第6章

 

 真っ暗な中で、子どもが膝を抱えて泣いている。おれに背を向け、その小さな身体を震わせている。
 押し殺された声はくぐもり、必死に、涙を堪えようとするのが伝わってきた。
 おれはその姿を眺めるばかり。慰めようと傍に行こうすることは、しようさえ思いつかない。
 一人の子供が、少年が泣いている。闇に囲まれたこの場所で、誰に聞かれているというわけでもないのに歯を食いしばって。
 嗚咽に途切れる声が聞こえないふりをして、おれは目を閉じる。
一人っきりの少年。彼はただひたすらに泣いていた。

 

 

 

 ――ふと目を開けると、目の前には見慣れない木で組まれた天井が映る。
 ゆっくりと身体を起こせばやはりこの世界に来てから過ごしてきた部屋ではなく、木を入り組ませ作られた落ち着いた色合いの部屋。
 何度か瞬いて、おれはようやく状況を思い出した。寝起きで、少し混乱したみたいだ。
 ここは兄ちゃんがこの世界で暮らしているという洋館。兄ちゃんと、そして兄ちゃんの友達だっていう十五さんっていう人の二人で住んでいるらしい。
 詳しいことは教えてはもらえなかったけど兄ちゃんはおれと――あいつみたいに国に保護されるわけでもなく、魔物の住む危険な森へこの世界に召喚されたみたいなんだ。そんな状況を救ってくれたのが十五さんらしい。

「起き、なきゃ」

 額に手を当てて、無意識に溜息をつく。寝足りないのか、ぼうっとする頭はとことん鈍く、うまく頭が働かない。
 ここに来て、今日で三日だ。初日には洋館に来てこの部屋に案内されてから、ずっと眠り続けた。二日目は兄ちゃんが用事があるからと言って、十五さんと一緒に留守番をした。特に何をやりたいって気持ちはなくて、ただぼうっと一日を過ごした。
 ――今日は、兄ちゃんが帰ってくる。そうしたら、これまでのことだとか、おれの……おれと兄ちゃん、あいつについての話をしてくれる。そう、約束したんだ。
 ふう、と長く息を吐き、瞼を閉じる。何も見えない視界で、けれど何度もあの時は目の裏で繰り返されていた。

『おれは、竜人。この世界に生き、竜の血を紡ぎし歴史の語り部。竜族とも呼ばれる者どもの一人だ』

「――――」

 兄ちゃんが帰ってきたら、竜人、のことも、城のみんながおれに隠していたことも、すべてを話してくれる。みんながおれに隠してきたことを、知る時がくる。
 ふと喉が渇いてることに気づいて、おれはベッドから抜け出した。

 

 

 

 調理場へ顔を出してみると、そこにはすでに人がいた。

「あ……十五、さん。おはようございます」

 こくん、とおれの声に振り向いた十五さんは頷き、それから木の器に入れた水を差しだしてくれた。
 その顔を失礼にならない程度に窺いながら、お礼を言って杯を受け取る。
 朝食を作っていたらしい十五さんは続きを再開するため、おれから離れていく。すでに完成は近いようで、温かないい匂いが鼻まで届いた。
 慣れた手つきで事を進める十五さんの背中を見つめる。時折揺れる、膝ほどまでもある長い紺色の髪。バランスのいい手足に、すっと伸びた背筋。
 その姿は、あいつに――岳里に、そっくりだった。後ろ姿だけじゃない。その顔も瓜二つだ。
 違うのは髪が紺色で長いこと。左目に縦に裂ける傷痕があって瞑ったままになっていることと、首に包帯が何重にも巻かれていること。あと、瞳が――金色なこと。あいつも時々金になっていたことはあったけど、おれの知る限り十五さんは常時その色だ。
 あとは同じ。顔の作りも、体格とかも。多少十五さんのほうが背が高いくらいか。
 ぼうっと、ただ眺めていると、不意に十五さんが振り返った。金の瞳と視線が合い、おれは慌てて小さく頭を下げる。

「あっ、ごめんなさい」

 思わず謝罪すると、十五さんは緩く頭を振り、近寄ってくると手にしていたものをおれに手渡した。
 それは盆に乗せられた朝食だ。食事はすべて十五さんが作ってくれている。

