髪を乾かし終え、おれたちは張りきるネルを先頭に城の中を見て回る。最初に食堂、次に資料室、図書館、各隊に与えられた部屋に、密かに兵士の人たちが息抜きに使う秘密の場所まで。外の隅でぶちぶちと草を抜きながら愚痴ってた兵士さんたちには悪いことしたな……。
 その次に案内されたのが、王さまの書斎だった。
 はじめ、扉の前にふたりの屈強な兵士の人が立っていたんだけど、ネルを見ると頭を下げ一礼し、脇に身をずらす。

「おー、御苦労さん」

 そう気軽に声をかけ、ネルはノックもせず部屋に入っていった。だから、まさかその中で王さまがお仕事モードで鬼のように仕事をこなしているだなんて思わなかったわけで。
 おれもネルの後を追い、中に入ると、その瞬間どなり声が飛んでくる。

「馬鹿者! 早く調査にいけ! あそこの橋が崩れては民が生活に支障をきたすのだぞこのど阿呆!」
「たっ、ただいま調査してまいりますっ!」

 鋭い王さまのささくれ立った声に思わずびくりと身体を震わし、慌てて後ろを歩いていた岳里の影に隠れる。するとその横を、必死な形相をしたひとりの兵士の人が駆け抜けていった。
 風のように通り過ぎて行ったその人の背を、風圧で舞う髪をそのままに眺めていると、ふっと目の前の影が消える。視線を前に戻せば、岳里が進みだしていた。
 それを追いかけ岳里の背中から隣に立つと、机の端に大量の紙を積み重ねその間から覗ける王さまと、いつの間にかその傍らに立っていたネルと目があった。
 王さまはさっきの声が想像できないくらい、穏やかな顔つきと声でおれたちを歓迎してくれた。

「よく来たな、ふたりとも。見苦しいところを見せてしまってすまない」
「い、いえ……」

 笑顔なのに何故か凄みを感じてしまう。
 おれの感じたことが伝わったのか、王さまは笑顔をそのままに説明してくれた。

「実はほころびのある橋があるらしくてな。それをたったいま調査しに行かせたんだよ」

 そこがもし使えなくなったら不便なんだ、と続ける王さま。
 もちろんおれはそれがどこの橋かなんて知らないけど、さっきの言葉と今の補足で、だいたいの事情はわかった。
 とはいえ、あんな風に怒鳴るなんて、本当は今機嫌が悪いんじゃないのかな……。
 そんな風に勝手に想像するおれをよそに、王さまは片手をあげる。

「よし、少し休憩だ」

 はい、と返事をしたのは、王様の机の左右に離れて並べられていた机の左側に座った人物だった。その声に聞き覚えがあって、視線を向けてみれば、やっぱり見知った人が穏やかな笑顔でそこにいた。

「あっ」
「やあ、真司、岳里。元気だったかい?」
「は、はいっ」

 問われ、おれは少しかたくなりながら返事をする。岳里は小さく頷いただけだった。……頷いただけでも立派かな? 本来なら無反応でもおかしくはないからな。
 そんなことを思いながらも、おれは必死に知ってるはずのその人を思い出そうとする。けれど頭をどんなに回転させても思い出せず、おずおずと声を出した。

「えっと、あなたは……」

 途中であいまいにするように言い淀むと、不機嫌な表情になるでもなく、すぐに答えてくれた。

「わたしはアロゥだよ。ジィグンの主の」
「あっ、ジィグンの」

 そうさ、とおれの繰り返した言葉に肯定をしてくれた。
 そうだ、このおじいさんはアロゥさんだ。鼠の獣人のジィグンの主の。確か、四番隊あたりの隊長でもあるんだっけ……?
 会うのはこれで二度目になる。会議の時に会って以来だ。

