「岳里!?」
驚き飛び出た自身の声とそして視線に、魔物も同じく振り返る。そして岳人の存在を認識した途端、高らかにいななくと、前脚を高く空に蹴りあげた。魔物はそのままそれを下ろそうとするが、その前に岳人が駆けだした勢いそのまま体当たりをかます。
「なっ」
その行動に面を食らったのは当の魔物だけでなく、ジィグンも同じだった。口を小さく開け、信じられないように、突き飛ばされよろけた魔物と、そして代わりにそこへ立った岳人を見詰める。
彼は冷めた視線を、泣く子も黙る魔物へ向けていた。
「――岳里、剣を使えるのか」
すぐに戻れとは言わず、ジィグンは岳人の手に握られた剣を見て、そう尋ねる。探るように目を配るジィグンに、岳人は何の裏も醸すことなく答えた。
「初めて触る」
素直に真実を告げる岳里に、けれども一切の感情を伺うことはできない。初めて刃に触るというのに、恐怖も、興奮も、不安も、何も。自分とて、今手に握る刀身の細いこの剣をはじめて手にした時、芯から震えたというのに。
ジィグンはいつの間にか詰めていた息を吐き、そして笑った。
「そうか。まあ出てきちまったものはしかたねえよな。その代わり、絶対怪我なんかするんじゃねえぞ」
後で王やアロゥから小言を食らうのは間違いなく、勝手に飛びだしてきた岳人ではなく自分だ。恐らく、今の時点で大目玉ものなのだから、もしこれで彼が怪我をしたら、どんな処罰が待っているのか見当もつかない。
あぶねえと思ったらすぐ下がれよ、無理はすんな、そう軽く注意をしただけで、ジィグンはそれ以上何も言わず、手にしていた愛用の剣を構え直した。
ジィグンと岳人、ふたりの視線が、体勢を立て直した魔物に向かう。
「――いいか、ああいうやつは、足を狙うんだ」
地面を赤い蹄で掻く魔物を睨みながら、隣に臆する様子もなくただ立つ岳人にそう囁く。
「動きはどんなんもんか、少しは見てただろ?」
問えば、隣で頷く気配がした。ならばと、ジィグンは再三口を開いた。
「ならおまえ、囮になれ」
その言葉は、先程までジィグンが言っていた言葉とは相反するものだった。無理するな、危なくなったら下がれ、と言っておきながら、今は魔物の前に出ろと言っているのだ。
自分でも矛盾したな、と内心苦笑する。しかし、何事にも理由は存在するものだ。
本来なら剣も握ったことのない素人に戦わせるどころか、囮になれとは決して言わないし、どんな窮地だとしてもそう決断を下すことはないだろう。だが、それはあくまで戦いを知らない素人が相手の場合。そこにはジィグンにはひとつの目論見があった。
ジィグンの主であり、偉大なる魔術師であるアロゥの言っていたことが正しければ、恐らく岳人は――――まだ完全な確信をアロゥは得ていないらしいが、もしそれが真ならば、大変な事件となる。それを見極めるためにも、危険とは承知していながら、ジィグンは賭けに出たのだ。
ジィグンの推測通り、岳人は何のためらいもなく、わかった、と答えた。
ちらりと横目でその表情を盗み見れば、やはりなんの色も窺い知ることは出来ない。恐れという感情を知らないかのように、底知れぬ何かが見えそうで、ジィグンは目を逸らすように再び前を見た。
「悪いな。ただあいつの前に出て、逃げてくれればいい。あとはおれがなんとかする。――じゃあ、行くぞ!」
それを合図に、岳人は自ら駆けだした。
ジィグンが何かを言って、岳里が頷く。
てっきりすぐにジィグンは岳里を追い返すかと思ったけれど、どうやらこのまま何かするみたいだ。
一体何をしようとしているのか、おれにはさっぱりわからなかったけど、不安なのには変わりない。
岳里は大丈夫なのかな。まさか、本当にジィグンと一緒に、あの魔物とかいうのと戦うつもりか? どう考えても危険すぎるし、何よりいくら岳里が加勢したところなんて勝ち目があるとは思えない。
やっぱり、おれのせいかな――おれが、手を離したから。
大丈夫だと言われ、思わず岳里を掴んでいた手を離してしまった。岳里があんまりにも平然と言うもんだから、本当に、大丈夫なんだって思って。でもそんなわけないじゃないか。
相手はおれたちにとって全く馴染みない、見た事もない、もはや空想上だったはずの化け物だ。大丈夫なわけない。大丈夫なわけがないんだ。
でも、おれには岳里を止められるほどの勇気もない。呼び戻すなり、隙を見て強引にでも連れ戻すなりすればいいのに、おれの身体は柱の影に縫い付けられて動けない。岳里は剣すら持って、魔物の前に立っているっていうのに。
――なあ、岳里。なんでおまえはそこにいられるんだ? おれはこんなに離れていても怖いのに、なんでおまえは戦おうだなんて思えるんだよ。ジィグンが危ないから? それとも、魔物を見て興奮してるのか?
