地面に大の字になりながら、ヴィルは唇を尖らせた。

「おぬし、さすがにあれはずるいだろう。いつの間にあんなものを会得していたのだ。おぬしを指導していたはずのわしが知らんとはどういうことだ」
「おまえがいない時少しずつ、周りのやつらに教えてもらった。おまえに勝つにはまだおれに足りていないものは多い。ならば、意表をつくしかないだろう」
「ぐぬぬ……だがしかし、油断した。負けるつもりなど毛頭なかったというのに」

 悔しそうに呟くと、ヴィルはごろりと寝返りを打ち、おれたちに背を向けてしまった。
 そう、ヴィルは見事一本岳里に取られ、負けてしまったんだ。正直それにはおれもレードゥも、驚きを隠せなかった。
 確かに、岳里は以前ヴィルと手合せした時に比べると見違えるほど剣の扱いはうまくなっただろう。なにせ、前回は持ち方さえ危うかったくらいだ。それでもあの時岳里は勝利した。けれどそれはヴィルが色々なハンデをつけてくれたわけで、たまたま岳里の戦略にはまってくれたに過ぎない。
 でも、今回はハンデなんてなかった。以前の時と違ってヴィルは両手が自由だったし、自ら岳里に撃って出ていいことにもなっていた。そんな中で、勿論戦いに慣れたヴィルの勝利は濃厚だったんだ。それにヴィルは一応、岳里の剣の師匠でもあるわけだし。
 だけど勝者となったのは岳里の方だった。ヴィルがもごもご呟くように、ヴィルにとって予想外の行動を岳里がとり、そのままヴィルの動揺がさめないうちに一気に畳みかけたのがよかったみたいだ。
 ヴィルが動揺したと言っても、ほんの一瞬だ。おれが一度瞬いた時にはもう、決着がついていた。もともと隊長の中でも戦いにおいてヴィルは非常に優秀で、ハヤテに次ぐ戦将と謳われているそうだ。たとえ意表をつかれたとして、すぐに対策を練るようなやつだと、レードゥも二人の試合中おれに教えてくれた。
 勿論、ヴィルから剣の指導を受けていた岳里はそれを十分承知の上だったろう。だからきっと初めからあのヴィルにできる一瞬の隙を狙っていたに違いない。それにすべてをかけていたと言っても、たぶん過言じゃないと思う。
 それが正しいと肯定するように、勝敗が決した瞬間、少し岳里は安堵したような顔をしてみせた。とはいってもいつもの無表情で興奮も喜びも驚きも一切見受けられなかったわけだけど、何となく、おれにはそう見えたんだ。

「はっ、負けは負けだぜ、ヴィル。完全敗北だなありゃ。折角おまえが勝てたら、おれがおまえに何でもしてやろうと思ってたのにな」

 負けたのをいいことに、背中を向けていじけるヴィルに向かってレードゥが清々しい笑顔を顔に浮かべながら投げかける。
 すると、すぐさま反応をみせ、ぐるりと首を回しこっちへ顔が向いた。

「なぬ!? 真かレードゥ! ならば何故早うそれを申し出てくれんかった!」
「だって勝手に試合おっぱじめやがっただろうが。まあ、言ってたとして、おまえの負けは覆らなかっただろうよ」

 絶対にそんな気はなかったであろうレードゥがからからと笑うと、ようやくヴィルは身体を起こし、その場に胡坐を掻く。その表情は、何故か燃えていた。

「おのれ岳里! レードゥのなんでもしてあ・げ・る権をかけて、次こそは勝負に打ち勝ってやろうぞ! いいか、レードゥをかけた勝負でわしはげふうぅっ!」
「おまえもう黙ってろ!」

 両拳を振り上げたヴィルの空いた土手っ腹に蹴りを入れてから、背後で悶絶する姿を見ることなくおれたちに振り返ったレードゥは、さっきまでとは違った笑顔を見せてくれた。

「とにかくおめでとう、岳里。この短期間でよくここまで強くなったな。これで試験の方も問題ないだろう。今度、おれとも手合せ願うよ。――それより、真司に何お願いするつもりなんだ?」

 恐らくレードゥは初めからこれが言いたかったんだろう。きりっと引き締まった、多くの人を束ねる隊長らしい笑みを見せてくれていたと思ったら、だんだんそれが破綻し、結局最後にはにやけた。
 まあ二人の試合中も散々からかわれたから、岳里にそれを聞くことはわかっていたけど――でもそれより、岳里の沈黙の方が気にかかる。
 一体何を要求するつもりなんだ?