「ありがとう、ございます」

 それを受け取り、おれは静々と部屋に戻った。
 部屋に着くなりベッドの端に腰かけ、作ってもらったサンドイッチをもそもそと食べる。十五さんは料理上手で、ただのサンドイッチさえちょっとした工夫があっておいしい。おいしい、はずなんだ。そうわかってるはずなのに、でも何故か、あまり味を感じない。
 ここに来てから、食事はずっと一人だ。いつも食べる時に、清々しいぐらいに食いっぷりのいいやつを見ながらだったからなのか。どうも食が進まない。
 十五さんはそれに気づいているのか、量を少なめに作ってくれている。申し訳ない反面、その気遣いがありがたかった。
 半ば無理に押し込み食べ終わらせ、ようやく手を膝の上に置くと、ふと気が付く。
 この屋敷は、あまりにも静かだ。今はおれと十五さんしかいないから仕方のない話だけど、城にいた頃に比べるとあまりにも音がない。
 ――城では、部屋にはよく隊長のみんなが来てくれた。忙しいだろうに、ちょっとした発見だとか笑い話だとか、他愛ないものを教えに。
 きっとみんな、気を遣ってくれてたんだろう。退屈しないようにと。おれはそれを知っていたから、みんなの優しさが嬉しかった。
 兄ちゃんの言葉が胸に蘇る。
 ――ここにいたらおまえは殺される、と。そう言った、あの時のもの。
どんなに悩んだところで、矛盾の答えをおれは知らなかった。
 いつまでも雲がかかる心のまま、食べ終わったものをまた調理場に持っていけば、まだそこにいた十五さんが盆を受け取ってくれる。その時に、交換するように一枚の二つに畳んだ紙切れを渡された。
 広げてみてみると、そこには『悟史は昼すぎには遠からず帰ってくる』とこの世界の文字で書かれていた。悟史という兄ちゃんの名前に、おれは無意識のうちに緊張してしまう。兄ちゃんが帰ってくれば真実を知ることになる。だからなのか、わからない。

「――……わかりました。それまで部屋にいます」

 十五さんは返事に頷くと、その後におれの手を取った。手の平を上にさせ、そこに人差し指をつけ、滑らせる。
 それが文字を書いていることを知っていたおれは、その文字を追い頭でつなげていく。
 本くらいならば用意できるが、いるか――そう、十五さんは“言った”。

「それじゃあ、あまり難しい言葉がない本をお願いできますか? おれ、まだすらすらと読むことはできないので」

 おれたちのいた世界とこの世界の文字は違うと、すでに兄ちゃんから聞き及んでいる十五さんは、心得た、と言うような面持ちで頷く。
 それじゃあ、とおれが部屋に戻ろうとしたところで、先に十五さんが動いた。上げられた手が向かったのは、おれの頭。そこに手を置いて、ぽんぽんと二度軽く叩くと、すぐにこの場を去っていった。
 離れていく背中を見つめながら、微かに感じた、あの熱に似た温もりに。十五さんの姿が完全に見えなくなってから、おれは取られた手に自分の手を重ね、ぎゅっと握りしめた。

 

 

 

 十五さんが持ってきてくれた本は皮肉にも竜と少年の、友情の物語だった。適当に選んでくれて、たまたま内容がそれだったのか。それともあえて、それだったのか。真意は計り知れない。
 序盤だけで読んで、内容を察知するとすぐにおれは本を閉じた。それからというもの、ただ本に手をかけたままベッドの上で横になっているだけ。
 ぼうっとしているだけで、時間がだけが緩やかに、けれど確かに過ぎていく。
 不意に、扉がノックされた。
 ――今この屋敷にいるのは十五さんだけだ。昼飯の時間にはまだ早いと思いながら、身体を起こして座り直し、返事をした。
 応えを聞いた相手が、扉を開ける。そこから現れた顔に、おれは小さく声を漏らした。

「真司、ただいま」
「……にい、ちゃん。おかえり」

 部屋に入ってきたのは、まだここにいるはずのない兄ちゃんだった。
 兄ちゃんはおれが挨拶を返すと、僅かに目を細めて小さく笑う。

「はは、真司におかえりって言ってもらうの、久しぶりだなあ。少し前にはいつも、家に帰ったら言ってくれてたのに、なんだか懐かしい」
「うん、おれもなんか懐かしいよ。兄ちゃんにただいまって言われるの。帰ってくるのは昼すぎになるんじゃなかったのか? そう、十五さんから聞いたけど」
「予定が思ったよりも早く片付いてな。どうせだからおまえと一緒にご飯食おうと思って」

