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 風呂からは早々とあがり、部屋へ帰る道のりの途中で、おれは今日のことを岳里に話す。
 ライミィが女の人だったことか、初めて見たこの世界の文字とか、その書き方、法則とか。主にそれで岳里を責める。なんで、簡単だって教えてくれなかったんだって。
 そう唇を尖らすおれに、岳里は静かに口を開いた。

「この世界の文字はおれたちのものよりもはるかに単純だ、と言ったが」
「だってなにせ岳里の言葉だぜ? 気休めとしか思わなかったんだよ!」

 だってまさか本当に、このおれですらすぐ読み書きできそうやつだと思わなかったんだ。英語のように様々な単語や文法を覚える気でいたおれは、この世界の文字について教えてもらったとき、拍子抜けした。
 この世界の文字は、言ってしまえばローマ字と酷似していたんだ。とは言っても、日本のローマ字だ。
 この世界にはアルファベットがないから、文字の形は違うけど、でもその並び方がまるっきり一緒だ。母音字である五つを基準にして、か行から先は母音の左側に、その行を示す文字、つまりは子音字をくっつける。あとはそれを、日本語と同じ並びで並べればいいだけっていう、どの文字がどの形かさえ覚えてしまえばいいだけのものだったんだ。
 まだ浅くしか教わってないから知らないことも多いし、長い単語なんかがあったらそれは特別な配列で並べるそうだけど、その手前の右上に小さく『*』のマークがつくそうだ。だから判断には迷わない、とライミィに教えてもらった。
 とりあえず今日教わったのはあ行からわ行までで、濁音、半濁音や拗音なんかは基本を覚えてから、と言われた。一応、母音になる五つの文字は覚えて書くこともできるけど、さ行以降はちょっと怪しい。あと、文字がへたくそだと直球でライミィに指摘された。
 でもそれはこれからじっくり矯正してやるから安心しろと、実際全然落ち着けない台詞を悪い笑顔を浮かべながら言われているから、まあ、大丈夫そうと言えば大丈夫そうだ。
 ライミィは優しげな見た目に反して中身のようなギャップある指導をおれにしてくれた。スパルタ、まではいかないけど、でもそれなりに厳しい。はじめてこの世界の文字を書き写すとき、その前にまず姿勢を直された。美しい姿勢は何事にも通じるんだと。おかげで普段使わないところや変なところに力が入って、少し筋肉が痛い。正直なところ、文字を覚えるより、綺麗に書こうと思うより、正しい姿勢というやつに神経を持ってかれた気がする。
しかも今日は始めだから少し優しく指導してやるよ、との言葉をくれていたもんだから、今後が怖い。
 一通りおれのことを話してから、岳里を見上げた。

「岳里はどうだったんだ? なんか、泥だらけだったけど」

 部屋に帰ってきた時の、あの酷いありさまの岳里を思い出す。
 服だけでなく、顔や、髪にまで土ぼこりがついていた。外で駆け回る子どもよりも、野球やサッカーなんか、スポーツを全力でやる人でもそうそうならないほどの汚れようだった。
 ただ、傷らしいものはどこにも見られなかったし、今の岳里を見てもないように見える。それだけは安心した。
 岳里は少し眉を顰め、口元をわずかに歪める。

「――地面を転げまわった」
「なんでそんなことしたんだ?」
「ヴィルハートが、形式にはまった剣術よりも、本番に使えるような実戦向けの、自由な戦法のほうがおれに合ってると言ってな。まずは受け身をとれるようになれと、地面の上でひたすらその練習をさせられた」
「ああ、だからあんなに汚れたんだ」

 ようやく理由がわかり、おれは納得して岳里から目を逸らして前に向き直る。
 なるほど、受け身の練習をしたのか。ならあそこまで全身に土がつくわけだ。……でも剣に受け身っているのか? 柔道の授業でおれも受け身をやったことがあるから、どんなものかはなんとなくわかるけど、でもあれは投げたり投げられたり、足をすくわれたりして倒れるから、怪我をしないためにもするんだよな。でも、普通剣を使うってことはそれ同士ぶつけあうわけで、そこに受け身が必要なのかわからない。