「その、おれができる範囲で、な?」

 どこか一点を見つめる岳里の視界に入り念のためにと何度もしているささやかな牽制をしてみれば、何故か顔を背けられる。それに嫌な予感がしないわけがない。
 どきどきと緊張しながら待っていると、ようやく岳里が口を開いた。

「――風呂に、一緒に入りたい」

 しばらく間をおいて、ようやく岳里の言葉を理解したおれは顔を赤くし。それを聞いていたレードゥとヴィルはにやけ顔で、目を合わせられないおれたちを見守った。

 

 

 

 岳里たちの試合が終わった後、レードゥと一緒に昼まで十三番隊と岳里の訓練を見守り。それから昼食を区切りとして、岳里は今日はもう休めとヴィルから告げられる。その顔は別れる間際までにやついていて、変な気を回したのは一目瞭然だ。
 同じくにやけた顔をするレードゥとも別れ、おれたちはまず部屋に向かった。
 岳里は汚れた服を脱いで軽く汗を拭きとり、今回は普段と違い用意されていた新しい清潔な服に着替える。いつもなら昼食後もまた訓練があり、部屋で寛ぐこともないから服を変える必要はない。でも、今日はもうないからだ。
 岳里が一人で訓練するとでも言わない限りは、久しぶりに夜以外の時間を二人でゆっくり過ごせることになる。でも岳里は何も言ってこないし、素直に着替えたから、きっと今日はこのままのんびりするんだろう。けれど部屋で寛ぐならまず、身体の所々についている汚れを洗い落とす必要がある。
 ひとまずざっと身なりを整えてから、二人で運んでもらった昼食を食べた。それを終え、腹を落ち着かせるために小休憩して。お互い、黙り込む。普段からおれが話しかけそれに岳里が相槌を打つ程度だから、おれから行動しなければならない。でも別にそれが苦なわけでなくて、おれの意志でこれまで話していた。けれど、それができないくらいに緊張でがちがちだ。その理由は今随分と意識してしまっていることの仕業だと、十分わかってはいる。わかっているけど、どうしようもできない。
 昼食を済ませた時と同じくお互い席に腰かけながら、おれは膝に手を置きただひたすらに自分の膝を見つめる。
 おれとは違い窓の外を見ていた岳里が不意に動き、そろりと顔を上げてみれば目が合った。

「風呂に、行くぞ」
「――わか、った」

 おれの緊張は、面白いほど素直に声音に乗り震え、岳里を苦笑いさせた。

 

 

 

 岳里と一緒に風呂に入るのは、随分久しぶりだ。そう、岳里に背中を向けながらおれは思い出していた。
 この世界に来たばかりの頃は特に抵抗なく、一緒に入ったっけな。でも、あの頃と今じゃ、関係が違う。全然、まったく違う。

「先に入ってるぞ」
「えっ!? あ、いや、うん」

 相変わらず脱ぐのが早い岳里は、かけられた言葉に思わずおれが振り返った頃にはもう浴室へ続く扉を閉めているところだった。岳里がいたはずの場所には服が脱ぎ捨てられていて、おれは中途半端に手をかけていた上の服だけを脱いでから、床に落ちる岳里の服のもとへ向かう。
 今回は今脱いだものをまた着るからそのままにしておいてもいいけれど、なんとなく、気持ちが落ち着かないからなのか。岳里のものをふたつ並ぶ籠の片方へ畳んで置いてしまい、もう片方にはおれのものを置く。
 無意識に動きは鈍くなり、全部脱ぎ終わるのにも時間はかかったけど、所詮、脱いで畳むだけ。そう間も経たないうちに岳里の後を追うべく、おれは腰に布を巻いて浴槽への扉の前に立った。
 すでに水音がしていて、岳里は先に身体かどこかを洗っていることが窺える。
 そろりと、音を立てないよう、扉を開ける。そこから覗いてみると予想した通り、岳里はすでに小さな木製の椅子に腰かけて頭を洗っていた。
 僅かに開いた隙間から身体をすりこませるようぬるりと抜け出し、そっと扉を閉める。
 一歩一歩近づいていくうちに、岳里は髪についた泡を流し終えてしまった。

