そんな風には見えなかったけどなあ、なんて思いながら、おれは岳里の後ろでその様子を見守った。
 ふたりが握り合ってた手を離して、今度はおれを対象としてジィグンは手を差し出す。おれも今度こそと手を出そうとしたけど、今度もまた岳里が先に手を出し再びジィグンと握手を交わした。
 やっぱりな、なんてジィグンは言いながら、またぶんぶんと手を振って握手する。その様子を、またもおれの手はむなしく相手を求めた状態のまま見つめた。
 ……え、これ、いじめ?
 多分そういうものではないけど、岳里はおれが前に出ようとする度にジィグンと握手しながらも立ち位置を変えて道を阻む。挙げ句には、おまえはいい、の一言。

「まあ仕方ねえよな。これは真司との代わりだ」

 その言葉を最後に、ジィグンと岳里の二度目の握手は解かれた。
 何が仕方ないんだ、って聞きたかったけど、なんか衝撃的なことを言われそうでやめておいた。

「あ、そういやおれの名前……」
「ああ、もう話はあらかた聞いてるからな。おまえが真司で、この兄ちゃんが岳里だろ?」

 確かにおれが真司で、岳里が岳里なのはわかる。けれど岳里にだけ兄ちゃんって言葉がついたのには気にくわない。
 おれの成長は普通だ。ただ、岳里が発達しすぎなんだっ。
 恨めしい気持ちを織り込んだ視線を送れば、すぐにそれに気がついた岳里が振り返る。その口許がなんだかちょっと上がってる気がして、おれから視線を逸らした。

「あ、そういや案内しなきゃいけないんだったな。忘れてた。おい、ちょっとついてきてくれよ」

 あんなのは気のせいだ、幻だ、と自分に言い聞かせ暗示をかけていると、ジィグンが親指で扉を示す。そこはヴィルハートさん訪れて以来開けっ放しになったままだった。

「どこに行くんだ?」

 単純な疑問を口にすれば、ジィグンは一旦間を置き、まるでどうしたものかと言いたげな表情を作り頬を掻いた。
 うーんとだな、えーと、なんてわかりやすく言い澱む。……本当にどこ行く気なんだろうか。

「あー……言っておまえら、緊張しねえか?」
「え、緊張する場所なのか?」

 そう聞き返せば、またジィグンは唸り出す。今度は腕組まで付け足した。
 さすがにそこまで知りたくないし、緊張する場所っぽいてのがわかっただけでもいい気がしてきた。どうせ、知らない場所の名前教えてもらったってわからないんだし。
 そう思っておれが口を開こうとしたとき、開けっ放しの窓から羽ばたく音が聞こえてきた。
 はじめは遠くのほうから聞こえてきてたけど、その音は急速に近づいてくる。しかも、大きい。
 岳里もとっくに気付いていたみたいで、窓とおれの間に立ちふさがりそちらを警戒した。ジィグンはというと、自分の耳を塞いで唸りながら悩んでるから聞こえていないかもしれない。

「なあ、ジィグ――」

 さすがに羽ばたきの音の大きさと、近づいてくる早さに恐怖を抱いたおれがジィグンに知らせようと名前を呼ぼうとしたとき、もうそれが遅かったのだと、次に届いた怒声のような声音が知らせた。

「おらねずみおやじ!」
「うー、ん……ッぶほっ!?」

 塊が、窓から転がり入る。丁度扉の前にいるジィグン目掛けて。部屋に飛び込んだ時点でその塊に気付いたジィグンは勿論逃げることなんで出来ず、そのまま塊に衝突され、勢いよく床に倒れた。しかもそれは顔面からで、冗談な表現が出来ないくらいの本当に鈍い音が響き渡る。
 倒れたジィグンはぴくぴくと、痙攣するように指先が小さく動いただけだった。

