湯を詰めた皮袋に布を巻き、その温度を掌を当てて確かめる。ほんのりと伝わる熱は僅かに熱いと思えるぐらいで、これでいいとセイミアは同じ形の皮袋をふたつ両腕に抱えた。じわりと皮袋の厚さにも、巻いた布にも負けずにそのぬくもりが届く。
 自身の診察室を兼ねた部屋へ戻り、さらにその奥にある天井から垂らした布で仕切られた場所へ足を進める。袋を抱えているために肩で布を裂いたセイミアは、その空間におかれたベッドへ横になる人物へそっと声をかけた。

「ネル、お湯を持ってきたよ。ちょっと、足元をめくるね」

 答えはないが、僅かに小さなネルの身体が身じろぐ。寝てはいないようだ。
 持ってきた片方をまずネルの腹のあたりに置き、足元の毛布をめくり晒されたネルの足に乗せる。それから一度は腹の近くに置いた袋を持ち直し、今度はその腹のあたりの毛布をめくりそこへ袋を滑りこませる。
 それからセイミアは近くに備えている椅子を引き寄せ、ベッドの傍らに腰かけた。
 ネルはいっこうに反応を見せず、頭を僅かに出すだけで顔は毛布にうずめたまま、動こうとはしない。
 いつも陽気な姿から一変し、今にも崩れてしまいそうな弱々しいその姿に、セイミアは堪らず手を伸ばした。
 毛布に隠れてはいるが、起伏する身体の輪郭から腰を見分けて、ぽんぽんと、刺激を与えないようにそっとそこを叩いた。

「大丈夫だよ、もうすぐ王さまが来るから」
「……ん」

 王の名を出したからか、ようやくネルは反応を示した。だが、それは静寂を乱すことがないほど小さな声で、辛そうで。
 これ以上は静かにしてやりたいとセイミアは思うが、しかしネルが反応した今のうちに確認しておかなければならないことがあり、苦い思いをしながらも口を開く。

「予定より早かったよね? 確か、少なくとも一週間は先だったはず」
「ん」
「それも、始まったのは今日じゃないでしょ」
「――昨日、きた」

 力なく呟くような声音ではあったが、それでも辛うじてと言った様子で返ってくる答えに安堵しながら、セイミアは小さく息をついた。

「なんで黙ってたの?」
「――……だって、街に行くって、真司たちと……」

 ぐず、と鼻をすする音が聞こえて、慌ててセイミアは少しばかりはみ出るネルの頭へ手を移して頭を撫でた。

「ごめんね、ネル。行きたかったんだね、どうしても。責めてるわけじゃないんだ」

 もう一度ごめんと声を出し、セイミアは震えの伝わる毛先を一撫でして手を離す。
 普段なら決して見せないこの姿を、ネルがこうも簡単に晒してしまうのには、やはり月経というものが大きいのだろう。
 ネルは男のように振舞うが、本当は女である。セイミアは治癒術師という立場上、ネルが女だということを知る数少ない人物の一人であった。
 女であるネルには月に一度ほど月経が訪れる。いくら男ばかりが住まう世界とは言え、医者としてセイミアもそのことついて知っているし、隊には少数であるが何人か女性はいる。彼女らのために勉強を怠ったことはない。
 彼女たちは月経前、月経最中、感情の起伏が大きくなることがあるのだが、中には特にひどくその症状を表す者がいる。ネルはそれだった。
 いつもは陽気な彼女だが、特に月経の訪れた始めに酷く精神が不安定になる。普段なら決してありえないのに、些細な一言で激高したり、泣きだしてしまったり。あまりにも脆く、簡単に崩れてしまうのだ。
 本人もそれを自覚しているため、本来なら月経の開始直前やはじまってからセイミアに自己申告するのだが、今回はそれがなかった。ネルが貧血で倒れ病室に運ばれてきて初めて、今回の月経がすでに始まったことを知ったのだ。それも、予定よりも一週間も早い。
 だがネルにも、言わなかった理由があった。それが、ついこの間突然異世界から迷い込んだという二人の少年との約束である。
 セイミアは昨日、嬉しそうにネルに話してもらった時を思い出す。
 喜びを隠そうともせず、彼女の主である国王から許可が下りて、真司たちと街に行ける、と報告してきたその時にはまだ月経は訪れていなかったのだろう。
 街に行く予定は明日へと迫っていた。あれほど楽しみにしていたのだから、月経が始まったことを隠してでも行きたい気持ちがわからないはわけでもない。だからネルもセイミアに報告せず、そのことを黙って行こうとしていたのだろう。
 だが結果として、血か足りなくなり貧血で倒れてしまった。そしてセイミアは気づいてしまった。気づいたからには、医師として、友人として、彼女を街に向かわせるわけにはいかない。
 知らず知らずのうちに表情をかたくするセイミアのもとへ、控えめなノックの音が届く。すぐに席を立ちそこへ向かい扉を開けると、小さな笑みを浮かべた王とまみえた。