「さあ、立っているのもなんだろう? そこへ座るといい」

 そう立ち上がった王さまに手で示されたのは、入ってすぐの右端に備え付けられていたソファーと机が並ぶ場所だった。
 促されるままそこへ向かい、同じく席を立った王様とアロゥさん、そしてネルもやってくる。
 指示された席に腰をかけ、五人でぐるりと机を囲った。いつの間にかネルが用意したお茶に、お茶請けも用意され準備は整う。
 岳里がじいっと用意されているものを眺めているなか、おれはというと、ふっかふかのソファーを密かに楽しんでいた。
 さ、さすが王さまの部屋……なんでも高級そうだ。ソファーは身体がすごく沈むのに、弾力があってぱっと立ち上がることも苦じゃあない。
 用意されたのお茶は、多分紅茶かな? 凄く癒されるいい香りが鼻にまで届いて来て、いかにも高そう……。おれ、あんまり紅茶なんて飲まないからわからないけど、でもこの香りが好きだな。カップもつるりとした白い陶器に、彫りこまれた何かの模様も凄く繊細で細かくて、職人技が光ってる。

「さあどうぞお。おれのご自慢たちでえ」

 嬉しそうに淹れ終えたカップをすっと机の上を滑らせながら、真っ先におれの目の前に差しだす。続いて王さま、アロゥさん、岳里、自分のもとへ。――普通おれなんかよりも王さまとアロゥさんを優先すべきなんじゃ……とは思うけれど、反応を待っているようなネルや、至って気にしてない本人たちを目の前に言えるわけもなく。

「い、いただきます……」

 触れるだけじゃ割れないのはわかっていても、そろりとカップの持ち手を持ち上げる。
 顔に近付くそれだけ、香りも強くなる。けれど決して不快ではなくて、さらに深く身身体の芯にまで沁み入る感じだった。
 そっと、器に口を付けると、香りが口の中にふわっと広がった。ほんのり甘い香りと違って、味には甘みの中にかすかに苦みを感じた。なんていえばいんだろう。自然な苦み、っていうのかな?

「それはあよう、香茶って言うんだあよ。香りが第一に良くて味は二の次なんだがあよ、そっちもそれなりだあろ? おれぁそれが大好きなんでえ」
「紅茶……こんなにおいしかったんだな」

 香る茶と書いて、香茶。そうとも知らずおれはただ自分の知る香茶と同じ読み方をする紅茶と勘違いをしたまま、感動していた。

「香茶は単に注ぐだけではその真の価値を見いだせない。茶といえどそれなりの技術を要するものでな。ネルはとてつもなく香茶を淹れるのが得意なんだ」
「そうなんですか。ネル凄いな」

 王さまの言葉に、おれは素直に感心しネルにおいしい紅茶をありがとう、と伝える。

「――おれぁ香茶に関しては天才なんだあよ。飲みたかったら、またいつでも淹れてやるかあら、遠慮なく言えよう」

 少し顔を朱に染めたネルは、はにかむように笑んだ。
 つられておれが笑うと、ふと隣でさくさくという音がしてくる。
 ――なんだか嫌な予感が……。
 音がする方向は、隣に座る岳里からだ。そしてこの小気味いいさくさくとした音は……。
 ばっと隣に振り返ると、お菓子の入った器を抱えた岳里が、唇にクッキーのようなものを挟んで唇を動かすだけでそれを口の中へ導いていった。
 小脇に抱えられた器に入っていたはずの山のようなお菓子は、ない。空だ。
 そんな彼らのダイイングメッセージと言わんばかりに、岳里の頬には菓子のカスがついている。
 そして何より、岳里の傍の席に座るアロゥさんが苦笑いしているのが証拠だった。

「がっ、岳里! おまえまたひとりで全部食べたな!」
「……つい」
「ついじゃないだろ! 普通すぐ手に付けるもんでもないし、そんながばがば食べるもんじゃない!」

 どうぞって言われてから食べるのは礼儀だろ! と続けようとしたところで、こうして声を荒らげるおれもこの場にふさわしくないと気がついた。
 いつの間にか岳里のほうへ向けていた身体を前に戻して、こほんと咳払いをひとつする。

「と、とにかく、駄目だろ岳里」
「まあ、別に気を使わずとも構わないさ。菓子が気に入ったのなら、いくらでも用意しよう。ネル」

 はあい、と返事をして、ネルは立ち上がり岳里から空っぽの器を受け取り、奥へ行った。この部屋から別の部屋に通じる扉があって、そこへ消えていった。

「岳里は菓子が好きなのか?」

 ネルを見送ったあと、視線を戻した王さまが岳里に尋ねた。

「好きか嫌いかと聞かれれば、好きだと言える」

 ひとりで全部お菓子を食べて置きながら、そんなことをいうのかこの畜生は。素直に好きって、言えないのか?
 とはいえ今言わないというところを見るとやっぱりそうなんだろうと自己完結し、おれはカップを手に取り紅茶を一口すすった。
 これを飲んでいると、じわじわと身体の芯から温まる気がする。そういう効果があるものなのかな?
 ネルはすぐに戻ってきて、さっきよりも心なしか嵩の増したお菓子の山を手にしていた。

