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 朝食を食べ終えて食器を流しに運び、その足で今度は床に置いてた鞄へ向かってそれを手にとる。
 それまで新聞を見ていた兄ちゃんは紙面から顔を上げると、不思議そうに首を傾げた。

「なんだ、今日何か用事でもあるのか? 随分早いじゃないか」
「いや、別に何もないんだけどさ。なんとなく早く行ってみようかなって思って」

 答えながら玄関に向かって、そこで靴を履いていれば、いつものように見送りに来た兄ちゃんが壁に寄りかかり様子を見守ってくれる。

「気をつけろよ。遅くなるならちゃんと連絡するんだぞ」
「わかってるって。んじゃ行ってきます」
「行ってらっしゃい」

 いつものやりとりをいつもより三十分近く早い時間で交わしながら、最後手を振り玄関から外に出た。
 もともと早い時間に出る方だから、三十分早いだけとはいっても人通りは随分少なくなる。すれ違う人もそういないからと、ゆっくり歩きだしながら鞄からこの前買い換えたばかりの携帯電話を取りだして画面を開いた。
 朝のうちに昨日の夜確認できなかった新着メールの見ていると、どれも迷惑メールばかり。最近は量も増えて、いい加減アドレスを変えようかと悩んでいると、ふとメール受信が始まる。
 こんな時間に誰だろ。遅刻ぎりぎりが多い友達たちはみんなまだ寝てるだろうし、また迷惑メールか?
 どっちにしてもやっぱり変えよう、と内心で溜息を吐いたとこで受信が終わる。
 期待せずとりあえず確認しようとそこへ目を向けてみれば、やっぱり登録されてないアドレスだった。でも不思議なことにそれは『Desire』とだけあって。後に続く携帯会社のものもなければ、他に何の単語も入ってない、ただそれだけの宛先がそこに書かれていた。

「でぃざ、いあ……あれ? なんでおれ、読めるんだ?」

 ディザイア。確かにその単語がそういう読みをするんだってことを知っている。でもなんでそう読むのか、おれ自身知っているはずなのにわからなかった。
 多分、英語だと思うんだけど。でも特に授業で習った覚えもない単語だ。もともと英語はそんな得意じゃないし、あんまり詳しくはないはずなのに。それなのにおれはディザイアを知っていた。

「ディザイア――」

 もう一度口にしてみる。けれど思い当るものはなくて、おれはそのまま画面を閉じて服の中に突っ込んだ。

 

 

 

 欠伸をしながら校門をくぐるけれど、想像してた通り人影はない。早く来すぎてもしかしたら校門に鍵がかかっているかもと不安になったけど、幸いにも学校自体は空いてて助かった。
 玄関に入って下駄箱の方へ向かう。
 誰もいないとばかり思っていたから気を抜いていて、鼻歌でも歌おうとしたところで突然視界に長身の人影が映った。

「うわっ! って、なんだ、岳里か……」

 咄嗟に声を上げてからよくよくその人影を見れば、そこにいたのは同じクラスの岳里だった。ちょうど靴をしまうとこだったらしく、びくりと身体まで震わしたおれに無関心そうな目が向けられる。
 どこか無遠慮とも思える視線に、でも何故か腹は立たない。それよりも驚きに高鳴る心臓を深く息をついて押さえつけ、どうにか落ち着かせた。
 あんまり、というかまったく話したことはない相手だけど、とりあえず挨拶だけはと思って平常心に戻しつつ歩み寄りながら声をかける。

「おはよ、岳里」
「野崎――おはよう」

 おれを確認するように呼んでから、妙な間を置いて返される言葉。それを少し不思議に思いながら自分も靴を履きかえる。岳里の方はもう上履きを履いているのに、何故かその場から動こうとはせずじっとおれを見ていた。
 その理由のわからない視線に気まずさを感じて、それを窺うためにもまた口を開く。

