第5章

 

 ――選択の時を迎えた、この世界。使命を与えられし人々にこの本を綴ろう。
 この本には特別な魔術をかけている。おそらく、この本を手にしたあなたは何かしらの役割を神から与えられているだろう。
 あなたは光降らす者か、それとも闇齎らす者か。もしくはおれと同じ、選択者か。
 いずれにせよ、役割を持つあなたの導きになるべくして、この本を後世に残すことにした。だが、秩序を守るべく詳細は記していない。あくまでおれに起きたことや、考えをまとめたものにすぎないから、答えを求めていたとしてもこの本はそれを出すことはできない。
 選択の時は、その時の世界の状況によって大きく道が分かれる。自分の役割を嘆くかもしれない。悩むかもしれない。苦しむかもしれない。だがこの世界のため、与えられしものと向き合ってほしい。
 ――おれは選択者だった。背負うものの重みにつぶされそうになり、苦悩する日々が続いた。だが、おれは自身が下した選択には後悔していない。この本を書き終えたら、この世界に対するおれの選んだ答えを、周りのみんなに告げる。その時、みんながどういう思いを抱き、どういう視線をおれに寄越すのかはわからない。
 今あなたが読んでいる時代では、おれの選択の結果が表れていることと思う。そこが、みんなが幸せに暮らしている世界であることを、おれは望む。

 

 

 そこまで読み終え、次のページをめくると、丸々一枚紙が破かれていた。

「……誰だ、こんなことしたやつ」

 本に対してなんて扱いをしてるんだと憤りを感じながら、おれは早くも本を閉じる。
 ベッドにうつぶせに寝転がしていた身体を反転させて仰向けになり、そのまま腕を伸ばして枕元に本を置く。
 そのまままたごろりと横になり、視界に入った本にまた手を伸ばし、適当なところを開いてみた。ちょうど本の中ほどだ。

 

 

 この世界に来てからというもの、互いに忙しく、あいつと話す機会がめっきりと減ってしまった。
 あいつは、何か急くように剣の修行に明け暮れる日々だ。この世界に来てからあいつはどうやら身体が変化し、異常なまでに身体能力が上がった。はじめのうちはそのことに興奮し、身体を動かすことに夢中になってると思ったけど、どうも違うようだ。
 でもおれはそのことについて深くは考えず、そのうち落ち着いて話せる時が来るだろうと思っていた。けれどおれが単純に思っているほどあいつは浅くなかった。
 おそらく、このあとに起こる出来事を、夢で知ってたんだろう。あいつの力は、“予知夢”なのだから。それなのにおれに何も言わず、自分ひとりで解決しようとしていた。――いや、おれだけは決して巻き込みたくないだなんて、身勝手なことを考えていたんだ。
 あなたの周りに、もしくはすぐ隣に、この大馬鹿者と同じ人が――――

 

 

 文の途中で、おれまたぺらぺらとめくり、今度は後半に近づいてきたあたりの場所に目を通す。

 

 

 選択さえすれば、おれたちは元の世界へ戻れる。それは嬉しいし、帰りたい気持ちは強いけれど、でもそれ以上に言いようのない苦い気持ちがあった。
 おれは果たして、こんな結末を選んでおきながら、あいつと一緒に帰っていいんだろうか? もとの世界で、もとのように平和に暮らし、それでいいんだろうか。
 おれはどうするべきなのか。こんなこと誰にも聞けず、あいつにも相談できず、こうして文として綴ることばかりしかできない。
 そうしている間にも日々は過ぎていき、王さまからも選択を迫られた。その本心が何を願っているか知らないわけがないが、おれはそれに応えられない。それを告げることが怖いと思うのは、おれが弱いからなのだろうか。
 あいつがもし、おれの立場だったら、どうしたんだろうか。そればかりを考える。なんでおれがこの役割を担い、なんであいつがあの役目を与えられたのか。そこにどういった基準があったのか。それを、おれたちに使命を与えた本人に問うてみたいが、それは叶わないのだろう。
 今あの人は、持てる力のすべてを持って、封印にあたっている。その封印が確かなものになるまではあの場から離れることはできないらしい。
 何故おれなのか。どうしておれだったのか。その答えは誰もくれない。わからないのに、おれは選ばなくちゃいけないんだ。
 たとえそれが望まれない結末を導くものだとしても、おれはそれを