「ほうら、真司ィ。今度は食いっぱぐれんなよう」

 ことりと机に音を鳴らしながら置かれた器に、早速反省のない岳里の手が伸びるも、それはネルが笑顔をおれに向けたままぺちりと叩いて撃退する。その一部始終をばっちりとらえていたおれの視界の中で、逆再生をされているように岳里が表情を一切変えないまま、手を引いていった。その後すぐ、まっすぐな視線がおれに刺さる。
 ――これは、あれなのか? おれに早く食べろって、岳里は言いたいのか?
 何故だか、それでなければおれが食えないと言われているような気がする。それに重なってネルもおれを見つめていて、口には出してないけれど、早く食べてくれと言われているように思えた。
 まあ実際おいしそうなクッキーが気にならないわけでもなかったおれは、ふたりに急かされるまでもなく、自然と手を伸ばした。

「いただきます」

 一枚、山の側面からクッキーを摘み、それをすぐに口に入れた。
 さくさくと小気味いい音が口の中で鳴り、少し強いバターの味が広がる。少しくどいようにも思えたけれど、これで紅茶を一口飲めばちょうど具合がいいことに気がついた。
 試しに、またカップを取って少し、含む程度紅茶を飲んでみると、やっぱり、紅茶がクッキーの味わいをあっさりと良い余韻に姿を変えさせてくれる。

「うわ、おいしいなこれ……紅茶との相性もすごく良いし」
「真司、それはネルが焼いたものなんだ」
「え、ネルの手作り!?」

 思わず取ったふたつ目のクッキーを口に入れようとしたところで、おれは王さまの言葉を聞いて思わず振り返った。その先には照れたように少し顔を赤らめはにかむネルの姿があり、事実だと肯定している。

「すごいな、おれてっきりそういう専門の人が作ってると思った!」

 素直に評価するおれに、ネルはついと視線を逸らし、右の人差し指でかりかりと頬を掻く。口先がほんの少しとがりながらも、変わらず染まってる頬を見ると、単に照れてるだけだとわかった。

「まあ、あれだあよう。菓子作りは趣味だからあよ、それなりに自信はあんだあ」
「自信があるなら、事前にわたしを味見役に使わなければいいだろうに」

 ネルの言葉に、王さまは小さく笑う。
 え、とおれが声をあげると同時に、ネルが動いた。

「う、うるさあい!」

 腕を王さまに伸ばしたかと思うと、頬を掴み、思い切り引っ張った。長めのネルの爪も食いこみつつ、限界まで引き延ばされる。
 う、うわあ……ネルそれっていいのか? お、王さま相手にいいのか!?
 そう思うものの、ネルは王さまからそっぽを向きつつも掴んだ頬を離さない。
 どうしようかと視線を王さまに戻して見ると、笑っていた。
 ははは、と爽やかに、痛みを感じさせない笑顔で……。けれど、つねられているせいでいびつになる輪郭はやっぱり痛々しい。

「ふんっ」

 鼻を鳴らし、ネルはぱっと手を離した。つねられた痕は王さまの顔に赤く残っていて、それをさする手は何処となく柔らかい気がする。

「まあネル、そうへそを曲げるでないぞ。ほら、真司も戸惑っているではないか」

 今までなりゆきを見守っていたアロゥさんの口から、突然ふたりの間に引き出されたおれは、落ち着こうと紅茶を飲もうとしていたところだった。

「――まあ、しかたねえなあ。話は後だあぞう」

 若干唇をとがらせながらも、ネルは王さまを一睨みして、顔を前に戻した。
 結局引き合いに名前を出されたものの、おれには何もすることはなく。アロゥさんにうまい具合に利用された気がしながらも、ほっと一息ついて、今度こそ紅茶を煽った。
 それから話したのは、この世界には慣れたか、だとか、おれたちの世界の話をしてほしい、という世間話のようなものだった。主に話しているのはおれとネルで、その時折に王さまが混ざり、アロゥさんが質問をしたりして、岳里はおれの足りない言葉を補ってくれた。だけど、やつの大半はお菓子に向かっていた気がする。
 今度こそネルに怒られると思ったのか、一枚一枚手にとって食べていく。けれどやっぱりそこに遠慮はなく、おれにとってはばくばくと食っているようにしか見えなかった。
 ふいに、王さまが口を開く。