「――……土の感触に慣らすためや、汚れることへの抵抗を減らすこと、他にはどこに力が入れば最小限の動きで崩れた体制から立て直せるか。他にも、様々な理由があってのことだろう」
「あ、そうか」

 おれの疑問を相変わらずのエスパーで悟ったのか、岳里は、岳里なりの解釈を教えてくれた。それに納得し、少しだけ頭の中がすっきりする。

「一日中それやってたのか?」
「ああ」
「そっか。お疲れさん。部屋に帰ったら約束通りマッサージしようか?」
「――今日は、いい」
「了解、また今度な。あ、遠慮せず言えよ」

 妙に長い間が途中で置かれたのが気になったけど、とりあえずおれは隣を歩く岳里の背中をぱしっと軽く叩いた。
 岳里はちらりとおれに視線を寄越すだけで、すぐに前を向く。けれどその後にぽつりと、おまえも何かあったら言え、って言ってくれた。それが嬉しくて、おれはもう二度、今度はさっきよりも強めに岳里の背中を叩く。
 今日はまだ剣を持たなかったという事実を聞けて、安心だ。
 ――剣なんて、ずっと握ってほしくはないけどそうはいかない。だからおれはただ、岳里の毎日が無事終わるように祈るしかできない。
 顔には笑顔を浮かべる反面、あまり心は弾まなかった。

 

 

 

 文字を習い始め、三日目にはようやく全部の文字に目を通し終わり、一通り一度は書きもした。結構時間もあるし、二日目にはそれが終わるとおれは予想していたけど、昨日はなんだかんだでライミィと話をしたり、他にも部屋に来訪者が現れたら勉強を中断して話すもんだから、なかなか進まなかったんだ。
 別に文字を覚えるのに急ぐこともないからと、ついついそっちのけにして話も弾んで……特に、訪れたネルがお菓子と香茶を持参してきたもんだから、その誘惑に抗えなかった。ネルの淹れた香茶も、お菓子も、どっちもうまいから仕方がない。
 二日目にネルとミズキが一緒に部屋に来て、主に、ネルは王さま、ミズキはアヴィルと、自分の主のことについて愚痴を言っていた。しかも内容が結構キツく、王さまだけじゃなくて、苦手としているアヴィルにまで同情をする……。嬉々とした様子で、見るだけなら可愛く笑うふたりなのに、言ってる言葉はまさに毒だ。

『アヴィルったらこの間、二人一緒のお休みを久々にいただいたっていうのに、丸一日訓練だーって言って、わたしをおいてどこかへ行ってしまったのよ。信じられる?』
『うわ、そりゃねえよう。だからあいつはいつまで経っても童貞の餓鬼んちょなんだあよ。妖精にでもなる気かあ?』
『本当よね。このままじゃその通りになっちゃうわ。いつまで経っても何もしてこないのよ、あいつ』
『アヴィルは本当に剣一筋だな。溜まらないのか? まだ、口づけのひとつもしてないんだろう?』
『手すらつないでないわよ。あいつの手には剣専用みたいなものよ。まったく、何年一緒に暮らしているんだか――あら、真司。顔が赤いわね』
『にゃはは、真司も初心だかんなあ!』

