城の中で一番広い中庭に朝早くからみんなで集まった。選択の時を迎えるにあたって役割を持ったおれと兄ちゃんと岳里、王さまにヴィルに、そして神であるディザイア。その他に、レードゥとアロゥさん、セイミアにネルに十五さんの顔もある。岳里の肩にはりゅうがいた。
他の隊長のみんなも来たがっていたけれど、魔物との激突したあの時に散りきらず残ったやつが何体も国の周りをうろついてるらしく、それの討伐へと駆り出されている。みんなとは別れは済ませていたし、こうして集まってくれただけでも嬉しかった。
「では早速、選択者よ。きみが選んだ“光”か“闇”か。その答えを聞かせてもらおうか?」
もう選択の時が行われるというのは誰しも知るところで、だからこそ前置きもなくディザイアは第一声でそう問いかける。
それに身をかたくするのはこの国の人たちで。
一度深く深呼吸をして、おれは選んだものを、“選択者”として伝えた。
「どれも選びません」
「……は? 選ばない?」
「どういう、ことだあよ?」
困惑する声を真っ先にあげたのはレードゥとネルだった。言葉にしないまでも王さまたちも驚いているようで、ディザイアも笑ながらもどこか面食らったようにも見える表情になっている。
「選ばない、とはどういう意味かな、選択者よ」
「そもそもおれたちはエイリアスに無理に呼ばれた存在だから、本来の選択の時を迎える状態じゃないのにこの世界に来ちゃったんだ。しかも唯一どっちにするか悩む原因だったエイリアスも今はもう大人しくなっただろ? だから何も無理矢理どっちかに決めて選ぶ必要はないと思ったんだよ」
驚き、というより不思議そうな声で説明を求める声に答える。
選ばないって言うのもまたひとつの選択肢だろ、と続ければヴィルが首を傾げた。
「確かに選ばぬも、おぬしが選んだ答えならば認められようが……ならば光を選べばよいのではないか? 現状維持というわけだろう?」
「現状維持には変わらないけれど、それでもそれを選ぶことで何かしら変わるものがあるんだろ? 初めはおれもそれを考えたけど、でもそう判断するにしてもなんだかそうじゃない気がして」
おれが選んだのは、このままの世界であること。光と闇の選択の影響を一切受けずにそのままでいてほしいんだ。
エイリアスのことさえなければ、“何も選ばない”ことにしようと、それは前から心に決めていた。だけどずっとどう説明すればいいかわからないままで、結局今もうまく言えないけれど、それでもどうにかみんなに伝える。
不意に、ディザイアが笑い声を上げた。
「ははっ、なるほど、選択をしないか! 初めての答えではあるが、きみがそうあるべきと判断したのであればそれに従おう。第六の選択の時は、選択すべきでない、“選択不可”であったとする」
そう宣言し、ディザイアはまた笑い声をあげた。それにつられるように戸惑っていた周りのみんなも、とりあえず闇が選択されなかったことを喜んでじわじわと頬を緩ましていく。
下した選択が受け入れられたことにおれも安心して、みんなと同じく笑えば、岳里も苦笑しながら言った。
「光を選ぶものだとばかり思ったら、まさか選択しないとはな。第三の選択肢があるとは考えもしなかった」
「おまえでも考えつかないことあるんだな。見直した?」
「ああ。まったく、おまえには驚かされることが多い」
それって褒めてるのかと疑問に思いながらも満足すれば、ひとしきり笑い終えたディザイアがまだ穏やかな雰囲気が残る中、口を開いた。
「さて、選択の時も終えたことだ。すぐに送還の儀に移ろうか」
「……なんか、随分あっさりしたもんだな」
思わずさっきとは違う笑みを浮かべれば、ディザイアは閉じた目をおれへと向ける。
「本来ならば選択されたものによってやることがあるのだが、今回はそれを省くからな。もとより帰ることは決まっていたのだ、それが少し早まっただけのこと。さあ、最後の別れを済ますといい」
