「じゅ、獣人って奥が深いんだな……」
「まあな。でも召喚されたおれたち獣人は幸せなんだ。絶対的に相性がいい相手が主となり、力あるおれたちは守るべき主が生まれ、幸せに暮らせるのが大抵だからな」

 幸せに暮らせる。それは確かにいいことなのかもしれない。だって相性がいい相手が隣にいるんだから、それほど心安らぐこともそうないと思う。でも――

「でもさ、もし、なんかあってどっちかが死んだらどうなるんだ?」

 確かに幸せな暮らしはあるかもしれない。けれど、絶対に付きまとう生き物の死は覆せるものじゃない。寿命の場合だってあるし、なんらかの事故だって。唐突に起こるものだ。もしそんなことがどちらかにでも起これば、残されたほうはどうなる? 相性がいいなら尚更辛いものがあるはずだ。

「――獣人が死すれば心血の契約は終わり、主はまた新たな獣人との契約を結ぶことが可能となる。主が死すれば心血の契約が終わった獣人は本来の世界に戻り、再び呼ばれるときを待つだけだ」

 不意に目を伏せたジィグンは、掠れる声を交えながら教えてくれた。この世界に来る以前の、プレイという世界のことを。
 本来、ディザイアに来る前に獣人たちの記憶は自動的に消えてしまうそうなんだ。だけど稀に消されるはずの記憶が残る獣人がいて、ジィグンはその稀有な獣人に含まれるらしい。
 その世界はまさに暗闇。深い深い地の底のような場所で眠り、目覚めを、祈り待つばかりの静かな世界。とても冷たく、冷え切った身体を救い上げてくれるのが、主となる眩い光。
 どれほどの感動があるかは言葉にしきれない。ただただまるで新たな誕生のような胸のうちに広がる希望を表すように涙が溢れ、自由になった身体で主である人間を抱きしめた。それに応えてくれた主の手の温かさは、今でも忘れない大切な熱なんだ――とジィグンは語る。

「おれたち獣人ってのはな、老いることがない。生まれ持った姿から一切変わらず生き続けるんだよ。けれど死はある。死ねばプレイで別の命が生まれて、そうしてまた、そいつが不老として長い時を生きていくんだ」

 話して終えてから、ジィグンは口を閉ざして歩き出した。おれたちもその後を追うけど、なんだかその距離は――心の距離はとても遠くて、今はまだ到底追いつけるとは思えない。
 でも時間が経つうちにこの距離を埋められればいいと思う。おれ、ジィグンとはきっといい友達になれると思うんだ。まだ会ってそう経ってないはずなのに、一緒に居て居心地がいいし、なんだか安心する。だから、仲良く慣れると思った。

「――さっきこの世界によばれた獣人とよんだ人間の相性はいいって言ったろ?」

 不意に、軽く声を張り上げたジィグンはおれたちに歩きながら振り返った。その顔はにかっと笑っていて、もう暗い話は終わりだ! なんて言っているようだった。
 だからおれも小さく笑顔を返す。

「確か、一番相性がいい奴が召喚されるんだよな?」
「ああ。だからな」

 そう言い掛け、途端にジィグンの笑みがにやりと何かを企むようなものに変わる。

「だからこそ獣人と人間の恋人ってのも多いんだよ」

 ま、おれは違うけど。なんて笑いながら再びジィグンは前を向く。
 そのときおれはふとなんだか嫌な予感が胸を掠め、顔を引き攣らせた。

「しかも、心血の契約を結んだ相手だからか普通のより断然良いらしいぜ」

 何が、とおれは声に出すことはできなかった。けれど、おれが言わなくても今まで空気のように黙っていたもうひとりがこの場にはいたんだ。
 おれがあえてジィグンの望む言葉を口にしなかったにも関わらず、そんなのお構いなしに、岳里は口を開いた。

「何が良いんだ」
「何って――セックス」

 エロオヤジ!
 前を向いて見えないけれど、絶対今顔はいやらしく笑ってるに違いない!