 そう愉快に笑ったネルに、おれは何も言えず縮こまるしかできなかった。
 昨日の三人の会話を思い出して、おれは思わず小さな溜息を吐く。
 なんというか、女の子って、本当すごい。おれの存在を忘れてるんじゃないかって思うくらい赤裸々に話して、しかも次から次に話題がころころ変わってネタが尽きずに話し続けてる。というか、本当におれの存在を忘れてるわけじゃなくて、むしろからかうためにそういう流れに話を誘導してる気がした。
 長話に正直疲れを感じるおれとは対照に、ライミィはネルとミズキのふたりの話に平然とした様子でついていけてる。聞き手になっているときのほうが多いけど、時には自分の意見も口にして、聞き流さずちゃんと参加してるようだ。やっぱり、色々と男勝りな面はあるけど、女性なんだなって思った。
 おれはというと、半分は右から左に流してる。だってそうしなくちゃついてけない。
 ネルもおれと同じ男だけど、随分ミズキとライミィのふたりに馴染んでた。むしろ、三人とも女の子と言われればしっくりくる気がする。実際それらしい恰好をすれば中性的な顔立ちのネルは女の子に見えると思うんだ。というか、あの三人の談笑する風景を見たら、むしろネルが女の子にしか見えない。
 ――まあ、そんな風に時間はつぶれ、昨日は勉強してる間はそう多くなかった。というわけで、一通り目を通して、一度すべてを書き写すだけで三日もかかったというわけだ。
 という今日も実は、ネルが近くを歩いてたらしいヤマトを捕まえてきて、なんだかんだと四人で話をしたから、昨日ほどはいかないまでも大抵はそれで時間がつぶれた。
 外はそろそろ日が暮れはじめるという時間になり、早くしないと岳里が帰ってきてしまうと、おれは目の前に並ぶ本の背表紙に意識を集中する。
 今日のライミィの授業はもう終わったんだけど、宿題を出された。それが、書庫から読めそうな本を探しておく、ということだ。
 そういうわけで今膨大な量の本が並ぶ中、どうにかおれが読めそうなものを探しているわけなんだけど……それがどうも見つからない。
 探している場所が悪いのかわからないけど、今見ているところはどうも歴史書だの、資料になるような文献だのが並んでいるようだ。適当にとってぱらぱら眺めてみても、特別な読みを表す『*』のマークが大量に並んでいて諦めた。かといってふらりと場所を変えてみても、なかなかぴんと来るものがない。
 とりあえずきっちりと並ぶ背表紙をただ眺めているように目を移していくと、ふとタイトルのない本をひとつ見つけた。

「これは……」

 赤い本だった。しっかりとした皮が張られていて、長い歳月を過ごしてきたのか、深い色になってる。
 おれは吸い寄せられるようにそれに手をかけ、本棚から抜き取った。
 表紙を見てみても、やっぱり表題も、他にもなにも書かれていない。適当にページをめくってみると、これまで見てきたのとは違い、基本の文字しか使われていないことがわかった。ところどころに小さなイラストがついたけど、何の本なのかはわからなかった。一番最後のページまでぱらぱらと進んでいくと、左下に小さく文字が書かれていた。

「は……と? なんて読むんだっけ、これ……」

 たぶん、『は と』って書かれてるんだと思う。けどその『は』と『と』の間の文字がなんだったのか思い出せなくて、読めなかった。
 名前、なのかな。この本の作者の。

「――……よし、これにするか」

 おれは手にしていた本を小脇に抱え、書庫の出口に向かった。
 難しい読みをするものも特に見当たらなかったし、何の本かはわからないけど、読む練習だしこれがちょうどいいよな。
 書庫から出て、歩きながらおれはまた赤い本を手に取った。その一ページ目をめくってみると、真ん中に少し文章があるだけだった。
 覚えたばかりの文字を思い起こしながら、ゆっくりと読んでみる。

『せんたくのときをむかえた、このせかい。しめいをあたえられしひとびとに、このほんをつづる』

 選択の時を迎えた、この世界。使命を与えられし人々に、この本を綴る――で、いいのか?
 そこだけ見てもこの本が何の本なのかいまいちわからなかった。最初は物語とも思ったけど、どうも違うような気がする。
 おれは次のページを開いた。

『このほんには、とくべつなまじゅつをかけている。おそらく、このほんをてにしたあなたは、なにかしらのやくわりをかみからあたえられたひとであるのだろう。』

 この本には特別な魔術をかけている。おそらく、この本を手にしたあなたは、何かしらの役割を神から与えられた人であるのだろう――
 特別な魔術って、なんだろう。それに、役割とか、神とか……。
 もしかしたらこの世界には神さまがいる、とか? まだそういう類のことは聞いたことないけど、この世界にはいても不思議じゃない気がする。だって、魔術とか治癒術とかあるわけだし、魔物とかもいるし。神さまだって存在するのかもしれない。
 いたらすごいな、なんて呑気に考えながら、おれは自然と続きの文章を目で追った。