頷くしかなかったおれはくるりとみんなの方へ身体を向ける。そして最後の挨拶を一人一人にしようとした時、後ろから言葉の続きが話された。
「きみの記憶に残らずとも、みなの心には残るだろうからな。しっかりとその姿を刻み付けてもらえ」
「――え?」
みんなに向きなおった身体をまたディザイアへ勢いよく振り返れば、それを不思議に思ったのか、口元に浮かべた笑みを小さくする。
でもそれにすら気づかないまま、さっき告げられた言葉に混乱しながら口を開く。
「記憶に、残らないって……どういうこと、だ?」
「――光の者から聞かされていないのか?」
岳里の方を見れないまま目でディザイアにその言葉の意味を求めれば、躊躇うことなく教えてくれた。
「おまえたちがもとの世界に戻ったら、この世界で過ごした記憶はすべてわたしが封じる。そのため、ここでの日々は忘れてしまうのだ」
「忘れる……?」
初めて聞かされる、でもきっと始めから決まっていたこと。とても大切なことなのに、それなのにそんなこと知らなくて。遥斗の本にも書いてなくて。
でもこんな時にディザイアが冗談を言うとは到底思えない。だからこそやっぱりそれは今から起きる本当のこと。
記憶は、残らない。忘れてしまう。この世界で見てたもの、感じてきたものすべてを。
この世界のことを、みんなのことを。エイリアスのことも、岳里とのことも、りゅうの、ことも。
「全部、消える……?」
頭が真っ白になる。わけもわからず足が震えた。
心の中で振り返っていたみんなとの思い出が、昨日みつめたりゅうの寝顔が。何もかもが白く染められていく。何も考えることができない。
全部、ここで過ごしてきた日々の記憶は忘れてしまうって。残らないって――忘れないって、決めたのに。
それなのに。
あまりのことに眩暈を覚えふらついたおれの身体を岳里が支えた。
「――すまない、真司と話をさせてくれ」
「ああ、話すといい。それまで待っていよう」
岳里の申し出をディザイアは承諾した。
呆然とするおれの背中に手を回し歩かせると、中庭の隅へと導く。
そこで改めて向かい合うけれど、向こうからの言葉はなくて。
沈黙に耐え切れなくなって、自分から声を出した。
「知ってたんだろ?」
「――ああ」
すべてを忘れること。
岳里は頷いて、でもいつもの無表情のまま見返してきた。
光の者であり、さらには竜族の一員として“歴史を継ぐ者”でもあった岳里。だからこそ、歴史を語り継ぐからこそ選択の時のことを詳しく知っていた。そしてもとの世界に帰る時、記憶を消さなくちゃならないことも。
知ってて、昨日の夜求めてきたんだ。最後の夜、だからって。
この世界に二人一緒に召喚されるまで、岳里とは同じクラスの同級生だったけれど接点はまるでなかった。だから向こうの顔は知っていてもどんなやつか知らず、最初はその無表情で無愛想で、無口な態度には戸惑いっぱなしだった。
でも色々あって、岳里が実はこの世界の竜人だったと知って。それで、おれが向こうの世界に呼びだしちゃったことを知って、そこで盟約を交わして――。岳里がずっと、あえて関わらないようにしながらおれを見守り続けてくれたことを知った。
この世界にこなくちゃ何も知らないまま、岳里と関わらないまま向こうの世界で暮らしてたんだろう。
この世界に来たから。だからおれは岳里を知った。理解して、必要に思って、拒絶して。一度別れて、それで気づかされて。この世界に来れたからこそ通じ合えたんだ。
でもすべて忘れてしまうっていうんなら。それだって全部なかったことになる。
岳里としてきたことも、過ごしてきた日々も。一緒に苦しんで、楽しんで、喧嘩して支え合って。りゅうが、生まれてきて。
どれもが大切な思い出だ。忘れるつもりなんてないし、忘れさせたくない。それなのに向こうの世界に戻って気づいた時には、また最初に戻るんだ。