 おれはベッドから降りて、兄ちゃんのもとへ向かう。
 辿り着いたおれの頭を兄ちゃんは撫でた。

「悪いな、連れてきたのはおれなのに早々に出てしまって。もう、しばらく出かける予定はないから。傍にいれるぞ」
「あ――う、ん。大丈夫だよ。でも、少し安心した」

 それならよかった、と笑う兄ちゃんに、おれも口元を歪ました。ぎこちないそれにどうか気づかないでほしいと願いながら、無理をすることが居心地悪い。
 ――比べて、しまったんだ。兄ちゃんの手と、あいつの手。
 兄ちゃんの手は、冷え症だから冷たい。指は細くて。けれど、あいつの手はいつも温かくて、太いと言うわけではないけどしっかりとした手をしてて。触れ方も、違う。
 十五さんは、驚くくらいにあいつの手に似ていた。だから、だと思う。今こうして思い出してしまうのは。

「真司?」

 名前を呼ばれて、おれは反射的に顔を上げた。そこには、僅かに顔を曇らす兄ちゃんがいる。

「……ごめん、なんかぼうっとしちゃったみたい」
「夜、寝れてないのか?」
「ちょっと。ごめんな、折角兄ちゃんが帰ってきてくれたのに」
「おれは構わないよ。――昼食をとったら話をしようと思ってる。大丈夫か?」
「ああ、大丈夫。早く、聞きたいと思ってるんだ」

 おれの言葉を最後に、兄ちゃんはそれ以上そのことについて口にはしなかった。
 少し早いが昼食にするか、兄ちゃん腹ぺこぺこなんだ、とおどけて笑う兄ちゃんにおれはただただ心が救われた気がした。
 そして、何十日か振りになる兄ちゃんとの昼食を終え、ついにその時は来る。兄ちゃんが使っていると言う部屋に連れてこられ、先におれが入って、兄ちゃんが続き、ぱたんと扉が閉められる。その後に向かい合わせでそれぞれ席に座った。
 部屋には壁一面を覆うように所狭しと本棚が並び、入りきらないものは床の上に積み上げられていた。初めてここに入るが、その本の多さにさすがに兄ちゃんが読書好きで、もといた世界の部屋でも本が多かったとはいえ圧倒される。窓もぴったりと閉じられ、自然の光は入らない。
 そのことを口に出そうとも思ったけどそういう、余計なことを挟みたくなかった。
 兄ちゃんもおれと同じ気持ちなのか、それとも悟ってくれたのか。すぐに本題に入ってくれる。

「真司は、何故自分がこの世界に呼ばれたのか。その理由を知っているか?」
「――ううん、何も。何も、知らない」

 その事実を確認するように、はっきりと口にする。
 おれは何も知らない――きっと、おれだけ何も知らなかったんだ。

「まず、この世界にある“選択の時”という、システムについて話そうか」

 選択の時。その言葉に、おれは覚えがあった。でもどこでだったかは思い出せず、頷いて続きを催促する。

「この世界には、確かに神が実在する。その神が長い眠りにつく際に生んだ仕組み。それが選択の時」

 おおよそ、二千二百年前。この世界の神さまが、とある人物と争い持てる力のほとんどを使い切ってしまったそうだ。そしてその失われてしまった力を癒すために、今は長い眠りについているらしい。時折目覚めることはあっても、姿を表すのはほんの数時間で、しかも限られた人の前にしか現れないから、この世界の一般の人たちにとって神は幻想に近いそうだ。
 神さまは偉大な力を有していたと兄ちゃんは言った。そんな、神の力を大きく削いだとある人物は、兄ちゃんもまだ調べている途中でわからないらしい。
 長い眠りにつく際、神は選択の時という仕組みを世界に新たに生んだそうだ。その選択というのが、世界の継続を問うもの。
 世界がある程度の繁栄を迎えた時に、それが本当に正しい方へ向かっているかどうかを見極め、そして二つの選択肢から答えを選ぶ。そのまま世界は現状を続けるか、それともやり直しするか。
 やり直しって言うのは、世界の一部を無に帰すことを示すらしい。ただの、何もない大地になるそうだ。もう世界は何度か選択の時を迎えたことがあるみたいで、やり直しを選択されたことも勿論あるらしい。過去に三度はあったと、兄ちゃんは言った。