『あなたはひかりふらすものか、それともやみもたらすものか。もしくは、おれとおなじ――』

 あなたは光降らす者か、それとも闇齎らす者か。もしくはおれと同じ――
 無意識のうちに集中して読んでいたおれは、注意を欠いたまま、目の前の角を曲がる。
 次の瞬間、同じく角を曲がろうとしていた人がいたらしく、その人と衝突してしまった。

「っと」
「わっ!」

 ここにいる人は大抵おれよりも頼りになる体躯の人が多く、相手は多少揺らぐ程度しかなかったけど、おれは弾かれて後ろに倒れそうになる。
 次にくる衝撃に耐えようと無意識のうちに身体をかたくし目を瞑った。けれどおれが尻餅をつく前に、目の前のぶつかった人が腕を掴んで支えてくれたから、どうにか倒れずに済む。

「大丈夫か?」
「す、すみませんっ! おれ、前をよく見てなく――あ」
「――気にすんな。おれの方も考えごとしてて、注意してなかったから」

 自分の非を認め頭を下げて、再び顔を上げて相手を見たおれは、思わず言葉を詰まらせた。
 相手もその理由を十分理解してるのか、少し戸惑ったように笑って首を振る。

「それじゃ、もう行くな」
「あ、待ってくれレードゥ!」

 おれの声に、ぶつかった相手だったレードゥは、踏み出した時点で止まってくれた。
 いつもだったらすぐに笑顔を見せておれに話しかけてくれるのに、今日は目も合わそうとはしてくれない。その姿に胸が痛む。
 ――責任、感じてるんだろうな、レードゥは。そんな必要ないのに。
 レードゥは何も言うことなく、ただおれからの解放を願ってるように見えた。

「レードゥ」

 名前を呼んでも、おれを見ようとはしない。でもその表情を見れば、どんなことを思っているのかよくわかった。
 顔を合わせられないのも、何も言えないのも、きっとおれのためなんだ。おれが、あのことを忘れたがっているとか、思い出したくないとか、そんなことを考えてるんじゃないかって。そうやって気遣ってくれて。

「なあ、レードゥ」
「……なんだ?」

 辛うじて返事をくれたが、やっぱりその赤い目はわずかに下を向いたまま。そうさせてるのは、おれだ。

「レードゥ。また、街に連れてってくれないかな」
「街、に?」

 ほんの少し見開いた目とようやく視線が合う。
 それが嬉しくて、思わずおれの頬は緩んだ。

「ああ。おれあの、バラナンって実の飲み物が気に入ってさ。いい天気の日に、また歩きながら飲みたいんだ」
「……だが」

 言い淀んですぐに口を閉ざしたレードゥに、代わりにおれが続ける。

「あの時は怖かったし、記憶が消えるわけでもない。でもさ、重ねることはできると思うんだ。――おれ、このままなんてやなんだよ。決めたんだ。この世界をもっとたくさん知って、好きになるって。だからレードゥ。その手伝い、してくれないか?」

 たとえそこに悲しい思い出があったとしても、それよりももっとたくさんの、数えきれないくらいの楽しい思い出を重ねればいいんだ。今はまだ、街のことを考えると真っ先にあの時の恐怖が出てくる。でも、おれのこれからの身のふりでそれは変わるはず。
 逃げたままじゃなにも変わらない。向き合わなくちゃ変化はない。――でも、それはおれひとりじゃ無理だ。誰かに手伝ってもらわなきゃ、支えてもらわなくちゃ。
 岳里だけじゃなくてレードゥやみんなが手伝ってくれたらきっと、楽しい思い出なんてすぐに重なっていく。
 だから、おれは。