なあ、なんでおまえは、そんなに――
突然、岳里が走りだした。まるで魔物に自分の存在だけを見せるように、大きく円を描くように足を動かす。魔物は岳里から視線を逸らすことなく、動きに合わせて顔ごと追う。
半円ほどを描いたところで岳里は足を止めると、代わりに剣を構えた。丁度、おれたちと向かい合う場所で、よく顔が見える。反対に魔物はこちらに背を向けた。二股の尾がゆらゆら無防備に揺れて、それが柱に隠れるおれとユユさんなんて眼中にないと物語っているようで、その通りだというのに僅かな苛立ちを覚える。それはユユさんも同じなのか、右手を硬く握ると、強く自分の膝を叩いた。鈍い音なのに、はっきりと耳に届く。それほどまでに強く叩いたんだ。
けれどやっぱり、魔物は振り返らない。
――おれと同じなんかじゃない。おれよりも、確かな苦痛を感じているんだ。本来なら戦う立場なのに、岳里に剣を盗まれて、見守るより他にできなくなってしまったことを。けれど決して、その目は岳里を恨んだりはしていなかった。茶色の目に映っているのは何もできない苛立ちと、それと純粋な、心配の色だった。
魔物が地面を掻く度に、ユユさんは不安げに、ああ、と声を漏らす。今にも飛びだしそうに身体を揺らしながらも、懸命にそれを押さえて見守る。その姿におれはユユさんの人柄を感じた。
大丈夫だと言ったのは岳里だ。そして、人の剣を奪ってまで勝手に飛びだした。もしこれで怪我でもしてみろ。絶対に責めてやる。ユユさんと協力してお前を泣かせるからな。
たとえユユさんとふたりがかりで岳里に説教をたれても決してあいつが泣くような事態にはならないだろうけど、おれは心の中で念じる。
こうしておまえの行動でいろんな人が、いろんな思いを抱えるんだ。それが別に命にかかわるようなことでなければこうも思い悩まないし、不安も感じなかっただろう。けれど、かかわるからこそ、おれは念じるように強く祈る。
どうか、無事に終わりますように。ジィグンも、岳里も、ふたりとも怪我しませんように。
おれは岳里に集中しつつ、とあることに気がついた。
視線を魔物から逃さぬように端に収めつつ、きょろきょろと瞳を動かすも、あの小柄な姿が見当たらない。ジィグンがいないんだ。
いくら背が低いといっても、焼け焦げた辺りに隠れられそうな場所はない。なら、どこだ?
