魔力は使っても寝たりして休めば消費された分が回復されるそうだ。もし有する魔力が尽きかけたら、本来魔術は使用できなくなるらしい。だけどたとえ魔力の底が見えはじめていても、強い魔術師の場合無理にでも魔術を使うことができるそうなんだ。もし身体の魔力が限りなくないに等しいその状態で魔術を使ったならば、必ず反動がくる。程度軽く済んだとしても、短くても数年は眠り続けたり、もしくは全身やけどや麻痺したり。そして最悪、死が待っている。無理をして魔力を使う反動ではっきりとしているのは、“死”を覚悟しなければならないということだ。
他にも魔術師には魔術師の間だけで継がれる様々な制約もあって、魔術は便利に見える反面、決して楽観していいものじゃないそうだ。
誰しも一度は魔法が使えたらいいって思う。けれどそんな便利なものがなんのリスクもなしに使えるわけがないんだと、言われたような気分だった。
「魔術って、本当に奥が深いな……」
他に言えることもなく、ぽつりと呟いたおれに、ジィグンはただ目を伏せ微笑むだけだった。
大魔術師のアロゥさんを主に持つジィグンには、魔術に対して、深く思うところがあるんだろうか。
そもそも魔術なんてもの自体夢物語だと思っていたおれには、とてもわかりそうになかった。
「あ、そういや本題忘れてたな。なあ真司、風呂入りたいだろ?」
「え、風呂?」
急に変わった話題に、おれは思わず顔を上げてジィグンを見た。
「おう、風呂だ、風呂。しかもおまえらは特別に、王がお使いになさっている浴場が使えることになったんだ。すごいんだぜあそこは。隊長だって入らない、王専用の場所なんだからな!」
「え、そんなところにおれたちなんかが入ってもいいのか?」
正直、おれはずっと寝ていたからまったく風呂に入ってなかった。身体を拭くばっかりじゃ拭いきれない汗臭さも気になってたし、頭もかゆいし。だからあっつい湯に浸かりたいなあ、とは思ってた。けれど正直この世界の風呂事情なんて知らないし、むしろ風呂なんてないんじゃないかと思ってたんだ。失礼な話、もしかしたら元始的に水風呂とかかなあ、とさえ考えていた。
だからこそ、風呂に入れるっていうのはすごく嬉しい。むしろ頭を下げてでも入れさせてもらいたいくらいだったから。でも、ひとつ問題がある。
さっきジィグンが言ったように、おれたちが王専用、なんて言われる風呂に入っていいかってことだ。だって隊長の人たちも入らない、ジィグンいわくすごい場所。それなのに、本当におれたちが入っていいとは思えない。いくら、いいよって言われてもだ。
そりゃあ、入っては見たいし、どんな風にすごいのか気になる。ライオンの口からお湯出てるかなあ、とか。でも、ただでさえ居候させてもらってる身分でこれ以上贅沢なんてしちゃいけない気がするんだ。
「入っていいに決まってんだろ。遠慮なんてすんなって」
「いやだって、やっぱ悪いし……風呂だったら、別に普通なところを貸してくれるだけで十分だよ」
別に王さま専用でなければ、おれだって風呂に入りたいわけだし遠慮なんてものはしない。でもやっぱり、専用で、しかも王さまのと聞いたら戸惑いすら浮かぶわけで。
なんとか遠慮しようとするおれに、ジィグンには少し困ったように、自分の無精ひげの生えた顎を撫でた。
「そう言ったってな、何より王のご命令なんだぜ? それを拒否するなんて、おまえも勇気あるな?」
さっきまでの困った顔とは打って変わり、にやりと意地の悪げな笑みを浮かべる。
はじめから諦めるしかないのか、とおれもつられて歪んだ口元をひきつらせた。
「わかった……もう入らせてくれるならどこでもいいよ」
力なくおれが言うと、かっかっとジィグンは笑い声を上げる。