「レードゥ、また遊んでくれよ」

 今度はおれから目を逸らす。レードゥの顔を見るのが怖かった。
 人のいいレードゥのことだから、きっとこんなことを迷惑には思わないでいてくれるはずだ。
 自分の身を自分で守れないおれが、レードゥを傷つけた。自己防衛できるぐらいにたくましければ、こうして目を逸らさなくても済んだのかもしれない。でもおれは弱くて、剣も持てなくて、守ってもらうしかない。これからすぐには変われないから。
 そんなおれを、レードゥがどう受け入れてくれるのかがわからない。だから、だからおれは。
 おれは目線をわずかに下へ逸らして、レードゥの言葉を待った。
 なんでだか泣きたいような気持ちに、ぐっと歯を噛みしめる。

「……真司は、いいのか?」
「いいも何も、友達、駄ろ? 友達と一緒に遊びたい、出かけたい、楽しみたいって思うのに、いいも悪いもない」
「そっか……友達、か」

 呟きにも似たその言葉に、おれは一度は口を開きかけて、すぐにまた閉ざす。
 レードゥが動きだし、おれのほうへ歩み寄ってきた。その姿にますますおれの視線は下がる。
 一体どうなるかわからなくて、心臓を高鳴らせるおれの隣まで歩くと、レードゥは足を止める。
 それから一拍おいて、がっとおれの首に腕を巻いてきた。

「わかった! おれがちゃんと連れてってやる!」

 体制を前のめりにさせながらも思わずすぐ脇にきた顔へ振り返れば、前見たく楽しげに笑うレードゥがいた。

「バラナンの実はもちろんだが、おれがよく行く飯屋にも連れてってやるよ。そこのじじいは偏屈じじいだが、作るもんは何でもうまいんだ。きっと真司も気に入るぜ」

 にっと白い歯を出して、無邪気に笑う、いつものレードゥだ。

「ちょ、レードゥ重い」

 肩に腕を回したレードゥは遠慮もなしにおれに体重をかけてきて、おれの足元はついついふらつく。
 それでもそんなのお構いなしに、レードゥはさらにおれへ寄りかかる。

「おれの愛の重さだ、気にすんな」
「……ヴィルハートに聞かれたらどうすんだよ」
「おまえこそ、これを岳里に聞かれてみろ。おれは消される」

 お互い顔を合わせて、ぷっとふき出した。

「なんでそこで岳里なんだよ」
「ははっ、そりゃあ、なんでもだよ」

 しばらくおれたちはそうやって、肩を組みながら久しぶりに話し合う。
 バラナンの実は冷やして食べてもおいしいんだとか、今日起きたレードゥのところの隊員のドジだとか、他にもいろいろなことを。
 窓から差し込む光が色を持ちはじめた頃、ようやくおれは部屋に帰らなくちゃいけないことを思い出す。それを伝えれば、レードゥが部屋まで送ってくれることになった。
 身体は離しても、会話は途切れることなく、今度はおれが最近あったことを話す。ライミィのことや、この世界の文字のこと。勉強途中に現れるネルたちに、女子のたくましさ。
 レードゥは、特にミズキは毒舌家だから気をつけろと教えてくれた。本気で言い争いになったとき、これまでミズキに勝てた人は誰もいないらしい。レードゥも昔一度、ミズキと意見が対立した時、散々な言葉を受け敗北したことがあるみたいだ。
 おれも気を付けようと心の中で頷いた。

「そういや、岳里のほうは剣を習いはじめたんだよな」
「ああ。レードゥはもう見た?」

 ふと思い出したように声を上げたレードゥに、おれが言葉を返せば、首を振って答える。

「おれはまだ見てないが、ジィグンのやつは見たらしくてな。これは一荒れ来そうだって言ってたぜ」
「一荒れ?」
「ああ。あんなぽっと出の、剣に関して素人のはずの餓鬼が、次々に手合せで兵士たちをなぎ倒していくんだからな。もう随分噂になってる」

