14

 

 真司が閉めた扉をしばらく見詰め、ぽつりと悟史は呟いた。

「“帰る”、か。――はは、一気に巣立っちゃったなあ。兄貴としてはちょっと寂しい気がするけど、喜ぶべきことなんだよな」

 少し前までは、この世界に来るまでは。真司の帰る場所は悟史のもとだった。だが今は彼が自分で作った、新しい“家族”がある。自分とて家族に変わりないが、それでも確かに変化したものがあるのだ。
 真司が生まれた瞬間からその成長を見守ってきた悟史の笑みに、手を伸ばせば届く場所へと椅子を運び腰かけ直した十五は何も言わなかった。
 毛布のかかった膝の上に置かれた自分の手に一度は視線を落とし、その先で指先を遊びながらまた呟くように、悟史は語り始める。

「――あの子はさ、どうしてもおれが育ててやりたかったんだよ」

 そう切り出し十五へと聞かせたのは、悟史が一人で抱え続けていたものだった。
 両親の死後、悟史と真司の二人の兄弟は行き場を探した。しかしこれから大学生となる兄とまだ幼い小学生の弟、そんな二人を受け入れられる家庭はなかった。
 両家の祖父母ともに既に他界していたが、親戚がいなかったわけではない。ただどの家庭も自分たちの子に手一杯で、育ちざかりの男を二人も預かる余裕はなかったのだ。
 決して悪い人たちでないのを悟史はその心を覗き知っていた。父方の叔父など何度も心の中で兄の息子たちを引き取れないことを悔やんでいたほどであったし、口先の心配はなかった。しかし悔やんだところで彼らの経済状況が変わるわけもなかったのもまた事実である。
 そんななかその叔父の妻の兄夫婦から、真司だけなら引き取ってやってもいいとの言葉もあるにはあった。悟史はもう一人でも暮らせるだろうからと、自分たちには子はいないし、二人は無理でも幼い真司だけならどうにか面倒を見られるだろうからと。
 だがその差し出された手を悟史が頑なに拒んだ。彼らの本心もまた、悟史の持つ読心の力で知ってしまったからだ。その夫婦の目当ては悟史たち両親の死におりた保険金であり、小学生の真司はまだ詳しいことはわからないだろうからと、小面倒になりかねない兄から引きはがし弟だけを引き取り好き勝手やろうと画策していたのだ。そんな相手に大切な、唯一残った弟を預けられるわけもない。
 それになにより、唐突な両親の死にひどく落ち込みふさぎ込んでしまった真司から離れることなど到底、悟史にはできなかったのだ。
 だからそのために悟史はひとつ大きな決断を下した。
 それは、どんなに大変なことであろうと自分が真司を育てるということ。そして離れることなく二人暮らしていけばいい、と。他人の家の世話になり肩身狭い思いをさせるくらいならば、離れて寂しい思いをさせるくらいなら、それならば。
 家も残っているし、幸い悟史はもうじき高校を卒業し大学に進学する予定であった。それを取りやめ働けば、多少両親の残してくれた金に世話になることはあってもなるべく残し二人で暮らしていけるだろうと、そう考えた。いずれは真司も大学にまで進むだろうからと両親の金にはあまり手をつけずにしておこうとも。
 さらに幸運なことに大叔父の佐竹丸から高校卒業間近という時期にも関わらず、つてで職を紹介してもらい、無事採用されそこで働かせてもらえることになった。しかもその職場で悟史が任されたのは営業であり、人と接して直接自社製品を売り込む立場だ。心を読める悟史にとっては天職ともいえるもので、入社後は安定した成績を残し、会社からの評価も得ることになった。
 真司に先程告げた通り、読心の力は悟史が仕事をするうえで大いに役立ったのだ。悩みに悩んだことも嘘ではないが、その存在をありがたく思えた時の方が多かった。
 そうして真司と二人で生活していくことも十分安定した見通しがたち、周囲の心配を余所に驚くほどしっかりとした暮らしをしていくことができたのだ。
 悟史が真司と暮らしたがったように、弟もまた兄と暮らせることをおおいに喜んだ。悟史は仕事で忙しいだろうからと自ら家事を率先してやるようになり、大きな包丁には小さすぎる幼い手にいくつもの傷を作りながらも料理も覚えていった。
 家のことがあるからと友達とあまり遊べなくても文句のひとつも言わない。別に大丈夫だからと悟史が背を押しても真司はそう滅多に友と遊びには出ず、しかし喜んでその現状を受け入れていた。
 真司はいい子に育ってくれた。仕事に追われる悟史を理解し、寂しい思いをしてもそれを口には出さず。夜一人にしてしまっても、家で大人しく待ってくれていた。
 だからこそ、そんな支えがあったからこそ。悟史は己の力に心荒んだとしても、苦しんだとしても、それを耐えてくることができたのだ。むしろ真司の存在なくして自分の心は耐え切れなかっただろう。
 守らなくてはならない者がいたから。成長を見守りたい者がいたから。だから、どんなに恐ろしい、言葉が二重に溢れる人波の中でも自ら飛び込んで行けたのだ。

