真司たちが姿を消してしばらく。ようやくふたりの言い争いに終止符がうたれた。

「ったく、小うるせえんだよてめえは」

 そう吐き捨てるように言い放つと、ハヤテは重たげに腰を上げ、ようやく魔物の上から退いた。
 その姿を、腕を組みながらジィグンは満足げに見つめる。どうせ運ばなければならないのだ。退いて当然なのだが、素直にとは到底言えないものの言うことを聞くハヤテは珍しく、勝負試合に勝てでもしたような優越感があった。
 さて、いい加減行かなければ今度は自分が小言を食らう番になってしまうと、ジィグンは魔物に歩み寄る。足でも持って引きずり運ぼうと考えていたのだが、自分が手を伸ばすよりも先に、横から伸びた手がだらりと投げ出された魔物の後ろ脚を一本掴んだ。

「なんだ、運んでくれるのか?」
「てめえがやったんじゃ朝になる」

 そう言って、ハヤテは魔物を引きずり先に歩きだした。

「んな非力じゃねえよ」

 その言葉にむっと眉を顰めながら、ジィグンもすぐに早歩きで後を追い、長身の彼の隣を歩いた。
 ふたりの足音と、重たい魔物を引きずる音が夜空の下を静かに行く。
 魔物の身体から未だ流れる血は、まるでふたりの道筋を残すかのように線を引いていた。
 あとで片付けが大変だ、と思いながらも、今は見ないふりをしてジィグンはハヤテに声をかける。

