同じ動作に、ますますシュヴァルの笑みは深くなるが、どうにか笑い声だけは耐える。声まであげればしばらく口を利いてもらえなくなってしまうからだ。
 ここは本来の目的へ話を向けたほうがいいと、改めて口を開く。

「ところで、ネル。真司たちの様子はどうだった?」
「――なあんも。チェギばっかやってらあ。真司は六番隊のことに気にしてるようだけどよう、どうやら心配してるみてえだあよ。そっちこそ隊長たちはどうだあ?」
「真司と特に仲がよくなったレードゥは顔を出せなくなり気にかけているな。コガネやヤマト、ミズキも気にしているようだ。アヴィルはやはり疑っているようだな。いつ行動してもおかしくないだろう」

 アヴィルの名が出た途端に、ネルの顔色が曇る。誰よりも真司と岳里の存在をよくないものだと発言しているのが彼だからだろう。ネル自身も、どうも熱くなりすぎる若い隊長を苦手としている節があり、それもあるのかもしれない。
 小さく呟くように、アヴィルの監視に自分が指揮を任されている十一番隊を使う、とネルは言った。
 十一番隊の主な仕事は、国王であるシュヴァルの警護と身の回りの世話である。だが諜報部隊とも影では言われ、情報収集もこなしており、密偵に優れている者も多いのだ。それで、アヴィルの行動を監視する、ということなのだろう。
 シュヴァルはそれに許可を出した。アヴィルが出過ぎたことをするとは決して思わなかったが、それでネルの気が済むのなら、という意図を持ってだ。それはネル自身も十分承知の上だろう。
 それから話はまた異世界の少年たちについてに戻る。彼らを見る周囲の目も、そろそろ抑えきれなくなっているとネルは苦い顔をした。
 早く二人のどちらかが“そう”であるのか見極めなければならない。わかっている。だがどうも上手くゆかないのだ。だから、少しでも二人についての情報を得るためにネルが猫の姿になり、ネーラとなり、直接的に二人の会話から手掛かりを探ろうと行動に出たわけだが、それもすんなりとはいかなかった。
 岳里がネーラの正体にすぐに気が付いてしまったからだ。真司はまったくと言っていいほど気づいてはおらずネーラを完全に猫として可愛がっているが、二人のうち片方でも気づいてしまえばこの作戦は失敗だ。

「岳里のやろうが警戒してえ、ぼろ出さねえよう。今んとこ見る限りぃ、真司はなあんも知しらねえだろうがあ、岳里は知ってるぜえ。なあんか隠してやがんよう」
「やはり、岳里は知っているか。前に問うた時もはぐらかされたからな」
「まったく、手ごわいやつだあよう。ぷんぷんにおうってのによう」

 はあ、と大きくわざとらしい溜め息をつくネルは、ぼんと身体を大きな寝台へ飛び込ませる。めんどいめんどいと繰り返し唸る姿はふざけているように見えるが、本当に苦戦してどうするべきか悩みあぐねいているのだろう。
 本来なら、岳里に正体を知られている以上、彼が何かをひた隠しているということ以上は他に情報を得ることは望めない。もうネルがネーラになる必要はないのだ。だが、ネルは単純に真司に可愛がってもらいたくてネーラとなるのだから、シュヴァルは猫になるなとは言えなかった。
 ごろごろと寝台の上を転げまわるネルの傍らに、シュヴァルも歩み寄り腰を下ろす。すると、動くのをやめた彼女はシュヴァルを見上げてきた。

「――ここ三日間、彼らを部屋に閉じ込めてしまったな。まだ忙しくはあるが、もう少ししたら手が空くだろう。そうしたら、彼らを連れて街へ気晴らしに行くといい。あの子たちの世界にないものは沢山あるだろうから、きっと喜ぶぞ」
「い、いいのかあ?」
「ああ。ただし他にも隊長を一人連れて行け。そうだな、レードゥ辺りがいいだろう。彼はよく逃げるために街へ出ているから、詳しいだろうし、何より真司たちと仲がいい」

 何から逃げているかといえば、無論ヴィルハートである。
 シュヴァルの言葉に、ネルは瞳を輝かし、横になった体制のまま抱きついてきた。腹に頬を押し付けるネルに、シュヴァルは妬けるな、ともらしながらも、その頭を撫でてやる。