 

 

 ――そこまで読んで、おれは結局本を閉じた。それを手に取り、ベッドの脇に備え付けられている机にそっと置き、ようやく視界から本を外す。
 けれどもその存在が気になって仕方ない。見えなくても記憶の中で本がちらついて、またすぐにでも手を伸ばしたくなるのをどうにか堪える。
 落ち着かないそわそわとした心のまま、目を閉じた。
 視界からの情報がなくなった頭をめぐるのは、やっぱりさっき読んだ本の内容で。
 おれは情けないほどに狼狽えている自分にどう対処するべきかもわからず、ただ重たい溜息をつく。
 そうして目を開け、また視線を本に向けては手を伸ばしかけて、やっぱりやめてを繰り返して。結局、本を自分の顔のすぐ傍らに置くことで今は落ち着いた。
 表紙に手を置きながら、目の前にあるそれをじっと見る。
 まだ冒頭部ぐらいしかちゃんと読んでないから、この本についても、著者についても詳しいことはわからない。だけどもしかしたらこの本は、この本を書いた人は――

「異世界の、人間……」

 この世界ディザイアの人間じゃない、言うなればおれたちと同じく別の世界から訪れた人、なんだろうか。
 ぱらぱらと読んだ中にもそれらしい記述があって、特に最後に読んだ部分には、“元の世界へ戻れる”、なんて書かれていた。元の世界に戻るとはつまり、そういうことだろう。
 よくわからないけど、たぶんおれと岳里と同じようにこの世界に来たこの本の著者ハートは、“選択者”って役割を担っていたらしい。それでこの本は、ハートがディザイアに来てから――たぶん、帰るまで。まだ最後は読んでないけど、その文章中によく出てくる選択とやらをして、もとの世界に帰るまでが書かれているんだと思う。
 そして、おそらく。ハートと同じようにもう一人、同じ世界から来た人がいるみたいだ。その人の名前が出た部分はまだ読んでないから、あいつ、と表記されてるその人の名前はわからない。でもその人はどうやら岳里と似たような立場に立っているようだった。
 さっき読んだ部分で、ちょうど今の岳里に重なる箇所があった。“剣の修行に明け暮れる日々”――まだ岳里は習い始めて三日しか経ってないけど、無茶な練習の仕方をしてる。このままいけば、明け暮れると表現してもおかしくない状況になるのは目に見えていた。
 ――もし、この本が作りものなんかじゃないのなら。ここには、元の世界に帰る方法が記されているのかもしれない。
 そんな期待が、どうしても膨れる。でももし書かれていなかったり、これが単なる創造され書かれたものだったりしたら。その時の落胆を考えると、どうしてもじっくりと読もうとは思えなくなる。
 気になるし、一体何があってどうなって、ハートが元の世界に帰ったのかを知りたい。おれだって帰りたいから。でも、それでもどうしても、読みたいと思う以上に恐れを感じる。
 もしも、結局帰れなかった、だなんて書いてあったりしたら――
 懐かしい家の中で、おれの帰りを待つ兄ちゃんの姿が浮かび、堪らず唇を噛みしめた。
 帰らなくちゃいけない。待ってくれてる人がいるから。岳里だって、待たせてる大切な人がいる。だから――