「もう異世界に来てるから、神さまのことを疑うつもりはないよ。でも、どうしてそんな、選択の時なんて作ったんだろう。神さまなら、見極めることなんてそう大変なことでもないと思うんだけど……それに、選択をするのは神さまなのか?」

 神が状況を把握して決断を下す、ならおれもすんなり受け入れられるんだ。なのに、するのは選択。わざわざ神さまが悩むんだろうか。
 そうおれから疑問が上がることを、すでに知っていたといった様子で、兄ちゃんは言った。

「選択を下すのは神じゃない。おまえだ、真司」
「お、れ……?」
「ああ。正確には“選択者”――おまえと、そしておれがこの世界に呼ばれた理由が、そこにある」

 選択者。兄ちゃんの口から出たその言葉に、おれはようやくとある本の存在を思い出した。
 ハートという人物が書いた、赤い本。恐らくおれと同じ、この世界ではなく異世界からの迷い人の。ハートは、自分の役割は選択者だったと記していた。
 そして、他にふたつの“役割”の名を挙げていた。

「光、降らす者と、闇齎らす、者……」
「――知っているのか?」
「詳しくは、知らない。意味も解らないけど、ただ見たんだ。本に書いてあった」
「本に、ね」

 兄ちゃんはただ遠くを見るようにおれから視線を外すと、鼻から長く息をついた。

「まあいい。それがどういう意味か、説明する」

 おれが頷くと、兄ちゃんは何故か小さく笑った。
 ――それから聞かされた話は、全てを聞き入れたつもりはあるけど、正しく理解できたかまではわからない。
 選択の時。その時がこの世界に訪れた際に、神は自分に代わり選択をする人物を異世界から呼び寄せるらしい。そうして神の代行として、“選択を下し者”として、この世界に呼ばれたのが――おれ、なんだそうだ。
 選択の時に役割を与えられる人物は他にもいる。それが、“光降らす者”と“闇齎らす者”。
 光の者と闇の者の役目。それは、選択者が下した答えを担うこと。
 世界存続が決断された時、光の者がこの世界を命が尽きるまで見守ることになる。そして、少なくとも光の者が生きている以上再び選択が訪れることはないし、光の者は何かしらの、世界にとっての有益なものを残すらしい。
 世界再起が決断された時、闇の者は大地を無に帰す使命を任されている。どうやるか、そこまでは説明されなかったけど、神さまから力を託されることで、それが可能となるそうだ。
 本来は神だけで行えることであっても、それを人間でやるんだ。到底神の代わりが一人で務まるはずがない。だから、役割を分担する。
 そして、その光の者、闇の者の使命を与えられたのが、兄ちゃんと――岳里だ。光降らす者が岳里で、闇齎らす者が、兄ちゃん。
 選択者を選ぶ基準。それは単純に、世界ディザイアと無関係であること。ディザイアに思い入れがなく、もし闇が齎されたとして、影響がない人物。つまり、この世界でなく別の世界で生きる人間だ。
 おれたちのいた世界の他にも、数多の世界が存在するという。そんな中から何故おれが選ばれたのか。それはわからない。
 光と闇の者はそれぞれで選択者の補助の役割もある。
 光の者は、ディザイアの人間でなくてはならない。世界再起でなく、存続を望まざるを得ないからだ。そして闇の者は、選択者と同じく異世界の人間でなくてはならない。闇の者は言わば世界を壊す存在。それなのに躊躇っていては、仕事にならないから。
 その他にも条件がある。たとえば闇の者は、ただ異世界の人間であればいい、というわけではない。ディザイアという別の世界に呼びだされる選択者に選ばれた人間が信頼を置き、なおかつ精神が強い人。つまりは選択者の心の支えとなるべく相応の人が選ばれるんだ。だから、おれが選択者だったから兄ちゃんが闇の者に選ばれた。
 ――そして、光の者。選択者は当然、ディザイアの人々からは世界存続を望まれる。少しでも闇に傾いている素振りを見せれば、かつての選択者の時に、非難を受けることもあったそうだ。だからこそそのディザイアの人間でも、絶対的な選択者の味方が一人は必要になる。それも、選択者の安全を確保することができる立場の人物が。そこで、選択者が召喚した獣人が、光の者になるんだ。
 獣人は契約により喚びだした人間と主従関係のようなものになる。さらに絶対的に相性の良い獣人が召喚されるため、光の者にぴったりの条件の人物が現れるといわけだ。
 ……まだ、整理はついてないし、認めることもできなかったけど――岳里はおれを主とする、竜人だ。獣人とは多少違うらしいけど、絶対的な味方というのに変わりない以上、竜人が光の者でも大差はないらしい。
 本来選択者がディザイアに喚びだされてから光の者を召喚するはずだけど、なぜか岳里はおれたちの同じ世界で、まったく無関係に暮らしていた。岳里はおれに喚びだされたとか言ってたけど、そんな記憶はない。でも岳里は竜人であったし、おれと契約を結んでいたから、一緒にディザイアに召喚――岳里にしてみれば、本来いるべき世界に戻ってきたというわけだ。