「シュヴァルありがとうようっ! えへへ、真司も喜ぶでえ」

 無邪気に笑う姿にシュヴァルの呟きは届いてはいなかったようだ。幼い姿を顔いっぱいに浮かべるネルにやはり苦笑してしまう。
 真司がこの世界へ訪れてからというもの、ネルの意識はほとんどが彼に向かい、最善の結果を求め奮闘するその目にシュヴァルが映ることは極端に少なくなった。それでも夜は必ず自分を見てくれるのだし、事が事なだけにそれは仕方ないとは理解しているつもりだ。
 だが、こうも真司真司と連日に渡り夢中になられては、ネルの恋人として、おもしろくないわけで。
 だがわたしは大人なのだから耐えなければ、と心の中でぐるぐるとその言葉を繰り返し唱えるシュヴァルに、ネルは満面の笑みを浮かべた顔を上げ、えへへ、とご機嫌な声を上げる。

「お土産ちゃんと買ってきてやるからなあ、楽しみにしとけよう!」

 ――これで満足してしまうのだから、安いものだな。
 そうシュヴァルは笑顔を返しながら、惚れた弱みは恐ろしいと実感するのであった。

 

 


 夜になり、することもなくベッドに寝転がっていると、二度、扉がノックされた。
 はい、と返事をしながら、おれはいつものようにベッドから起きてそこを開けに向かう。岳里のほうが扉に近いんだけど、やつが動いたことはないからこうして離れているはずのおれが行動するわけだ。ましてや、岳里は返事すらしない。まあ別にそこまで大した距離じゃないから不満もないし、もう慣れたことだ。
 そろそろ風呂の時間だから、兵士の人かな?
 最近みんな忙しくなってきたからか、風呂までの送迎も隊長ではなく兵士の人の仕事になってた。むしろこれまで隊長っていう立場の人たちがそんなところの面倒までを見てたのが凄いんだろうけど。そんな風に考えながら扉を開けてみれば、そこにいたのはジィグンだった。よっ、と変わらずの笑顔を浮かべて片手をひらひらと揺らす。

「久しぶりだな」

 部屋に入ってもらい、互いに椅子に腰かけると、ベッドにいた岳里ものそのそと起きてきて同じく椅子に座った。
 ジィグンはおれたちを交互に見やって笑う。
 確か、ジィグンと前に会ったのは、岳里がヴィルに勝った日、だったはず。キッカールで流した汗を風呂に入って洗い流した後に、部屋へ送る役目をジィグンがしてたんだよな。そしてちょうどその日に、六番隊の人たちが城へ帰還したんだ。
 そう考えると、ジィグンと最後に会ったのは三日前になる。
 久しぶり、というほどの期間じゃないのは確かだ。でも、ジィグンのその言葉がおれには不思議と胸にしみる。
 ただでさえ知り合いが少なく、気軽に話せる相手も少ない今、ジィグンみたいな存在はおれを支えるひとつになっていることは十分理解してるつもりだ。だからこそ、そのたった三日が大きい。この三日間、おれが会話した相手は岳里ぐらいしかいないんだから。
 見張りや世話をしてくれる兵士の人たちとのやりとりは、まるで連絡事項を確認するようにきっちりして、そこに和やかな雰囲気は一切持ち込めない。おれたちが客として扱われているからか、その態度や言葉遣いもあまりにもかたくて、とてもじゃないけど雑談できるような感じでもない。
 唯一話せる岳里は岳里でほとんど語らず、大抵おればっかが喋ってそれに相槌うつぐらいで、丸々三日間という長い時間にさすがに会話のネタも尽きてた頃だったんだ。遊び道具はそれなりに揃ってても、やっぱり下らない話でも構わないから誰かと話しあいたいと思ったわけで。
 そんなタイミングで来て、こうして話してくれるジィグンに、言葉には出さないけれどおれはひどく感動していた。
 なんだか沢山喋りたい気分になってきたおれだけど、ふと思い出す。

「あの、六番隊の人って大丈夫なのか? もし忙しいなら、別におれたちは平気だから……」
「はは、大丈夫だよ。もう三日も経ったんだ。いい加減落ち着いてきたさ。だからおれもまたこうして顔出せるようになったしな。またちょくちょく来てやるよ」
「ありがとジィグン」
「おまえらは部屋から気楽に出れないし、退屈になることも多いだろうかなら。特に、折角いる同室者が岳里なんじゃなあ」