「…………」

 あまりに凄かった塊の勢いと、ジィグンの様子におれは言葉すら出ない。
 おれもその塊の通る軌道にいたけど、いつの間にか岳里に手を引かれていて、何とか当たらずに済んだ。いつおれの目の前から岳里が移動したのかはあえて気にしない。もう岳里、おれの中じゃ超人だから。
 人をひとりを殺してしまうような勢いがあった塊は、ジィグンを突き倒した後に開いていた扉からそのまま転がっていって、壁に激突しましたと教えてくれる音が木霊していた。

「……なあ、岳里。どうしようか」

 後ろにいる岳里に振り返り、乾いた笑みを浮かべながら助けを請う。もうおれの許容範囲ってのはとっくに限界超えて、笑うしかないってくらい、なんも思い浮ばない。
 相変わらず岳里は無表情に何を考えているのかはわからなかった。突然おれへと手を伸ばしたかと思うと、ぽんぽんと、頭を軽く叩く。

「ジィグンを看てやれ」

 もう二、三度ぽんぽんとやると、頭から手を下ろす。おれに指示するとそのまま、扉の前で倒れるジィグンを跨いで廊下へ行ってしまった。多分、あの塊を見に行ったんだろう。
 今日のおれはきっと、色々と麻痺してるんだ。結局有耶無耶になってたけど、おれは今、別世界にいて、日本にはいない。地球ですらない場所で、夢としか思えないそんな非現実な現実を目の当たりにしてるからきっと、さっきの岳里の行動を受け入れちまうんだ。
 頭を撫でられて、不覚にも泣きたい気分になった。言葉はなかったけど、安心しろって、きっと岳里は伝えたんだ。
 ……とりあえず、ジィグンの安否確認しなきゃ。
 これで本当に死んでたら洒落にならないな、なんて真剣に考えながら、倒れるジィグンの傍らまで歩み寄りしゃがみ込んだ。
 とりあえず人差し指でちょんと投げ出された腕を突いてみる。

「――――」

 反応なし。今度は名前を呼びながら軽く揺さぶった。

「ジィグン、ジィグン」

 あまり強く揺するのは怖いから、その分声音を強める。けれど一向に反応はない。でも指先だけは未だにぴくぴく動いてるから、生きているのは間違いない。

「おーい、ジィ――」
「あ? んだよ、気絶しちまったのか」

 おれの言葉を遮り、不機嫌そうな男の声が降ってきた。
 顔を上げれば、鳶色の固そうな長い髪をした若い男が立っていた。目つきが悪くて、柄も悪そうだ。さらには鼻筋の顔立ちで凄みがある。そんな顔が眉間にしわを寄せてるわけだがら、あまりにも怖い。袖のないむき出しの腕は、ムキムキとはいかないけど、しっかり鍛えているのがわかるくらいに引き締まっていて、余計怖さが増す。
 思わず固まったおれを他所に、男もしゃがみこんでジィグンの頭を叩く。
 最初は軽くだったけれど、だんだんそれは強さを増していって、最終的にはばしばしと音が響く。でも、どれだけ強く叩かれてもジィグンに反応はない。
 いくら目を覚まさないからって、さすがに男の行動はいきすぎだ。

「ちょ、あんた――」
「いい加減にしておけ」
「うわっ」

 いい加減にしろよ、とおれの台詞が取られたと思ったと同時に、脇に手を差し込まれ、一気に上に引き上げられる。
 一瞬おれは完全に宙に浮き、すぐ床に足が着いたけど、驚きが覚めやらないままで堪らずよろけ、後ろに立つ人物に寄りかかった。
 ……こんなことをするの、あいつしかいない。
 後ろを振り向けばやっぱり、岳里がいた。軽い嫌味で体重を預けるけど、全く動じる様子なくおれを受け止める。