「――結界は、動いてなかったよな」

 無意識のうちに低くなる声音。そしてかたくなる表情だが、一方のハヤテは何ら変わりはしない。

「あれが動いてたんなら、今こいつは外で灰になってるだろうよ」

 こんな雑魚、本来なら結界に触れやしねえはずだろ、と続けたハヤテの言葉に、ジィグンは溜め息をついた。
 そう、この魔物は強いわけではない。そこそこに強いといわれる自分ひとりでは倒せないとは言わないものの相当な苦労はするし、一般の兵士だとしたら何人かで立ち向かわなければならないような相手なのだが、死者が出るなどというほどの強さはないのだ。この程度の魔物であれば、どちらかといえば底辺に位置する下級の魔物、と評せるだろう。ましてや国内上位の腕前をもつハヤテほどの剣豪ともなれば、ひとりで十分、片手を封じられても倒せてしまえるはずだ。だが本来、手こずる魔物であればそうはいかない。
 たとえ一体の魔物が相手であれども強ければ、兵士だけ必要な人数は数十人。少なくとも五十は要るだろう。そこへ隊長になりうるつわものを加えたとしても、決して少数では立ち向かえない相手だ。
 そんな化け物どもが日常茶飯事に国内に攻めいれば、速攻で国は崩壊してしまう。だからこそ必要になるのが、魔術師たちが力を合わせ生み出す“結界”だ。
 結界は魔力で作られた、言わば巨大な盾だ。その姿は目に見えはしないが、皆が寝静まる今も国全体を覆うほどの魔力の膜が、外の世界からこの場所を守ってくれているのだ。
 結界はとても便利なもので、不要なものだけを国に入れさせないようにできる。不要なものとは、第一に魔物だ。下級の魔物ならば結界に触れただけで灰と化す。中級ほどでは灰になることはないが、結界に触れた部分にやけどを負ったりして、中に入ることは叶わない。上級の魔物の中でもさらに限られた上の者ならば結界を破壊することも可能だろうが、まずそういった魔物が現れることはない。
 そして次に結界に侵入を阻まれるのが、国に悪意を持った人間だ。例えるならば敵国の間者。国内の情勢を密かに調べに来る者や、他には国王の命を狙う者。不当な商売目当ての者だったりと、国にとって害になる人物を示す。もしそんな邪な考えをもつ者が国内へ足を踏み入れようとした場合、魔物のように灰になるわけではないが、電撃が生じしばらく感電し動けなくなる。そうしてしびれた者たちを回収し、後々話を聞きだしたりするのだ。
 結界は万能と言ってもいい。結界には魔術師たちの実力が大きく関わってくるのだが、今このルカ国にはジィグンの主であり、偉大なる魔術師と称されるアロゥがいる。アロゥは無尽蔵の魔力の持ち主とも言われ、本来ならば数人の魔術師たちで生み出される結界をひとりで作ってしまうほどの人物なのだ。そしてアロゥの結界は良質で、どんなに小さな悪意の芽をも摘み取る。ジィグンにとって、本当に自慢の主だ。
 だが、偉大なる魔術師とて人間。ましてや年よりなので、休みは不可欠だ。それに、確かに底なしとも思える魔力の持ち主ではあるが、たったひとりで結界を張ったり国内の様々な場所に魔力を送り込んでいればあっという間に底は見えてしまうのだ。
 そうした場面になれば無理も出来ないので、国中の魔術師たちがアロゥに代わり結界を張ったり、さまざまな場所へ魔力を送る。だが多数の魔力を集めるそのせいで質の違いから結界にむら生まれ、結界の力が一部弱くなったりしてしまうのだ。そうするとその瞬間を狙った者たちが上手く結界を掻い潜り国内へ侵入してくる。その時ばかりは下級の魔物も拒まれもせず入ってしまうことがあった。
 そして、そのような時のために、一般には公表されていないアロゥの第二の結界が役に立つのだ。第一の結界は言わば守りの結界。ならば第二の結界とは、感知の結界だ。アロゥは例え自分が眠りに就こうが、第一の守りの結界を他の者に任せていようが、この感知の結界だけは決して外さないようにしている。
 万が一隙を見て潜り込んだ悪しき者がいたとしたら、感知の結果により、結界を張った本人であるアロゥと、そして国の主である王。各隊長たちと、アロゥの獣人であるジィグンやその他一部の人間のもとに、そのことについて報せが届くようになっているのだ。
 今まで何度か結界を掻い潜った者たちがいて、ジィグンもその分感知の結界に侵入者を教えてもらったことがある。直接、大きな鐘の音が頭に鳴り響くのだ。その後、アロゥ自身から魔力の風に伝令が乗せられ耳に届く。その時に応じて隊長たちを直接動かすのだ。
 そうして、たとえもし魔物が入り込んだとしてもすぐに対処できるようにしてあるのだ。だからこそ大きな被害も出たことが無いのだが、今日真司とジィグンの前に現れた魔物は違った。
 はじめに魔物の姿に気がついたのは真司だったのだが、ジィグンも同じくその姿を瞳に写した時は呼吸が止まるかと思った。
 アロゥからは何の連絡も入っていないのにそこにいたのは確かに魔物だったのだ。だからこそ自分も対応が遅れ、あと少し真司が気がつくのが遅ければ彼に大けがを負わせてしまっただろう。
 本当に間に合ってよかったと、今思い起こしても安堵の息が出る。あの魔物は実力こそないが、吐き出す炎は高温で、人間など一瞬にして丸焦げにしてしまう。笑えない話ではあるが、魔物にとっては上手そうに焼けた肉とでも見えるのだろうか。
 本当にそうなっていなくてよかったと、ジィグンは乾いた笑みを浮かべた。
 隣で気持ち悪ぃと眉を寄せられるも、無視して道に落ちる小石を蹴る。
 無事魔物を退治出来たとして、問題が解決したわけではない。
 ――いったい、どうやってこの魔物は入り込んだのだろうか。
 守りの結界ならまだしも、アロゥの感知の結界すら抜けてしまうなど今まで一度としてなかった。ましてやこの魔物は下級。力なき者が、どうやって。
 しかし、ジィグンが思考をめぐらした所で何かがわかるわけでも、解決するわけでもない。こういったものはアロゥに相談するのが一番だと、考えるのはやめた。
 久々に頭使っちまったな、と思いながら両腕を空に振り上げ背中を伸ばしていれば、ふいに見上げた視界の端でハヤテがこちらを向いた。
 手を下し、改めて嫌味なほど背の高い男を見上げれば、魔物を引きずる手はそのままに、もう片方の手から何かが投げられる。
 反射的に右手でそれを受け取り、手の中におさまったそれに目をやる。それはジィグンがまったく予想していなかったもので、意外な彼の行動に目を丸くして隣を歩く横顔を見上げた。