「……早く洗え」

 水が滴る前髪を掻き上げながら、おれに視線を向けた岳里はほんの僅かに、見間違えたかと思う程度に口元を緩ます。
 その言葉に従うように、無言で隣にある低い椅子へ座り、お湯の湧き出る水玉に触れた。
 おれが頭を洗っているうちに、岳里は今度身体に泡をつける。
 お互い無言でもこもこと石鹸代わりになる石で泡を立てては洗うべき場所につけてを繰り返し。先に全身を洗い終えた岳里はおれに一言残してから一足早く浴槽に向かった。
 立ち上がり湯船に向かう姿を気づかれないよう横目で追いながら、おれは身体をこする力を強める。それでも、悶々と頭を悩ます考えは振りきれない。
 おれたちは今、恋人という、そんな立場なわけで。いくら男同士とはいえ、一緒に風呂に入るってことは、そういう、ことなんだろうか。友達と入るわけじゃなくて、女の子とも入るわけでなくて、“恋人の岳里”と入るわけで。
 岳里が何を考え今の状況を望んだのか、すでに一杯一杯のおれの頭では考える余裕はない。悶々としているうちにも念入り洗っていた身体はいつの間にか泡が洗い流されていて、仕方なく、おれは立ち上がる。
 そのままやっぱり忍び足で岳里の待つ浴槽へたどり着くと、先に腰を下ろしている存在の隣へおれも身体を沈めた。

「……な、なんかこうやって一緒に入るの、久しぶりだな!」

 変に張り上げてしまった声は湯気の上がる浴室の中で響いただけで、岳里は至っていつもの調子で、そうだな、と返してくる。
 その声音に、まるでおれ一人が動揺しているような気がして、でもやたら早鐘を打つ心臓はどうすることもできない。
 ただ一緒に風呂に入ってるだけ、それだけだ。それだけなんだと自分に言い聞かせていると、不意にちゃぷ、とお湯が揺れる。気づけば岳里がおれの方を見て、あえてささやかに空けておいた距離を詰めてきていた。
 思わず驚いて引いてしまう身体を、腕を掴んで引き留められ、岳里と向き合う。
 動揺が解けないまま岳里を突っぱね返そうとするおれの動きを封じ、ゆっくりと口を開いた。

「おれに触れられるのは、平気か」
「えっ……!? あ、いや、べべ別に大丈夫だ、けど! でもやっぱりまだあれっていうか、準備が、心が……!」

 がっしりとおれを掴む岳里の腕に、お互いお湯の中で腰に布一枚巻いてるだけの状況に、詰められる距離に。混乱が極まったおれはもう、自分が何を言ってるのかさえ理解できてない。
 わけのわからない言葉が次々に飛び出す口。けれど、おれの声はふっと途切れた。

「っん」

 ざば、と湯が波を立てる音に紛れるくらいの、小さな声をおれは漏らす。薄眼で目前にある岳里を見れば、じっと、瞳を金に輝かし、おれを見つめていた。
 目が合えば、また重ねられる唇。両手で頭を押さえられ、触れるだけのものを繰り返す。
 抵抗というわけではなくて、すがるように、おれは岳里の手に自分の手を重ねた。
 次第に深くなっていくそれに、ついには忍び込んできた岳里の舌に。このままではまずいってわかってるのに、おれも受け入れてしまう。
 岳里によって少しずつ覚えさせられた、深い口づけ。まだ慣れてないけれど、おれも頑張って舌を伸ばして、それに応える。でも最後にはおれだけが熱く痺れて、岳里に身を任せてしまう。

「は、ん……ぅ」

 すり、と耳裏を指先で撫でられただけで、びくりと身体が震えてしまう。
 岳里の顔が離れた頃には、おれはお湯に溶けてしまいそうなくらい身体を熱く、ぐったりとしていた。
 おれの口の端から溢れた涎を舌で舐めとりながら、金色の瞳はおれを見る。今みたいな、深いキスをした時、時々岳里の瞳は金色になった。
 それをぼうっと見つめ返していると、突然の快感にぶるりと身体が震える。