岳里はただの同級生で、見守ってくれてることなんてまったく知らなくて。自分の力のことも、兄ちゃんの力のことも気づかないまま。自分に子どもがいるなんてことも、この世界で過ごしてきたことも、何もかもすべて。
「忘れちまうんだってよ、全部。おまえのことも、みんなのことも、りゅうのことも。向こうに帰ったらなにひとつ覚えてないんだ」
「そうだな」
思わず零れた言葉と一緒に浮かんだ笑みはひどく歪で。そんなもの岳里にもりゅうにも見せられないと俯けば、返ってきたのはいつもと変わらない声。
岳里だっておれと同じはずなのに。この世界に戻ってきたことを忘れて、おれとのことも、りゅうのことも思い出にすら残せないっていうのに、動揺はかけらも感じなくて。
知ってたからこそとっくにその腹を決めてたんだろうか。
それならおれも受け入れる時間がほしかったと、そう思う。でも岳里を責める気にはなれなくて、そうしたところで結局は覆らないことだっていうのもわかってる。
顔を上げられずにいるおれを心配するりゅうの声が聞こえるけれど、応えられないまま口をきつく結んだ。
どうしようもないことだって頭ではわかっていてもそれでも納得しきれなくて。ただただ忘れてしまうことを怖く思ってそれに心ごと震えて。
でも、岳里は大きく揺さぶられるおれに確かな声で言った。
「おれは忘れない。この世界に戻ってきてから、おまえとともに過ごした日々を」
そっと顔を上げれば、本来の紺の髪色に、金の瞳に色を変えた岳里がそこにいた。そう言った声の通りに真っ直ぐ見ている。
迷いは見えなくて、忘れるといことを怖がってもいなくて。そこにはずっと支え続けてくれていた岳里がいて。
「おまえならできそうだよ、本当。でもおれは――おれはきっと、忘れちゃう。全部思い出せなくなると思う。かけらでさえも」
時折ふと世界ディザイアを感じる、なんてこともないんだろう。でも岳里なら本当に覚えていられそうな気がする。おれ自身にはどうしても見出せないその可能性を、岳里なら自分の力で得て見せる気がするんだ。
でも、もうひとつ知ってる。たとえ岳里が覚えていても、おれたちはもとの世界に戻ればもう、関わりあうことはないんだってことも。
岳里はおれの記憶を取り戻そうとはしないだろう。取り戻せる可能性にかけることは、しないんだろう。
だってそうするなら昨日抱こうとしなんてしなかったはずだ。何度も何度も名前を呼んで想いを伝えてくれて。苦しそうにして。そんなことしなかったはずなんだ。
あれが最後だから。この世界で過ごした日々を終わらせる、おれたちとの関係もなくなる、最後の夜だったから。だから岳里は。
もうとっくに、おれとの別れまで決意してたんだ。
自分はそんな苦しい思いをずっと抱えておきながら、おれにはこんな直前に教えやがって。こんな、何もわからないまま終わらせようとしやがて。
そんな、いつもわかりづらい岳里の優しさまで。覚えていることはできないのか。
「……やだなあ、忘れたくねえよ」
気づけばそんな言葉が零れていた。
「この世界のことも、おまえと過ごした時間も、りゅうのことも。全部消えるなんて、こう思う気持ちさえなくなるなんて、そんなの嫌だ。やだよ……っ」
どうせ忘れるならいっそのこと割り切って、こんな風に思いを伝えることなんてしないでさっさと帰っちゃえばいいんだ。それならどんなに胸が押しつぶされそうがそれすら忘れちまうんだから。
でもそれができず、耐えられず。目の前の身体に縋りついた。
「真司」
背中に片腕が回されるのを感じながら胸に顔を埋める。すると、空いたもう片方は優しく後ろ頭を撫でた。
「――ここで起きたことは何ひとつ消えはしない。たとえ忘れたとしてもおまえの心の奥底に眠っているだけ。忘れるということは消えるというわけじゃない」
「きえ、ない……?」