「とまあそれはおいといて」

 なにがおいといてだ、とおれは思うが、くるりと振り返ったジィグンはいやらしい表情など一切浮かべず、軽く袖を捲くって左腕を見せてきた。
 そこには“鼠”とまるでタトゥーのように描かれてあって、その意図がわからずおれは首を傾ける。

「これが契約の証なんだ。主と、主と契約を交わした獣人の身体に現れる紋章だな。その従える獣人ごとにこれは違うんだ。ただ同じ種は似た形をしてるんだが、ちょっとずつ違うところがあったりするんだ」

 だからまったく同じものは主と、その主に仕える獣人しか持っていないんだとジィグンは教えてくれた。
 ジィグンはこれが契約の証というが、おれにはどう見ても崩れてはいるけど、漢字にしか見えない。ねずみ、だろ? 読むことはできても書くことはできない漢字のうちのひとつだ。
 これを証と呼ぶジィグンはこれが漢字だってわかってないんだろうか?
 おれの疑問に当然ジィグンが気がつくはずもなく、ちょんと自分自身の証を突きながら話を続ける。

「んで話戻すけど、これを契約を結んだ同士が触れあうと凄く気持ちがいいらしいんだな、これが」

 それでつまり、営みも気持ちよーく行えるわけなんだよ、とおっさんは結局はやらしく笑う。

「ま、おれは実際やったことないけど、獣人と契りを結んでるやつなんかは互いに触りあったりするらしいぞ」

 僅かに頬を染めたおれを見て、ジィグンはげらげらと笑った。貴重な純情だな! なんて茶化してくる姿は酔っ払いのおやじかと言ってやりたいが、返り討ちにあいそうだったから、ただ大人しく堪えた。
 確かにおれはほんの少しそういう関係に弱い。別に、知らないわけじゃない。おれだって健全な男子高校生だ。エロ本だって読んでるし、AV鑑賞会なるものもこれまでに三回は参加してみたりもしたことがあるし、実際やることだって興味だってあるさ! ただそういう相手に恵まれてないのと、彼女なんか作っている暇がおれにはなかっただけで、あとちょっとでもしたら経験豊富な男になってやるんだからな!

「――どうせなら先程の男と契約していたらよかったろうにな、ジィグン」

 恨みを込めていつまでも笑うおっさんを睨んでいれば、おれの後ろで今まで大人しくしていた岳里が、ぽつりとつぶやくような声音で言った。それは、ジィグンを動揺させるには十分だったらしい。

「なっ……は、はぁああ!? な、何言ってんだよおまえは!」

 途端に顔を赤らめて抗議し出すジィグンを見て、おれも遅れながらもようやく岳里の言葉の意味を悟り、吹き出した。
 岳里の言葉が冗談かそうじゃないかはよくわからないけど、見事おれの仇を取ってくれたわけだ。まあ、本人はそんなつもりじゃないだろうけど、でもおれは笑いながらも密かに岳里に感謝した。
 ナイスだ岳里! と目線だけで伝えようと後ろの岳里に振り向いてみれば、何故かばっちり目が合う。
 ……まさか、おれのこと見てた?

「う、ぐ……お、オラァ! さっさと行くぞ!」

 言い返す言葉も浮ばなかったのか、ジィグンは話を切り上げるとひとり先に、ずんずんと進んでいった。
 しかし、おれがしばらく固まってしまい、すぐにはついていけなかった。

 

 


 しばらく規則的に並んだ木々の間の道を通ると、そこには城があった。ほんと唐突に、いきなり現れる。
 御伽噺に出てきそうなメルヘンチックな真っ白い城なんかじゃない。レンガみたく長方形の四角い石を積み上げて出来た、いかにも頑丈な建物がそこにはあった。ジィグンに城と教えてもらわなきゃ、要塞とでも勘違いしてただろう。
 おれたちはどうやら城の裏にある兵士たちの休息所からここまで来たようで、裏門から城内に入った。
 不思議なことに、外見は露骨に石が見えていたのにも関わらず、中はこれこそメルヘンなよくある綺麗なお城だった。でこぼことした石の壁を予想していたのに、実際は真っ白でつるつるとしている。石同士のつなぎ目の断片すら見えない。真っ赤な長い絨毯が床に延々と続いていて、その上を歩いても足音がしない。
 今まで外を歩いてきた靴で上がるのは正直気が引けていたのに、慣れているジィグンはまだしも、岳里はいつの間にかおれを抜かし前を堂々と歩いていた。
 ……先頭にいるジィグンが見えねえよ。
 しばらく進み、階段を上る。上ったすぐ先には大きな扉があって、両脇を兵士らしき若い男たちが厳しい眼差しで後ろに手を組んで立ち憚っていた。けどジィグンは特に気にする様子もなく、おれたちに振り返る。
 ジィグンの顔は、さっきまでおれたちに見せていた顔とは反対の、真剣な表情だった。