「――つまり、おれと兄ちゃんは、ディザイアがもうすぐ迎えるはずの選択の時のために、この世界に呼びだされたってわけか? おれが、選択者で、兄ちゃんが闇齎らす者で――岳里が、光降らす者で」
「そうだ。だからおまえは本来、この世界を知らなければいけないんだ。見聞を広め、そして選択を下すはずだったんだ。それなのに……あいつらは」

 深く息をついた兄ちゃんは、少しだけずれた眼鏡を押し上げる。
 おれはただその姿を眺めるしかできなかった。兄ちゃんの言う、あいつら。それが誰か想像はついていたけど、確信を持つため言葉を待つ。

「――あいつら、城の連中。おまえの与えられた役割は選択者であるのに、何故か真司が闇齎らす者であろうと考えていた」
「兄ちゃんの役割の方に?」
「そうだ。岳里が光の者とは確証を得ていたみたいだな。だけど、おまえが本当に闇の者かはまだ判断がつかなかったらしい」
「……何か、証明できるものがあるのか? おれも、本当に選択者なのか?」

 もしかしたら兄ちゃんが選択者かもしれない。もしかしたらおれが闇の者かもしれない。異世界から来た人間がふたりで、ふたりにそれぞれ役割があったとして。それはいったいどう見極めるんだろう。
 おれの言葉を聞いた兄ちゃんは、小さくおれに笑いかけると、突然服に手をかけ脱ぎだした。何かの意図があってそうしていることは十分承知の上、おれは兄ちゃんがやろうとしていることを見守る。
 上をすべて脱いで素肌を晒した兄ちゃんは、立ち上がるとおれに背を向けた。目に映ったそこを見て、おれは驚いて目を見開かす。

「これが、証だ」

 兄ちゃんの背中には、黒い月が一面に描かれていた。月とわかったのは、それが三日月の形だったから。そして、岳里の背中にあったものに似ていた。月ではなく太陽だったけど、大きさや色合いなんかが。
 こんな、刺青みたいなもの兄ちゃんにはなかったはずだ。これほど大きいのなら、着替えの最中なんかに気づくはず。
 おれはのろりと立ち上がり、その証という月に触れた。何かで塗ったわけでなく、本当に肌がそう染まっている。

「で、でも……光の者であるはずの岳里の背中にも、確かにあったよ。でも前に一緒に風呂入った時は、何もなかったんだ。こんなものっ」
「おまえに役割の話を隠していたように、証も一時的に隠していたんだろう。魔導具でも使えばそれも可能な話だ」

 おれだけでなく、おまえの背中にもあるぞ、と兄ちゃんに言われ、おれは見えるはずもないのに後ろに振り返る。
 その間にも兄ちゃんは服を着て、おれに座るよう促し自分も席に腰かけ直した。

「光の者には太陽の印が。闇の者には月の印が。そして選択者には太陽と月のふたつが背中に描かれている。それで役割を持つ人間を見極めるんだ。だが、あいつらには何故か選択者についての情報が一切なかったらしくてな。役割の存在は光の者か闇の者かしかないと勘違いしていた」

 だから、岳里の背中にあった太陽の証を見て光の者だと判断したけど、でもおれにあったのは太陽と月のふたつ。闇の者にあるのは月だけのはず。選択者の情報がなかったらしい城のみんなは、岳里が光の者ならおれを闇の者であるはずだ、と思いつつも確信を持てず、様子を見ていたらしい。