「――なんだ、どういう風の吹きまわしだ?」
「……使わねえなら返せ」
「いや、せっかくだから借りる」

 ありがとよ、と笑ってお礼を言い、ジィグンは手にした傷薬の蓋を開けた。

「にしたって、本当珍しいな。おまえが気を利かすなんてよ」
「…………」

 返事はなかったが、ジィグンは気を良くしながら嬉々として仏頂面をする彼に話しかける。その間にも、器に並々と入る塗り薬を指に掬いとり、捲くった自分の左腕を覗いてみた。
 そこにあるアロゥとの心血の契約の証しである“鼠”には、その紋を分断するように、浅くではあるが傷が刻まれている。自分では加減したつもりではいたのだが、思ったよりも血が流れた跡があった。今ではもう乾いてしまっていて、拭ってもとることができない。諦めてジィグンは、血の上から傷に薬を塗りつけた。その途端、じわりと痛みが蘇り、悶えるようなものへと変わる。顔を顰めながら、重たい魔物の死体を運んでも汗ひとつ流しはしない大男を睨みつけた。

「うああ……おいハヤテ、おまえ一番しみる薬寄越しただろ……」
「知らねえな」

 ジィグンの視線など屁でもないように、口端をわざとらしく吊りあがらせる男に、やられたとジィグンは溜め息をついた。
 だが、このしみる薬はよく効くことを知っている。だからそれ以上の文句は告げず、ジィグンは使い終えた傷薬に蓋をしハヤテに返した。受け取られた薬は、すぐにハヤテの服の中に仕舞われる。
 それを見届けた後、もう一度証に目をやった。

「あーあ、こりゃあとでアロゥに謝んねえとな」

 証についた傷は、主と獣人がともに共有するものなのだ。獣人であるジィグンが証の上に負った傷は、主にであるアロゥの証にもしっかりと存在ている。ただでさえ年で傷がなかなか治らない、と嘆いていたのをつい最近聞いていただけに、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。だがこうでもしないと突然現れた魔物にアロゥが気づき、ハヤテを送ってくれることはなかったのだろう。
 あえて証に傷をつけ、自分の危険を知らせる。それが、一種の離れた主への連絡でもあるのだ。
 仕方ない選択だとわかってはくれるだろうが、念のため治療をセイミアに頼んでおこうと、ジィグンはひとり考える。
 それからしばらく、特に二人の間に言葉もなく歩き続けていたが、不意に、珍しくハヤテのほうから話を振ってきた。

「――この魔物の首、あの岳里とかいう餓鬼がやったのか」
「ああ。ユユの剣奪って飛び出してきやがった。はじめて剣を握ったとかいうくせに。まあおかげでおれは助かったけどよ……おまえ、岳里をどう思う?」