「っあ……!?」

 思わずあげた声に慌てて自分の手で口を塞ぐも、さらに布に隠れたおれのものに岳里の膝は押し当てられた。明らかに、刺激を与えるように。

「やっ、やめ……っ」
「これも、平気か」
「っ――」

 足が退いたと思ったら、そっと岳里の手が布越しに反応するそれを撫でた。
 岳里が触れるよりも先に立ち上がっていたそこは、他人の手なんて感じたことがなくて。さっきのキスでこうして反応するくらいのおれの身体は、さらに熱を持ってしまう。
 ――いつも、深い口づけを交わした時、おれの身体は今みたいに反応してしまった。けれどいつもならどうにか服とかで隠すし、岳里もあえて気づかないふりをしてくれてたから。だから、こうして岳里がそれに意図して触れてきて、おれの動揺はまた戻ってくる。
 なんで、こんな急に……?
 岳里を見ると、その熱っぽい瞳に、息を飲む。今まで見たこともない色を宿して、おれだけを見ていた。

「が、岳里っ! なんか、変……どうかしたのか……?」
「――……このままではのぼせるな」

 言葉に答えは返されず、一度おれから離れて立ち上がると、そのまま浴槽の淵に腰を下ろす。それから未だ浴槽の中に身を浸らせていたおれの身体を抱え上げ、開いた足の間に、岳里の胸に背中を預ける形で座らせられる。
 岳里、と名前を呼んで振り返ろうとした時、右の太ももを持ち上げられたと思ったら、そのままぐいっと足を開かされ岳里の右足の上に乗せられた。慌てて足を閉じようとしても、腿の上から岳里の手が押さえつけてそれは叶わない。
 戸惑から、無意識のうちに押さえてくる岳里の手に腕を伸ばしたところで、耳元で低くささやかれた。

「触るだけだ。それ以上のことはしない。おまえが嫌がることも。だから、今は許してくれ」

 まるで懇願するような声に。おれはまだ戸惑いを残しながらも、小さく頷いた。
 すると、すぐに腰に巻いていた布をはぎ取られてしまう。ぽいっと放られるそれに、我を取り戻したおれは手を伸ばすも、それを諌めるように首筋に軽く噛みつかれた。痛みはない。けれどおれの動きを止めるのには十分だった。
 緩く噛まれたところに今度は唇が押し当てられたと思ったら、そこをきつく吸われる。唇が離れていくと、最後に一舐めされた。
 無意識に右足の方にくっつこうと動く左足をさらに開かされ、肩ごしからじっと、元気に育ってしまったおれのものを岳里は見た。

「み、見んな……っ」

 あの馬鹿力の岳里に押さえられている以上、おれの両足は完全に固定されたも同然だ。抵抗した所で敵うわけもない。けれど耐えられない羞恥に足を動かそうとすれば、不意に右足の拘束が解かれる。
 自由となった岳里の手はそのまま、覆い被せるようにおれのものに掌を当てた。やわやわと手が全体で揉むように緩く動く。
 けれどおれも盛りがついた餓鬼なもんだから、その刺激だけでぞくぞくと背筋を駆けるものがあった。

「っ、は……」

 耳を甘噛みされながら、手で輪を作りこすられる。いつの間にか足された岳里の左手も使われ、先っぽを親指の腹で押すように撫でられた。
 他人の手だけっていうだけでも変な感じがするのに、雰囲気にでも酔ってるのか、それとももうのぼせてるのか。普段は出ない声が漏れそうになる。

「――っぁ……」

 おれが必死に声を殺してる間にも岳里の手はだんだんと大胆になり、おれのをしごく動きが早まった。形をなぞるように上下に動く右手はすぼまりを強めて、軽くではあるけど握りしめる力が増す。
 自分の荒い呼吸に、頭がくらくらした。