「“選択さえすれば”、か……」

 ハートが本に書いていた一文を思い出し、おれは思わずそれを口にする。
“選択さえすれば、おれたちは元の世界へ戻れる。”
 そう、書かれていた。
 本の中によく出てきた、“選択”。ハートはその選択を任されていたから、“選択者”なんて呼ばれてるのか? ならそれは、なんの選択なんだろう。
 無い知恵振り絞ったとしても、その答えは出ない。じっと赤い本を見つめながら、おれはただ岳里の帰りを待った。
 岳里はいつも通り練習を終えてから、部屋に戻ってきて顔を出した後、風呂に向かった。その帰りをじっと待ちながら、おれは悶々とした気持ちが晴れないままずっと本を眺める。
 多分岳里なら、この本を表情も変えず読むんだろうな。おれみたいに、変に戸惑いもせずに。おれはあまりにも突然に現れた、帰る方法が載っているかもしれない本をどうすればいいのか、よくわからないでいる。
 本は読むものだ。だから読めばいいだけの話なんだろうけど、でもそれができない。

「……わっかんねえ」

 何度目かになる深い溜息をついて、シーツを軽く握る。それをぱっと手放して、ごろごろ転がり、落ち着かない気持ちを身体で表現するように、何かしら動いてしまう。
 そもそも、ハートっていうのは誰なんだろう。外国の人なのかな。いつこの世界に来たんだろう。それに王さまって、たぶんシュヴァルさまのことじゃないよな。だって王さまはおれたちの存在――異世界の人間だっていうことはすんなり受け入れてくれたけど、もし前例があったならそれを口に出すはずだ。
 仰向けにごろりと横になり、天井で淡く輝く光玉を見つめる。はじめの頃は薄暗いと思っていた明度だけど、今ではすっかり目に馴染んだ。
 なんでも明るさを控えめにしてる理由は、この世界の人たちの瞳に関係してるらしい。色素が薄く光を通しやすいから、眩しく感じやすいらしい。おれの瞳は真っ黒で反対に光の明るさが薄まって見えるから、薄暗く感じるんだろうと岳里が教えてくれた。
 物事には必ず理由があるって、岳里は言いながらそれをおれに教えた。ならこの本が存在する理由も存在していて、何かを伝えるために残されているのか。
 おれみたいなやつが簡単に書庫で見つけられるようなこの本。その内容は、その時代の王さまと話ができるような人で、おれたちと同じ異世界の人かもしれない人が書いていて、それだけでも十分大切なものに思える。
 ――王さまはこの本を、知らなかったのか? 前にも異世界から人がいるって、本当に知らなかった?
 まだろくに本の中身も知らないのに、ここに書かれていることが本当かもわからないし、ハートが異世界の人間じゃないかもしれないのに、おれの考えはどんどん沈んでいく。疑問が、渦巻いていく。
 頭を過るのは、本の冒頭に記されていた、三つの役割。
 “光降らす者”。
 “闇齎らす者”。
 そして、ハートが担っていた“選択者”。
 漫画やゲームでトリップした主人公は、何かしら理由が存在してその世界に呼ばれたことが定番だ。なら、もしかしたらおれにも、ハートのように役割があるのか?
 それを考えると、なぜか怖かった。わからないけど寒気がした。
 自分だけができることがあるかもしれないんだから、きらきらした気持ちが膨れ上がってもいいのに。それなのに言いしれない不安が胸に広がっていく。
 これまでのみんなの優しさが、その真意が――そこまで考えて、ぎゅっと拳を握った。

「……岳里」

 右手の甲を額に当て、左手は腹の上に乗せて、ぼうっと光玉を眺めたまま名前を呼ぶ。
 岳里はここにいない。だから返事をする声もない。それでもおれはもう一度、岳里の名前をぽつりと呟く。すると不思議と、胸に広まっていった暗い気持ちが収まっていった。消えるわけじゃないけど、でもこれ以上苦しむ必要はなくなるくらいに。
 ――あの出来事以降、今まで以上に岳里が傍にいないことが不安に思う時がある。でも岳里だっておれの傍に片時も離れずいられるわけじゃないし、もう剣も習い始めて、隣にいない時の方が多い。
 そうやって岳里がいないと、漠然とした不安を思うことがある。どうすればいいのかわけがわからなくなる。心細くて、意味もなくあたりを見回したりして、落ち着けなくて。
 そんな時、岳里の名前を呼ぶと、少しその気持ちが和らいだ。もとから岳里な無口なやつだから、その気配が少しでも感じることができれば、そこに岳里がいるような気がするからだと思う。
 目を閉じ、もう一度だけと自分に言い聞かせながら口を開ける。