「そうだ。だからいつか思い出せる時がくるだろう。どんなに時間がかかってもきっと。すべてを思い出しまたこの世界のことを、りゅうのことを。おまえと語り合える時が来るはずだ。おれはそれをいつまでも待ち続ける。ずっと、待っている」
この言葉もどうか一緒におまえの心のどこかにしまっておいてくれと、岳里はそう言って頭を撫でる手を止めて強くおれを抱きしめた。
長身の岳里に埋もれるようになりながら、おれも背中に回して服を握り締める。
ああそうか。そうだったのか――。
岳里が覚悟したのは、別れじゃない。どれだけ時間がかかるかわからないけど、それでもおれが思い出すのをただ待つ、っていうことだったんだ。
ディザイアはこの世界で起きたことをすべて忘れると言った。自分が封印するからって。でも記憶が消されるとは一言も言ってない。
だからこそ、見えない場所に仕舞われるからこそ、それをまた見つけ出すことは可能なんだ。
それが何年かかるかわからないけど。どれだけ岳里を待たせることになるかもわからないけど。
もう、一度は岳里を、“がくと”と出会った日のことを思い出してる。無理に忘れられていたそれを呼び覚ますことができたんだ。ならきっとこの世界の記憶だってまたいつか思い出せる。きっと、きっとまた。
「――大好きだよ、岳里。大好きだよ、りゅう。おれも忘れないから。絶対、また思い出すから」
希望と一緒に岳里とその肩に乗りおれたちを見つめるりゅうを抱きしめながら。ようやく覚悟する。
おれを、信じよう。きっと思い出すって自分を信じて、いつまででもその時を待ち続ける。
待っていることを忘れてもそれでも、自分自身に仕舞われながら待ち続けてやればいいんだ。
顔を上げれば岳里も腕の力を緩める。お互い見合って、ようやく晴れた気持ちでまた身を寄せ合った。
「もう大丈夫だな」
「ああ。最後まで支えてくれてあんがとう。これからもよろしくな」
「任せておけ」
ぎゅうっと腕に力を込めながら、岳里はそっとささやく。
「おまえのためならおれはなんだってできる。おまえは嫌がるだろうが、たとえ自分がどうなろうとも、その先におまえの――真司の笑顔があるのなら、幸せがあるのならそれでいい。それがおれのすべてだ。それが、おれの願いだ」
「……そう思うならこれからもおれの傍にいてくれよ? おれの幸せは、今ここにあるもんなんだから」
そう返して笑えば岳里も笑ってくれて。のけ者にするなと言いたげな、でも邪魔したくはないというりゅうらしい気持ちの込められた小さな目を向けられて、おれたちは大人しくしてくれていた我が子に手を伸ばす。
撫でてやれば途端に嬉しそうな、甘える声が喉の奥から出てくる。それがどうしようもなく幸せに思えて、つい頬は緩んでしまう。
きっともう少ししたら人の姿も取れるようになって。歩けるようになって、たくさんおしゃべりできるようになって。
岳里みたくいっぱい食べて、元気に遊んで――顔は、どっちに似るんだろ。岳里に似るといいな。
その答えを知ることはないけれど。それでも確かに今この時が、岳里とりゅうといれるこの時が。おれにとっての幸せだった。
みんなのもとへ帰れば、浮かべた表情ですべてが悟られる。それぞれ優しい笑顔を浮かべながら、ディザイアはおれと岳里の前に立つ。そして兄ちゃんも並べてから口を開いた。
「さあ、では帰る前にひとつ。この選択の時に協力してきたきみたちへわたしから細やかなお礼をしよう。願いをひとつだけ叶える。なんでもいいと言うわけでないから申し訳ないが、きみたちの願いを教えてくれ」
そう告げてから、叶えられない願いについての例をいくつかあげる。
この世界の記憶を封じることを止めさせること。
誰か亡くなった人を生き返らせること、欠損した身体を取り戻すこと。
選択者が下した選択を覆させること。
この世界のものを帰る場所に持ち帰ること――