 これまた珍しく他者のことを問うたハヤテに、ジィグンも実は意見を聞きたいと思っていたことを尋ねた。
 しばらく沈黙した後、ハヤテは答える。

「普通じゃねえ」
「……だよな」
「あの餓鬼、素人には思えねえ。剣の扱いはどうであれ、確実に急所を斬ってやがる。それも、躊躇いなく」

 足をとめたハヤテは、引きずっている魔物に振り返った。ジィグンも同じように魔物の、岳里の与えた斬り傷へ視線を向ける。
 斬られた、というより鋭い刃物を押しつけられたような傷は、着実に魔物の動脈を狙らっていた。あくまで足に怪我を負わせ動きを封じさせ、それから自分がとどめを刺すつもりでジィグンは足を狙えと指示したのだが、岳里は自らの判断で首を斬ったのだ。さすがに返り血までは予想をしていなかったのか、噴き出した血で全身を汚していたが。
 あの時の姿を思い出し、数々の場数を踏んでいるはずのジィグンだが、身震いをした。
 眉ひとつ動かすことなく、表情もなくただ静かに血しぶきをその身で受ける姿。経験豊富な者が血に慣れているならばまだわかるが、彼はまだ剣の感覚も、ましてや持ち方も知らずにいた。本来いるべきはずの世界に魔物が存在していないのに、臆することもなく魔物に体当たりさえして見せた。
 肝が据わっている、とても勇敢だ、どころの話ではない。

「アロゥの読みは当たり、か……?」
「あ?」
「いんや、なんでもない」

 どちらからともなく再び歩み出し、ジィグンはふと懐かしいことを思い出した。

「そういやおまえも、まだ慣れてなかった時は可愛かったな」
「ああ?」
「はじめて魔物を殺した時、おまえ体調崩して寝込んだじゃねえの」

 ゲロゲロ吐くは、大変だったなー当時を思い出し笑うジィグンに、ハヤテは舌打ちをひとつ打つと、歩みを速めた。
 ハヤテは見た目とその言動に反し、案外繊細な心の持ち主なのだ。それは複雑とも、捻くれているとも言えるのだが。
 今ではもう全十三隊の隊員の中でも一、二位を争うほどの剣の腕前を持つハヤテ。だが彼の初陣の後に見せた弱り切った姿を知る者は少ない。ましてや、彼の精神の不安定さなど知る者は、恐らく自分とアロゥ、そしてハヤテの主であるフロゥぐらいではないだろうか。
 その中に自分が含まれているという事実に優越感を覚えながら、ジィグンは目の前を行く背中を追いかける。

「そういやおまえ、フロゥに泣かれた時も――」
「黙れ。今すぐこの場で犯すぞ」
「おーおー、おっかねえなあ」

 岳里を餓鬼と言っていたハヤテも、ジィグンにとってはまだまだ餓鬼なのだと胸の内で密かに笑ってやった。

 

 

 

 ジィグンたちと別れたあと、おれたちはしばらく城の中を歩きようやく浴槽のあるという部屋まで来た。その間に岳里の浴びた返り血は乾いてしまい、少しこすればかさかさと落ちてしまいそうだ。ただ髪の毛にしみ込んだ血はまだ湿り気を帯びているようで、見た目からもごわごわとしているのがわかった。臭いはまだ強烈に残ってる。
 途中兵士の人何人かとすれ違った。もちろんみんな、ぎょっとした様子で血まみれの岳里に目を配らせたけど、結局は何も言わず、壁際に立っておれたちに道を空け、頭を下げる。でも目が合った瞬間強張ったその顔が、一体何が起こったのか知りたがっているのは十分わかった。
 岳里は相変わらず表情を変えず、今の姿が不愉快そうには見えない。けれど、おれの方が今の岳里の姿に耐えられない。あの兵士の人たちの視線にも。早く風呂に入って、その血を落として欲しくて仕方ない。だからこそ、着きました、とユユさんが言ってくれた時には、心の底から安心した。
 扉を開けて中に入ると、また正面に扉が見える。部屋の中には十歳ぐらいの年齢の少年がふたり、壁際に立っておれたちに頭を下げていた。他にも真っ白なクローゼットやらソファー、その手前にテーブルなど、シンプルではあるけどところどころに金の細工が施されたお高そうなものが置いてある。ここだけで十分ひとつの部屋になっていた。
 ユユさんは進み、正面に見えた扉を開け、横に退くと、おれたちに入るよう手で示す。素直にそれに従い先に中に入ると、また正面に扉が。さっきの部屋の半分ほどの小部屋だ。
 また同じようなクローゼットのようなものがひとつ置いてあり、あとは中にタオルのようなものがそれぞれ入った広く浅い木で編み込まれたかごがふたつ、扉の横に置かれているだけだった。