 ちらりとジィグンは視線を腕を組み話を聞く岳里へ向けると、けらけら笑って見せた。岳里はそれにじろりと視線を返してたけど、つられておれの顔もくしゃりと歪む。
 そうなんだよ、岳里のやつあんま会話の相手してくれないんだ、とジィグンへ訴えればやっぱりなと頷かれた。
 おれの言ったことに反応が返ってくる。それがますます嬉しくて、顔に浮かぶ笑みが深まっていくのがわかった。それに比例するように岳里の顔は何とも言えないような表情になっていく。けれど、ジィグンと会話を続けるおれは気づかなかった。
 会話の中心が岳里となり、おれとジィグンだけで話を進めてく。本人を目の前にして堂々と、どうて岳里はあんなにも愛想がないのか、なんて笑いあう。勿論冗談だ。ジィグンも便乗して、どうしたら笑顔にしてやれるだろうだなんて言い出した。
 くすぐればいいんじゃないのか、いいやそれは絶対効かない。
 面白いことを言えばいいんじゃないか、いいや笑いのツボはやつにない。
 ならみんなが笑えばつられるんじゃないか、確かにそれなら真司限定でならいけるかも。
 おれが案を出してはジィグンが否定するパターンで遊んでいたけど、最後のだけ何故か認められて、しかもおれ限定と出される。
 なんでそれだけいけるんだ、しかもおれ限定とか。

「それも無理じゃないか?」
「いやいや、わかんないぞ。試しにほら、岳里に向かって笑ってみろよ」

 首を傾げれば、ジィグンは岳里を示した。
 さっきから目の前で行われているやり取りを岳里が聞いていないわけがなく、いつもよりもむっとしたような顔を浮かべている。それまでジィグンを睨んでいた目が、ゆっくりとおれに向いた。

「……に、にこっ?」

 目が合い、数秒。おれは自分で声を上げながら、岳里に笑いかけてみた。おれと向かい合う位置に腰かけるジィグンが吹き出し、げらげらと腹を抱えて笑っているのがわかったが、肝心の岳里は笑わない。
 やっぱり、そうだよな……。
 自分の行動が馬鹿らしく思えて、言いだしたジィグンに文句を言おうと、おれが浮かべた笑顔を戻したその時。これまで不動に近かった岳里の口元がゆっくりと動く。

「あ」

 ほぼ同時に発せられたおれとジィグンの声が、今の目の前に浮かぶそれはおれの見間違いなんかじゃないというのを教える。
 岳里が、笑ったんだ。かなり無理をしてるのか、引きつらせるような、口の端を僅かに上げたくらいの小さなものだ。けれどあの岳里が笑ってる。
 唖然とそれを眺めたままのおれとは違い、ジィグンはまた転げまわる勢いで笑いだした。それと同時に、岳里の笑顔はすうっと消えていき、またいつもの仏頂面に戻ってしまう。

「岳里、おまえも笑えたんだな!」

 そんな失礼なことを言ってのけるジィグンを一睨みすると、岳里は小さく眉をひそめて席から立つ。そしてそのままベッドの方へ行くとそこへ横になり、いつものように頭からすっぽり毛布を被って隠れてしまった。
 はあはあと笑い過ぎて息を荒くするジィグンに、おれは自分のことを棚に上げつつ注意した。

「あんま岳里をからかうなよ」
「はは、悪い悪い。でもよ、やっぱりさすが真司だな、岳里のやつちゃんと笑ったじゃないか」
「結構無理矢理だったけどな……」

 そう言えば、またあの時の岳里を思い出したジィグンが笑いだす。余程ツボにはまったのか、えずく寸前まで爆笑していた。
 そんなジィグンを見つめながら、おれも同じようにさっきの岳里の表情を思い出す。
 岳里も案外ノリのいいやつだったようで、ああやって乗ってはくれたわけなんだけど。
 今までに何度か、岳里が自分から浮かべた笑みを見たことのあるおれにとっては少し残念に思えた。だって岳里の笑顔は、いつもおれに勇気をくれたから。確かにさっきのはちょっとおもしろかったけど、でもそんなここぞって時の岳里の笑った顔の威力を知ってる分、そう感じたのか。
 毛布をすっぽり被ってふて寝する岳里を見つめて、そんなことを思った。
 しばらくしてようやくジィグンの呼吸も整い、毛布という殻に引き籠ってしまった岳里をどうにかそこから出して、改めてジィグンが部屋に訪れた本題に入った。
 ぶすっと不機嫌を露わにする岳里を目にしても、またも笑い出しそうになったところをジィグンは堪えながら口を開ける。

「おまえら明後日、街に連れてってもらえるそうだぞ」
「……街?」

 何を言われるんだろうと思えば、聞こえてきた意外な言葉におれは思わず聞き返した。

「ああ。城の外、つっても目の前にあんだけどよ。特別に行ってきていいって王から許可が下りてな」
「城の、外……」
「気晴らしに、だとさ。ネル隊長とレードゥ隊長の同行っていう条件付きだが、あのお二人ならおまえらも仲がいいだろ? さっきも言った通り、今ままで城ん中は六番隊でちょっと慌ただしかったからな。おれもおまえらに構ってやる暇なかったし、それに外のことも気になるだろ? ちょうどいい時期だ、行ってみるといいぜ」