いつの間にか魔物の姿を残すのを忘れ、おれは大きく視線を動かした。右端へ、左端へ。でもやっぱり、ジィグンがいなかった。
一体どこにいるのだろうと探しているうち、魔物のいななきがが轟く。
びくりと肩を震わせて視界をそこへ戻せば、ついに魔物が走り出していた。岳里に向かい、一直線に。
魔物は頭を突きつけ、岳里の腹へ狙いを定める。軽やかに、けれどまるで矢のように素早い足取りで。
「――っ」
岳里! と、思わずおれが叫びそうになった瞬間、岳里は突進してくる魔物の速度を上回る速さでひょいと横に避けた。
魔物はその場で円を描くように旋回すると、再び岳里に走る。やっぱりその姿は馬というよりも闘牛だ。赤い布の動きに興奮した、暴れ牛。
だが馬が何度突進を繰り出そうと、その度に岳里は顔色ひとつ変えることなく避けてしまう。魔物が闘牛というなら、岳里は闘牛士の中でも一流のマタドールのようだ。
当たらない攻撃に、魔物はついに背負う二対の翼をはばたかせた。ばさりばさりと音が響き、ふっと魔物の足が空に浮かぶ。ぶわりと翼に巻き起こされた風がおれのところまで届いて、そう長くない髪を踊らす。
よくわからないけど、これって……やばいんじゃないのか? だって飛ばれてしまえばこっちの攻撃はただでさえ当たり辛くなるし、反対に向こうは空から狙うから動きやすくなるんじゃないだろうか。
おれの考えていることは正しいのか、隣でユユさんが、まずい、と頬に汗を垂らしていた。それは走り回った名残でもあるだろうし、現状を見据えた冷や汗でもあるんだろう。
それを見てしまえば、胸に巣食う不安がまた大きくなる。じっと岳里を見詰めるが、表情に動きはない。その姿が何かを待っているようにも見えたけれど、ただそう見えただけなのかもしれない。
ついに手を伸ばしても届かない場所にいってしまう、とおれが危惧したその瞬間――ぽんっと軽い音が辺りに響き、魔物の後ろに人ひとりが入りそうな煙が立ち込めた。薄青く輝く粉を纏うそれに、おれの視線は一気に奪われる。その中にうっすらと人影が見えた。
「おれはなぁ――」
魔物も顔をそちらへ向けると、煙からぬっと太い腕が出て、薄青いそれらを蹴散らしながら、次に顔、身体と姿を飛びださせ、魔物へ飛びかかった。その人を追うかのように、きらきらとした粉だけが後を引く。
「忍ぶのは得意なんだよっ!」
夜空に混じって星になってしまいそうな輝きを纏いそこから飛びだしたのは、にかりと歯を見せ笑うジィグンだった。
いつの間に魔物の背後にいのか、という疑問を持つよりも先に、おれはその手に握られた剣が大きく振り上げられていたことに、あっ、と声を出した。
「おらよっ!」
ヒュン、と鋭く風を切る音が響き、次の瞬間には魔物の悲鳴が木霊した。細いけども鋭利なジィグンの剣が、すぱっと魔物の尻尾を切り落としたんだ。小さな音を立て落ちた尾は、落ちるように地面に戻り痛みに暴れ出した本体に踏みつけられた。
まるで呪いを吐きだすように甲高い魔物の悲鳴に、おれはたまらず耳を塞ぐ。無意識のうちに薄くなる視界の中で、ジィグンが手にする切っ先にも負けない鋭い剣士としてのまなざしを光らせ、魔物の臀部へ力強い一突きを繰り出していた。
魔物はひと際大きな悲鳴を上げ、前肢を大きく振り上げる。その目の前には岳里が剣を構えていた。
「岳里!」
ジィグンの呼び声に応えるよう、岳里が一歩を踏み出し、そして手にしたユユさんの剣を真横へ薙ぎ払う。夜空に掻っ切られた首から溢れる鮮血が飛び散り、それは岳里へ降りかかった。
「ひっ」
飛び散る血に、おれは届かない場所にいるにも関わらず情けなく声を上げる。けれど噴き出す音は離れたこの場にも届き、最後の絞り出すようなうめき声も交じっていた。
岳里は全身に魔物の血を浴びた。髪にも、頬にもべったりと。鼻も、腕も、手も、まだらに染まっていく。
月夜にしか照らされていない今、血の色は赤ではなく真っ黒な墨のように見えた。けれど、その黒く見えるはずのそれが、おれの過去の記憶が無意識に赤に修正する。
真っ赤に染まる。頭のてっぺんから、つま先まで。赤く、浴びた血が手から垂れ落ちる。髪から滴る。血が、血が。
誰が見ても、その姿は恐怖にしか映らない。もし自分があの場所に立っていたら、気が狂っていたかもしれない。それほどまでに異常な光景で、異常な姿で。それなのに岳里は動かなかった。怯えることも、ひるむこともない。ただじっと、目を細め魔物が倒れるその時まで、じっと血しぶきを見つめていた。