「浴槽はこの扉に先にございます。こちらでお洋服をお脱ぎになってからお入りください。着替えは後ほど持って参ります」

 それから簡単に、風呂の入り方を教えてもらった。
 お湯の温度が低ければ、浴槽の底にあるはずの赤い玉を撫でる。反対に高ければ、青い玉を撫でる。壁に埋まった黒い玉からを撫でれば底からお湯が噴き出してきて、温度は浴槽のお湯と同じくなっているらしい。シャワーみたいなものなんだろうか。止めるときはまた同じように撫でるそうだ。
 多分、どれも魔術とやらを使ったものなんだと思う。温度の調節までそれでできるなんてすごい。
 籠のなかにあるタオルは風呂場で使うみたいだ。身体を洗うのに使うらしい。湯船にタオルを入れてもいいかと聞けば、構わないと言ってくれた。

「ではわたくしはあちらの扉の前にいますので、何かあったらお呼びください。それでは失礼します」
「はい、ありがとうございました」

 おれが頭を下げると、ユユさんは最後に笑顔を返して、ひとつ前の部屋に戻った。
 いい人だ、と思いながら、心の中ではユユさんに申し訳ないと頭を下げた。
 岳里が部屋を飛び出してきてからというもの、ずっとおれたちに付き合わせてしまってる。それが仕事なのだと言われればそれまでだけど、本来ならここまで案内してもうらはずじゃなかったし、こうして外で待っててもらうはずじゃなかったんだ、随分迷惑をかけてしまったろうな。
 今度改めてお礼を言おう。
 そう思って扉から目を離し、風呂に入ろうと籠を見ると、既に岳里が服を脱ぎだしていた。乾いた血がはらはらと剥がれおち、床にまかれている。
 だけど素肌が見えた時、そこに血の色はなく、気がつけばおれはそれだけでほっと胸を撫で下ろしていた。
 こうしている間にも、岳里は上半身が裸になっていく。おれも早く脱いでしまおうと服に手をかけたが、もう一度岳里の背中を見て手を止めた。
 ――なんか、悔しい。
 別に他の男の裸なんて見慣れてる。夏には女子とはちがって平気で上ぐらいなら脱いで涼をとるし、学校なんか着替える時に友人たちの上半身が嫌でも目に入る。だから今更岳里と一緒に風呂入ることに抵抗はない。そりゃ、恋愛対象は男ですなんてやつと入るのはさすがに躊躇うけど……でも岳里はおれと同じくこの世界の住人じゃない。だから問題は何もないんだ。
 なによりおれが気にするのは、同い年手である岳里との体格の差だ。
 ――なんだよあれ。アスリートの後姿かなんかですか。そう言いたくなるように、無駄な肉もなく引き締まった身体。ムキムキじゃなくて、必要な所に必要なだけしっかりとついている筋肉。後姿だけでも十分その格好よさが滲み出てる。もはや完成された身体、って言ってもいいかもしれない。
 服を捲って、自分の腹を見てみる。無駄な肉はないとは思うけど、割れた腹筋は見当たらない。まっ平らな壁のような腹しか見えない。何も言えないまま、おれは服を元に戻し、もう一度岳里の後ろ姿を見た。けれど下に手をかけていて、慌てて目をそらす。
 肉体の差はまだ仕方ない。というより、岳里が凄すぎるだけでおれは普通だ。周りの友人たちの身体も、そこまでおれと大差ない。高校生であんな風に引き締まってる奴なんて、運動部でもそう見ないくらいだし。でも……アレの差だけは見たくない。
 勉強も運動も、身体的にも並なおれは、アレも並だ。小さくないに越したことはないし、大きすぎても逆に引かれるだけなんだけど、やっぱり男として、それなりに立派なほうがいいわけだ。けれどそこばかりはどんなに鍛えたって何したって変わらないわけで。生まれもったサイズにしかならないわけで。
 見れば比べてしまう。比べてしまえば絶対落ち込む。そもそもの体格差から仕方ないかもしれないけど、男としてはやっぱり……。
 おれがいつまでも俯き目を逸らしていると、視界に素足が見えた。