「ちっ、起きやしねえ」

 もっと体重かけてやろうかと睨んでいると、下から大きな舌打ちが聞こえた。
 男はいい加減ジィグンを叩くのを止めていたけれど、いらついた様子でその場に胡坐を掻く。

「――めんどくせえ」

 もう一度舌打ちをし、深い溜め息をついた後、突然ジィグンの髪を掴んで引き上げた。

「な、何してんだよっ」

 いきなりのことにおれが慌てて止めに入ると、振り返った男に睨まれる。

「あ? んだてめぇ」

 まるでいつからそこにいた、って聞かれているかのように上から下をじっくり見られ、眉間のしわが深められる。
 さっきの勢いは一気に萎み、思わず岳里の後ろに隠れた。
 おれ、さっきからいたのに、そんな目で見るなっ! ――と、心の中で噛み付く。実際に、こんな怖そうな人に言えるはずない。
 後はお前に任せた! という意味を籠めて、岳里の背中を押し出す。

「……何をするつもりだ」

 小さく溜め息をついた後、岳里は口を開く。うん、おれもそれが聞きたかったんだ。

「あ? こいつを起こすんだよ。餓鬼は黙ってろ」

 そう言って、男はジィグンに視線を戻す。するとすぐに鳶色の目が僅かに見開いた。なんだなんだとおれもジィグンに目を向ければ、右の鼻穴からからつう、と赤い線が流れていた。

「ちっ、めんどくせえやつだな」

 鼻血出しやがって、と男は吐き捨てるように言うけど、原因はお前だろ、とおれは心の中で突っ込む。勿論声には出さないさ。
 おれの心の声が相手に漏れないうちに、目を逸らすように何か拭くものないかと周りを見回そうとした時、先に男が動いた。何気なしに行動を見守ると、男がしでかしたそれに思わずおれは、ぽかんと口を開けてしまった。

「――くそまじい」

 そう文句を言いながらも、男はジィグンの鼻血をべろりと舐める。無精ひげの生えたおっさんの顔を、怖い顔の兄ちゃんが、眉を顰めながらも舌を出してべろべろと。それはあまりにも異様な光景で、おれは思わず岳里の背に隠れ様子を窺う姿のままで固まった。目を逸らしたいのに、それができない。
 おれにとっては異常なこの光景。多分、他人の鼻血舐めてとるなんて行為はこの世界でも変なことかもしれない。けど、この男同士のツーショットがこの世界では当たり前なんだと、改めて教えられた気がした。
 呆然とおれが見詰めていると、早くも鼻血が治まったようで、男とジィグンの顔が離される。

「ったく、血ィ流すなら別のところにしろっての」

 そう悪態をつきながら、男は片手でジィグンの頭を掴んだまま、もう片腕で雑に自分の口許を拭う。
 それからの男の行動は早かった。
 男はジィグンをうつ伏せのまま自分の方へ引き寄せ、自分の肩に顔が乗るようにする。それから力なく垂れるジィグンの腕を首へと回させ、胡坐をかく膝の上へ足を開かせ乗せた。
 一体何をする気なんだと黙って見守っていると、男はジィグンの腰に手をかけ、履いている服を一気に下ろした。

「ぶっ」

 それに反応を示したのはおれだけで、当然吹き出したのもおれだけだ。でも、反応的にはおれが正しい。だって、ジィグンは今普通に脱がされたんだぞ!?
 幸いなのか、おれたちがいるのは男の背後だから、あまりジィグンの露出された部分は見えない。でも、いくらなんでもさ、気絶してるからってこれは嫌だ。もしおれが気絶してるときにこんなことされた確実にトラウマになるっ。
 だけど正直、次に何をやるのかも気にならないわけじゃない。恐らく男はジィグンを起こそうとしてるんだろうけど、服脱がしでどうするのか。それにさっき男に黙って見てろと言われたから見守るしかない。いざとなれば岳里を投入しようと、おれはひとり緊張感を持ち、いつでも岳里を押しだせるよう待機する。
 男はおもむろにジィグンの尻のほうへ手を伸ばした。
 おれの頭に嫌な予感が掠める間もなく、見えないところでそれは始まってしまう。