「がくり」

 おれは赤い本に背を向け、身体を丸めた。

「――なんだ」
「っ、うわああっ!?」

 はあ、とまた溜息をつきそうになったところで、ここにいないはずの人物の声が返事をして、おれは吃驚して飛び起きた。
 ばくばくと心臓を高鳴らせながらきょろきょろと周りを見れば、そこには風呂上りの姿をした岳里が、ベッドの傍らに立っておれを見下ろしている。よく髪を拭いていないようで、ぽたぽたと毛先からしずくが垂れていた。

「がっ、岳里!」
「……だから、なんだ」

 非難を混ぜた声を上げれば、岳里はわからない、と言うように、小さく眉を寄せる。
 岳里にしてみれば、本人が帰ってきたのにも気づかずおれが名前を呼んだだけで、それに返事をしただけで。おれに責められる道理は一切ない。明らかに、いつの間に部屋に帰ってきたんだよ、なんておれに責める権利はないわけで。

「……ごめん、何でもない」

 素直に謝りながらも、行き場のない羞恥に、岳里の目は見れなかった。
 本当に、いったいいつの間に帰ってきたんだよ。
 さっきとはまったく別の悩みに溜息を吐きそうになりながら、おれはその場に胡坐を掻いて、岳里が立つほうへ身体を向ける。
 改めて岳里を見上げて、ぽんぽんと、手前にあるベッドの端を叩いた。
 おれの意図がわからない、とでも言いたげに若干右眉を上げた岳里に、声に出して教えてやる。

「ほら、そんなびしゃびしゃじゃ風邪ひくだろ。拭いてやるから」

 岳里は何も言わず、身体を反転させながらおれに背を向けそこに座った。おれは岳里の肩に下げられていたタオルを手に取って、それを目の前の頭に被せてやる。

「まったく、なんであの水分吸収する玉使わなかったんだ? 乾かすより楽なのに」

 わしゃわしゃと、頭を掻くように髪を拭いてやりながら、岳里に声もかけるも、返事がない。
 手を止め顔を横から覗き込んでみると、俯きがちになりながら目を閉じていた。

「岳里?」

 名前を呼ぶと、薄らと開く岳里の目。何度か瞬いてから、もう一度そこは見えなくなる。

「続けてくれ」

 ただそう一言呟くように言って、岳里は口を閉ざす。
 おれはその言葉に従って、黙って岳里の頭をがしがしと拭いてやった。途中、腕を伸ばすのが疲れて、膝立ちに体制を変える。でもその頃には、しっかりと髪が含んでいた水分は布に移っていて、これ以上拭こうとしてももう大して変化はなさそうだ。
 岳里の頭からタオルをとって、それをベッドの上に置く。それからまた手を伸ばして、肩を揉んでやる。
 岳里は何も言わずそれを受け入れたから、おれも黙って続けた。時々うなじあたりに親指を押し付けるように強く圧をかけたり、肩をぐるぐると親指で小さな弧を描くようにしたり。中にぎゅうぎゅうに何かが詰まったようにかたく頑固に凝っているその肩を、なるべく力を込めて、時には叩いたりして、解れるようにと手を動かす。
 そうしてしばらくして、岳里がのっそりと動き出した。おれが手を退かすと立ち上がって、向かいにある岳里が使っているベッドへおれのほうを向くように腰かける。