「先に入っているぞ」
「あ……うん」

 岳里は堂々とした様子で、扉の奥へと消えていった。ぱたりと扉が閉まりおれはようやく顔を上げる。おれもあれほどの肉体美というものがあれば、こうも情けない思いをしなくて済むのかな……。
 溜め息をつき、おれは服に手をかけながら籠に歩み寄った。ふたつ並んだ左の籠に、汚れた岳里の服が脱いだ形のまま入っている。
 おれは脱いだ自分の服をたたみ、その上に重ねて置いた。

 

 

 

 風呂場に足を踏み入れると同時に、おれは感嘆の声を上げる。

「おおー、すげーっ!」

 湿った空気の中に反響した自分の声に、さらに感動した。さすが王さまの風呂だ、とおれは目を輝かす。
 大きな部屋には全面につるりとしたタイルが貼られていて、中央にでーんと大きな風呂が置いてあった。中央の天井には明かりとなる光玉があって、その隣にも薄青い玉があった。
 円状の風呂の縁、四か所に均等な距離を保って、天井のものと同じ薄青い玉があり、そこから小さく弧を描いてお湯が噴き出ていた。溜まり続けるお湯は、贅沢にも縁から溢れ流れている。さすがにライオンはないけど、噴水のように溢れるお湯には無意識に心が弾む。中央の浴槽の奥にも、小さな丸い浴槽がふたつ見えた。右は濁り湯で、左は桃色に染まってて、湯船の上には花弁が浮かんでいる。
 シンプルではあるけど、十分に豪華な造りに、王さまの趣味の良さを窺えた。

「凄い広いな、王さまの風呂って」

 壁に埋まる黒い玉から雨のように降っているお湯を、立ちながら浴びる岳里におれは歩み寄った。幸いと言っていいのか、岳里の腰にはちゃんとタオルが巻かれていたから目のやり場には困らない。
 いや、男同士なのに困るってのはどうなんだか……。
 そう思いつつ、おれは岳里の隣にある腰の低い椅子を少しどかしてそこへ立った。そこにも黒い玉がふたつ縦に並んであって、ひとつはおれが立ち上がり軽く手を挙げれば届く場所にある。もうひとつは、腰かけても手が届く場所だ。シャワーと蛇口みたいなもんなのかな。
 隣に目を向けてみれば、身体についた血は粗方落としたのか、岳里の身体に当たって流れるその色は透明だ。ただ、まだ頭には手を付けていないのか、湯気で湿り気を帯びている髪にはまだ血がこびりついていた。

「……なあ、シャンプーとかってあんの?」

 言いながらつるりと黒い球体を撫でてみれば、思いのほか強い勢いのお湯が噴き出した。

「っぷ!」

 玉を見たままそれを撫でたおれは、顔面で湯を受けてしまい、慌てて顔を下げる。けど鼻に思いっきりお湯が入り込み、つんとした痛みに薄らと涙を浮かべた。喋るために空いていた口にも、遠慮なく侵入してくる。
 背中を丸め、気管に誤って入ってしまった水を吐き出すように咳を繰り返す。

「――何をしてるんだ」

 せき込み呼吸もままならなく、落ち着いてきたところでぜいぜいと荒い息で屈めた背を揺らしていると、上から呆れ声が落ちる。それと同時に身体に降ってくるお湯がやんだ。
 ずず、と鼻を啜りながら顔を上げると、岳里が黒い玉を撫でてくれているところだった。
 もう一度だけ小さく咳をして、ふるふると頭を振った。頭についた水が飛び散る。