王さまの命令だなんて言われちゃさすがに折れないわけにいかない。別に何があるってわけじゃないんだろうけど、折角こうも誘ってくれてるわけだし、無下にもできないし。
「そうそう、餓鬼は遠慮なんてしなくていんだよ。ましてやおまえらはただでさえこんな部屋に押し込められるんだ、そんぐらい自由にしちまえ」
「――ありがとう」
小さな声でお礼を言いながら、おれはジィグンは、やっぱりいい人だと思った。なんていうか、頼りになる。話してると、安心する気がする。
おれの兄ちゃんとはまた違ったタイプの兄貴って感じだ。兄ちゃんも頼りになるし安心もするけど、なんていうか、理系と文系の違いみたいな、そんな感じだ。自分でもよくわからないけど。
でもやっぱり、ジィグンには少しだけ兄ちゃんが重なる。年齢とか顔とか体格とか、性格とか、全然似てないのに、優しさだけは似ているからかな……。だからもしかしたら安心するのかもしれないし、頼りになるのかもしれないし、こんなに早く慣れつつあるのかもしれない。
ジィグンはぼげっとするおれには気付かずに、背にした扉を親指で指した。
「早速入るか? なあ、おまえも入るだろ?」
そういってジィグンは明らかにおれの背後へと視線を向ける。おまえ、というのもおれに言ってるようじゃなかった。
後ろへ流れる視線につられるようにして後ろへ振り返れば、そこには壁が。いや、正確には寝ていたとばかり思っていた岳里がすぐ後ろにいて、壁のようにびたりと立っていた。おれが少しでも後ろに身体を傾ければ触れあうほどの近距離で、たとえ多少視線を下げていたとしても、はじめに視界に飛びこんだのが岳里の胸元。本来ならその事実に若干卑屈になっていただろうが、思考というものは驚きで頭から吹っ飛ぶ。
「わっ!?」
思わずおれは声を張り上げ、ジィグンのほうへ一歩よろけた。
「おっ、おまっ、い、いつからそこに!?」
「何言ってんだ? ずっとそこに、おまえの後ろにいたぞ」
ぬぼうと立つ岳里の代わりにジィグンが答える。
ずっとおれの後ろにいたとか、全然気付かなかった……。
こいつはでかい割にして気配を消すのがうまいんだと、少しは落ち着いて岳里を睨み上げれば、やつは何食わぬ顔であさっての方向を見ている。
「で、岳里はどうする? 別に今すぐでなくてもいいなら、また呼びに来るぜ」
その言葉に、岳里は視線を前に戻して、少し時間を置いてから、改めて口を開く。
「――今日はいい」
「わかった。まあ、おまえは昨日も入ってるしな。じゃあ、真司借りていくぜ」
岳里はこくんと頷くと、あとは何も言わずに再びベッドに戻っていった。
のっそりと横になると、少し前に見たときの状態に戻ったかのように、頭の先まですっぽりと毛布に包まる。蓑虫再来だ。息苦しくはないんだろうか。
「それじゃあ真司、風呂にいくか」
「――うん」
布団に包まってしまった岳里を見詰めていると、ジィグンがドアノブに手をかける。おれは振り返り、ジィグンのすぐ近くまで歩み寄った。
光玉の明かりで照らされている廊下を歩いていると、ふととある考えが頭をよぎる。
なぜ、おれたちが王さまの風呂に入れさせてもらえるのか。それはもしかしたら、あまりおれたちを一目につかせないためだったのかもしれない。異世界の人間であるおれたちを、この世界の人たちと必要以上に関わらせないようにするためとか、もし接触したときに素性に関して口を滑らせないためとか、監視、とか。
決して有り得なくはなく、むしろ辻褄があい、少し悲しくなった。
目の前を歩くジィグンを見れば、背筋を丸めることなく、胸を張って歩いている。背は成長途中のおれよりも小さいのに、言ってしまえば小柄な身体なのに。それなのに堂々としていた。