「もういいのか?」
「――ああ、助かった」
「あれぐらいしかできないけど、いつでもやってやるから」

 おれは思わず頬を緩ましながら、そう言葉を返した。
 岳里が、どれくらい稽古をしてるかわからない。どれくらい、疲れをためてるのかもわからない。そんな中でおれが岳里にしてやれることは限られてる。しかもそれはささやかなもので、大して岳里のためになるとも言えないものばかりだ。
 それでも、少しでも役に立てるのなら、それをやらないわけにいかない。できることが少ないとしても、あんまり効果を成さないとしても。岳里のためにやることが、一番大切なことだと思うから。

「あ、そういえばさ、岳里」

 おれはふとあることを思いだして、腰をひねって後ろに振り返り、すぐに目に入ったそれを手に取った。

「この本、なんだけど……」

 身体を前に戻して、それを見せる。その瞬間、岳里はどこか微睡んでいるような顔をさっと変え、視線を鋭くした。
 立ち上がると、一気におれとの距離を詰め、本を奪うように取り上げられる。

「この本をどこで」
「え……あの、ライミィから宿題出されて、書庫で読めそうな本を探せって言われて、そこで」
「読んだのか」
「――あ、ちょっと、だけ。はじめの部分と、あとところどころ軽く目を通した、だけ、だけど……」

 視線と同じようにどこか尖ったその声音に、おれは戸惑いからか、すぐには答えが頭に浮かばなかった。それでもどうにか出てきた言葉をつっかえつっかえ伝えると、岳里は手にした本へ視線を向ける。適当な場所で割って、中を読みはじめた。
 しばらく岳里はそこを眺めてから、薄く口を開く。

「内容は、理解できたか」
「あん、まり。なんか役割とかそんなこと言ってたけどわかんなかった。――なあ岳里、その本書いた人って、もしかしておれたちと同じいせ」

 異世界の人かもしれない、という言葉は、ぱんっと本が荒々しく閉じられる音によって阻まれ、途切れた。
 おれはその音に思わず肩を揺らし、息を飲む。恐る恐る岳里を見上げてみれば、変わらず口を閉じたまま、視線も赤い本から逸らさない。

「――王のもとへ行ってくる」

 岳里は本を手にしたままおれと目を合わせることもなく、くるりと身体の向きを変え、扉へ足を進める。
 慌てて、すぐにでも出て行ってしまいそうな背中に声をかけた。

「い、今から?」
「ああ」
「でも、夕飯もそろそろくるし」
「先に食べていろ。すぐに戻ってくる」

 まるで早く話を切り上げたいように、短く返ってくる言葉に、おれはそれ以上何も言えなかった。
 取っ手に手をかけ扉を開けると、岳里は足音もなく部屋から出て行く。最後に一度だけおれに視線を寄越したけど、すぐにしまった扉がそれを遮った。
 部屋に残されたおれはただただ突然の岳里の変わりように驚き、戸惑い、ベッドに胡坐を掻いたまま動けなかった。
 どうしたんだ、岳里は。どうして急に、あんな。
 岳里が姿を消した扉を眺めながら、一度は消えたはずの不安のような暗い気持ちがまた、胸の中に急速に広まっていく。
 あの赤い本を、岳里は知ってるようだった。あの本を見て、顔色を変えた。あの、岳里が。
 赤い本。あれが、なんだっていうんだ。
 不意に、扉が叩かれる。おれは心の中に言いしれない何かを残したまま、返事をした。
 控えめに開いた扉から顔を出したのはユユさんだ。

「あの、お食事の用意ができましたが、まだお持ちしないほうがよろしいでしょうか?」

 おれとはまた違った戸惑いを持ったユユさんが、顔にそれを浮かべながら伺いを立てるように、声を出す。

「いえ、大丈夫……岳里の分も一緒に、運んでください」

 ユユさんは、わかりました、と応えて、すぐに扉を閉めて姿を消す。
 おれは岳里が唯一残していった、水分を吸って湿ったタオルを手に取って、それをぎゅっと握った。
 しばらくしてユユさんが運んでくれた料理がテーブルに並び、今はいない岳里のところにもいつものようにきれいに並び揃えられる。