「ところで、少し岳里とわたしと、アロゥとで少し話がしたい。ネルはネルで真司と話がしたいそうだから、少し席をはずしてもらってもいいだろうか?」

 そう長くはかからないから、すぐに合流させるよ、王さまは続けた。
 それはおれが二杯目の紅茶を飲み終えたところで、わざわざ区切りを見計らってくれたんだろうか。
 おれに拒否する理由はなく、何故岳里だけがという疑問はあったものの、おれはそれを承諾した。
 ちらりと岳里を見てみれば、心なしか、顔を険しくしている気がする。

「真司ィ、こっちに行くでえ」

 立ち上がったネルについていくため、おれも立ち上がった。

「お茶、ありがとうございました」
「ああ。またいつでも、とは言えないが、たまにはこうして付き合ってくれるとわたしも嬉しい。ネルも喜ぶだろう。そのときはよろしく頼むよ」
「はい」
「おうい、行くでえ」
「――それじゃあ、失礼します」

 既に扉に手をかけていたネルに呼ばれて、おれは王さまとアロゥさんに頭を下げてから、その後を追う。
 痛いくらいに強い岳里の視線が、背中に刺さった。

 

 


 この世界に来てからというもの、おれと岳里はほとんど一緒に行動してきた。だから離れたことなんてそうないわけで、部屋を出て岳里が見えなくなった瞬間、一気に心細い気持ちを感じた。
 不安、だと思う。岳里がいないだけで、それだけで空気が冷える気がする。一歩足を踏み出すごとに勇気が必要にすら思えた。それほどまでに常にどっしりとしている存在は強いと改めて思い知らされる。
 そんな臆病になるおれに気が付いているのか、いないのか、ネルは歩きながら、岳里の名を口にした。

「真司ィ、岳里はいいやつかあ?」

 腕を頭の後ろで組みながら、ネルはそう尋ねてきた。
 おれは少し迷ってから、うまく考えがまとまらないまま、それに答える。

「いいやつ、なのかな……わかんないや。でも、あいつが頼りになるのは確かだよ。おれはあいつに、何度も助けてもらってる」

 そう話しながら、おれは今までを振りかえる。
 当然と言えば当然なんだけど、おれが不安だったり、おかしくなりそうだったり、答えが見つからなかった時。そんな時に、必ず岳里は傍にいてくれた。傍にいて、おれがどうすればいいのか、導いて支えてくれた。

「たぶん、あいつがいなきゃ、おれは今ここにこうして、ネルと普通に話すなんてできてなかったと思う。この世界にきた時の混乱がそのままで、冗談じゃなくて、気が狂ってたかもしれない。それぐらい――この世界はおれにとって怖かったんだ」

 突然ここは異世界だと言われて、それを信じる人間がどれくらいいるだろうか。そもそも、そんなもの物語でしかないと思ってた。自分が実際こうして、魔術があったり、獣人がいたり、化け物がいたりする世界に来るなんて夢にも思わなかったし。これが現実だと言われるより、自分の気が触れたと言われたほうがよっぽど納得できるぐらいだ。
 でも、この世界にこうしてきたのはおれだけじゃなかった。岳里がいた。それが、おれを正気でいさせてくれたんだと思う。

「本人にはとても言えないけど、あいつの存在はおれにとって大きいよ。正直――今、隣に岳里がいなくて、ちょっと怖いんだ」
「怖い?」

 聞き返されて、おれは頷いた。その事実を自分のなかではっきりさせていけばいくほど、身体はうすら寒いものに包まれていく気がする。
 無意識のうちに自分の身体を抱いていた。
 それでも、その分岳里とのことを思い出すと、考えると、心だけはほんのり温かい気がする。

「何が怖いか、それはうまく説明できなんだけど、なんていうか……素っ裸のまま外に放り出されたみたいな、自分がすごく無防備な感じになるって言うのかな。この世界に来てからはずっとおれは岳里と行動してきたから、そんな感じがするんだと思う」