 行くだろ? と確認をとるジィグンに、おれは大きく頷いた。

「い、行く! 街か……おれたちの世界とどう違うんだろうな、岳里」

 瞬時に頭の中を駆ける想像に、堪らず岳里へ振り返った。
 さすがにコンビニみたいなところはないだろうけど、この世界には魔術ってのがあるし、その魔術が使われた玉みたいな道具も今まで沢山見てきてる。そんな風に、おれたちの世界じゃみれないものもあるんじゃないかと今からわくわくしていれば、冷静な岳里の声がおれをたしなめた。

「別に普通だった」
「……えぇー」

 非難の混じるおれの声に、岳里はすいっと目を逸らす。
 そういえば岳里は、初めてこの世界に来た時にいた森から、この城へ来る時に一度街へ通ったって前に言ってたっけ。
 おれはその時なんでだったか覚えていないけど、何故か気を失って、気づけば城の中にいたから街の様子を見ているわけもなくて。膨らんだ気持ちは簡単に穴を開けられしぼんでいった。
 でも待てよ、別に普通だったとは言うけど、そう言ったのは何せあの岳里だ。それなら普通とは、あてにならないんじゃないか?
 しぼんでいき小さく縮んでしまったそれが、穴が修復されてまた膨らみだす。むしろ、岳里の普通と思うものを想像していけばさらに大きなものに姿を変えた。
 やっぱり楽しみだ、と心の中で呟きながら自然と顔をほころばせていると、ジィグンが何か思いだしたように、やべ、と声をもらした。
 どうかしたのだろうと思い視線を向ければ、ジィグンは短い髪をがしがしと掻いてる。その顔はありありと、やってしまったと言わんばかりの後悔が浮かんでいた。

「この件をレードゥ隊長に報告し忘れてた」
「街に、レードゥも行くってことをか?」
「ああ。いや、まあそれについては言っておいたんだけどよ、詳しい時間について言い忘れてて――だああ! しまった!」

 さっきよりもさらに大きな声を発して頭を抱えたジィグンに、おれは思わずびくりと肩を揺らす。
 ぐうう、と唸るジィグンに、躊躇いながらも声をかけた。

「ど、どうかしたのか?」
「なあ、今日って満月だよな?」
「え?」

 今まで頭を抱え項垂れるように視線を落としていたジィグンが、困った表情をありありと浮かべる顔を上げる。けれどおれも突然の言葉に、同じように困って眉を垂らした。
 そんな時に頼りになる男、岳里が、あっさりとそれを解消させる。

「そうだ」

 その一言を告げて、岳里の視線が窓の外へ向く。つられておれもそこへ目を向ければ、まん丸い月がちょうど窓から覗ける場所で静かに存在していた。

「ああ、こりゃ明日の朝に言いにいいかねえと……」
「今日じゃ駄目なのか?」

 呟かれたジィグンの言葉に、おれは視線を前に戻し尋ねた。すると、ふう、と息を吐いたジィグンが首を横に振る。

「満月の夜には、レードゥ隊長に会えないんだよ」

 レードゥに会えない? 思わず首を傾げれば、それに気づいたジィグンが説明してくれる。
 ジィグンも詳しくは知らないそうなんだけど、なんでも昔からそうだったらしい。満月の夜には隊の仕事も一切何もせず、部屋にこもるそうなんだ。実際にその日にいくら部屋の扉を叩いても何の反応もないらしく、しかもこのことが入隊の要件でもあったらしい。
 そこで知ったのが、レードゥと、それと彼の幼馴染であるヴィルとコガネがいわゆるスカウトで騎士になったということだった。三人とも、満月の夜だけは仕事をしないという条件を確認して入隊したらしい。
 つまり、満月の夜にはレードゥとヴィルとコガネの三人に会えないってことだ。そのことについて、三人に直接尋ねるんじゃないぞ、と釘を刺される。

「おまえらももしその三人の誰かに用があっても、満月の夜には会えないから気をつけろよ」

 おれみたいになりたくなかったらな、と最後に囁かれるように告げられた言葉には、どこか重みがある。
 切なげに明日は早起きだと呟くジィグンを見ないようにしながら、おれは待ち遠しい明後日のことを思って、窓の外にを向けた。そこにはさっき見たばかりの満月が浮かんでいる。
 ほんのり輝いていたそこは、見つめていると雲に隠れてしまう。途切れた光に、ほんの少しだけ心がざわついた気がした。

 

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