廊下を歩るけばすれ違う兵士の人たちはジィグンに、お疲れさまです、と挨拶する。その声音はどれも明るく、誠実なもので、ジィグンはみんなに慕われているんだってわかった。それに、おう、と手を上げて応えるジィグンの顔も、信頼をはっきり見せている。
――ジィグンたちは、一体どんな思いでおれたちと接しているんだろう。やっぱり疑われているのかな。それとも、本当に別の世界から来たということを信じてくれるのかな。
そう考えたとしてもおれはジィグンじゃないからわからない。わからないけど、できれば信じて欲しい。疑ってほしくなんてない。――でも、それは難しいんだろうな。
苦く思いながら、丁度外気に触れる渡り廊下を歩いたところだった。何気なしに外に目をやると、そこはまるで中庭のようになっていて、地面に埋まった石畳が円を描くように連なった中央に、噴水がある。縦にふたつ並ぶ上の受け皿のようなところのその中央に、まるで光玉のように淡く光を放つ丸い玉があった。その玉の少し上の空中から、どこからともなく水がわき出て、弧を描きながら上の受け皿より二回りぐらい大きな下の受け皿に落ちていく。
これも魔術というものなら、こうした不思議なことも感動そこするけど、大して驚くこともなくすんなり受け入れられた。だって、ようは電気のような役割だと思えばいいんだし。光玉も、この噴水に使われる玉も、そこまで奇天烈に感じることもない。
確かに動力がわからない不思議な力ではあるけど、この世界にとって魔術は一般的らしいし、早くおれも慣れないと。
噴水の周りは飾るように少し距離を置いて花に囲まれ、月光の下だというのにやけに目が行く。
こうして見ていると、やっぱりおれは城の中に住んでいるのだと実感した。
少し城の中を歩いたりもしたけど、ほとんどを過ごすあのシンプルで何もないあの部屋はやっぱり城の中だとは理解しにくいし、何よりおれが城自体に無縁だったから。
いや、城だけじゃない。この世界自体が馴染みないからかもしれない、と思い直す。
所々同じところ、似たところが見られるけど、噴水の役割を果たしているあの玉はやっぱり知らないし、その周りを彩る花々も見た事がない。動物や食べ物は一緒だったけれど、果物は知っているものと一致しなかったのと一緒で、花も、見覚えないものしかなかった。だけど、植物に関しておれは相当疎く、本当に有名な薔薇だとか百合だとか、向日葵だとか、そういったやつぐらいしか見分けられないから、ただおれが知らないだけかもしれない。あとで岳里に聞いてみよう。
あいつなら花の名前でもきっと知ってるんだろうな、と思いながら、おれは歩きながら空を見上げた。
唯一、何ひとつとして元の世界と変わらないのは、空だけだ。太陽だって、月だって、星だって雲だって、全部おれは知ってる――ふと、月の傍に何か動くものを見つけた。
はじめは鳥かとでも思ったけど、よく目を凝らし見詰めてみて、おれは足を止めた。
動きを止めたおれに気がついたジィグンが振り返り、同じく足を止める。
「真司、どうかしたか?」
その声に、おれは恐る恐る宙を指差した。
「なあ、ジィグン。あ、あれって――」
指先をジィグンが辿りはじめた瞬間、まるでそのことに気がついたかのようにそれはその場に留まって、大きく口を開けた。次第に小さな光がそこに集まりだし、丸く丸くはっきりとした輪郭を得ていく。
その頃にはジィグンもそいつの姿を視界に捕らえたようで、さっと顔色を変える。それから間を置くことなくおれの肩を強く押した。
「隠れろっ」
怒声にも似た強い口調でジィグンは叫び、おれのことを天井を支える太い石柱の影に追いやった。それとほぼ同時に、宙を飛ぶそれの口から、人の顔ほどにまで大きく膨れ上がった光の玉が勢いよく放たれるのが目の端に映る。