「ネルを迎えにきた」
「どうぞ、こちらです」

 セイミアが手で示すまでもなく、国王は慣れた足取りで奥へと向かう。彼の後ろをセイミアはついていった。
 王は寝台の枕元まで足を進めると、腰を屈めて毛布をそっと持ち上げ、ネルの顔を覗きこむ。彼女の足元で歩みを止め、その様子を見守るセイミアにネルの顔は持ち上がった毛布に隠れ見えなかった。

「ネル、部屋に行こう」

 声をかけられて、ようやく傍らにまで訪れた存在に気付いたネルは、毛布から白く細い腕を伸ばして王の首に抱きつく。

「シュヴァル、ぅ――」

 涙に濡れ、切ない響きを含むネルの声に応え、国王は毛布ごとネルを抱き上げる。
 腹の近くに置かれていた皮袋はそのまま掬いあげられたようだが、足に乗っていたほうは寝台の上から転げ落ちた。

「すまないが、部屋まで持ってきてくれ」

 落ちた湯入りの袋に目を配らせた王は、ネルを刺激しないように、吐息のような声音でセイミアに告げる。

「はい、すぐに入れ直してお部屋へお伺いします。それと、増血剤と痛み止めもお持ちしますので、飲ませてください」
「ああ、わかった」

 それを最後に、王はネルを抱えたまま部屋を後にした。
 今までネルが使っていた寝台の上に敷いた麻の布を剥がして畳みながら、セイミアは小さな溜め息をつく。それは、最後まで意地を張る友人へ向けたものであった。
 決してどんなに弱っても他人に甘えようとしないネルだが、無防備なほど素直にああして手を伸ばせる唯一の相手がこの国の王であり、セイミアが忠誠を誓った者でもあるシュヴァルだ。だが、そんな唯一の相手にだけは晒したくない弱みというものもあるのだろう。
 こうして月経が来る度、ネルは病室に運び込まれることが多い。これまでに隊に所属する獣人と人間の女だけでなく、女が集まる、つまりは隔離されている区間バノン・ラーゲにも足を踏み入れたことのあるセイミアは、月経に苦しむ多くの姿を見てきたが、とりわけネルのものは酷かった。
 血の量も異常と言えてしまうほど流れ、今回もそれで貧血を起こし運びこまれてきたのだ。時にはその痛みにベットからも起き上がれず、嘔吐することもあった。頭痛も酷いらしく、寒気や下痢も見られる。
 男であるセイミアにその痛みを理解してやることはできないが、月経が訪れる度に、彼女は普段の面影も見せぬほどに弱ってしまう。それは肉体的苦痛もそうであろうが、何よりネルは精神的に苦しめられているのだ。
 病室に運び込まれる度に、セイミアだけにネルが吐く言葉がある。