「それでは、ごゆっくりとお召し上がりください」

 一仕事を終えたユユさんはすぐに部屋を去り、またおれだけが取り残された。
 心は晴れないまま、今日は和食だとぼやりと眺めながら置かれた箸を手に取る。

「――いただきます」

 一番始めに手にした味噌汁を口に含むも、ついちびちびと飲んでしまう。
 この世界に来てから初めての一人飯に、どんどん気持ちは沈んでいった。
 不意に視界に入ったのは、もはや茶碗でなくどんぶりという大きさになった岳里のご飯を盛った器だ。あいかわらずでかいな、と、それを見ているうちになんとなく、心が深くまで向かっていた動きが止まった気がした。
 剣を始めてからさらに食べる量が増し、それにあわせて岳里の分の飯は量が足された。もう、三人前ぐらいになるんじゃないかな。だから器も大きく変えたわけだけど、それでもぺろりと平気な顔して平らげるあたり、やっぱり岳里は大食いだと痛感したっけ。
 そんなことを思い出しながら、大してすすまない箸を無理矢理動かし、口に運んでいく。
 もそもそと、できるだけゆっくり、口を動かす。
 出て行ってから、程々の時間が経った。もうすぐ岳里は帰ってくるんだろうか。
 けれど、ゆっくりと食べたとしても夕食の半分近くが胃に収まった。それでも扉が開くことはない。
 急に喉の渇きを感じて、おれは水を一気に煽る。空になった杯に水を足して、また一口だけ飲み込んで、テーブルに置いた。けれど喉は潤されず、今度は腹がかっと熱くなる。
 もう一度、置いた杯を手に取ったところで、急に視界が揺れた。次の瞬間には身体が前のめりになって倒れかけ、慌ててテーブルに手をつくも、持っていた水の入ったコップを床に落としてしまう。
 それを眺めながら、ふと自分が額に汗を掻いてるのに気がついた。息も、自然と荒くなっている。

「っ……?」

 わけがわからないまま、とりあえず落としてしまった杯を拾わなくちゃと、椅子の上から身体を屈めて手を伸ばす。するとあと数センチでそれに触れるというところで、脳が揺れるような気持ち悪さを感じて、視界が大きく歪んだ。

「――っ!」

 おれは均等を崩し、伸ばした腕から床に倒れた。打ち付けた身体の痛みに呻くが、それよりも次第に熱を増していく腹が、ぐにゃぐにゃと湾曲する視界が、おれの意識を奪っていく。
 どうにか立ち上がろうと腕を奮うも、力が入らずすぐに肘から折れて肩を打つ。
 手を伸ばした先にあった、垂れたテーブル掛けの端を軽く握るつもりで触れると、それを引いてしまって、上に乗っていた料理たちが皿ごと床に落ちてしまう。激しい音が部屋の中に響くも、それが遠くに聞こえた。
 どうにか身体を起こし、床に座りこむ。けれど次第に視界は霞んでいき、おれは全身が揺れる感覚に思わず胃にあるものをその場に吐き出した。

「真司さま、どうかなさいましたか?」

 ノックの後に続いた、どこか急いたユユさんの声に答えられず、おれは短い息を断続的に続けながら、その合間にさらに吐く。
 腹が煮えたぎるように熱い。喉が、焼けるように痛む。頭が揺れ、気持ち悪い。力が入らない。
 おれは一体、どうしたんだ?
 滲む脂汗を拭いてやることもできず、噴き出るそれをそのままにしていたら、こめかみを、頬を伝い、顎の下から垂れた。

「――っすみません、失礼します!」

 ばん、と勢いよく扉が開いた頃には、おれは再び床に倒れる。

「し、真司さまっ! ――誰かっ、誰か来てくれ、早く! 真司さま、どうなされたのですっ!? 真司さま!」

 動揺し、震える声を聞きながら、意識はついに途絶えた。

 

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