「今からおまえらには、この国の王であるシュヴァルさまに会ってもらう」
「……王?」
「そう、国王だ。王がおまえらを連れてこいっておっしゃったんだよ」

 ジィグンの言葉をようやく理解したおれは、ゆっくりと視線を威厳ある大きな扉に移した。あの中にいるはずの王さまを思い浮かべると、自然と緊張からか、血の気が引く。
 おれの王さまのイメージは、おじいちゃんだ。豊かなお腹周り。白い頭に同じく白ひげ。金ピカな王冠に、赤色を基調とした服に……いけないいけない、だんだんサンタクロースになってきた。
 ジィグンが緊張するって言ってたのは、このことだったんだ。まさか、いきなり王さまに会うことになるとは……。
 あまりに突然で、それでもって想像もつかない出来事におれは思わず身を硬くした。日本でいえば、天皇や総理大臣に会うものだと思うけど、おれには絶対縁のない話で、そもそも王さまなんてものは日本にはいない、なおさらだ。

「まあこれ以上おれが言うことはねえよ。あとは王さまにお会いしてから、はじまる話だ」

 んじゃ行くぜ、とジィグンは、心の準備はいかがですかとも聞かずに、厳格な扉の前まで歩み寄ると、おれが制止するよりも早くそれを押してしまった。
 開かれた扉から真っ先に目に飛び込むのは、直線に一寸の乱れもなくしかれた長く赤い絨毯。その先に、王座に腰掛けその人はいた。
 ああ、開いちゃった……。
 顔を青くするおれに一度岳里が振り返く。けれど何も言わずまた顔を前に戻して、臆することなく、堂々とした様子で赤く続く道を歩き出した。おれも慌ててその後に続くけど、気持ちほんの少し岳里の後ろに隠れて進む。
 後ろの扉が閉められる音がして、おれの心臓もその振動に震え上がった。

「ようこそいらした、客人殿」

 かけられた言葉と同時に、岳里は足を止めた。目の前にある壁にぶつかりそうになりながらもどうにかおれも足を止め、渋々と影からその隣に出る。
 窺うように前を見れば、銀の髪に青の瞳の男が王座に座っていた。おれたちを見る顔立ちはひどく整っていて、鼻筋の通ったその表情には男らしく凛々しい。おれのイメージしていたサンタクロースの王様なんてどこにもいなくて、まだ三十代半ばぐらいの若い男が王としてそこにいた。
 王さまの隣に控え立っているのは小柄な、少年のような子だった。癖のある黒髪に黒い瞳、どこか平たい顔立ちも日本人寄りな気がして、今まであったどのこの世界の人たちよりも、一番身近に感じられる。
 ふと、目線が合うと、彼は笑顔を浮かべ、おれに向かってひらひらと手を振ってきた。

「まず自己紹介をするとしよう。わたしはこの国の王、シュヴァルだ。わたしの隣にいるのは――」
「おれァネルだあい。国王さまの獣人なんでえ、よろしくなあ」
「……ネル、言葉遣いを正せ」

 呆れたように溜め息をつく王さまに、ネルと呼ばれた少年はやあだよう、と笑い、頭の後ろで腕を組んだ。
 ――親しみは、持てるのかな……? 不思議な言葉遣い、としかいえない。ただ思っていたよりも声が高く、目が大きいから、よくよく見てみれば女の子にも見える。
 直す気のさらさらないネルを横目に王さまは咳払いをひとつして、おれたちに視線を戻した。