『子が生せないのに、何故こんなものがくるんだ』

 その言葉を口にすればするほど、ネル自身が苦しむというのに、彼女はいつも悪夢にうなされるように呻き嘆いた。
 獣人の女も人間の女と同じように月経がある。基本的に身体の構造は似ているのだが、生きるために必要な絶対のものが違ったり、成長も老いもない獣人は、人間と確かに違いはある。そして決定的に違うものがあった。それが、子を生せるかどうかだ。
 人間の女は同じ人間の男との間に子を生す。しかし、獣人の女はたとえ相手が人間であろうが、同じ獣人であろうが、子を孕むことがないのだ。だが子宮は存在し、こうしてくるものもある。
 獣人の男も似たようなもので、精子はあるがそれも命が宿らぬものである。
 故に、人間と獣人の間だけでなく、獣人同士の間にも命が生まれることはない。獣人であるネルもまた、どんなに愛し合う相手がいたとしてもその間に子が産まれることはないのだ。
 それなのに必ず訪れる月経。ましてやネルは老いない獣人。朽ちぬ肉体がある限り、永遠に苦しみだけが続くのだ。

「――ネル」

 セイミアは、自分よりも小柄な彼女を思わずにはいられなかった。
 その苦しみに、ネルは耐え続けなければならない。倒れようが、嘔吐しようが、動けぬ鈍痛に苛まれようが、どうしようもできないのだ。
 もし、獣人だろうと子が生せるというのなら、彼女のこの苦しみも幾分和らいでいただろう。しかし、過去数千年をさかのぼっても獣人が身ごもった史実はないのが現実だ。決して、どんなに愛があろうとそれが命に姿を変わることはない。
 ネルは苦しんでいる。時にはセイミアにその苦しみを吐き出すが、彼女は常にひとりで戦っていた。
 愛しているからこそ、王に告げられない弱さ。
 優しきあの国王ならきっと、彼女のすべてを受け入れてくれるであろう。それをネルが気づかないわけがない。しかし、だからこ伝えられない言葉。
 これからもネルはひとりで抱えていくのだろう。そこへセイミアが手を差し伸べたとしても、彼女は笑うのだろう。

『おれぁ一人で大丈夫でえ』

 そう言い、簡単にセイミアに背を向け去ってしまうのだろう。
 それが途方もなく悲しいことだと、彼女は気がつかないのか。セイミアは一人になった部屋で、彼女を思って敷いていた麻の布を抱きしめ小さく呻いた。

 

 


 見慣れないその光景に、おれは人知れず瞳を輝かしていた。
 先を歩くレードゥは、大まかに指差した先の店を説明してくれる。

「あそこは武器屋、隣が防具屋。んであっちは宝石扱ってて、あそこは肉だな。丸々一匹の鳥の丸焼きを売りしてんだ。そんであそこは装飾品を売って、主に木彫りのものだっけな」
「へえ、あっ、レードゥあそこは?」
「ああ、あそこな。ほら、店先に乾燥された葉が並んでるだろ? 茶屋だ。その隣は似たようなものが並べてるけど薬とかになるやつだな」