「ん、あ、あっ――!」

 溢れた先走りでぬるぬると動いていた左手が突然そこに爪を立てた時、おれは大きく背中をしならせた。背後にいる岳里の胸に身体を押しつけるように、感じる衝撃に仰け反りながらも耐える。
 それまで必死に押し殺していた声と一緒に、自分が出した白濁が腹に、胸に飛び散った。岳里が押さえてくれて、せき止めてくれた掌にはおれの放ったものが汚しているけど、でも全部は防げなかったみたいだ。

「っはぁ、はぁ……」

 達したばかりでまだ熱を持つ身体に、息を殺していたからか荒くなる呼吸に、どうにか宥めようと深呼吸を試みようとしたその時。
 おれの目の前を、おれの出したものをべったりつけた岳里の手が通っていく。その手はそのまま後ろにいる岳里の顔へ向かい、おれが振り返った時にはべろりとそれを舐めているところだった。

「ばっ――な、何舐めてんだよ!?」
「おまえのものはどんな味がす――」
「だからって舐めるな変態!」

 ぞっとすることを言いかける岳里に、ただでさえさっきされたことで赤くなっていた顔がさらに全体が染まる。耐えられないと岳里から離れようと身体を浮かすと、むっとしたように唇を結んだ岳里がおれの腰を掴んだ。そのままくるっと身体を反転させられ膝立ちにさせられると、岳里は向かい合う形になったおれの身体をじっと見た後、身体に飛び散っている白いものに舌を這わす。

「や、やめっ……駄目、だって!」

 岳里はおれの左腰と右脇の少し下を押さえているから、おれの両手は自由だ。それで岳里の髪を引っ張って止めることを試みるが成果は出ず。岳里は最後の一滴まで舌舐めとってからようやく離してくれた。
 その頃にはもう涙目になるおれに、多少の罪悪感を覚えてくれたのか。へたり込んでしまったおれを抱え上げると、そのまま水玉のある場所まで連れてってくれて身体をざっと洗い流してくれた。
 洗ってくれている途中で、またあの言葉でおれに問いかける。

「おれに触れられるのは、平気か」
「……は、恥ずかしいけど……大丈夫だ。岳里なら。おまえじゃなきゃ、こんなこと許すかよ」

 岳里に寄りかけていた身体を完全に預け、足りない言葉を補う。
 きっとまた、岳里は何か考えてるんだろう。だから何度も、同じ言葉を繰り返しおれに問いかけたんだ。
 一体何を思っているのか、それは岳里が口にしてくれなければわからない。ならわからないなりに、おれは少しでも岳里の思いに応えれるよう、こうして受け入れよう。
 ……今回みたいのは、やっぱり恥ずかしいけど。
 おれの言葉を聞いた岳里は、濡れて肌に張り付くおれの前髪を掻きわけ、そこに唇を落とした。次に瞼に、頬に。
 言葉が足りない岳里だけど、時に、今みたいにまっすぐに。声はなくてもその想いを告げてくる。それを伝えられる度に、おれの胸には言いようのない、切ないような、嬉しいような、熱いような、苦しいような。そんな、色々なものが入り混じったものがこみ上げる。わからないけど泣きたくなって、わからないけど目の前の岳里に抱きつきたくなる。
 この想いは、なんて言えばいいんだろう。
 しばらくして、岳里はおれへと屈めていた身体を起こした。それと同時に顔に差していた影も消える。

「――そろそろ上がるか」

 木製の椅子は使わず、二人して直接床に座り込んでいたから、岳里が手をついて立とうとした。
 けれどおれにはひとつだけ気になっていたことがあって、岳里を止める。なんだと言いたげな目に狼狽えそうになる。それでも意を決して、手を伸ばした。ずっと、熱を持っていたそこに。おれのよりも、かたく張りつめたそれに。抵抗はないけど、躊躇いはある。けれどおれのものに触れてくれた、っていうのも後押ししてくれて、布を押し上げて反応を示すそこに指先が近づく。
 けれど、触れる前に岳里に手を掴まれた。

「そんなこと、しなくていい」
「で、も……」
「――おまえに触れられたら、今ここで理性が切れる。何をしでかすか自分でも想像がつかない。自分で処理するから、先に上がっててくれ」