「君たちの名前は?」
「岳里岳人だ。岳里でいい」
「あ、おれは、野崎真司です。真司で構いません」

 岳里が先に名乗り、慌てておれも続いて名を告げる。王さまはガクリに、シンジか、とおれたちに笑いかけ、さらにもう一度名前を噛み締めた。
 それから王さまは人払いをし、おれと岳里、王様とネルの四人だけにした。傍に控えていた兵士たちもみんな扉の外へ行ってしまう。
 他がいなくなったところで、王様はさっきまでの柔らかな表情を切り替え、核心に迫るような真剣な、鋭いものに変える。
 優しそうな人だ、と感じていたおれは、その変わりように息を飲んだ。

「早速だが――君たちは本当に、異界の者なのか?」
 異界。つまりこの世界とは異なる別の世界。

 そりゃ、普通だったら信じられない。宇宙人が目の前に来て、宇宙人ですって言ってるもんなんだから。おれももし王さまのような立場だったら、間違いなく疑っていただろう。けれどおれは当事者だ。疑うも何も、もう実際に異世界に来た。経験していることを否定できるわけがない。否定したら、それこそおれたちの存在がわからなくなる。これは夢だと思いたいけど、残念ながらこれは現実だんだ。
 でも、はいそうです、なんて言っても信じてもらえるんだろうか。おれが答えに迷っているのとは反対に、岳里ははっきりと、普段となんら変わらない口調で王さまに告げた。

「おれたちはこの世界を知らない。先程会ったジィグンのような獣人という存在も知らない。気付けばこの世界に来ていた。証明はできないが、事実だ」

 疑う余地を与えない真っ直ぐに強い岳里の言葉に、王さまは考え込むようにして一度目線を逸らし下げ、口を開こうとする。けど、その前に傍らに佇んでいたネルが口を挟んだ。

「獣人を知らなあい? にゃはは、そんなわけねえだろうよう。――おまえ、獣人だあろ?」

 黒目がちなその瞳が視線を向けているのは、相変わらず表情を変えない岳里にだった。思わずおれはネルを見るけど、その顔には不可解な疑問に直面して不思議そうに眉を顰めている。決して嘘をついているようには見えなかった。それよりもむしろ、どこか確信が混じっているように思える。
 正直、何言ってんだろうと思った。獣人はこの世界にいる特別な存在だ。おれたちの世界にはいなかった。いや、存在はあったとしても、それはゲームとか、物語の中の話に過ぎない。架空の存在だ。実在しない。それなのに、おれと同じ世界から来た岳里が獣人のはずがない。
 当然、岳里は首を振った。

「知らない。おれはこいつと同じところからきたんだ」

 こいつ、と顎でおれを指す。
 それを見たネルは、まだどこか納得いっていないようだった。

「人間、ねえ? ……おれァってっきり、同じお仲間かと思ったあよう。獣くせえしなあ」

 今まではどこかとぼけたように笑っていたネルだけど、その視線はさっきの王さまみたいに、尖るように険しくなった。顔は笑っている。でも、目が笑っていない。
 幼い顔つきに似合わない、どこか剣呑とした雰囲気を纏う。

「――ネル、黙っていろ」

 この場に重い沈黙が訪れようとしたその時に、王さまがネルを制した。途端に、ぱっと目を逸らすネルから、不穏な空気はあっさりと消え去る。
 それにおれは心の中でそっと、無意識に詰めていた息を吐いた。
 ――おれたちがこの世界を、この世界の人たちををよく知らないように、向こうもまたおれたちのことをよく知らないんだ。まだ信じられないのも無理ない。でも確かに岳里はこの世界のやつなんかじゃない。おれと一緒の高校に通ってたし、疑う余地なんてない。けどそれはやっぱり、知ってなきゃわからないことだ。