「――ッ、ぅ」

 肩に乗せられたジィグンの表情が僅かに歪んだ。小さな呻き声を上げて身じろぐも、男がそれを押さえ込んで事は進行する。

「ぁ、――あ」

 はじめは小さな声だったけど、時間が経つにつれだんだん大きくなっていく。息遣いも荒く、頬にも赤みが差していった。その変化は隠すことなく、おれたちに公開される。掠れた声が、何とも言えない。
 おれはついに徐々に緩んでいくジィグンの顔から目を逸らし、岳里の影に完全に隠れて目の前の服を軽く引っ張った。
 も、もうおれ、限界。いくらなんでも、オープンすぎだろ……!
 はじめのうちはいやまさか、まさかな、って思いながら我慢して見守ってたけど、もう明らかにアレなわけで、ジィグンに悪い気もするしおれもこれ以上聞いてられない見てられないで、おれは岳里に助けを求める。
 頼む、頼むから悟ってくれ。
 この切実な願いが通じたのか、服を引っ張ってから間もなく岳里が振り返り、そのままおれの手首を取って歩き出した。

「おれたちは外で待っている」

 そう男に告げながら引っ張るのは窓の方。扉はジィグンたちが塞いでるからだ。でも、なんで外で待つのに窓へ行く?
 疑問を持ちながらも、おれはこれから岳里がしでかそうとしていることを無意識のうちに予想していた。だって、今から岳里がやろうとしているそれを先にやってのけた人物がふたりもがいるから。恐らく、あれを見ていなければおれはどうなるのか、直前まで気づかなかっただろう。でも、たとえそこはかとなく気づけたとして、心の準備ができるわけがない。

「な、なあ、岳里。まさか――ぐふっ」

 すべてを伝える前に、おれの言葉は悲鳴に変わる。
 身体がくの時に曲がり、がくんと視界が動いた先には自分の手足がぶらぶら揺れ見え、腹には息苦しく思えるほどの圧迫感。おれはどうしてだか岳里の腰の脇で抱えられていた。岳里は片手でおれの腹を支点に持ち上げていて、見上げてみれば平然とした顔のままで立っている。
 何度も思うけど、あんまりにも馬鹿力過ぎないか、と思う間もなく、岳里が片足を窓の淵へかける。おれの頭はもう、両脇に阻むものは何もなく風を感じることが出来る場所にいた。それに、下を見るしかない視界には少し遠い地面が映り、そよそよ気持ちよさげにそよく丈のやや長そうな草が見えた。
 え、嘘だろおい、本気で――

「ジィグンが目覚めたら迎えに来てくれ。それまで下にいる」

 そう言い終わるやいなや、岳里は躊躇いも見せずおれにも確認すらとってはくれずに、さらには意気込みも見せないどころか合図もなしに、なんでもないようにぽーんと窓の外へ飛んだ。

「うぎゃあああ!? ――ぎゅふッ」

 視線の遠くにあった地面が一気に近づいてくる。落ちてるんだ。おれは今、落ちてるんだ……!
 堪らず全力に近い声音で叫んだが、すぐに強い衝撃とともに落下は止まった。
 目の前は、地面すれすれで、強張り折っていた膝と肘が、背の高い草にくすぐられる。

「――――」
「……大丈夫か」

 あまりの恐怖と驚きに呼吸すらも忘れてしまったおれに対して、岳里は至って平然とした様子で、呼吸の乱れすらない。いつもと何ら変わらない抑揚のない声音で問われるも、心臓を激しく高鳴らせることに忙しいおれはそれすら応えることができなかった。だけど代わりに、不自然なまでに荒くなったおれの息遣いが岳里に現状を教えてくれる。
 岳里は何も言わずにおれを抱え直して、正面から抱き上げる形をとってから、近くにある木の根まで歩いていきそこで下ろしてくれた。
 ようやく地面と触れあえたおれは、あえてさっきのこっぱずかしい抱え方に言及せず、ほっと一息つく。一瞬にして大地を恋しく思えたおれは、ぽんぽんと傍らを叩いて、改めて地面の上にいることを実感した。