ごう、という音と共に、夜だというのに日差しよりもまばゆい光が辺りを照らす。むせるような熱気が身体にまとわりつき、焼けるような空気に堪らず息を止めた。じわりと汗が額に滲み、ゆっくりと頭皮から首筋に雫が伝う。強制的に流れたそれに、強く目を瞑り腕で隠しながら、眉を潜めた。
程なくして光はしぼんでいき、再び薄暗い闇が再来する。急激に空気は冷え込み、一気に肌寒さを感じ、堪らず自分の身体を抱きしめた。さっきまで汗ばんでいたはずの腕も、今は寒さに鳥肌を立てている。
息を吐けば、若干白くその姿が確認できた。
いったい何があったのか。柱の影からその光景を覗きこみ、おれは言葉を失った。
さっきまでおれを楽しませてくれていた花はすべて焼け、そこに残っていたのはただの黒々とした灰へと姿を変えた植物たちだ。地面に生えた草でさえ、今見える範囲でも全て焦げてしまっている。噴水の水はすべて干上がってしまったのか、一滴も見えない。水を吹き出し涼やかにしていたあの淡く光っていた玉は姿を消していた。
一瞬にして姿を一変させた空間の中、ジィグンはおれに背を向け立っていた。その両手には今まで持ってなかったはずの針のように細い刀身をした剣が握り込まれていて、腰は低く、剣は高くに構えている。その後ろ姿からでも十分なほど、剣呑な空気が伝わってきて、無意識のうちにおれは息を潜めた。
そしてジィグンと対峙するようにその前に立ち憚っていたのは、空を飛んでいた、見たこともない生き物だった。――いや、見た事はある。だけどおれはこんな生き物を知らない。知っているけど、わからない。わからないけど、知っている。ぐるぐるとした混乱が頭を駆け巡る。
そう、馬だ。真っ黒な馬。おれも知っている、強靭な脚力を持つあのたくましい馬だ。けれど、身体と同じぐらいに黒い翼をそれは持っていた。それも左右に二枚ずつ、合わせて四枚も。そして尾は二股で、ゆらゆらと揺れ、身体を支え地に着く蹄は赤く、明るいわけでもないのにやけに色が際立っていた。
な、なんなんだ、これ……。
寒いと思っていたのに、再び汗が滲む。勝手に指先が震えた。
「真司! 大丈夫か!?」
ジィグンが振り返ることなく声をかけてくる。それに対して無意識のうちに喉が震えた。
「な、なんとか……」
いかにも恐怖を感じていると身体は正直に申し出るが、何事もなかったおれにジィグンは、そうか、と安心したように小さく声を漏らす。
ジィグンは目の前を警戒しながら低く唸った。
「いいか、そこから離れるなよ」
背を向け立つジィグンにきっと見えてはいないだろうが、何度も頷き応えていると、突然馬のような姿を持つそれがいなないた。よく響くその声はまさに馬のもの。
前脚を高らかに上げ、後ろ脚だけでその巨体を支えると、それはまた嘶き、次に前脚を地面に置いた瞬間、間を空けずにそれは駆けだした。
それは、本当に速かった。一度の瞬きの間に四、五メートルの距離を詰めてしまうと、そのまま驚きに身を硬くしたジィグンに体当たりを繰り出す。
「のわっ」
小さく悲鳴を上げながら、ジィグンは辛うじて体勢を崩しながらも横に飛び退く。だがすぐさまそれは反応を示して、突撃しようとした勢いを殺そうとはせず、そのまま進んで円を描くように回り、再びジィグンに突進した。
まるで馬じゃなくて闘牛のように、繰り返し繰り返し、ジィグンに向かい突き進んでいく。
一方のジィグンはそれの攻撃をどうにか避けることしかできないようだった。最初に体勢を崩したのがいけなかったのか、今にも転んでしまいそうで、ひやひやする。
「ぬわ、とと、わっ!」
臨場感なんてまるでなしのジィグンらしい悲鳴を上げながら、道化師がダンスを踊っているみたいに逃げ惑う。
「くそっ、おれは戦いに向いてねえんだっての!」
時折見える額に汗を滲ませながら、着実に逃げ続ける足取りは重くなっているように見えた。