主にそういったもので、もし願われたとしても叶えられない、他にも駄目なものはあって、それを告げられた時に拒否することもあるとディザイアは言った。
そう宣言し、願いを叶えると言ってもどんなものとでもいうわけでないことをはっきりさせてから、ディザイアはまず兄ちゃんへと閉じた目を向ける。
「闇の者。きみの願いは何かな」
「おれはそもそも特に役には立ってないから願っていいのかわからないけど――十五とりゅうが幸せであれるよう、神であるあなたの加護を与え見守ってやってください。これから寂しい思いをさせる“おれの竜人”と、可愛い甥っ子のことだけが心配ですから」
「それでいいのだな?」
笑みを深めながら確認をするディザイアに、兄ちゃんも同じく柔らかい表情で頷き返した。
その願いがなんだか兄ちゃんらしくて、十五さんのことだけでなくそこにりゅうも含まれていることが嬉しくて。
心の中でひっそりとありがとうと伝えた。
「では闇齎らす者の願いにより、彼の竜人とその甥に。我が祝福と加護にてそれぞれの生涯が終えるまで見守ること、神ディザイアの名において誓おう」
「ありがとうございます」
深く頭を下げた兄ちゃんに続き、りゅうのことを任せるおれと岳里も同じく感謝を込めて頭を下げた。
次に顔を上げた時に、ディザイアは今度兄ちゃんからおれを挟んでその隣にいる岳里の方へ目を向ける。
「では次に光の者よ。きみの願いについてだが、了承しよう」
「――すまない、助かる」
岳里にも兄ちゃんと同じく願いが何かを問われる、と思ったのに。出てきた言葉はちがくて、おれは思わず首を傾げる。
それに気づいたディザイアがくすりと笑って教えてくれた。
「光の者からはすでに昨夜、願いが聞き届けられている。おまえに知られるのは恥ずかしいからと秘密にしてほしいとも頼まれてな。内緒だ」
「それってありかよ……」
じとっと隣の岳里に目をやれば、それに気づいていないように素知らぬ顔で前を向いていた。でもその顔越しに、肩に乗るりゅうと目が合って、嬉しそうに尾を揺らされてしまえばついそっちに意識は向かう。
「では光降らす者の願いを聞き届けたこと。そしてそれを叶えること、この名において誓おう」
結局それがなんだったのかわからないまま、岳里の願いは聞き入れられてしまった。
岳里の心を覗ける兄ちゃんだったらわかるだろうかとちらりと目を向けてみるけど、ただ訳知り顔で困ったように微笑まれただけで。岳里の味方らしく教えてくれそうにはない。
でもいつか問い詰めてやればいいかと諦めて、今度はおれの方へ向いたディザイアに集中する。
「では、選択者よ。きみの願いは何かな」
「……」
おれの願い。それはずっと、ふたつの願いの間に揺れ動いたまま決まらないままでいた。
本当は、できることならりゅうを向こうに連れて行くと願いたかったけれど。それは叶わないからと浮かんだふたつのもの。
そのうちのひとつが、さっきもう兄ちゃんが願ってくれたりゅうの幸せだ。
ついさっきまでそれともうひとつの願いで悩み続けていたんだけど、でももうそれは兄ちゃんが叶えてくれた。だからおれはもう迷うことなく、その願いを口にする。
「おれと岳里にあるこの手の傷を、向こうの世界に帰っても残しておいてほしいんだ」
そう言って、自分の右手の甲をディザイアに示す。そこには大きく斜めに裂かれた傷跡があって、これと似たようなものも岳里にもあった。
それはりゅうが生まれた時に負ったもの。試練の風を乗り越えた証。
偶然にも岳里の左手とおれの右手の甲それぞれに似た傷があって、だからこそこれだけは消えずに残っていてほしいと思った。
りゅうとの繋がりを、これを見れば思い出せるだろうと思ったから。岳里と一緒にあの日生まれたこの子を、初めて顔を見たあの時のことを。それに記憶を忘れてしまうとわかった今なら、きっと岳里もこの傷跡に勇気づけられると思ったんだ。