「真司が、ずっとおれを支えてくれた。だからおれも頑張れた。でも――もう、いい加減お互い自立しないとな」

 いつかはわかっていたことだ。こんなにも早くとは思っていなかったが、いつか弟にも人生をともに歩む人はできるだろうと。自分のもとを去り、家庭を作りそこで笑うのだろうと。
 まさかその相手が同性でありさらには竜人であるという岳人であったとは。まさかすでに生まれた息子が同じ竜人だとは、未だに戸惑いはあれど。

「真司が幸せならそれ以上のことはない。岳里なら任せられるし、なにせ十五の弟くんだものな」

 望むのはこれまでもこれからも、あの子の幸せだ。それが確かに今見える未来にあるというのならそれでいい。
 岳人の心はもう覗いてしまった。だからこそ、同性であろうと種族が違えども二人が歩む先に何があるのか、悟史にはわかるのだ。
 何故こんなことを話してしまっているんだろうと自分でもわからず、照れくささに誤魔化すよう笑えば、表情変えることなく悟史を見つめる金の瞳と目が合った。

「――この力、読心の力はさ。仕事のことがなかったとしても今ならあってよかったと、そう思えるんだ」

 悟史の言葉に十五の声が返された。
 それを聞き、悟史は楽しげに笑う。

「だって、心の声が聞こえるから今こうしておまえと話せるんだぞ? 誰もが聞けないおまえの“声”を、おれだけが聞けるんだ。それが嬉しいから、だからこの力があってよかったよ」

 おまえもそう思ってくれるだろう、と続けようとしたが、それよりも先に聞こえた言葉に苦笑する。
 続けようとしたそれを自分から告げた十五と笑い合えば、それが止まるとともに悟史は片目だけの目を見つめ、小さく口を開いた。

「ごめんな。散々迷惑をかけたのに、ろくにお礼もできないまま――ようやく、話せるようになったのに。もう帰らなくちゃいけないなんて」

 悟史はこの世界に来て十五に会い、自分では知らぬ間に彼と盟約を交わしていた。そしてその直後にエイリアスに身体を奪われ、ほとんど自分の意思で動けずにいたのだ。
 この前真司たちに救出されて、そして目覚め。その時に久しぶりに十五と話をした。だがエイリアスに乗っ取られながらも身体が見聞きしたこと体験したことはすべて感じており、十五がどういう男かもろくに話したことはないが理解していているつもりだ。
 だからこそ、彼が悟史のためにエイリアスに従わざるをえなかったことも知っている。それで何をさせられたのかも、どれほど心配をかけてしまったのかも。そしてどれほど、自分を想ってくれているのかもわかっている。
 それ故に、悟史が言葉を区切ると同時に動いた十五に抱きしめられても、驚くことなく受け入れた。
 表情をあまり変えない男であるから、きっと声を失っていたとしてもそっくりな外見をする弟の岳人のようにそう多弁ではないのだろう。だが、隠そうとしても黙っていても心の声というのは誰しもおしゃべりだ。何を考えているかわからないとぼやかれる岳人でさえあれほど情熱的な心を持っているのを悟史は知っていた。
 だからこそ、悟史を抱きしめた十五の想いも一切隠されることなく伝わってくる。すべてが偽りのないものであり、そもそも心を読まれることを知っても臆することもなくすべてを晒す男言葉に。
 相手は同じ男とわかっていながら、しかも自分に恋慕を抱いていると知っておきながら。それでも悟史は身を預けてそっと目を閉じた。
 初めて強引に触れてきた男は、力強く胸に抱えた悟史の身体を抱きしめる。
 声は止まることなく十五の想いを伝えてきた。