「なあ、岳里っていっつもこんな早いのか?」

 今日は校内でも三番以内に入るくらいには早く来たつもりなのにすでにいた相手に尋ねてみれば、ああ、と歯切れの悪い返事が返ってくる。その答えに内心で首を傾げた。
 なんだろう。別に話したがってるようでもないし、でも離れようとはしないし。
 ますます岳里が留まっている理由がわからなくなって、困惑しながらも靴を履きかえて顔を上げる。
 するとまだおれを見ていたらしい岳里と目が合って、でもそれは向こうから逸らされた。それもあからさまに。
 ――なんだろう、岳里ってこんなやつだったっけ?
 語れるほど知ってるわけじゃないけど、少なくとももっとこう、堂々としているというか。しっかり自分を持っているやつのように遠目からだけど見えていた。
 でも今目の前にいる岳里は何かが変だ。何かってなんだって言われてもそれはわからないけど、でも違和感のようなものを確かに覚える。
 岳里とは特に何もなかったはずだけど、明らかにおかしな態度をされてる。別にここにいるっていうことはおれを嫌ってのことじゃないんだろうけれど、でも目は逸らされて。その不均等さになんだか心が霞みがかっているように感じた。でもそれも違和感のひとつで。
 その正体たちを探ろうと自分の中の違和感というものを追究しようとすると、目は逸らされたまま、岳里の方から声をかけられた。

「――覚えては、いないか」
「覚えてって……何をだ? おれ、おまえに何かしたっけ?」
「いや、なんでもない。気にしないでくれ。悪かったな」

 そういうと岳里はあっさりと離れて教室の方へ向かってしまった。残され遠ざかる背を見送りながら、ますます強くなる違和感に今度こそ首を傾げる。
 岳里の口ぶりからして、やっぱり何かあったのかもしれない。でもここ最近であいつと接点があったこともなく、たまに目を合わせていたぐらいだったと思う。特に何もなかったはずで。
 それに、そう聞いてくる岳里の声がなんだか弱々しい気がして、らしくないとも思った。今日が初めてかもしれない言葉を交わした相手に、同級生だけれどもろく声も聞いたことない相手に。なんでそう思うのかわからない。
 不透明に靄がかかる晴れない心を抱えたまま、立ち止ってても仕方ないと岳里の向かった先と同じ教室へ歩き始める。
 その途中で、何気なしに携帯電話を取り出して画面を開いてみた。まだ時間もあるし明日の晩飯の献立でも考えようと思って明るくなったそこを見て、動かしたばかりの足をすぐ止める。
 そこは朝開いたままにしていたメールの受信一覧のままで。一番上にはまだあのDesireという宛先から送られたものが未開封のまま残っていた。

「――ディザイア、か」

 誰もいない廊下の途中でぽつりと呟き、思わず止めてた足をまた動かす。
ゆっくり進みながら、一度は一覧画面を消そうとした指を止める。しばらくじっとそこを見つめてから、深呼吸し、そっとそのメールを開いてみた。
 そこには何の飾りもないただ文章だけで、“選択者へ”と書き出され、こう続いていた。

 