この世界を思い出すのを待ってもらっている間に寂しい思いをさせるのはわかりきってる。だからせめて、心の奥底では何も忘れてないって。ずっと岳里のこともりゅうのことも想ってるって、この傷跡があればきっと支えになってくれると思って。
「駄目、か?」
すぐに頷かないディザイアに、不安になってそう聞いてしまった。
願うことは決めていた。でもひとつ不安があったんだ。
ディザイアはさっき。この世界のものを持ち帰ることはできないって言った。そこに物とは違う傷痕が含まれているかわからなくて。
もし駄目だと言われたら、それは叶えられないと言われたらどうしよう。そうしたら本当に目に見える親子の繋がりはなくなってしまう。
そうなったら他に願うものはあるんだろうかとまで考えた時、ようやくディザイアが口を開いた。
「すまない、おまえたち兄弟はあまりに無欲と思ってな。光の者はあれほど手間のかかる願いを――あ、いや、すまないすまない」
そこまで言いかけて岳里の視線に気づいたディザイアは苦笑しながら、改めて緊張するおれに向かい直った。
「選択を下し者の願いにより、きみと光の者に刻まれたその傷痕を帰還してよりもその身に留まらすこと、神ディザイアの名において誓おう」
「……ありがとう、ディザイア」
願いが受け付けられたことに安心して、無意識に詰めていた息を大きく吐いた。
そんな様子をただ静かに笑んで見守りながら、落ち着いたところでディザイアは告げる。
「では、これで本当に最後だ。別れの挨拶をしなさい」
その言葉を合図にそれまで黙っておれたちの様子を見つめていたみんなに振り返る。すると、まずは王さまとネルがやってきた。
「随分世話になったな。ありがとう、真司たちのおかげでわたしたちは救われた」
「あんがとよう、真司ィ。ついでに岳里もよう。――ずっと忘れねえからなあ」
おれの胸に飛び込んできたネルをぎゅうっと抱きしめると、おなじだけ力強く抱きしめ返される。
でもすぐにお互い離れて、笑顔を浮かべて。
「だあい好きだぞう、真司ィ!」
「ああ、おれも大好きだよ、ネル」
えへへと照れくさそうに笑うネルはそのまま嬉しそうに、今度は兄ちゃんの方へ走っていった。それを楽しげに見詰めながら、王さまは優しげな顔で最後おれたちに別れの言葉を告げて、ネルの後についていく。
その後にアロゥさんとセイミアがやってきた。
「行ってしまうのだな、ついに」
「寂しいですけど、どうかお二人ともお元気であちらの世界でお過ごしくださいね」
優しげな笑みを浮かべるディザイアに、一皮むけた明るい表情をするセイミア。
おれたちがそれぞれ返事をして頷けば、セイミアは少しだけ目もとに涙を滲ませる。
「真司さんがぼくたちに与えてくださったこと、決して忘れませんから」
「きみたちが起こしてくれた影響に、きっとこの国は変わっていくだろう。長くかかるかもしれないが、世界中の人間にも何かが伝わる日がくるはずだ。いつかきっと、エイリアスが認めてくれるような世界にしよう」
「頑張ってください、アロゥさん。それにセイミアも」
力強く二人は頷き、そして別れの挨拶をしておれたちのもとから去っていった。
その次にレードゥとヴィルが顔を出す。
「なんだかおまえらが来てから、濃い日々だったよ。でも悪くなかった。そりゃ大変なこともたくさんあったけどよ、それでもな」
「向こうの世界でも大変なことはあるだろうが、おまえたちであれば挫けまい。ここでしたきたように、わしらにしてくれたように。誰かを救いながら、たくましく生きて行け」
二人の力強い言葉に頷けば、レードゥもヴィルもにかりと笑った。
「ありがとうな、真司、岳里。向こうでも元気に暮らせよ」
「仲ようせい。わしらも、おまえたちが繋いでくれた縁を紡ぎ続けるぞ」
そう言うとヴィルは不意に隣に立つレードゥの首裏をがしりと掴み、そのまま引き寄せおれたちの目の前で口づけあった。でもすぐに、顔を真っ赤にさせたレードゥに顔を殴られ引き剥がされ、照れ隠しの罵声を浴びせられてそのままこの場から置いて行かれてしまう。