このままじゃまずい。わかってるのに、おれにはどうしようもできない。
ここで指をくわえて見てるしかないのか……? ぎゅ、と奥歯を噛み締めていると、目の前の攻防戦以外から悲鳴のような声が耳に届いた。
「――っ、…………て!」
はじめは気のせいかと思ったけれど、やっぱり途切れ途切れに聞こえる。
ジィグンは今が精いっぱいで気付いていないようだった。まるで、じゃれるようにしつこくジィグンを追うそれもまた反応を見せない。
一体どこから聞こえるのか。わからないけど次第にその声は大きくなってきて、ようやくおれはそれは今まで歩いてきた道の方向からだと気がついた。
おれが一体どうしたんだと、ジィグンとそれとのやりとりから目を逸らし振り返ってみれば、そう遠くないところで見覚えのある姿を見つける。その後ろには、いかにも走り疲れたように、はぁはぁと大口を開けて息をする兵士の人が見えた。
それに比べ、その兵士の人とかなり距離を空けながら前を進む人物は、無情にもさらにそれを広めながら真っ直ぐこっちへ走ってくる。
より一層近くなった顔を確認すればやっぱり、その人物は岳里だった。
無駄のないそのフォームが、素人の目から見ても嫌味なくらい綺麗だ。
「ま、まって、くれぇえ!」
ぜいぜいとした息遣いかおれのところまで聞こえてきそうな勢いで叫ぶ兵士の人なんてまるで気にしない様子で、あっという間に岳里はおれの隣まで来た。
その肌には汗一粒たりとも滲んではない。
「――っ、ばか! なんできたんだ!」
兵士の人の悲鳴を聞きつけたジィグンは、ようやく岳里に気がついたようで、 応戦しながらも声だけをおれたちに寄こす。けれど岳里は心配してくれるジィグンは無視し、おれを高い位置から見下ろした。
「大丈夫か」
「え、あ、まあなんとか……」
真っ直ぐおれを見詰める目に戸惑いながらも答えると、少し遅れて、兵士の人がこの場に到着した。
がちゃがちゃと、軽装の鎧と、腰に携えている剣がぶつかりあう。
「っ、か、がっで……かってに、へ、部屋を、出ないでくだ、さ、いっ!」
切れる息に区切れる言葉と、ぜいぜいと苦しげな呼吸に、何故だか注意されている当人よりもおれが申し訳なくなった。
水でも被ったんじゃないかと思うくらいに汗がびっしょりと頭皮から流れ落ちている。兵士の人の話からして、岳里は勝手に部屋を飛び出して、さらにはこの人を振り切ってここまで走ってきたらしい。ただでさえ足の速い岳里。それなのに兵士の人は鎧まで着て、重いうえに動きづらかったに違いない。だから、追いつけなかったんだろう。でなくちゃいくらなんでもここまで差は出ないはず……。
膝に手をつき肩で息をして、ろくに呼吸も整わないまま、兵士の人は顔をあげた。そしてまた岳里に対して言葉を続けようとして口を開いたけれど、目の前の光景を見てその瞬間を切り取り止まってしまう。
ようやく現状に気がつき、ぎょっとしたようにジィグンと追いかけっこをするそれを見て、まもの、と開いたままになる口から絞った声を上ずらせた。
「ユユ! 何してんださっさとそいつらを連れ戻せ!」
「はっ、はいい!」
上官としてのジィグンの怒声が、混乱と疲れとで未だ呼吸の整わないユユと呼ばれた兵士の人に殴りかかる。
勝手に飛びだした岳里のせいに他ならないけれど、ユユさんはすぐにジィグンの言葉に従った。汗を流しながらも、そこはさすがというべきなのか、目つきが鋭くなる。
「おふたりとも、すぐにお部屋にお戻りください。わたくしがお供しますので、早く」
「で、でもジィグンが……」
これまで来た道を示されるも、おれはすぐに動けない。それよりも、魔物と呼ばれたそれと戦うジィグンに視線を向けた。
もう逃げ惑いはしていなかったけれど、押されているのはおれでもわかる。きっと、ジィグンだけじゃ駄目なんだ。