 ――選択者へ。
 きみとそして彼には大変な迷惑をかけた。そのことでたくさん傷つけ、悩ませもしたな。すまなかった。
 だが、きみたちが来てくれたおかげで救われた命が、心たちがある。わたしもその一人だ。だから、何度でも伝えたい。ありがとう。辛い思いをさせてしまったがきみたちが来てくれてよかった。
 だが今こうして謝り感謝を伝えたところできみには覚えはないだろう。わたし自身がそうさせたのだから。
 それを少し苦しく思うのはわがままというものなのだろうね。そしてこの気持ちを伝えてしまうことも本来あってはならないこと。しかしそれをわかっていても、どうしても。あれですべてを終わらせたくはなかったのだ。
 わたしは数多の願いを叶え、見届けてきた。だが叶えるばかりで自分の願いというものを望んだことはない。これまでささやかなものはあっただろうが、しかしそれはわたしの存在自らにそうなればいいと祈るようなもので、他人に託すなどしたことはなかった。
 だからこそ、たまにはわたしの願いを叶えて欲しい。そしてそれをきみに託したいと思う。
 きみがあの世界を思い出すことを、わたしは望む。
 あの世界で見た風景を、抱いた思いを。感じた痛みを喜びを、信じたものを、願ったものを。きみが愛した者たちを、きみを愛した者たちを。
 どうか、思い出してくれ。
 選択を下し者よ、真を司りし者よ。きみの胸の内深くに隠されてしまった真実を、どうかきみ自身の手で見つけ出してくれ。
 彼はいつまでもきみを待つだろう。いつまでも、変わらずきみを愛し続けるだろう。たとえその時が訪れなかったとしてもその心に思いを秘めたまま。どんな孤独を歩もうとも。
 だからこそ思い出してくれ、選択者よ。
 わたしのこの願いを叶えてほしい。わたしだけではなく誰しもが望む、多くの者が求めるこの願いを。
 きみは忘れているだけ、見えないようにされているだけ。
 どうか立ち止った今の時を、再び歩み出してくれ。一緒に足を止めている彼とともに――

 

 いつの間にか足を止めて並んだ言葉たちを目で追っていた。でも何のことを言っているのかさっぱりで。
 “選択者”ってなんなのか。“わたし”、“あの世界”? “彼”って、誰なんだ?
 わからない。何もわからない。でも、何故かとても心がざわつく。
 なんだろう。ぎゅうって、胸が締め付けられるような感じだ。押しつぶされそうで、息苦しい。
 無意識に空いてた左手が拳を握ったその時、手にしていた携帯電話の画面がふつりと消えて真っ黒になった。
 突然のことに慌てて適当に動かせば、すぐに明かりは戻る。けれどそこに現れたのは開きっぱなしだったDesireからのメールはなくて、受信一覧画面になっている。並ぶのは朝確認した迷惑メールばかりで、さっきまで読んでたはずの、あったはずのそれは一番上から消えていた。
 他の受信箱を探しても、一度削除を選んだメールが保留されるごみ箱を確認してみても何もなくて。
 釈然としないまま携帯電話を閉じて肩に下げていた鞄に突っ込んだ。
 それでも落ち着かない心を、メール自体見当たらないのに忘れられない言葉を。晴れない靄を抱えたまま、きっと岳里が先にいるんであろう教室へとまた歩き出した。

 

 

 