「とにかく、君たちが異界の者であるならば会議を開かねばならないな。――ネル、至急集められるだけの隊長たちを集めろ。十四会議を行う」
「はあい。わかったあよう」

 おれには王さまの言ったその十四会議ってのが何かはわからない。でも、一瞬ネルの表情が固くなった気がした。だから多分、その十四会議ってものは、とても大切な会議なのかもしれない。
 けど、ネルの表情が変わったのは本当に一瞬だった。もしかしたら、おれの見間違いかもしれなくて、瞬くうちにネルの顔はまたさっきのようにへらりと笑う姿に戻っていた。
 王様に言われた通り、ネルは首の後ろで腕を組みながらすぐに歩き出した。おれたちにすれ違いざま、じゃあなあ、と呑気な様子で告げながら、扉のほうに向かう。
 扉の奥にネルが消えたあと、王さまは再びおれたちに小さく笑いかけた。

「――さて、隊長たちが集うまでに時間がある。それまで少し、わたしと話をしよう。そうだな……君たちはこの世界をどこまで知っていのだろうか」

 それに答えたのは岳里だった。
 この世界の名前はディザイア。今いるこの国はルカ。獣人がいて、彼らは人間と契約している。女の人の数は少なくて、隔離し保護をしている。男同士の恋愛が普通。どれほどのものかはわからないけど、魔術がある――概ねそんなことを岳里は口にした。
 岳里が王さまに説明した内容は、大方おれがレドさんとジィグンに聞いた内容と一致していた。その説明を聞いて、おれも改めてこの世界の事情を整理できるぐらい簡潔でわかりやすいものだ。きっとおれが説明してたんじゃ、自分でもこんがらがっていたと思う。
 話を聞いた王さまは顎に手を添え、それからどこか遠くを見詰めている。その姿は何かを考えているようだった。
 それからしばらく経ってようやくおれたちに目を向け視線を交わした王さまの表情は、心なしか曇っているように見えた。

「もし、君たちがこの世界の命運を――……いや、すまない。忘れてくれ」

 いったいどうしたんだろうとおれが心配していると、王さまはようやく口を開いたかと思ったら何か言いかけ、そして言葉の途中でゆるく首を振った。

「だいたいのことは知っているようだな。では今度は、君たちの住んでいた世界をわたしに話してくれないか?」

 王さまの突然の申し出に、おれは思わず隣の岳里を見上げた。すると岳里もおれに振り返り、この考えが伝わったのかはわからないけど、小さく頷いてみせる。
 それから口を開いたのは、やっぱり岳里だ。だっておれ、説明できる自信ないし。
 岳里に話はまかせようと思って、それを言おうとしてさっきは見たんだけど、言葉にしなくても伝わったみたいだ。
 説明をしている岳里の言葉を聞きながら、おれは密かに思う。
 岳里、お前ならきっとエスパーも夢じゃない。……これでもおれは大真面目だ。

 

 

 

 あれからどれほど経ったかはわからないけど、いつの間にか話はおれたちの名前、詳しくは漢字についてに変わっていた。
 どうも岳里は王さまの発音が気になっていたようで、わざわざ紙と書くものを用意させて、その紙に『岳里岳人』『野崎真司』と書いて、懇切丁寧に発音を教えている。それも、王さまに対して、遠慮もなしに容赦なく。

「真司、岳里」
「真司に、岳里、だな……?」

 岳里の言ったあとに続き、慎重におれたちの名前を呼ぶ王さま。そのあとに岳里に明らかに恐る恐るといった様子の視線を向けた。国王というおれたちと比べるまでもなくお偉い立場のお方に向かって、岳里は親指を立て頷いてみせた。
 それを見て、ようやく安心したように王さまは息をつく。
 きっと、王さまに向かってこんなことを顔色ひとつ変えずにできるのはお前ぐらいだよ、岳里。おれだったら首が飛ぶ想像すら思い浮かべれる。

「ようやく了解を得られたようだな」

 もう一度真司、岳里、と王さまはおれたちを呼んだ。もう完璧なようで、はじめて呼ばれたときのような片言にはならず、おれ自身も聞きなれた自然な発音になる。岳里のほうも伺ってみれば、心なしか満足げに王さまを見ていた。