「なあ、真司。あいつら、真司がもし闇の者だと確定した時、おまえをどうしようとしていたか、わかるか?」

 すぐに頭を掠めたものがあったが、あえておれは口に出さなかった。出したくなかった。だから、沈黙する。
 兄ちゃんはそれをどう受け取ったかはわからないけど、笑った。微かに声を漏らし、おれを見つめ。

「殺すつもりだったんだ。世界が、決して壊されぬようにな」

 おかしそうに、兄ちゃんは僅かな笑みを含ませながら告げる。
 どこか、ぞわりとした寒気を感じながらも、それでもおれは続く兄ちゃんの言葉に耳を傾ける。

「城の連中には選択の時に闇が選ばれたらどうなるか知っていた。だから、そもそも選択などできないように闇の者を殺し、強制的に、選ばれるのが光の者にしようとしたんだ」
「闇を、殺す……」
「そうだ。実際は、真司は選択者で闇の者はおれだ。その対象がおれに変わっただけで、向こうの考えは違わないだろう」

 微かに浮かぶ笑みの中に、冷たい何かがあるような気がして、おれは何も言えなかった。
 ふと兄ちゃんが立ち上がりその場から離れると、後ろにある机に向かう。引き出しから何かを取り出すと、すぐに戻ってきた。
 兄ちゃんはおれの前に立つと、手に握るそれを片方の手で持ち直す。ひもの部分を掴むと、小粒の玉が垂れ下がった。それは、ここに来て早々兄ちゃんに渡すよう言われた、コガネから受け取っていた“守り役の光”だった。

「真司、これがなんだか知っていて身に着けていたのか?」
「そ、れは。おれの身に危険が迫った時、隊長たちに連絡がいくようになってるって。お守り、みたいなもので、何かあってからじゃ遅いからって……」

 確かに、コガネは渡してくれる時そう説明した。おれもそれに納得したし、心配してくれるているのが嬉しいと思った。思った、けど――

「やっぱりな。そんなことだろうと思った」

 兄ちゃんはせせら笑うと、掴んでいた守り役の光を手放した。重力に沿って床に落ちたそれを、おれは視線で追う。
 おれが見ているのを知っている上で、兄ちゃんは守り役の光を踏みつぶした。小さく玉が割れ、粉々になる音が耳に届く。
 足を退けた頃には、粉のように細かくなった石が、きらきらと光りを反射し輝いていた。

「これは魔導具。今はおれが本来の力を失わせ、ただの石にしていたが、これはおまえを監視するためのものだ。行き先を把握し、もし不穏な動きがあれば即刻隊長たちに連絡がいき渡るための。お守りなんて、そんなありがたいものなんかじゃないんだ」

 壊された、守り役の光をただ見つめる。もう、原型なんて留めてなくて、跡形もないそれを、今の自分が何を思い眺めているのか、それさえわからなかった。

「――今日の話はこれくらいにしよう。一度に話して悪かったな」

 兄ちゃんは優しくおれに微笑みかけると、そっと労わるように頭を撫でてくれる。
 おれがどうやってこの世界で過ごしてきたか、まだ詳しくは話せていない。ただ城に保護されていた、それだけが兄ちゃんの知る情報だ。
 今の話を聞いて、兄ちゃんはおれの置かれた立場というものをおれ以上に知っていた。闇の者だと疑われていたことも、もしかしたら殺されていたかもしれないことも。
 顔を上げ、兄ちゃんの顔を見ると、変わらず微笑みを浮かべている。いつも見ていた兄ちゃんのもの。けれど、何故か少しだけ違和感を覚える。

「心配、かけたよな」
「――そりゃな。おれが今話した事実を知った時、おまえが城にいるとわかった時。生きた心地はしなかったよ。いつ何が起こるかもわからなくて、不安が消えたことはなかった」

 ささやかな笑みが、言葉とともに消えていく。最後にはうつむき、声を掠れさせながらも兄ちゃんは言った。
 まさか、兄ちゃんもこの世界に来てるとは思ってなかった。だからおれはもとの世界に戻りたいとばかり考えていた。――きっと、すぐに城に保護されたおれよりもうんと辛い状況に置かれたはずだ。なのに、おれの心配までかけさせて。
 自分の心の中で渦巻く感情を見ないふりをして、おれはとんだ兄不幸者だったと、唇を噛みしめながら兄ちゃんに抱きついた。

 

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