「――悪かったな」

 唐突に詫びた岳里は勿論、さっきのことを謝っているんだろう。腰を下ろす座るおれの目の前で立ち尽くす様子の岳里はまるで、尻尾の垂れ下がった大きな犬のように見えた。
 そんなどこか寂しげな姿に、おれは思わず吹き出す。今までの仏頂面はどこかへ飛んでしまったんだろうか。

「ははっ、別にいいよ。それにおれが助けてくれって合図したんだし。助かった、あんがと――それにしてもさっきのやつさ、随分と、その、まあ……あれだったよな」

 岳里があんまり気にしないようにと自分で持ちだしたことだけれど、さっきのふたりのやりとりを思い出して、おれはひとり顔を赤くする。
 いやだってさ、普通人前であんなことしないだろっ。そ、それも男同士で……! この世界の人たちにとってそれが当たり前でも、だからって!
 畜生と思いながらも、熱の冷めない頬に静まれ静まれと呪文のように心の中で唱えていれば、ふといつの間にか目の前に腰掛けていた岳里の手が顔に伸びてくる。思わず後ろに退きそうになったが、その前に、岳里の手が頬に触れた。

「赤いな。熱でもあるのか?」
「ち、ちが――」
「ぎゃあああ!」

 ただでさえ赤いおれの顔が更に色を濃くしようとしたその時、言葉を遮り悲鳴が響いた。
 ――たぶん、ジィグンが目を覚ましたんだろう。

「なな、何してんだよこの馬鹿鳥!」
「ってぇなこのクソオヤジ! てめえが寝ちまうから起こしてやろうとしてたんだろうがよ!」
「お、おまえ、だからってなあ、起こし方ってもんがあんだよ! なのに、何突っ込もうとしてんだ!」
「あ? んなのヤるためじゃねえかよ」
「はあ!? 昨日散々中に出したのは誰だ! お陰でおれはまだ腹いてぇんだよ! それにそれのどこがおれを起こそうとしてるやつの行動だ!」
「おれなりのやり方だ」
「お前の常識を通すな馬鹿鳥!」

 窓は開けっぱなしのままで、その言い争う声は外にいるおれたちにまで筒抜けで届く。おそらくジィグンはそのことに気づいてないんだろう、選ばれる言葉は何も隠そうとはしなかった。
 あまりに自由すぎる会話は、そういうことに免疫が薄いおれでもどういう意味を持つのかじゅうぶん理解できて。ましてやさっき見せつけられたばかりだし、この世界の恋愛事情を聞いたばかりで。
 やっぱりあの男とジィグンは、きっと、そ、そうゆいう関係、なんだよな……。
 しかも、会話からしてジィグンが女役っぽい。どう唸っても想像はできなかった。
 変に女の子のようにかわいい男が受け入れる側じゃないから、余計にこの世界の現状を教えられた気がした。そう理解すれば、不意に感じる寒気。
 もしかしたら、おれも危ない……?
 おれにそっちの気は一切ないが、けれどこの世界ではむしろそっちが多い。当たり前、なんだろう。となればおれの常識は一般論じゃなくて、おれ自身もそういう風な目で見られる対象になるわけで。
 なんだか急に身近に思えた同性の恋愛っての現実に、おれはただただ嫌な予感を募らせるばかりだった。そんな間も言い争いは止まらない。

「あのな、おまえに付き合わされてたらおれの身がもたないんだよ! おまえが言うようにおれはおっさんなんでな!」
「あ? 毎回てめえから誘ってきてんだろうがよ」
「……ちょっと待て、いつ、おれが誘ったって?」
「いつもだろ。おれに後ろ姿見せてんじゃねえか」
「ばっ――おまえは沸点が低すぎんだ!」

 まだまだ、終わる気配はなかった。

 

 