 あの変な、実際あったのかもよくわからないメールを読んで教室に帰った後。岳里は鞄だけをおいて姿を消していた。たぶん、どっか行ったんだろう。授業が始まる直前に帰ってきて、誰にも目を向けないまま窓際の自分の席に向かっていた。
 それを何気なく目で追いかければ朝に覚えたあの違和感のようなものはなくて、そこにはあくまでおれの知る範囲の岳里しかい。結局おれの勘違いだったんだろう。
 それからはいつものように、朝みたいに偶然岳里と関わることもなく過ごしていった。
 授業を受けて、いつもの面子と昼飯を食べてその後の昼休みには外に飛び出して身体を動かして。眠い午後を乗り越えていつもとなんら変わらない一日を過ごして、学校を出た。
 今夜兄ちゃんは会社のみんなとの飲み会で遅くなるらしく、ご飯も済ませるから自分の分の準備はいいと連絡されている。
 兄ちゃんがいないなら夕食は手を抜いてどこかで惣菜でも買って帰ろう。ああでも確か今日は肉が安売りだから、明日の分の食材はいくらか買っとこうかな。肉を手に入れるとして何作ろ。
 兄ちゃんに明日何が食べたいかメールして聞いておこう。今日安い食材を買っておいて、肉も軽く下準備もしておけば味がよく染み込んで――そう考えながら歩いていて、ふと道の途中で足を止める。
 立ち止り鞄に手を突っ込んだり服の上をはたいたりして、それでも見当たらないかたい感触に、そこでようやく学校に携帯電話を忘れたことに気づいた。
 やっちまったと溜息をついて、それからすぐに踵替えしてこれまで歩いた道を戻り始める。
 兄ちゃんとの連絡に携帯電話は必須だ。もしメールが来てたとして返信しなければ心配するし、別に家の電話で連絡を取ればいいけど余計な心配をかけさせたくない。それに一度学校に戻っても安売りの時間には十分間に合うし、さっさと戻ってさっさと帰ろう。学校からは出てきたばっかりでそう距離が空いてるわけじゃないし。
 少しだけ早足になりながら戻ってきた校門をくぐり校舎に入って、靴を履きかえて教室に向かう。帰り際咄嗟に机の中にそれを仕舞っていたのを思い出しただけよかった。
 これでどこに置いたかわからなくてなくした、だなんてことになったら兄ちゃんの拳骨が飛んでくるだろうし。
 たまに頭に落ちてくるそれを思い出すと、じんと天辺が痛んだ気がした。思わず苦笑してると、教室の扉が見える。
 閉じたそこからは人の気配は窺えなくて、話し声もなんの音も聞こえない。もう誰も残ってないんだろうと思いながら扉に手をかけ、そこを開けた。
 でも、誰もいないと思っていた教室の中にぽつんと窓際に一人だけの影があった。その人は音に気づき、窓の外に向けていた顔を開いた扉へ向ける。
 すると、どこか驚いたように少しだけ目を見開いて。

「のざ、き」

 教室に一人残っていたらしい岳里は、掠れた声でおれの名前を呼んだ。
 誰もいないと思っていたおれもまさか人が、それも岳里がいるとは思わなくて。思わず小さく声をもらしてしまう。

「あ……帰って、なかったんだ?」
「ああ」

 慌てて取り繕って笑顔を向けながら、後ろ手で扉を閉めて自分の席へと向かう。
 短い返事を聞きながら、なんとなく気まずさを感じる雰囲気を振り払いたくてあえて明るく話しかけた。

「おれ、ケータイ忘れちゃってさ。取りにきたんだ」
「そうか」
「――あ、あったあった」

 ぶつりと切れる会話にどうすればいいか戸惑いながら机に手を突っ込んでみれば、手前の方に目的のものは置かれていた。それを掴み、おれの方を見ていたらしい岳里にほら、と見せつける。
 そのままそれを手に持っていた鞄に仕舞って、机の中のものを取るために一度動かした椅子をもとあった形に戻して、屈めた腰を伸ばす。
 するとまだおれを見ているのを気配で察しそこへ顔を向けてみれば岳里と視線がぶつかった。でも自分からすぐに逸らして、並べられた机を避けながら扉に向かう。

「――岳里はまだ帰らないのか?」
「ああ、もう少ししてから」
「そっか。おれは用も済んだしさっさと帰るな」

 歩きながら短い会話も終わらせて扉の方へ向かう。そこに手をかけた時、岳里の方から声をかけられた。

「じゃあな」
「あ、うん……じゃ、またな。岳里」

 振り返れば無表情の岳里が、初めしてたように窓の外をまた眺めながらそう言ってきて。自分からは滅多に挨拶しないはずの相手に驚きながらもおれも返して、前に向き直って扉を横に動かす。
 開けた道から一歩踏み出して、後ろ手でそれを閉めてからまた歩き出そうとする。けれど、身体は前に動かなくて。
 気づけば一度自分から閉じた教室の扉を勢いよく開けていて。気づけば、その名前を口にしていた。