 自分だけすっきりして、それで終わりなんてことはしたくなかった。確かに岳里も欲を感じてくれている。それなのに、おればかりがしてもらうなんておかしい。
 ――でも、触れ合う以上のことをする覚悟は、まだおれにはなかった。触られるのが嫌なわけじゃない。恥ずかしさはあるけど、心地いいくらい。でも、でも駄目だ。
 岳里の理性に甘えて、おれは先に行って待ってる、とだけ残して浴室から出て行く。
 それまであった不思議な興奮が扉を閉めるとともにすっかりしぼんでしまって。代わりに岳里への申し訳なさでいっぱいになる。
 水気を纏う身体を拭いて、服を着て。髪は一瞬で乾かす道具もあるけど、それを使う気にはなれず濡れたままにした。
 脱衣所から出た場所にある小部屋で岳里が出てくるのを待つ。一人でいる今の時間、どうしても頭の中はひとつのことでぐるぐると悩んでしまう。
 もし、やることやるとするなら……やっぱり、最後までいくよな? そうしたら、どっちかが押し倒されるんだよな。
 一度、おれが岳里を組み敷くのを想像してみた。けれど、おれの想像力が乏しいからなのか、いまいちだ。それに、何か違う気がする。――なら、おれがそっちか?
 岳里に何度か押し倒されることがあったからか、それはすんなり想像できた。上からおれを見下ろす、岳里の顔。顔の両側に置かれた手に、のしかかる重さ。……たぶん、岳里もそのつもりんだろう。
 いきなり、入るもんなんだろうか。まだ岳里のって見たことないけど、布押し上げてるあれは結構立派そうだし、本人も微塵も卑屈さを感じないし、たぶん身体に見合ったものなんだろう。畜生。
 見てもいないのになんだか悔しくなる。でも、それを相手にしないといけないと思うと、少し怖いような気もした。
 もしやることやるなら、やっぱり女の人とは違うわけだし……ケツ、使うのかなあ。
 ――そこまで想像して、おれは息を飲む。
 途端に身体が指先から冷えていき、芯から震え。じわりと額には脂汗が滲み、強く拳を握った。けれどひたひたと、身体に冷たい何かが這い上がってくるのは止まらない。
 ようやく詰めていた息を吐き出せたとして、それに続く呼吸は浅く、荒く。
 こわい。
 この部屋には誰もいないというのに。誰の声も聞こえないというのに。耳にへばりつく笑い声がある。
 こわい、こわい――
 堪らずおれは両手で耳を塞いで、身体を小さく屈めた。けれど声は決して消えることはなく、嘲笑いでおれを弄ぶ。
 “あの時”の恐怖が、忘れようと努めていたあれが、はっきりとおれの中に蘇る。
 おぼろげな三人の男の顔。それなのにはっきりとあの声を、足を引きずる音も、腹に乗った重さも、あの拳の大きさも――全部、鮮明に覚えている。あの時感じた恐怖も、苦痛も、全部。
 耳に張り付く笑い声は失せることなく、おれは自分の身体を抱きしめた。その時均衡を崩し椅子から転げ落ち痛みに呻けば、さらにあの時が蘇る。
 ろくな抵抗も許されず、ただなされるままになるしかなかった。自分の震える身体さえ抱きしめてやれなかった。痛みに泣き叫ぶしかできなかった。
 もう傷は癒えたって言うのに、心に与えられたものはまだ、かさぶたにさえなっていない。今まで見ないふりをするのが精一杯で。
 どんどん熱を失っていく身体をどうすることもできず、おれはその場でただ身体を小さく縮めていることしかできなかった。
 この恐怖が早く消えることを待つしか、できない。だから扉が開いたのには気づかなかった。