 おれが指差した先に目を向けたレードゥは、簡単な説明をしてくれる。その隣に軒を連ねた店も同じ茶屋かと思ったけど、そこはどうやら違うみたいだ。
 それにもへえ、と声を上げて、おれはきょろきょろと辺りを見回した。すれ違う人たちは大抵がおれよりも背が高く、がっちりとした身体の人が多い。たぶんこれがこの世界の人の特徴なんだと思う。それに、頭の色も本当に様々で、せいぜい明るい色っていっても茶髪とかそこらへんで見慣れたおれには、ちょっと違和感のある光景だ。
 緑の人もいれば、金髪もいて、桃色も橙色の人もいる。やっぱりレードゥの赤髪はひと際目立っていたけど、それでも他にも目を奪われるような色は沢山あった。反対に黒い頭をした人はいなくて、似たので言えば濃い灰色とか、そこらへんぐらい。すれ違いざまにおれたちに注目する視線と目が合って、少し気まずい。けれど大抵は、この世界ではほんの少し背が低い扱いになるおれよりも岳里に向けられていた。岳里はこの世界の人たちと負けず劣らずの長身で、なおかつ顔もいい。それはこの世界にも通じるようで、時折口笛のようなものも聞こえた。道の端でささやかれる言葉にも黒髪、背の高い方っていう単語が聞こえてきて、まさしく岳里に注目が集まっていた。でも何よりも、レードゥが有名らしく、隊長が連れているのは誰だって声が多かったけど。
 そんな風に噂する声は、全部低いものだった。きゃっきゃっする可愛い女の子の声は、皆無。目に映るのは男、男、男……今のところ、全部男。時には綺麗な顔をした人もいたけど、それでもおれよりも背の高い男だった。
 むさい、と心の中で密かに思いながら、それは仕方のないことかと溜め息をつく。
 この世界にはなんでだか出生率が男女で大きく偏るそうだ。何でも男の方が多いらしく女の人はおれたちが今いるところから離れた土地に、まとめて暮らしているらしい。そもそもおれたちの世界は男女ほぼ同じ割合で産まれてくるから、その話は今までぴんときてなかった。城にずっといて、そこで会うのも男ばかりだけど、兵士騎士っていうイメージは大抵男だから気にならなかったというか。だけど、実際こう見渡す限り男っていう光景を目の当たりにして、ようやく実感が湧いてきた。そして、そういう世界だからこそむしろ同性愛が主流になっているということも。
 あちこちに目を配らせる度に視界へ飛び込んでくるのは、同じぐらいの背をした二人の男たちが手を繋いでいちゃいちゃしてたり、少しだけもう片方よりも背が低い、けれど男の腰に手を回しているのはやっぱり男だったり、そんなものがちらほらと映る。
 いくら多少はそのことについて理解はしてたとは言え、さすがにそこまであからさまなのがすぐに受け入れられるわけがない。嫌悪とかそんなものは感じないけど、ただ単にまだ慣れない。
 あえてそういう光景から目を逸らしながら、前に進みながらひとつひとつについて説明してくれるレードゥの後を追いかけた。
 それなりに多い人ごみでおれは多少埋もれるからか、目の前に突然現れた人にぶつかりそうになると、ぐいっと腕を引かれる。

「気をつけろ」
「あんがと」

 言わずともそれは岳里で、小さな注意をするとすぐにおれの腕を離す。前を向いた岳里に、おれの声が届いたかはわからなかった。
 おれたちが今歩いている場所は、城の正門を抜け、そこの目の前に存在する長い階段を下りた先から一直線街の出口まで伸びた城下大通りと呼ばれる道だ。真っ直ぐなこの広い通りは、店が脇をかためている。だからここを通れば大抵のものは揃ってしまうとレードゥは教えてくれていた。なので常に人で賑わっているそうなんだ。
 昼間は店が軒を連ねて商売をするが、夜になればその中の多くの飲食店がその姿を酒屋に変え、今とはまた違った騒がしさが味わえるのだともレードゥは笑った。
 男ばっかりだと豪快そうだな、なんておれが思っていると、レードゥが足を止めて振り返る。

「なあ、喉乾いたろ」
「ん、ちょっと」

 岳里は反応を見せなかったけど、おれは素直に頷いた。
 一直線といえども、ふらふらあちこち見まわったりしているし、何より街の出口まで続いていることもあって、道は相当長い。
 高い位置にある城の、階段の上からこの町の光景を見たけど、そこはおれが想像していたよりもはるかに広かった。
 城の手前で、街はおおよそ四角く建てられた塀に覆われその中で建物を密集させて存在してたんだ。城から一番奥、つまりは街の入り口の場所は、あまりに小さくて、辛うじて確認できるぐらいだ。そこまでの距離は一キロ二キロよりもうんと長い。塀の外にはいわゆる大自然が広がっていたわけだけど、それもまた広大だった。道として整備されているのか、草が覗かれたんだろう茶色く禿げた道が、街の出口辺りから五本それぞれ遠くへと伸びていたけど、すぐにそれは森に入ったり、遠くに行きすぎて目が追いつかなくなったりと見えなくなる。
 さらに奥の方には湖らしきものが見えた。
 どこもかしこも見覚えがない。見慣れない。まさしくここは異世界だ。
 あの時の言いようのない衝撃を思い出し、自然な喉の渇きとはまた別の、感覚が、きゅっと喉が鳴る。
 おれの答えを聞いたレードゥは、ならちょっと休憩だな、と笑った。