 どれくらい時間が経ったかわからないけれど、ようやく言い争う種がなくなったのか、ジィグンがおれたちが部屋にいないことに気がついてくれた。

「おい、真司たちはどこだ?」
「外だろうがよ」
「は? なんでそんなところにいんだ」
「てめえの情けねえ姿が見るに堪えなかったんじゃねえか」

 そう男が告げた途端、おれたちのところにもはっきりと届くほどの鈍い音が響いた。その後に続くのは男の唸るような呻き声。

「ば、馬鹿鳥!」
「っんだよ、未遂だろうが」

 男の不機嫌な言葉のあとに、再び鈍い音が鳴る。それから床を走る音が窓辺に駆け寄る音が聞こえたと思うと、ようやくそこから顔を覗かすジィグンと再会した。

「ちょ、ちょっとそこで待ってろ!」

 そう早口におれたちに告げ、答えを聞くよりも早くジィグンは再び部屋の中に戻っていった。さすがに前者三人のように飛び降りることはしないようだ。やっぱりおれは正常だ。
 間もなくして、息を切らしたジィグンがおれたちの元へやってきた。

「わ、わる、かった、なっ。また、せ、て……」

 ぜいぜいと荒く息をするその姿はまったくあの時の色を残していない。それはそれでよかったんだけど、逆に普段こんな人があんな声を出すのかと思うと――
 ついまじまじとジィグンを見詰めたあと、じわじわとおれの顔は赤くなる。これで何度目かになる記憶の再生に、同じ数だけ顔を赤くして、そして――

「やはり風邪か」

 同じ数だけ岳里に風邪を疑われる。もういっそのこと風邪を理由にしちまいたい。
 ようやく整った呼吸でジィグンは顔をあげると、おれを見て小首を傾げる。

「なんだ、おまえ風邪ひいたのか?」
「……ちがう、よ」

 きょとんとした、純粋な疑問を浮かべるジィグン。間違いなく、おれたちがどこまで見たかわかってないんだろう。でなきゃこうも平然としてるわけがない。実際には表情ぐらいしか見てはないけど、あの変わりようは凄かった――もう忘れなきゃ。どこまで見たかに気づかれたら何よりジィグンが可哀想だし。
 おれは心の中でそう強く頷き、改めてジィグンを見ようとは、したにはした。けれどさすがに今すぐは無理そう。

「さて、いい加減おまえらを連れてかなきゃならん場所があるんだ。あいつのせいで有耶無耶になりかけたけど、これだけはしっかりやっとかんとな。ついてきてくれ」

 行くぞー、なんて列の前を仕切る子供のように片腕を振り上げ歩き始めたジィグンに、おれたちも続いた。
 途中、どこに行くのかともう一度尋ねてみたけれど、やっぱり言葉を濁らせるばかりではっきりとした返事は得られない。

「――なあ、ジィグン。さっきの男、誰だったんだ?」

 他に特に会話もなく、沈黙が始まる前におれは少し前に出会ったばかりのあの目つきの悪い男のことについて触れてみた。
 すると前を歩いていたジィグンが何もないのに躓いて、勢いよく前に倒れる。

「ぶわっ!」
「じ、ジィグンっ!」

 慌てて駆け寄って、痛む場所を擦るジィグンを助け起こす。いつの間にか隣に来てた岳里も手伝って、すぐに立たせることができた。
 この慌てよう。一体何があるっていうんだ?
 何か不味いことを聞いてしまったのかと後悔しそうになったとき、やや蒼白気味なジィグンが口を開いた。

「あいつは――俺様ってやつだよ。今までおれがどんだけ振り回されてきたことか! 昨日だってそうだ! おれはヤマト隊長と会議のための書類を整理してたところをあいつは! 元を辿ればあいつが用意すべきものを! そもそもなんでまああんなひねくれたんだか――」

 一度滑り出したジィグンの言葉はもう止まらなかった。余程ストレスが溜まってたのか、次々に溢れ出てくるものを素直に吐き出すジィグンは、おれたちの存在すらも忘れたように拳を握る。

「あいつの唯一といっていい褒めれるところは主を大切にしていることくらいじゃねえか! そもそもそんなの獣人のおれらにとっちゃあ当たり前のことだろうけどよ、もう主にまで偉そうな態度とったら終わりだね。この世界じゃ生きてけねーよ。はっ、ざまあみろ!」