「――ああ。おれもちょっと、離れがたいかなぁ……。もっとおまえと話して、もっと知りたかった」

 悟史はまだ、十五の想いに応えていない。すぐに答えは出せないからと待ってもらっていたのだ。
 もといた世界に帰る前に出さなくてはと思っていのに。こんなにも急に別れがきてしまうとは思ってもみなかった。だが急かされたからこそようやく、自分の中にある彼への想いが確かな形へとなっていく。
 その変化を胸の中に感じている間にも、自分の読心の前では自分を偽ることを許されぬ十五は、ただひたすらに思いを吐きだす。それが切なくて、ぎゅうっと悟史の胸を締め付けた。
 もうその痛みが答えだと知るも、悟史は告げる。
 応えることとは違う、彼にとっては残酷な願いを。

「あと少ししか一緒にいられないけれど、最後まで傍にいてくれ。頼む」
「――――」

 頷き、苦しみに満ちた声で愛を自分へと愛をささやく男に。
 悟史は抱きしめ返すことができないまま、ただ胸に顔を押し付けた。

 

 

 

 ふと気づくと、りゅうの瞼がとろとろと下がり始めた。
 散々遊んで疲れたんだろう。それでもまだ構ってほしいと言いたげに首を振っては睡魔と闘い寝まいとしている。
 それについ口元を綻ばしながらも背中を撫でてやれば、そう間もなくベッドに頭を預けた。そして聞こえた小さな寝息に、思わず岳里と顔を合わせ笑い合う。

「寝ちゃったな」
「ああ、一日中構い倒されたんだ。疲れているはずだ」

 そう言いながら岳里は最後にりゅうを一撫ですると、三人で寝転がっていたベッドの上から身体を起こした。それに続いて立ち上がり、ざっと身なりを整える姿を見上げる。

「今から三番隊の方に?」
「引き継ぎがまだ少し残っている。そう時間はかからないからすぐに戻ってこられるはずだ」

 わかった、と頷けば、岳里は自分のベッドの方に向かい、台の下に手を突っ込んだ。
 何か取り出すんだろうかと見守っていれば、何かを掴んで出てきた岳里の手。そこに握られたものを見て思わず声を上げる。

「それは、遥斗の……」
「今朝セイミアから預かった。ジャスの部屋を調べた時に見つけたらしい。おれが行っている間にでも読め」

 そう言って渡されたのは“赤き導きの本”。初代選択者である遥斗が選択の時を迎えるにあたって苦悩した日々が綴ったものであり、後に続く次代の選択者のために作られた本でもある。
 色々な騒動が起こるうちにいつの間にか紛失していたのに。これがジャスの部屋にあったってことはきっとエイリアスがそこに隠してたんだろう。
 本を両手で持ちながら見つめていれば、岳里はその場から動いて扉へと向かった。慌てて顔を上げて追いかける。

「気をつけてな」
「ああ。おれが帰ってくるまでりゅうには近づくなよ」
「わかってるって。何かあればちゃんと呼ぶしさ。おれのベッドは使ってるから岳里の方借りるな?」

 好きにしろ、と言葉を残して岳里は仕事の引き継ぎのために出ていった。
 おれも扉から離れて、眠るりゅうの顔を一度覗き込む。りゅうの寝返りひとつでもただの人間であるおれにとってはとても危なくて。下手したら骨折だけじゃ済まない可能性も高いから、触るどころか岳里が傍にいなければ近づくことさえままならない。
 ぐっすり眠っていることを確認してその寝顔に頬を緩ましてから、隣に備え付けられている岳里のベッドに靴を脱ぎ捨て寝ころんだ。
 手に持っていた本を取り出し、これを初めて読んだ時とは違って躊躇わず表紙を開く。