「真司!」

 名前を呼ばれると同時に、肩に手がかかる。それが誰のものかもわからないまま振り払えば、今度は丸まった背中から抱きしめられた。

「や、だ……! 離せっ!」

 抵抗し暴れても、おれを抱える腕は解かれない。抱きしめてくる力を強めるでもなく、ただおれに恐怖を思い出させないように、緩い拘束をする。

「離せ、離せよ……はなして、くれよ」

 もう、今おれに触れる身体が誰のものかわかっていた。わかっていてそれでもおれはどうしようもできなくて、拒絶を口にする。
 今ここにいるのが、岳里だからこそ。余計に苦しい。関係が以前と変わって、それがより深いものになっているから。
 こんな、いつまで経っても弱い自分を見せたくない。弱かった自分も、見せたくなんてない。
 ――でも、岳里の熱を感じて安心している自分もいた。少しずつ高ぶっていた気持ちが落ち着いて、呼吸も安定していく。いつの間にか繋げられていた手から感じる温もりに、自ら深呼吸をする。
 どれほど時間が経ったかわからないが、ようやく身体の震えが止まった頃。おれは完全に岳里に身を委ねた。
 寄りかかっても微動もしない岳里の身体は、剣を始めてからさらに逞しくなっている。

「ごめん……また迷惑かけたな」

 完全に忘れたつもりはなかったけど、最近は思い出すこともなかったから油断していた。過呼吸にならなかっただけましだったのかもしれないけど、折角風呂に入ったばかりなのにじっとりと嫌な汗が背を流れる。
 なるべく、いつもと変わらないように。多少表情が硬くても、岳里が嫌な思いをしないように。そう心がけておれが顔を上げれば、視界で捕えた岳里は口をきつく結んでいた。眉間には小さくしわが寄り、どこか辛そうで。
 岳里はきっと、なんでおれが蹲っていたか。もう見当がついてるんだろう。ましてや何度か似たような症状を起こしたことがあるわけだし。結局嫌な思いをさせないようにすることなんて無駄なんだとわかった。

「――ごめ、ん」

 岳里から目を逸らし、その言葉を口にするだけしか、おれもできない。 
 なんとか岳里から離れようと身体を起こそうとしても変に強張ってしまったのか、うまく力が入らなかった。それに気づいた岳里はおれを横に抱え上げ、何も言わず歩き出してしまう。
 まだ濡れたままの岳里の毛先から、ぽたりと滴が垂れおれの頬に落ちる。それに気づいた岳里がそれを拭ってくれた。
 おれの肌をすっと撫でてからまた身体を支えるために離れていく手に。何の言葉も浮かばず、運んでくれるお礼すら言えず、おれはただ身を委ねるしかできない。
 運ばれている時揺れはあまり感じなかったけど、岳里はそれなりに大股で廊下を歩いたみたいで、予想したよりも早く部屋に着いた。
 いつもなら扉前にいる兵士の人がおかえりなさい、と声をかけてくれるが、今日はそれがない。気を遣ってくれたんだろうか。目を閉じて岳里の身体に寄りかかるおれはその姿を見たわけじゃないけど、たぶんそうなんだと思う。
 だって、岳里が手を動かしてないのに勝手に扉が開いたから。きっと控えていた兵の人が開けてくれたんだろう。
 内心でお礼を言っているうちに、やっぱり誰かの手で扉は閉められ、おれはそっと自分のベッドに下された。
 岳里もその隣に腰かけたようで、ようやくおれが目を開けると、頭上に覗き込んでくる姿と目が合った。
 いつもの無表情に戻っていた岳里は、一度目を細め、そのまま顔を下してきた。
 振ってくる温もりに、何故だか苦しくなる。
 少し伸びた髪の隙間に伸びた岳里の手は、緩くおれの頭を掴む。目尻に滲んだものを、親指がそっと拭ってくれた。
 岳里はきっと、おれが嫌だと、駄目だと言ったらそれを認めてくれるだろう。無理強いもしない。どんなに自分が苦しい状況にあったとしてもおれを優先する。それは予想じゃなくて、確信に近い。今までの岳里を見てきたらきっとそうなるだろう。
 でも、おれはどうだろう。岳里の望むことを叶えてやれるんだろうか。受け入れて、やれるんだろうか。
 震える息を吐いた口に、岳里の口が重なる。離れては角度を変えて、もう一度。
 おれの心に刻まれたあの傷が、いつか癒える日は来るだろうか。その時が来なくちゃ、何も先には進めないのか。
 岳里の優しさだけしか受け入れられない自分が、悔しかった。いつまでも痛みに震える自分が、情けなかった。でもどうしようもできない。どうにかしたいのに、身体が竦んでしまう。
 岳里の手に自分の手を重ねて、おれは目を閉じた。

 

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