「っ、あのさ、岳里――!」

 呼んで、何を話そうっていうのか。何をしようっていうのか。自分でもわからないまままだ教室にいる岳里に勢いのまま話しかければ。扉にかけたままだった手をするりと下す。
 そのままゆっくり岳里の方へ歩み寄り、椅子に座るその傍らへ辿り着いた。
 その間も、扉を開けたあの瞬間も。ずっとおれを見ていた目を同じように見返しながら、そっと顔に手を伸ばす。
 その頬に触れれば、勝手にぽつりと言葉が口から溢れた。

「――悲しいのか?」

 岳里はいつも無表情で、いつも何を考えているかわからない顔をしていた。まるで作り物のように整っていて、人形のように浮かぶ顔色は変わらなくて。今だってそうだ。岳里はいつもと変わらず何の表情も顔には出てない。
 でも確かにその目が。その目だけが、おれに痛みを訴えている。そんな気がして。
 だから、気づけばどこか懐かしい気がする言葉を口にしていた。

「悲しいから、痛いのか……?」

 なんでこんなこと言ってるのか自分でもわからない。でも岳里の目が痛いと言ってるようだから、だから悲しいのかと思った。
 辛そうな表情をするわけでもなく、苦しいんだってそう口にするわけでもなく。ただその目を見て、それだけで岳里の声が聞こえた気がしたんだ。
 おれの言葉に驚いたようにほんのわずかに見開かれる岳里の目。薄く開いた唇はぽつりと呟くように。

「――しん、じ……」

 おれの名を、呼んだ。
 朝やさっきみたく苗字じゃなくて、真司って。息を飲むように、何かに耐えるように。微かに震える声で確かにおれを呼んだんだ。
 眉間には顔を歪めるように皺が寄るけれど、それが不快感からくるものじゃないって知っている。なんとなくわかるとかそんな曖昧なものなんかじゃなくて、確かに知ってたんだ。それは、耐えるためなんだって。
 悲しい思いから、辛い心の痛みから。抑え込んだものを溢れさせてしまわないために、だから。
 岳里、と呼ぼうとした時、手を沿えるその頬につう、と雫が垂れた。

「――真司。おれは覚えている。すべてを、覚えている」

 一言一言をしっかりと告げながら、岳里はまたひとつ、涙の粒を頬に流した。おれの手も濡らしながら静かに言葉を続ける。

「おまえの感触、体温、匂い。言葉にその行動に。おまえがおれに見せた感情も、与えてくれたものもすべてだ。何ひとつ忘れてなどいない。だから今更これをなかった振りするなど、出来るわけもなかったんだ。おれはもうおまえに、触れてしまったから。その熱を知ってしまったから。だがおまえはすべて覚えていない。あの世界のことも、あいつのことも、おれのこと、さえも――だから、痛い。胸が裂けてしまいそうに痛むんだ」

 またひとつ、ぽたりと頬を流れた涙が顎へと伝い床に落ちた。それでも岳里は涙を拭わないままその胸いっぱいに詰まってるはずの想いをただ静かに伝え続ける。

「悲しい。悲しいのはこんなにも痛い。おまえが教えてくれたから知っていた気でいたが、こんなにも痛むのは初めてだ。このまま心臓が止まってしまいそうで、おまえに会えなくなってしまいそうで。不安で、たまらない。おそろ、しい」
「がく、り――」

 手を頬に添えさせたまま岳里は俯いてしまった。それでも手に涙が触れて、今苦しみ続けているのを教えてくる。
 岳里が何を言ってるのか、何のことを言ってるのか。よくわからない。
 わかったのは、おれが何か大切なことを忘れてるということ。でも岳里はその大切なことを全部覚えているということ。
 目の前で小さく肩を震わし、そして声も上げずに涙する姿。いつも揺るがない山のような振る舞いをする岳里をこうも頼りなさげに、不安そうに見せてしまう何かが、その忘れているものの中にあるんだ。
 ――ふと、あの不思議な消えたメールを思い出す。