『選択の時を迎えた、この世界。使命を与えられし人々にこの本を綴ろう。』

 なんだか懐かしくも思えるその出だしをしばらく見つめてから、ゆっくりと本を読み進め出す。
 序盤では初代選択者である遥斗の言葉でそれぞれの役割について説明されていた。おれの“選択を下し者”。岳里の“光降らす者”。兄ちゃんの“闇齎らす者”。王さまたちの“時を見守る者”。そして竜族の、“歴史を継ぐ者”。ここで初めて竜人たちも役割を持つ人だったと言うことを知った。多分、岳里が詳しく選択の時について知ってたのはきっと、歴史を語り継ぐ役割を担った竜人だったからなんだろう。
 この時点ではまだヴィルの役目である“真実へ導く者”はまだいなかったみたいだ。
 説明が終われば、その後には遥斗がこの世界にきてからの日常が語られていた。国に保護されたことや、この世界独自の文化や言葉、文字だとかも書かれている。
 そうして少しずつ世界を知っていく中、その一方で世界片隅から生まれた死の病が全土へと爆発的な勢いで流行ったそうだ。それは瞬く間に広まりろくな対処もできないまま恐ろしい数の犠牲者が出てしまったと、とても強力で恐ろしい病気だということも書かれている。
 そして、それを理由に選択するものを決めたということも。
 その傍らで遥斗がお世話になった国の人たちとのことも記されていた。一緒に世界ディザイアへと呼ばれた初代闇の者悠雅とのすれ違いなんかも。
 遥斗が来た時代の周りの人たちは、おれたちの時のようにいい人ばかりで優しかったという。色々なことを世話になり、教えてもらい。そうして友として仲良くなっていったそうだ。
 でも選択の時を迎える直前になり神ディザイアが現れ、選択の答えを決めることを促すとともに仲間との別れも告げた。その時になってようやく、いずれ別れなくちゃいけなかったことを思い出したそう。そして、遥斗もひどく悩んだみたいだ。

『選択をすれば帰れる。でも、それはみんなとの別れを意味する。もとの世界は恋しいが、でも今いるこの世界ディザイアとも離れがたくなっていた。』

 そう書かれていて、でも選択をすることは絶対で。戸惑っている間にも病は広がり続けて。
 遥斗はおれと同じく、そう別れを惜しむ時間も与えられないまま選択の時を迎えることを決断したようだった。
 ――結果、“悲劇”が起こって遥斗も悠雅も帰れることはなかったんだけれど。それでも遥斗が伝えたかったことを読み終え、結末が書かれることなく終わってしまった本をそっと閉じる。
 おれはもう何を選択するか決めていた。でもこれを読んで改めて、本当にそれでいいのかと悩んでしまう。けれど本にはこうも書いてあった。

『自分の感じたものを信じ、他人の意見に左右されることなく決めるんだ。答えを決めるのは選択者に与えられた権利。与えられた選択肢のどちらを取るべきか見極める力を持つからこそその役割に選ばれた。おれも、そして今この本を読むあなたも。選ぶものがよりよい結末になるという力を持っているのだから、どうか揺れないでほしい。』

 そう、あったから。だからもう心の中でしていた選択を覆さないと決めたんだ。不安に思ってもそれが、おれが何かを感じて選んだものだから。
 本を枕元に置いて身体を起こす。ずっと同じ体勢で読んでいたからか身体は少し動くだけでも軋んで、思いっきり伸びをした。まだ岳里は帰ってきてないからとベッドの端に座り直し、少し遠いここから、腹を上に向けて熟睡するりゅうを眺めた。
 写真も何もないから、りゅうを記憶できるのはおれ自身だけ。ディザイアには何も向こうの世界に持って行くことはできないからとも言われていて、昨日抜けた小さな竜の牙も諦めるしかなかった。
 だからせめて、記憶だけ。この記憶だけにでもりゅうを留めて、ずっと忘れることなく向こうでも暮らしていきたい。
 そうして今見たりゅうの姿だけでいいから、岳里と一緒に思い出して。どんな風に成長するのかとか、人の姿はどんな見た目なのかとか、話し合えたらって思うんだ。