 大切なものが、むき出しになっている。簡単に壊れてしまいそうに。誰にでも、傷つけられるように。そんな、感じがするんだ。
 でも岳里が傍にいるときは反対に守られている気がした。自分が自分でいれる。恐怖がまったくないわけじゃないけど、それでも安心して眠れるような安堵を感じた。

「でも、それが不思議だって思うおれがいるんだよ。おれたち、前の世界ではそんなに接点があったわけでもなくて、話したことも――たぶん、一度もなかったかな。この世界に来てはじめて、ようやくまともに目を合わした気もする」

 おれと岳里は同じクラスだった。けれど向こうがそもそも素っ気なくてあまり人とつるむタイプというわけでもなく、基本ひとりでいたから。だからおれから話しかけることもなく、ただのクラスメイトでしかなかった。
 岳里に関しては、おれの名前すら知らなかったし。一年生から同じクラスだったのに、そんなのあり得るのかとも思ったけど、岳里なら仕方がない気がした。なんていうか……自分が興味のないことはとことん興味がない、みたいな感じだから。まあ今はちゃんと認識されてるから別にいいかな、と思う。
 そんな間柄だったのに、この世界に来てからというものおれの中で急速に岳里は大きくなっていった。たぶん、あれだ。吊り橋効果というやつなんだろうな。
 たまにふと思うんだ。もしおれと一緒に来てたのが岳里じゃなくてほかのやつだったら、どうなっていたんだろうって。何度も考えた。でも答えは毎回同じ。岳里じゃなきゃ、駄目だった。

「真司はよう――岳里を、信じてるのかあ?」

 どこか小さく聞こえるネルの声音に、おれは思わず視線を向けた。
 腕を組みながら、やや俯き加減のネルがそこにいる。横顔は、何処となく困っているようだった。
 なんでそんな顔をしてるんだろう。そう思うものの、尋ねる勇気は出ず、その真意はわからない。
 おれはただおれの思ったままの事を口にしようと、小さく唇を動かそうとしたその時だった。
 不意に、耳元で誰かが囁いた。

『真司、傾いてはいけないよ』

 静かだけれど、強い何かを秘めた声。
 どくりと、強く心臓が鳴った。頭が真っ白になる。

「――っ!」

 息を飲んだ瞬間、激しい頭痛がおれを襲った。頭がねじれる錯覚を起こすほどの、あまりに強い衝撃に、堪らず頭を抱える。だが痛みはじわじわと増すばかりで、おれは頭を振りながら膝を折った。
 ほとんど倒れる形で床に打ちつけた膝よりも、鋭くうごめくように痛む頭に、おれは悲鳴をあげる。

「う、あぁ……っ! あ、たまがっ、いっ――くっ!」
「真司、真司っ!」

 ネルが名前を呼んでいるが、それは今のおれには届かない。
 なんとか呼吸をしようともがく口の端から、飲みきれないよだれが顎に伝う。けれど今のおれにはそれに気がつき拭う余裕など微塵もなく、ただ自分を襲う痛みに、涙が滲む。
 何度もおれに叫ぶネルの姿が霞む視界に映るけど、声は聞こえない。それよりも自分の声すら掻き消すほどの耳鳴りにさらに苦しんだ。
 辺りでは、ぴしり、ぴしりと、石でできた城が軋み悲鳴も上げる。
そんな中、何も聞こえないはずのおれに届く声があった。

『真司、ごめんな。まだ時間がかかるんだ。それまで悪いが、そこで待っていてくれ』
「はっ、はっ」

 呼吸すらままならない状態でも届くその言葉は、やけにはっきりと頭に響く。まるで頭痛と連動するように、その頭痛が囁いているように。
 誰の声なのかはわからなかった。ただ必死に、床に倒れながらも痛みに耐えるばかりで、気にしている余裕はなかった。
 ぼたりと、涙が溢れる。

『いいか、真司。決して、“光”に傾いては――』
「ごめん真司!」

 最後に頭に響く声を打ち消したネルの叫びが聞こえて、あとは真っ黒に塗りつぶされた。

 

 

 真司の意識を強制的に飛ばさせると、まるで今までが嘘かのようにぱったりと静かになった。
 しかし、依然息は荒く、顔色もひどく青い。短時間に流れた苦痛の汗が、前髪を額に貼りつかせていた。