けれど、ユユさんは少し荒い口調でおれに言った。
「我々がいても副隊長の迷惑に他なりません。さあ、早く!」
もう強引にでも連れて行こうと思ったのか、ユユさんがおれの腕を掴もうと手を伸ばす。けれど、それはおれに触れる前に、おれの隣にいる人物に叩き落とされた。
唖然とした様子で、ユユさんは突然腕を退かした人物、岳里に目をやる。おれの視線も自然と岳里に向かう。だけどその時にはもう、岳里が動き出していた。
のっそりとユユさんに近づき、目の前に立つ。そして手を伸ばし、ユユさんがどこか怯えたように少し背を逸らした瞬間、その腰に携えてあった剣の柄を握り躊躇いなく引き抜いた。
「あ」
おれとユユさんがほぼ同時に声を上げる。だが岳里はそれを気にすることなく、手にした真剣をかざした。
おれもはじめて見る、本物の剣に無意識に目を向ける。
やはりきちんと手入れされているのか、剣は月明かりを浴びて控えめに輝いていた。
「な、なにしてるんです! 返してください!」
はじめのうちは、突然の岳里の行動にぽかんと呆けていたユユさんだけど、すぐにはっとしたように顔つきを変えると、慌てた様子で剣を取り返そうと手を伸ばす。
岳里はひらりとそれを避けると、剣を掲げていた手を下ろし、おれを見た。
「岳里、早く戻ろう」
間近で見る本物の剣を気にしながらも、おれは遠回しに剣を返すよう岳里に促す。だけど岳里は返さない。それどころか、剣を改めて握り直すと、そのままジィグンのもとへ向かおうとした。
あの魔物というやつもいるのに、そこへ向かおうとする岳里を、おれとユユさんがふたりがかりで止めに入る。
「だめです!」
「何やってんだよばかっ、危ないだろ!」
岳里の腕を掴み、城の中へ連れて行こうと力を込める。けれど岳里の身体はぴくりとも動かない。むしろ、おれとユユさんはふたりしてずるずると引きずられてしまう。
「剣なんて持って、なにするんだよ!」
耳元で吠えつつも、岳里が何をしようとしているかは明快だ。ジィグンに加勢しようとしてるんだ。
岳里ならそれくらいできるのかもしれないけれど、でも剣は本物で、相手は見た事もない化け物。この世界の人だって怯えるぐらいの、危ない者。
いくらなんでも、岳里が超人だとしても、この手を離すわけにはいなかない。
けれど岳里は、おれとは反対側の腕を掴んでいた兵士であるユユさんの手をいとも簡単に振りほどき、おれに向き直った。
「おまえは、助けたいんだろう」
静かなその言葉は、真っすぐとおれの胸に届く。岳里の目はすでにおれの心を覗いたように確信していた。
――助けたい。おれは、助けたい。ジィグンを。あんな化け物と身を張って闘っているジィグンを。でもおれじゃ無理だ。ユユさんも、きっと加勢したいだろうけど、おれみたいな荷物がいるから、飛びさせずにいるんだ。
なら、早く戻るしかないじゃないか。それしか、ないんだ。
そうわかっているのに、おれは無意識に頷いた。そうすれば岳里がどうするかも予想できるのに、その言葉を認める。
けどすぐに、今すべきことが何かを思い出す。
「でも、おれたちには何も―――」
そう言葉を連ねたおれに、岳里は空いている片方の手で、そっと腕を握るおれの手に触れた。
「大丈夫だ」
その声音には、これからジィグンに加勢するんだ、というやる気も、あんな化け物を相手にするのに怯えた様子もない。いつも通りの、安定した気持ちがだけがそこにはある。
――ああ、そっか。大丈夫なんだ。
離すものかと掴んでいた岳里の腕を、ふっと手放す。重なっていた手は、それと一緒に解かれた。
岳里はもうおれに振り返ることなく走り出す。
隣で、ああっ、と叫ぶユユさんの声を聞きながらも、おれはその背中を見詰めた。