『きみがあの世界を思い出すことを、わたしは望む。あの世界で見た風景を、抱いた思いを。感じた痛みを喜びを、信じたものを、願ったものを。きみが愛した者たちを、きみを愛した者たちを』

 おれが見た風景、おれが抱いた思い。おれが感じたもの、信じたもの、願ったもの。
 おれが、愛した人たち。おれを愛した人たち――

『どうか、思い出してくれ。選択を下し者よ、真を司りし者よ。きみの胸の内深くに隠されてしまった真実を、どうかきみ自身の手で見つけ出してくれ』

 おれの中に隠された真実、忘れられた、もの。それは、それは確か――――それは、何だ? おれがどんな大切なことを忘れてるんだ。あの世界って、一体なんなんだよ。
 何かが思い出せそうな気がする。でも、何も出てこない。きっとおれのせいで泣いている岳里の涙を拭ってやることもできず、その顔を上げてやることもできず。
 何にも、思い出せなくて。苦しくて悔しくて。
 唇を噛みしめた時。俯いたままの岳里の左手が動いた。それはそのまま頬に触れるおれの右手に重なり、ぎゅっと握りしめる。
 温かく大きな手を感じながら、ふとその手の甲に傷跡があるのが見えた。
 大きな傷だ。何かに裂かれたように、左の手の甲いっぱいに刻まれている。そしてその手の下になるおれの右手の甲にも、隙間から少しだけだけど、確かにそれと似た傷跡があるのが見えた。
 何かに裂かれたような、大きな傷痕。岳里の手を見て初めてその存在に気が付いた。
 ――いや、本当はずっと、ずっとそこにあったんだ。最初から。だっておれ自身が今日を過ごしていく上で何度もそれを目にしてたんだから。でもそれでも、その傷跡があることが当たり前だと思っていた。たから特別認識もしてなかったんだ。だって当然のものだから。
 でもこんな怪我したことはない。記憶にもないし、ずっとなかったはずのもの。でもそれなのに確かに手の甲に刻まれていて。
 戸惑うおれの心に、遠くから小さな鳴き声が聞こえた。

 ――ぴぃう! くるる、くるるるるぅ。

「――ぁ」

 甘えた声、嬉しそうな声が聞こえる。でもそれはすぐに消えて何も聞こえなくなって。
 でも確かに、“鳴いて”いたんだ。

「岳里、今、りゅうの声が――りゅう? りゅうって、誰だ……?」

 何故か岳里を呼んで、出した名前に。自分から口にしたのに浮かぶのは戸惑いで、わけがわからず咄嗟に頬から手を離そうとした時。
 立ち上がった岳里に、強く抱きしめられた。背の高い岳里に埋もれるように、包まれるように。でもその力は痛いくらいで。

「真司、真司っ……! いくらでもおれは待つ。おまえが思い出してくれるのを待つ、だからっ――今だけでいい、わからなくていい。だから望んでくれ。おれがおまえの傍にいられるように、願ってくれ……っ」

 おれを包むように抱きしめながらも縋るように荒げられた声に。その言葉に、何故だか胸が熱くなる。
 そんな知らないはずの感情を感じながら、聞いたことがあるはずのない、もうひとつの岳里の声が頭に響く。

『おまえが求めてくれる限り、おれは傍を離れはしない。隣で、おまえを守り続ける。だから、真司――どうか、望み続けてくれ。おれがおまえの傍に入れるように。ともに、在れるように』

 静かな声にも関わらず、熱を含んだ甘い言葉。岳里が、おれに言った、いつかの言葉。
 それを皮切りに、いくつもの声が聞こえてくる。いろんな表情を持った、いろんな言葉が。おれに向けられたものたちが。会話なんてろくにしたこともない相手のはずなのに。
 頭に流れるものの中に、今の岳里の声が混じった。