 しかも精鋭ばかりの十三番隊のやつらだからな、とレードゥがつぶやいたのを、おれは聞き逃さなかった。
 岳里はその才能を隠そうともせず、話を聞く限りだと全力で剣に打ち込んでるみたいだ。あんな、なんでもできる岳里が本気を出したとすれば、どれだけすごいのかおれなんかじゃ想像できない。
 まだ剣を習って三日目のはずなのに、それなのに岳里はもう模擬試合もしてるそうだと、レードゥはジィグンからそうを聞いたらしい。しかも岳里は無敗で勝利を重ねているそうだ。
 はじめの頃はやっぱり素人でしかないはずの岳里にある程度手を抜いて相手をした兵士の人も多かったらしい。でも後々になって、実際手合せしてみれば余裕がなくなり、手加減などせずに岳里を迎え撃ったとしても、それでも勝ったのは素人の岳里のほうで。
 注目するなという方が難しい状況が今、岳里を取り巻き始めている。岳里を見る目はきっと、様々なんだろうな。
 おれなんかは、単に凄いとか、格好いいなとか思うだけだ。でも、普段から鍛えてその腕を磨きあげてきたにも関わらず岳里に負けた人や、その岳里が勝った事実を目の当たりにした人たちは、何を思うんだろうか。
 おれの不安が顔に出てたのか、レードゥがぽんぽんと背中を叩いてくれた。

「あんまり深く考えんな。――岳里は真摯に剣と向き合ってる。今は噂ばっかが先行ってて、違う岳里の姿が周りに映ってるかもしれない。だが、いずれ岳里の本当の姿を見れば、誰も文句も言えなくなるさ。岳里の才能がずば抜けていることは勿論あるんだろうが、あいつはそれに甘えてない。おれが気づけたんだ、周りも少しずつ知っていくさ」

 岳里っていう人間をな、と言ってレードゥは笑った。そして、これはヴィルから聞いた話だから岳里には秘密な、と前置きして言葉を続ける。

「あいつ、おまえの前以外ではほとんど身体を休めていないらしいぞ。ずーっと、動きっぱなしだと。昨日なんか真夜中に自主訓練する岳里を見たやつもいるそうだ。たぶん、真司が眠った後にでも部屋抜け出して、特訓してるんだろうよ」
「……おれ、全然知らない」

 初めて耳にする事実に、おれは思わずレードゥを見上げる。視線の先のレードゥはにかりと笑った。

「そりゃ知らなくて当然だ。岳里は特に真司に、隠しておきたいらしいからな」
「でも、一言でもくれれば、おれだって色々手伝えるし……」
「いいか、真司。どんな男でも、そいつの前では格好つけたいだなんて思うやつがいんだ」

 突然びたりと足を止めたレードゥは、おれに向き直り、右手の人差し指をぴんと立てる。もう片方は腰に当て、不敵な笑顔を崩さないまま指を軽く振りながらそう言った。
 そして今度は、その人差し指を伸ばしたまま口元の前にそれを置く。

「だから、おまえは岳里の努力を知ってても何にも言うなよ」

 口元の指を退かして、レードゥはまた歩き出した。おれも後を追いながら、心の中でその言葉を考える。
 レードゥの言い方からして、なんだかおれが、岳里の“そいつの前では格好つけたいと思うやつ”、のそいつみたいに言われてる気がするけど、そうなのか? もしかして、岳里に対しておれが抱く理想を、岳里のやつも壊さないようにしてくれてる……っていうのはないよな。だったらもっと愛想よく振る舞うだろうし。
 そこがよくわからなかったけど、でもおれも男だ。レードゥの言うことはなんとなくではあるけど、わかった。
 そりゃあ、好きな子の前だと格好いい姿見せたいもんな。情けない姿は見せたくない。頼りになる、男らしい自分を見せたいもんだ。だから、もし努力しなくちゃならないことがあるなら、その子の前ではなんてことないように振る舞って、陰で気づかれないようにする。そうやって、格好つけたいもんだ。
 でも、岳里ももしそうだとしても、レードゥの口ぶりからしても、その努力が明らかに度を超してるみたいだ。
 おれはまだ岳里の訓練する姿を見に行ってないから、知らなかった。ほとんど休んでないなんて。部屋に戻ってきた岳里はいつも通りで、確かに多少は疲労した感じもなくはない。でもほんの少ししかおれにそれを感じさせなかった。でも実際は、おれが呑気にみんなと話しながらこの世界の文字を学んでる間、岳里はほとんど休んでない。ずっと、動き続けてた。
 岳里は朝起きて飯食って、それからおれよりもうんと早く部屋を出てる。おれはまだ傷の具合がよくないライミィに合わせて、午前中は部屋にいてごろごろとベッドの上で過ごしてた。おれも一応けが人だからそうセイミアに指示されていたわけだけど、一旦昼食に帰ってきた岳里と飯食って、それからまた別れてからようやくおれの勉強がはじまる。
 昨日今日と、そうして午後からおれはライミィの指導を受けていた。でも岳里はずっと剣の訓練してて、それは朝から日が落ちるまで続いて。深く考えなくても、長時間に及ぶそれが大変であることは予想していた。でもまさか、おれが寝た後もどこかでひとり、剣の練習してるなんて知らなかった。
 寝てる時間まで削って、そんな無茶な鍛え方して。
 何をそんな急いでるのかわからないけど、もし今のを続けたら、いくら岳里といえどもいつか倒れる。それを知らないわけないだろうけど、でも、岳里はこのままその無茶をし続ける気がした。
 一人で頑張って、無理して。おれはそれを黙って見るしかできないのか?
 無意識のうちに視線が下がりはじめた頃、またレードゥがおれの背中を叩く。
 隣を歩くレードゥを見れば、レードゥは前をまっすぐ見つめたままおれに答えをくれた。