「あ、ありがと……」

 手で顔の水気を拭い、しずくの滴る前髪を掻き上げながらおれは岳里にお礼を言った。
 我ながら情けない。なんでお湯が出てくるって分かってて、上を向いたままやるかな……。
 自己嫌悪に苛まれるおれを気にすることもなく、岳里はほら、と言って指先につまんだ小さな白い玉を渡してきた。

「これが石鹸だ。全身これで洗う」
「……なんでも玉なんだな」

 光もお湯の調節も、シャワー代わりも、蛇口の代わりも、おまけに石鹸まで魔術を込めた玉を使うなんて少し不思議で、おれは思わず笑ってしまった。魔力=電気のようなものだと認識していたけど、まさか石鹸までとは……。
 どうやって使うのかと聞けば、岳里はもうひとつ同じ玉を持っていたみたいで、それを掌で挟んで、中でころころと転がして見せた。するとこすり合わせた手の隙間から、ぷくぷくと泡が見えはじめる。

「おお、ほんとに石鹸だ」

 どういう仕組みか全くわからないけど、魔術って本当に何でもできる便利なものなんだなあ。
 自分も受け取った玉をコロコロと重ねた掌の中でこすり合わせると、すぐに玉はぬめりを帯びて泡立ち始める。それが面白くて調子に乗って転がしていると、ぼたぼたと手の中に収まりきらなくなった泡が下に落ちた。
 無駄遣いはいけないな、と、早速さっきお湯をかぶったばかりの頭に泡を乗せた。シャンプーのように液体を髪に絡ませてから泡立たせるわけじゃないから、何度か玉を転がし泡を頭に乗せるという行動を繰り返して頭を洗う。
 どれぐらいおれが寝ていたかは知らないけど、寝汗で少しべとついた髪を洗う感覚はやっぱり気持ちいい。指の腹を少し強めに頭皮に押しつけ簡単なマッサージをした。
 頭を洗い流し、次に身体を洗うためにタオルを手に取る。
 籠の中にはタオルが二枚あったようで、おれは無事大事な部分を隠したまま、もうひとつのタオルに泡を乗せて全身を洗った。
 身体にこびりついたものがこすり落とされていくようで、だんだん気分が上がっていく。肌を擦るタオルの心地よさに、鼻歌でも歌いたい気分だ。まあ、隣に誰かいるこの状況じゃ決してやらないけど。
 念入りに、身体の様々な場所を洗う。もちろんその理由はしばらく風呂に入ってなかったこともある。けど本当は、心の底では、違う理由があった。
 ――目を閉じれば、少し前に起きたばかりの非日常の光景が頭に浮かんだ。
 そもそもこの世界にいることが日常とは言えないけど、少しずつでもこの世界をおれの中は受け入れはじめている。けどあればかりは多少時間を置いた今でも心の整理ができなかった。
 魔物。空想の世界にしかいなかった生き物が、この世界にきたおれの目の前に現れた。火を噴き、暴れ、人を殺そうとして、そして死んだ。首を切られ血を撒き散らして息絶えた。
 遠く離れた自分にその血が飛び散った訳じゃないけど、なんとなく、気持ちが悪かった。自分ではわからない血の匂いが纏わりついているような、そんな不快感。それを落としたくて、自分の気を落ち着かせるためにも、おれは丹念に身体を洗った。
 ふと隣を見れば、岳里が頭を洗っている。泡は髪に触れた途端に赤く滲んでいた。乾いた血が髪にこびりつき絡ませているようで、指先でひとつひとつそれにお湯を含まして解しながら洗う。岳里は無表情ながらも苦戦しているように見える。
 おれは立ち上がり自分の身体に纏った泡を落ちてくるお湯で洗い落とした。するりと黒い玉を撫でお湯を止めてから、岳里に振り返り、少し躊躇ってから、おれは口を開いた。

「――髪、洗ってやろうか?」 

 何を考えているか一切窺い知ることができない瞳が、おれを映した。

 

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