「真司――」

 甘くも切なげに、苦しげにおれを呼ぶ声。おれを、求める声。
 遠くからまた、あの鳴き声も聞こえる。でも今度はとても寂しそうで。
 苦しいぐらいにぎゅっと抱きしめられながら、おれ自身を置いていきながら勝手に胸に溢れる、知らないはずの感情に喉の奥がひくつく。じわりと目元が熱くなって、指先が震えて。
 聞こえた色々な言葉と、悲しそうな泣き声と。やがて消えていったそれらの後に、最後、おれ自身の声が聞こえた。

『――大好きだよ、岳里。大好きだよ、りゅう。おれも忘れないから。絶対、また思い出すから』

 それは約束の言葉。二人に誓った、おれの想い。
 震える唇で、その名前を口にする。

「りゅう」

 背中に回されていた岳里の手が僅かに動く。
さらに続けて、どんどん名前をあげていった。

「十五さんに、王さまに。ネルにアロゥさんに、レードゥにヴィルに、セイミアに――」

 一人一人、覚えている限りの全員の名前を出していく。
 城のみんなに、十五さんとカランドラさん。初めて向こうの世界で選択の時を経験した役割を持つ人たちに、世界と同じ名を持つ神と、その影だった人。その二人に愛された竜たちに――
 全員の名前を、自分の口から出していった。ただ岳里は抱きしめながら黙って聞き続けて。でも、おれを包む身体を震わせて。
 ようやくそれを抱きしめ返して、最後に口を開く。

「岳里、岳里――」

 大切な、おれの“番”の名を呼ぶ。
 色々なものを一緒に乗り越え、支えてくれた。時には傷つけあって離れたこともあったけど、最後まで隣にいてくれた、かけがえのない相手。
 岳里。ああそうだよ、岳里だ。ここにいるのはおれの岳里だ――
 ぎゅうっと抱きしめれば、すべてを悟った腕はさらに強く求めてくれて。気づけば同じように涙を零して。それでもまだ足りない。もっと、もっと傍に。
 ごめんな。案の定忘れてたよ。岳里は覚えてくれてたのに、それなのに全部忘れて呑気にただの同級生として接して。
 ごめんな、悲しかったよな。わかってたこととは言え、おれは何も覚えてないんだから。あんなにたくさんの思い出があるあの世界のことをあっさり忘れて。りゅうのことまで思い出せなくて。
 でももう、岳里を悲しませたりなんてしないから。痛いからって、泣かせたりしないから。
 もう、大丈夫だから。だって――

「おれっ、思い出したから……! あの、世界のこと、りゅうのこと、おまえのこと。全部、全部思い出したから! だからこの世界でも一緒にいてくれ。ずっと、傍にいてくれっ」

 いつだって望んでいる。たとえ忘れたとしても、何度でも思い出して。何度でも、それを願うから。
 だから。
 少しだけ緩められた力に顔を上げれば、あの綺麗な、満月のように輝く瞳と目が合った。
 二人して涙に顔を濡らしながら、どちらからともなく顔を寄せて唇を重ねあう。そしてもう一度してから離れて、また目を合わせて。
 互いに口元には笑みを浮かべて、おれたちはまた震え上がるほどの喜びを分かち合った。

 

 ――その傍ら、おれの鞄の中で、携帯電話がメールを受信しそれを伝えるためにその身を震わす。
 送り主はDesire。その中身はこう綴られていた。

 

追伸、選択者へ。
 すまない、ひとつ伝え忘れていた。もしきみがすべてを思い出すことができた暁には、光の者の願いにより生み出された、そちらとこちらを繋ぐ扉が現れることになっている。
 とはいっても完成するまでに一年はかかるから、それまで待っていてくれ。ちなみに、きみの家のどこかにつなげる予定だからどうぞよろしく頼む。
 では言いそびれていた用件はここまで。
 扉ができるまで光の者と仲睦まじく過ごすといい。無論、闇の者とも仲良くな。
 あと、顔を出すことになったその時は、そちらの菓子でも手土産によろしく――
 