「――りゅう」

 呼んだところでぐっすり眠る身体は起きない。もともと眠りが深いたちらしいし、たくさん遊んで疲れたろうからこのまま朝まで眠り続けたままになるだろう。
 そして明日の朝が来れば。この夜が明けてしまえば、もうお別れだ。
 あっという間に時間は経った。みんなには一人一人に感謝を伝えられたし、あとはもう別れの挨拶をすればいいだけで。それだけでも考えると気が重いけれど、何よりおれをここに引き留める存在にどうしても気持ちの整理はつかない。
 りゅうを忘れるつもりはないけれど、まだ赤ん坊のりゅうはおれたちの顔を覚えてなんていられないだろう。こうして沢山遊んで眠ってしまったこともきっと記憶には残らない。
 寂しい思いをさせるかもしれないし、何か辛いことがあって泣くことも、困ったことが今後あるかもしれない。でもその時、おれも岳里も隣にはもういないんだ。
 遊んでやることも世話してやることも、泣くなよって涙を拭いてやることも、相談に乗ってやることも。
 何ひとつ、してやれることはないんだ。

「りゅう」

 起こすつもりはないし、起きないのもわかってる。それでもどうしても名前を呼んでしまう。

「りゅう」

 せめて、顔は覚えてなくてもいいから。せめてこの声だけは――そう思うのは我がままなんだろうな。でもそれでも、そう願わずにはいられない。
 いつの間にか立ち上がり、りゅうへと手が伸びていて。寝ている身体に触れようとした時、突然横から伸びた手にそれを捕まれた。
 驚いて振り返れば、いつの間にか部屋に帰ってきたらしい岳里が、厳しい目をしてそこにいた。

「駄目だと言ったろう。怪我をしたらどうする」
「――ごめん」

 すぐに岳里は手を離してくれて、代わりに自分で掴まれていたそこを握り締める。落ち込んだ気持ちを出さないように気をつけながらベッドに腰掛けた岳里に振り返った。

「なあ、引き継ぎの方はおわ――っ!」

 顔を見るよりも早く、拳を握った手を掴まれ勢いよく引かれる。突然のことに踏ん張れもしないままその先にあった岳里の身体へ飛び込んだ。
 かたい胸に鼻を打ってしまって、痛みに片手を添えながら身体を起こそうと動く。けれど岳里の手はおれの手首を掴んだまま膝の上から離そうとはせず、ただじっと見つめてきた。

「……岳里?」

 まだ少し痛む鼻から手を退けると、岳里は対面する形で膝立ちに上に乗り上げているおれの胸に顔を埋めた。
 見えなくなった顔に不安を感じると、小さな声が聞こえる。

「――抱かせてくれ」
「だ、抱かせて、くれって……」

 それがただ抱きしめる、なんていう意味じゃないのを知っているからこそ言葉をつまらせれば、腕を掴んでいた岳里の手がようやく離れて腰に回される。
 ぎゅっとそこに力を込めながらさっきよりもさらに小さな声で懇願された。

「頼む」
「でも、りゅうがいるし、それに準備も全然して、ないし」
「朝になるまでりゅうは起きない。他は気にするな、後始末もすべておれがやる」

 躊躇う理由も言っても頷いてくれない。顔も上げないまま、離してくれようともしなくて。
 明らかに様子がおかしくなった岳里に、それでも今はさすがに受け入れきれなくて。
 戸惑いながらも言葉を重ねる。

「岳里は、一緒に向こうの世界に行くんだろ?」
「ああ」
「なら別に、今夜すぐじゃなくっても」
「今、おまえを抱きたい」

 目を見ていないのに、言葉だけは静かにけれど真っ直ぐ届けられて。
 おれと岳里は明日別れるわけじゃない。また会えるから、だからもしするとしてもそれなら向こうの世界だってできるんだ。
 それなのに“今”にこだわってる。きっとそこには何かあるんだろう。でもそれを言ってこないっていうのは、隠してることがあるはずで。
 それを追及してもいい。だって求められるなら、そうなる理由を知る権利がおれにはあるはずだから。それを聞いて納得した上でならまだその願いに頷ける。
 でも、ぎゅうっと抱きつく姿に。戸惑いに彷徨わせていた手で肩に触れ、頭を撫でてやった。

「わかった。好きにしてくれていい。その代わり、おれが眠れるまで付き合ってくれよ」

 どうせきっと、今のこの気持ちを抱えたままじゃ眠れない。でも明日は大切な日だからこそ眠らず夜を明かすなんてできないから。
 だから眠れるように、いっそのこと抱きつぶしてほしい。
 ようやく顔を上げた岳里と目を合わせ、お互い唇を重ね合わせて。
 言いようのない不安を抱えたままそっと目を閉じた。

 

back main next