「こっち来てみろよ」

 先を行くレードゥが手招きをしながら、おれたちを呼んだ。
 それに従って後を追いかけると、一軒の店先にレードゥは腕をかけ寄りかかっていた。大通り側用なのか、露店のようになっている店の奥には沢山のこの世界の果物が見える。その中にはちらほらと実際にそれに触れて吟味する人がいるから、店の中でも普通に入れて商売をしてるようだ。
 それから特別待ったと思わせることなく、店の奥からひとりの老人が出てきた。けど、老人とは言うが頭にねじねじした手ぬぐいを巻き、腕を肩口まで捲くり露出していて、何より筋肉が隆々としている。その身体だけ見たら、どうもおれよりも頼もしいと思えた。頭全体が白髪で、口元のひげまで白くしたおじいさんが、愛想のいい笑顔を浮かべてレードゥのもとへ向かう。

「おう、レードゥじゃねえか、お務めはどうしたんで?」
「ばあか、今日は休みだっての。それよりもバラナンの実でみっつ、作ってくれ」
「みっつ? ああ、あの餓鬼どもが連れか。随分珍しい頭してるじゃねえの」

 遠慮なしに向けられた、恐らく店主であろう人のその目線に、おれは堪らず逃げ出したくなる。せめて、岳里の影に……なんて情けなく考えていると、すぐにレードゥが助けてくれた。

「うっせ。とっとと作れっての。ほら、他の客も待ってんぞ」

 言葉とともに指差された先を、店主の人と一緒に辿れば、左端にいるレードゥとは反対の右端に、苦笑する茶髪の男がいた。
 店主はすぐに悪いな、とふたりに手を上げて、店の奥に消えていく。それを見送って、レードゥが振り返った。

「悪いな。街の連中はみんないいやつだから、そう心配しなくていい」

 おれの気持ちが顔に出てたんだろうか、レードゥはそう言いながら苦笑をする。けれどすぐに真剣な眼差しへと姿を変え、今いる場所から、おれと岳里が突っ立っている場所までさっと身を移した。
 そして、おれたちだけに聞こえるような声で囁く。

「けど、治安がいいわけでもない。今日はおれしかいないから、おまえらが気をつけてくれ」

 ぱっと身を離したレードゥは、返事も聞かずに確認もとらずにさっさとおれたちと離れてもといた場所に戻ってしまった。店主が、手に何かを持って奥から来ようとしているのが目に入る。
 おれは、ただレードゥの言葉にかたまるしかなかった。吃驚、というよりは、なんだか足元から冷たいものに浸されていく、そんな不安を感じたんだ。
 本当は、今日はレードゥだけじゃなくて、ネルも一緒に街へ来るはずだった。けれど、今日は一緒に行けないと直前になって言われたんだ。何でも体調が悪いらしくて、迷惑をかけるといけないからって。
 その代わりにお土産でも買ってきてやってくれ、とわざわざそれを伝えに来てくれた王さまは笑んだ。その時一緒におこずかいだと渡されたお金を受け取りながらも、やっぱりネルを心配したものだ。
 ジィグンからはネルがはりきっていたと聞いてただけに、落ち込んでるんじゃないかって。でも、そんな風にしか考えてなかった。体調は大丈夫なのかとか、残念だって。でもきっと、レードゥがそれを聞かされて思ったのはそんなことじゃなかったんだ。
 単におれは二人と行けるのかと楽しみにしてただけだけれど、よくよく考えてみれば二人は隊長だ。あんまり気軽に仲良くしてくれるから忘れてしまいがちだけど、偉いだけじゃなくて強い人たちなんだ。
 さっきのレードゥの言葉を心の中で反芻する。

『おれしかいないから、おまえらが気をつけてくれ』

 その言葉から思うに、隊長二人が同行するっていうのはつまり、街案内、監視だけじゃなくておれたちの護衛みたいな意味も兼ねてるんじゃないだろうか。
 おれはまだまだ、この世界についてほとんど知らない。ましてや街の治安状況なんてわからないわけで、含みを持つレードゥの言葉に青くならずにいられなかった。