重たいものが倒れる音が、辺りに響く。その後に続く音はなく、ただ静かに魔物の傷跡から血が流れ、地面にまるく広がっていく。
岳里はそれからようやく、袖で顔を拭った。けれどその袖も同じように濡れているから、ただ薄く広げ伸ばしたようにしか見えない。
おれはただ、その姿を見て動けずにいた。
「――大丈夫ですか?」
「っ、あ、ああ、はい……大丈夫、大丈夫です……」
声をかけられ、おれは反射的にそちらへ顔を向ける。するとそこには心配そうにおれを見るユユさんがいた。
おれは言葉を詰まらせながらも、返事をする。けれど明らかに動揺が混じり、その声音は震えた。
ユユさんはそれ以上何も言わなかった。言わないでいてくれた。それがおれにとってはとてもありがたかった。きっと、今何か言われても応えられない。
ありがとう、そしてごめんなさい。心の中で謝りながら、おれは再び視線を前に戻した。
「――――ッ!」
びたりと視線が合う。黒に――赤に染まった岳里と。
岳里はじっとおれを見ていた。手からは未だに血が滴り落ちている。握られた剣と同じように濡れている。
おれは声が出なかった。岳里を見つめたまま、ただ目を見開くだけで何も。瞬きすらできずに、じっと岳里の目を見つめた。
辺りはほとんどが闇と溶け合った色に染まっている。焦げた草木でさえ、その色を闇と混ざり合いさらなる黒へと染め上げていた。魔物の血も、本来の赤ではなく黒くその身を染めている。岳里の身体も、闇に溶けている。けれど、その目だけは違った。
淡く、金色に輝いていた。そこだけは闇色を跳ね返し、柔らかくも強い光を宿していた。
岳里の目の色は、違う。金じゃない。まじまじと見たことはないけど、少なくとも黒とか茶色だった。じゃあ、今はどうして光ってるんだ。
確かにこの両目で見つめている事実に混乱するおれを尻目に、岳里は目を閉じた。それと同時に輝きも消える。そして再び開かれた岳里の目を見て、おれは更に混乱を深めた。
金じゃなく、そこは本来の暗い色に戻っていた。おれも何度か瞬きをするけど、その色が変わることはない。
なんだったんだろう、さっきのは。見間違いじゃなく、確かに金色の目だった。はっきりそう見えていたのに。
「岳里、おまえ派手に浴びちまったなあ。でもまあ、よくやった」
ふっと岳里のほうから視線を逸らされる。隣に来たジィグンへ向き、手渡されたタオルのようなものを受け取り顔を拭き始めた。
「おい、ユユ。岳里から剣を返してもらえ」
「はい」
ユユさんはおれの隣から立ち上がり、ためらうことなく、魔物の死体の隣に立つふたりまで歩み寄ると、片手で顔を拭く岳里から剣を返してもらった。
剣を手にしたユユさんは、一度宙で剣を払う。剣についた血がぴっと地面に飛び散る。
「おい真司、大丈夫か」
ぼうっと一連の動作を見ていたおれは、ジィグンが傍まで来ていたことに気がつかず、声をかけられてようやく立ち上がった。
「うん、大丈夫」
「おまえ、そうは言っても真っ青だぞ……まあ、見て気分いいもんじゃないからな。無理はすんな」
「……ごめん」
「謝んなくていいさ。こういうのに慣れてないのは当然のことなんだから、変に気遣わなくていいんだ」
心配してくれる声に、うん、と力なく応えることしかできなかった。
ジィグンは、そんなおれを見て、めげるな少年、と頭を二度軽く叩いて、踵を返した。
「岳里、おまえはともかく風呂だな、風呂。そんななりじゃみんな怖がっちまうから、とっとと風呂行ってこい。ユユ、おまえはふたりを案内してやれ」
「了解しました」
名前を呼ばれたユユさんは、刀身を布で拭きながら頷いた。
「真司、おまえも風呂入ってすっきりして、んで寝ちまえ。寝りゃ少しは気分も変わるだろうからな。んでもって、岳里」
「なんだ」
ジィグンが振り返り手招く。岳里は素直にこっちへ足を進めた。けれど、いつもならおれの隣に来るものを、ジィグンの後ろで歩みを止める。
「おまえにゃ明日、アロゥから話がある。王もいらっしゃるから、よーく念入りに身体を洗っとけよ」
その言葉を裏付けるかのように、岳里から五六歩離れているおれの鼻を鉄くさい臭いが刺激する。気を張っていても、眉間が少しだけ狭まる。おれは自分を嫌なやつだと思いながらも、並ぶふたりから視線を落とした。