「――真司、おまえはただ、岳里の休める時間を作ってやればいいんだ。少しでも岳里が辛そうな気がしたら、その時はおまえが無理矢理にでも理由つけて休ませてやれ。そうやって、岳里が陰で頑張るように、おまえも陰で支えんだ」
「支える……?」

 レードゥは、ああ、と肯定する声を出したあとに、目を細めた。

「岳里は案外、抜けてそうだからな。はじめから力あるやつはどうも飛ばしすぎて、ぶっ倒れるまでになんなきゃ自分の身体があげる悲鳴に気づけないんだよ。だから、周りが気にかけてやんだ」
「……それ、ヴィルのことだろ」
「さあな。ま、おれが言えることはそんなもんだ。岳里が言うことを聞くのは真司だけだ。真司が休めって命令すりゃ、きっと言うこと聞くぜあいつ」
「そうかな」
「そうだよ」

 今度こそレードゥと視線がぶつかると、お互い困ったやつが傍にいるな、と声に出さず笑いあった。
 色々と話しているうちに部屋の前まで着いてしまい、おれとレードゥは足を止める。
 そのまま別れようとして、おれはふとずっと小脇に抱えていたものの存在を思い出した。

「なあレードゥ。最後にちょっといいか?」
「なんだ?」

 おれは本を持ち直して、一番最後のページをめくり、そこの一番左端に書かれている文字をレードゥに示した。
 レードゥはおれと一緒に本を覗き込み、そこを確認してくれる。

「この文字、なんて読むかわかるか? おれ、この間に挟まってるやつの読み方忘れちゃって」
「ああ、そういや今、この世界の文字を習ってるんだったな。えーっと、これだよな」

 再確認してから、レードゥは顔を上げた。おれもそれに合わせてページから目を話す。

「それは“ハート”って読むんだ。その真ん中のは長音符だな」
「ハート、か。これって、この本の著者の名前でいいのか?」
「ああ。あんま聞きなれない名だが、そうだと思うぞ」
「そっか、ありがとなレードゥ」

 本を閉じながら伝えれば、レードゥはすぐにおれから目を逸らして遠くを見た。

「そんぐらい礼言われるようなもんじゃねえよ。――それよか、おれこそありがとな、真司」
「ん?」
「はは、独り言だよ――それじゃあな」

 レードゥは片手を上げながら歩き出して、元来た道を戻ってく。
 おれもそれに同じように手を上げて見送った。
 今までよりももっと、深いところでレードゥと触れ合えた気がする。それが嬉しかったんだ。またひとつ、あの時の記憶に重ねる思い出が増えた。少しずつ厚くなっていくそれを眺めると幸せな気持ちになる。
 だから、レードゥ。ありがとな。

 

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