「――レードゥはあえておれたちに警戒させて、身を引き締めさせているだけだ」
「え?」

 急に町が恐ろしいものに思えたおれに、隣で城から出てからずっと沈黙を貫いていた岳里が口を開いた。
 思わず岳里の顔に振り返り見上げると、向こうもおれを見ていたようで、目が合う。

「王の膝元がそう犯罪にまみれた街であるわけがない。だが、かといってないわけでもない。不測の事態に備え、おれたちに直接釘を刺しただけのことだ。そう構えずとも、油断さえしなければいい」
「ほんとか?」
「あくまでおれの見解だがな」

 そこまでを話して、ふい、と逸らされた顔。けれどその声は最後まで、おれにどこか優しげにかけられる。
 よくよく考えてみれば、ここは城のすぐ下にある街なんだ。おれは政治だとか、そういったものはからきしわからないけど、でも王さまが立派にこの国を治めていることは、なんとなくわかる。前にも執務室って呼ばれる部屋に行った時に、橋のことについて怒鳴っていた王さまを見ていただけに、きっとちゃんとこの街にも目を向けてるはずだ。それに岳里の言う通り、この街は王さまの目下で、そこで犯罪が溢れんばかりにあるとは考え似づらかった。でも、犯罪がまったくないってことはありえない。
 レードゥしか今日は傍にいなくて、もしかしたら手の回らない時もあるかもしれない。だからおれたちの不安を煽るようなことを言って緊張感を持たせた。そう、岳里は考えてるらしい。その言葉はすんなりと、おれの胸の中に収まっていった。
 がちがちに張った身体から、少しずつ、かたまりが取れていく。でも油断するなと言った岳里の言葉を忘れたわけじゃないから、多少表情はかたいままだ。
 それでも余分に緊張した身体が解れ、おれは一息ついた。きっと、岳里にレードゥの真意を聞かないままでいたら、この後はずっと周りを怖がって楽しめなかったと思う。
 だから、教えてくれてありがとうと感謝を口にしようと一度は下げた顔をもう一度上げると、先に岳里が声を出していた。

「もし、何かあったらおれを強く思え。声に出そうが、心でだろうがどちらでも構わない。おれの名を呼べ」
「岳里、を?」
「ああ、必ずだ。必ず、おれを呼べ」

 相変わらず射抜くような強い眼差しから、おれは目が逸らせない。
 落ち着きを持ちながらも強固な何かを滲ませる言葉は、沁みるようにおれの耳から入っていって、気づけば無意識に頷いていた。それを見届けた岳里は僅かに目を細め、薄く口を開く。そして何かを告げようとしたその時、視界の脇に鮮やかな色が紛れこんだ。

「……何見つめあってんだ?」

 声に振り返れば、そこには腕に木の杯をみっつ抱えたレードゥが、不思議そうにおれたちを見つめていた。

「えっ!? い、いや、別に見つめあってなんか……!」

 レードゥの言葉に、おれは慌てて岳里から距離をとる。それにさらに、レードゥは不思議そうな顔をした。

「そこまで否定しなくてもいいだろうがよ。ああもう、お蔭で岳里の視線が……」

 苦笑するレードゥに、なんのことだろうとおれはちらりと少し距離の空いた岳里に目を向けてみた。そこには、レードゥをじっと見つめながらもいつもの岳里しかいない。さっきの真剣な眼差しをしていた姿も消えて、いつもの何考えてるかわからない岳里だ。
 おれは内心で、そっと胸を撫で下ろす。なんでかわからないけど――さっきの岳里が、少し悲しそうに見えたから、またいつもの岳里に戻って安心したんだ。
 おれを呼べ、っていうその姿が、その目が、揺らいでいた気がした。その言葉と声は力強いものだったのに、でも瞳が何かを訴えるかのようだった。
 よくわからない、わからないんだけど――でも、そんな岳里を見たくないと思ったんだ。岳里は格好よくなきゃとか、そんな下らない理想の話じゃない。ただそう感じたんだ。

 

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