 強い声音で最後を叫ぶように告げると、ようやく落ち着きを取り戻したはじめたのか、ジィグンは深く息をつく。これ以上何か言おうとする様子もなく、溜まったものをある程度吐き終えたんだろう。
 でも怒りは収まりきっていないのか、未だ鼻息は荒く目がぎらついている。
 おれは話題を変えるためにも、この世界のわからないところを少しでも解決するためにも、今まで気になっていた単語をジィグンに尋ねてみた。

「なあジィグン。さっきから気になってたんだけど、じゅうじんってなんだ?」

 おれが問えば、ジィグンはきょとんとした目で見つめ返してきた。

「なんだ、おまえたちの世界に獣人はいないのか?」

 問われた内容にそのまま頷けば、ジィグンはぽりぽり頬を掻いた。それから空を仰ぎ、どうおれたちに説明すべきかと悩むように唸る。

「獣人ってのはだなぁ――言葉そのままに、獣の人なんだ」

 この世界、“ディザイア”とはまた別の世界“プレイ”で生まれる生命。それが、ジィグンを含め、先程の目つきの怖い男なんかもそうらしく、総称して獣人と呼ばれているそうだ。
 獣人とは獣と人の血、双方を合わせ持った人たちのことで、獣にも、人間にも、どちらの姿もとれるらしい。つまり例えるなら、今のジィグンは完全な人間の形を取っていることになるけど、いざとなれば獣の姿にもなれるってことだ。
 獣とは、動物のことだ。猫とか鳥とか、大雑把に部類されてるけれど、その動物の名前と姿はおれたちの知識と等しいらしくて、この世界での猫は、おれたちの世界の猫と同じみたいだ。だからこの世界のあの世界の、って混同することはないと思う。ただ一般的に犬と呼ばれてる動物はディザイアにはいなくて、その点については犬は狼と同じ扱いにされているだろうって岳里が教えてくれた。
 そして何よりすごいのが、獣人は不老の存在であるらしい。不老とは、そのまま老い不。という意味で、年を取らない。ずっと、ディザイアに訪れた姿のまま生きていくらしい。
 ジィグンも見た目は四十代ぐらいに見えるけど、この世界に来てからもう五十年は経っているそうだ。
 けれど注意すべき点があって、獣人は不老ではあっても不死ではないということ。大怪我を負うことも、病に倒れることもあるから、死ぬことだってある。あくまで老いを知らないだけで、死は人間と同じで存在するそうだ。
 話は戻るけれど、プレイで生まれた獣人がどうこのディザイアに来るかというと、それは召喚によってだそうだ。
 ディザイアの世界の人間が召喚の儀を行い、プレイの世界から召喚をした人間と一番相性の良い獣人が選ばれこの世界に送られてきて、そこで【心血の契約】を結ぶそうだ。
 契約を結んだ人間と獣人は以降主従関係になり、獣人を召喚した人間が主となるらしい。だけど、人間が主となる理由は他にもあるみたいだ。
 まずひとつ。人間は獣人よりも肉体的強度が弱い。だからなのか、獣人はどうやっても自分を召喚した人間を傷つけることはできない仕組みになってるみたいだ。もし決別した際に一対一で渡り合ったとき、圧倒的に人が弱いから。けれど人間の方は獣人を傷つけることは可能だ。だけれど、そもそも最良の者が宛がわれるだけにそんな血生臭い関係になることはないらしい。それに獣人自身も酷い扱いは受けることもないそうだ。
 そしてもうひとつは、獣人は召喚した人間がいなくては生きていけないからだ。
 獣人は最低二十日に一度は主に当たる人間の身体の一部を食らわなければならない。それはなんでもいいらしくて、血でも、髪でも爪でも。だけどもし二十日以内に一度も食らわねばその獣人の心臓は止まり、死ぬらしい。
 だからこそ、優位に立つのが人間なんだそうだ。自分の一部を与え、獣人を生かすも殺すも自由だから。

 

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