血を汚いと思っているわけじゃない。平然とそれを纏える岳里を怖いと思っているわけじゃない。けど――たとえ本人の血でなくても血まみれな姿を見ているのはいいものではないし、どうしても血に染まる身体を見ると昔を思い出す。
爆発した車から運び出される両親と、追突したトラックの運転手。赤黒く爛れた肌。だらりと伸びた手から絶えず滴り落ちる血。幼い自分の目に映ったあの日の現実を、十年経った今でも未だに思い出すときがある。さすがに鮮明にって言えるほどはっきり覚えているわけじゃなくて、もうぼやけた記憶でしかないけれど、あの血の色だけは忘れられずにいる。思い出すときも、夢を見る時も、赤い色だけは当時の色を忠実に、曖昧な世界を彩っていた。
昔の記憶と重なって見えたから、そんな姿の岳里を見たくなかったから、だからおれは目を逸らした。
「なぁ、ジィグンはどうすんの?」
自分から目を逸らしておきながら、でもその事実を岳里には悟られたくなくて、視線をそのまま魔物の傍らへ移動したジィグンに移して尋ねた。
「ん? おれはほら、これの後始末と報告があるからな」
おれのほうへ身体を向けながら、親指を立て後ろの魔物を示した。おれは指先を辿って視線を向ける。
びくりと、それが震えた。
「だから悪ぃけど、これからは別こう――」
「ジィグン!」
「副隊長!」
おれとユユさんの声が重なり、死んだとばかり思っていた魔物が立ち上がるのも同時だった。
背後の気配に気がついたジィグンが振り返った時にはもう、振り上げられた前足が天高く仰がれる。ユユさんもおれたちのほうへ向かっていたから、たとえ魔物との間が短い距離だとしてももう間に合わない。
最悪の事態を想像したおれは、ぎゅっと目を強くつぶった。
真っ黒になった視界。どすっという鈍い音が耳へ届いた。けれど、何かがぶつかりあう音は聞こえても、ジィグンの悲鳴は聞こえない。呻き声のひとつもだ。
いくらなんでもそれはおかしいとどこか冷静に考えたおれが、恐る恐る目を開けると、そこには咄嗟に想像したような悲惨な情景はなかった。代わりに、今までいなかったはずの新たな人物がそこへ登場していた。
「はっ、ハヤテ!」
「ハヤテ隊長!」
その人物の名を叫んだのは、さっきとは打って変わってジィグンだった。驚いたそれに続いたのは、ユユさんの喜びをにじませた声だ。
ふたりに名前を呼ばれた当の本人は、ぎろりとジィグンだけ射抜くように鋭い眼光で睨みつけていた。
「てめえはいつも詰めが甘ぇんだよ」
こんなやつ相手に、とでも言わんとばかりに、ハヤテさんはふん、と苛立たしげに息を鼻を鳴らした。
ハヤテさんがついさっき、どうやってここに来たかは知らないけど、おそらくハヤテさんの物だと思われる大振りな剣が倒れた魔物の太い首を貫通していた。新たな傷口から、早速血だまりが地面に出来ている。今度こそ本当に、絶命したんだろうか。
剣の持ち主であろうハヤテさんは不安定な魔物の身体の上に堂々と立っていた。だからなのか、片手を腰に引っ掛け、もう片手の小指で面倒くさげに耳をほじる姿が勇ましく見える。
「だからこんな死に損い殺されかけんだ」
「うっ、悪かったよ、助かった。でもよく夜目のきかないおまえがここに来たな」
「――てめえのじじいが空の上に寄越したんだろうが」
「なんだ、そういうことか。確かにアロゥならそうやるか」
その言葉に、ハヤテさんはジィグンを睨んでいたけれど、当の本人は涼しい顔をしている。おれだったらあの人を射殺せそうな視線に耐えられそうにない。
ふたりの話からすると、多分アロゥさんが魔術か何かでハヤテさんを空の上に呼び出した、ってところかな。魔術がどういうものかよくわからないけど、アロゥさんは大魔術師だってジィグンも言ってたし、それくらいは出来るのかもしれない。それだったらハヤテさんが突然っぱっと現れたのにも納得がいく。
……おれ、思ったよりも早くこの世界に馴染んできたな。
おれたちの世界にはなかった摩訶不思議な力で納得だなんて、来た当時のおれだったらきっと頷けなかったんだろう。自分が順応なのかそうじゃないのか、なんだかわからなくなってきた。
ハヤテさんは大きな溜め息を吐くと、どかりとその場に片膝を立てて座り込んだ。その場とは、魔物の身体の上なんだけど。その尻の下には、完全に事切れた魔物が舌をだらりと垂らし、白目を向いている。開いたままの口から泡を吹き、涎と血が混ざったものが溢れ、鼻からも血が流れていた。