「くそっ、シュヴァル、早く来てくれよう……!」

 ネルは契約の証しである“猫”の痣を力の限り強く叩いた。息の詰まるような痛みが襲いかかるが、それは連動して証の痛みをともにするシュヴァルにも届く。これで、ネルたちに何かしらの異変があったと飛んでくるはずだ。この状況は、自分ひとりでどうこうでいるものではない。
 早く主が訪れることを、ネルは真司の頭を抱きしめながら強く願った。

「なんだっていうんだよう……! おれぁ、また守ってやれないのかよ、真司っ」

 悲痛に祈るネルの胸に抱かれた真司に、再び声が囁く。
 甘く、誘うように。

『いいか、真司。“闇”だ。深い闇が、おれたちを――我らを救ってくれるんだよ』

 

 

 

 真司とネルのふたりが抜けた部屋の中、王の顔は険しくなる一方である。しかし、それに応じる岳人ではなかった。
 様々な問いかけは一国の主からのものであるにも関わらず、口を開いて答えることはあまりなく、大抵が首の動きだけで返す。
 今もまた、首を横に振って答えを示した。
 繋がる視線が逸らされることなく、身の潔白を示すかのごとく痛いほどまっすぐ王を見つめる。そこに負の感情は一切垣間見えず、岳人の言葉に偽りはないように思えた。
 しかし、どうもそれではまかり通らないことが多すぎる。

「だが、それではその力が説明できな――ぐっ」

 改めて追求しようとした言葉の途中、王は息を飲むと続きを遮った。そしてそのまま眉をひそめ左胸を押さえたのを見て、ようやく岳人の瞳に変化が現れる。己の胸に視線を向ける王は気づきはしなかったが、アロゥはしかとそれを見ていた。
 確かに、その瞳に僅かな動揺が走っていたのだ。
すると今まで人形のように口と、首しか動かさなかった岳人が、迷いを見せることなく立ち上がった。
 その瞬間、ぴしりとお菓子を入れていた器にひびが入り、次に未だ香茶が残るカップが微かに震え、かちかちと小さな音を鳴らした。王の机にあった書類の束が、音を立てて床に散らばる。

「これは……」

 次々に起こる異変に、岳人は自分の感じた不安が確かなものだと確信する。
 アロゥが呟き終わるとほぼ同時に、岳人は部屋から飛び出した。背後から王とアロゥが制止する声を張り上げていたが、それを無視して脚を速める。
 扉の前にいた兵士ふたりが反応する前に、彼らの視界からすぐに岳人は消えていった。
 部屋を出る前に真司とネルがそれぞれ口にしていた、独特な香りを持つ香茶の匂いを辿れば、目的の場所など迷わず到着する。

「――っ」

 岳人が到着したときにはすでに、真司が廊下の端で、ネルの膝に頭を乗せて横たわってた。
 うすらと、涙の跡が頬を一筋流れていたが、今はもう静かに眠っているように見えた。しかし、岳人の吐いた息は重たく響く。
 突然の岳人の登場に、ネルは驚いた表情を一瞬覗かせたが、すぐに仮面を手に取ったように顔色を消した。

「真司を持ってくれえ。おれじゃあ真司を運べねえんだあ。医務室へ案内するから、ついてこうい」

 早口で告げるネルを一瞥し、岳人は静かに横たわる真司との距離を詰め、真横に立った。その場にしゃがみ、体制をくずして真司のひざの裏、背中へ腕を差し入れる。
 そのまま力任せに立ち上がり、真司の頭を自分へと傾かせた。
 じわりと、その熱が映るかのように岳人の身体が温かくなっていく。相変わらずの無表情を浮かべながらも、岳人は心の奥底ではほっと胸を撫で下ろしていた。
 今の姿を見る限り、外傷は見当たらない。ただ今は混乱が極まったのか、気を失っているだけのように見える。
 ネルが歩き出したので、それについていこうと岳人も足を進めようとしたところに、遅れて王とアロゥが追いついた。
 その表情には、互いに戸惑いが見て取れる。

「これは……真司はいったい」
「話は後でえ。医務室に運んでからだあ」

 王の言葉を遮り、ネルは再び歩き出した。

 

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