ヴィルは嬉しそうに殴られ赤くなった頬に手を添えながら、最後におれたちに別れを告げて、先に兄ちゃんもとへ向かったレードゥの後を追いかけた。
ヴィルと入れ違うよう、最後に、それまでずっと兄ちゃんの傍にいた十五さんがやってくる。
声が出ない十五さんの代わりに口を開こうとしたところで、その両手がぬっとそれぞれおれと岳里に伸ばされた。
その手はそのままおれたちの頭へと向かい、辿り着くとわしゃわしゃとそこを掻き乱す。岳里と一緒に乱れた髪にさせられたおれたちを眺め、十五さんは満足したように小さく微笑んだ。
初めはおれも岳里でさえも呆然とその笑顔を見ていたけれど、やがて同じものを顔に浮かべる。
言葉もなくひとしきり笑い合った後、岳里は肩に乗るりゅうを抱え上げ、十五さんへと差し出した。
「頼む、十五」
「りゅうをよろしく、お願いします」
二人で片目の十五さんを見詰めれば、不思議そうにりゅうは岳里の手の中から交互に目を向ける。そうしている間にも十五さんへの手へと移されて、何かを感じ取ったんだろうか。その小さな目に不安を宿しておれたちに向けていた。
それに視線を返しながら、自分の首に下がっていたものを外して、それをまだ細く頼りないりゅうの首にかけてやる。
「りゅう、この大切なお守りをおまえに預けるから。大事にしてくれよ」
「ぴうぅ?」
大きさが合わず、十五さんの腕に抱えられたりゅうの首から長く紐は垂れる。それは一度日の光を反射し、きらりと光った。
預けたものは、竜の鱗の首飾り。岳里の鱗で作られ、そしておれに贈られたものだ。
それは、向こうに持って行くことはできないから。だから今度はおれじゃなく、りゅうを守ってくれるようにと願いを込めて渡すことを決めていた。
りゅうと同じ色だけれど、それよりもうんと大きい鱗。その首にはまだ大きすぎる首飾り。
でもいつか同じだけ大きな鱗を身に纏うようになって、その首飾りが合う大人へと成長するんだろう。
それを見れなくて残念だけれど、でもそれをおれたちの代わりに首飾りが見守ってくれるだろうから。
「うん、似合うな。よかった」
まだ到底りゅうには合わないものだけど、あえてそう言って、最後にりゅうの頭を一撫でして背を向ける。
「ぴぃう……」
切なげな声も聞こえない振りして、拳を握って歩き出した。
もうそれぞれ、前日にみんなとはちゃんと別れは済ませてある。だからこそ手短に思いを伝えあったんだ。それは、りゅうも同じで。
残りの時間、できるだけりゅうと遊んだ。一緒に、幸せに過ごせた。だから最後の時は悲しい気持ちを引きずらないよう、ただ首飾りを、お守りを渡して別れることにしていたんだ。
先に歩き出したおれの隣にすぐに岳里も追いつき、もう一度聞こえたか細い鳴き声に振り返らないまま、先に待っていた兄ちゃんの隣に立つ。
兄ちゃんもそれぞれと挨拶も済まし終え、おれたちも最後の用事を済ませてディザイアの前にまた並ぶ。
「もうよいのか」
「ああ。もう、十分だよ」
兄ちゃんと岳里の分もおれが応えれば、そうかと明るい声をあげてディザイアは手を振り上げる。
「ぴぃぎ、ぴぅ、ううう! ぴう、ぴいうぅっ――!」
何かを感じ取ったりゅうが暴れる声を背中で聞きながら、おれたちはそっと目を閉じる。
すうっと何かが消えていく感覚を感じている中、ディザイアのいつもの楽しげな声がした。
「ありがとう。ありがとう、選択者たちよ。我が心を取り戻させてくれて、ありがとう――」
その声に誰かの声が重ねられて聞こえる気がした。それはきっと、ディザイアのもうひとつの心なんだろう。
やがてそんな神の声も聞こえなくなる。
もう何もかもが溶けてしまったように意識は薄れ、どこか深いところまで落ちていく。
それでも最後までりゅうは泣き止まずに、その声はおれの心を苛んだ。