気分が悪くなり、すぐに目を逸らす。
「おいこら、んなとこに座るんじゃねえ。運べないだろ」
「このまま引きずれ」
「は? おまえ乗ってんのに無理だろ。さっさとそのでけえ図体を退けろ」
「うるせえな、とっとと運べよ」
そして目を逸らした先では、不穏な空気が流れていた。
腕を組みハヤテさんを見下すジィグンの片眉が、ぴくりと動く。
「おまえは何さまだ。どっか悪ぃならまだしも、ピンピンじゃねえか」
「だるい」
「おまえのそれはいつもだろ」
「うるせえな。小せぇことばっか気にするからそんな小せえんだろうがよ」
「あ!? 背は関係ないだろどう考えたって! じゃあ何か、その不遜な態度がおまえがでかい理由だって言うのかよ!」
「ああ」
「ああ……じゃねえよ! どう考えたってちげえだろ!」
「ぎゃんぎゃんわめくんじゃねえよ、うぜえな」
その先はもうジィグンの日々のストレスを語ったものだった。いつもおまえはそうだとか、なんでそんな態度なんだとか、背の事いうなとか……やっぱり身長は気にしてたのか。
この世界の人たちは基本でかい。会う人のほとんどが向こうでは平均的なおれの背を越していた。レドさんやヴィルさん、綺麗な顔したコガネさんだっておれよりも大きかったし。王様も背が高かったな。ユユさんもだ。それでいて、特に出会った人の中で大きかったのが、ヤマトさんだな。おれと比べるまでもなく、長身でこの世界の人たちともいい勝負をしてる岳里とも確実な差があった。多分、百九十はある……んでもって、ハヤテさんは次いで大きい。ヤマトさんよりも若干低いぐらいで、きっとハヤテさんも百九十はあると思う。そう考えれば、やっぱりこの世界ではジィグンは低いほうなんだろうな。
まあそんなハヤテさんとジィグンが並べば、身長だけで見れば親子に間違えられると思う。ただしジィグンの顔はおっさんだから、なんだか違和感あるけど。
この世界でおれより小さかったといえば、今のところネルとセイミアだけだ。おれたちのことをよく思ってないらしい隊長のひとり、アヴィルは多分同じぐらい。言ってしまえば、おれより年下だけが身長が低い。獣人のネルは別として、セイミアなんかは成長してまだまだ伸びるんだろうけど。アヴィルだって可能性は十分あるし。
……あれ? よく考えてみたら、おれも身長低いのか……?
「岳里さま。真司さま」
あれれと悩んでいたら、いつの間にか隣に来ていたユユさんに名前を呼ばれた。
真司さま、と呼ばれてなんだか背中が痒くなったけれど、おれたちは客人として扱われているから普通には呼んでくれないんだ。前に一度、部屋の前を見張っていた別の兵士の人頼んだけど駄目だとあっさり断れてしまったことがある。
「さあ、早く行きましょうか。岳里さまもいつまでもそのままでは風邪をひいてしまいます」
それもそうだと、おれは岳里を見た。相変わらずぐっしょりと血で濡れている。血であろうが濡れることには変わりないから、身体が冷えてしまうだろう。
指先に滴る血はもうなく、代わりに端から乾き始めていた。早く風呂に入って流さなくちゃ、落ちにくくなる。
けれど、今もこうしているうちに聞こえる暴言を無視するわけにはいかない。視線を向ければ、ジィグンが一方的に言葉を発して、ハヤテさんはうんざりといった様子で両手で耳を塞いでいた。
「あのおふたりなら大丈夫ですよ。気にしないでください。わたくしどもが間に入らずとも、すぐ収まります」
それにいつものことですから、と笑顔で教えてくれた。
ふとその時、喧嘩するほど仲がいいという言葉が頭を過ぎる。
ハヤテさんは確かに顔は怖いけど、誰も危険な人だとは言わなかった。ユユさんもでこぼことしたふたりのやりとりをほのぼのとした目で見てるから、おれの心配することなんて本当に何ひとつないんだろう。
おれの中ではどうしてもハヤテさんははじめて会った時の印象が強くて、それでいて顔も怖いということもあり、なかなかどういう人なのか判断できない。でも決して悪い人とは思うから、もし今度話す機会があったら、ひとりで向かい合うのは無理だろうけど、誰かの影に隠れるのはやめよう。
「さあ、行きましょう。ついてきてください」
「――はい」
ユユさんが先頭を歩き、おれも後を追った。岳里も少し距離を開け、黙ってついてくる。
最後にちらりと盗み見たふたりは、口げんかをしながらもなんだか楽しそうに見えた。