追伸の追伸。
 きみたちの息子が人の姿をとれるようになったぞ。次に来た時にその姿をわたしの力で見させてあげよう。息子の成長を楽しみにしていてくれ。

 神より

 

 

 ――それは今のおれたちを初めから知るように、ディザイアが変わらず浮かべていた笑みが見えてくるようなものだった。


 おしまい

 

 

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―――

 



あとがき

えっと、まずなんて言っていいのやら。
とにかく、ここまでDesireにお付き合いくださり、本当にありがとうございました。

とても長く、設定もそこそこ詰め込まれた当作品はさぞ読みにくかったと思います(笑)
展開もゆーっくりで、決して自信を持っていい作品にしあがった! とは到底言えません。
ですが、こんな物語でも少しでも楽しんでいただけたのであれは、本当にうれしいです。

なんと言いますか、後書きで言いたいことがいっぱいだったはずなんですけど。
いざこうして書きだしてみると特にお伝えすることはないかな、と(笑)

とにかくこの作品は、最終章は特に私の自由に書きました。
恋愛小説なのにエイリアスとの対決があって。人を滅ぼす云々かんぬん……ですが、あれもこの作品で書きたかったことのひとつなので無事書けて本当に良かったです。

だらだら書いてしまうところからわかる通り、私はとてもまとめることと説明が苦手という、小説を書く者にとって致命的な欠点がありますが。
それでも、とても楽しく最後まで書ききることができました。

2013年内完結!を目指し、12月はもうひたすら書いて書いて書いて書いての日々。
正直とっても大変でした(笑) 実際はもう間に合わないとさえあきらめていましたが、それでも根性出して大晦日の今日書きあげることができ、心底安心しております。
でも、がむしゃらに書き連ねる日々はとても楽しかったです。
いやあ、人間やればなんとかなるものだな、と…(笑)

Desireを書いている長い間、何度も心が挫け書くのをやめようと思いました。
別に誰に望まれているものでもないし、根性なしの私に完結できるかもわからない。楽しんでもらえているかも、このまま進んでいっていいのかも。
ですがその度に読者の皆様に支えられ、自分自身も、この作品はわたしには書けないものと言い聞かせ書き続けてまいりました。
現に、同じお題でも書く人によって作風は変わりますし、たとえこのDesireが特に奇抜な物語でなかったとしても、わたしが書けばそれはもう私にしか書けないものです。(ネタの丸パクリなどは別として)
そして、真司を始めとしたわが子たちを動かしてやれるのも私だけだなーと。

という心持になれたのも、励ましてくださったお言葉の数々です。
一人では決して、このお話は書きあげることはできなかったと思います。

これまでご感想を送ってくださった方だけでなく、最後まで読みきってくださった読者の方、全員にこの感謝のお気持ちを伝えさせていただきます。
本当にありがとうございました。

これにてDesireは完結でありますが、この話には脇役CPたちもいます。
なので今度はそいつらを順に書きあげていこうと思っております。

最後のディザイアからのメールでおわかりの通り、そう遠くない未来、真司たちは再び世界ディザイアへ訪れそこでみんなと再会します。
もちろん、そこには人の姿をとれるようになったりゅうもです。
そうしてまたみんなで仲良くすごしていく、そんな後日談を考えています。
だからその脇役たちの話はものによっては何年後かのものもございますが、真司たちがちらちら出てきたり(笑)

よろしければそちらもまたお付き合いくださればと思います。

結局また無駄に長い後書きになってしまった気がしますが、これがこの作品の作者である私だからこそのだらだと思ってください。
そしてそんなだらだらにここまでお付き合いくださり、本当にありがとうございました!

長くなりましたが、最後に。
何度も申し上げるようですが、ここまでお読みくださりありがとうございました!

今度は他作品や、脇役たちの話、そのた諸々。どうぞそちらの方もよろしくお願いいたします!


2013/12/31