「それにしても、おまえたちの世界の文字とは随分複雑で、まるで心血の契約の証のようだな」

 王さまは膝に置かれた紙を拾い上げ、そこに書いてあるおれたちの名前をまじまじと見詰める。その言葉を聞く限り、この世界に漢字がないことを確信した。

「あ、あの、その証ついてなんですが、恐らくおれたちの世界で使われる文字と同じだと思います。さきほどジィグンに実際に証を見せてもらいましたけど、ねずみと、おれには読めました」

 なるべく不自然にならないように言葉遣いを気をつけながら、慎重に、王さまの考えが正しいことを伝えた。似ているも何も、その文字は漢字だなんだ。

「……同じ、か。不思議なこともあるものだ」

 おれの言葉を聞くと、王さまは一度目を伏せた。その理由をもちろんおれはわからないけど、すぐに元通り笑うものだから、おれもつい釣られて口許を緩める。
 そこに、タイミングよくこの謁見の前の入り口が開いた。振り向けば、ネルが出て行ったときと同じ体勢で、頭の後ろで腕を組みながらこっちへ歩いてきているところだった。

「集められたのは九人だあい。来られないのは六番隊、七番隊、十番隊だあよ。それと十番隊のやつが数人見回り中に怪我を負ったみてえでえ、隊長のセイミアが出ても治療すんのに首が回らねえ状態だあよう。七はやっぱ隊員増やしたほうがいいんでねえかあ?」

 王さまの隣までゆったりと歩きながら、ネルはのんびりとしたあの不思議な口調で報告をする。はじめ、おれたちが聞いていいものなのか悩みはしたけど、なら聞こえるように話さないか、と自己完結しているうちにネルの報告も終わったようだ。わかった、と王さまの一言が耳に届き、おれは視線をふたり向けた。

「わたしは準備を整え次第向かう。ネル、彼らを案内してくれ。真司、岳里、君たちも何かあったらネルを頼るといい」
「わかった」
「あ、ありがとうございます」

 だからなんでお前はそんな堂々とタメ口なんだって。
 気になりはしたが、おれはおれで、王さまに頭を下げる。王さまは、笑顔を浮かべながら頷いておれたちに応えてくれた。
 そのあとすぐにネルが何かを思い出したように僅かに頭を揺らすと、王さまに何か耳打ちしてから、おれたちに振り返る。

「さあ、いくでえ。こっちだあ。ついてこいやあ」

 びっと人差し指で扉を示すと、ネルはおれたちがそっちを見ている間にいつの間にか目の前を歩いていた。
 え、いつの間に。
 驚く間もなくネルはすたすたとそのまま先を行っちゃうし、岳里は岳里でとっくにそのあとをついていってる。おれだけ知らないうちに置いてけぼりをくらっていた。
 慌ててふたりに追いつくために小走りになりつつ寄ると、岳里がちらりとこちらを一瞥する。けれどそこに言葉はなくって、ただじっと見詰められただけで、すぐにふいと前を向いてしまった。
 扉をくぐりそれからしばらく歩いていると、不意にネルが頭の後ろで腕を組んだまま、くるりと回っておれたちに振り返った。

「にゃはは~、どうでえ? うちの王さまはあよう」

 後ろ向きで歩いたまま尋ねられ、おれは別れたばかりの銀髪の王さまを思い出す。そして、思ったままをネルに伝えた。

「――いい人、だったな。なんか、まだ若いのに、全部を受け入れる力があるような……。王さまだけど全然偉ぶってないし、おれたちの視点からもちゃんと考えてくれてる気がする。おれ、他の王さまに会ったことはないけど、でもシュヴァル、さま? はすごく立派な人だと思うな」

 王さまの名前は一度聞いたっきりで曖昧で合ってる自信がなくて、思わずはてなをつけて呼んだけど、そこは目を瞑っていてくれるはず。でも、この言葉に偽りはない。
 おれが言い終えるとネルはニ、三度瞬いてから口を開いた。

「あは、そう言ってもらえると嬉しいなあ。さすがルカ国国王でありぃ、我がますたーってとこだあね」

 言葉は少し素っ気ない気もしたけど、ネルの表情を見れば、そんなの照れてるだけだってのはすぐにわかった。
 だって、ネルが笑ってるからだ。まあそれはさっきからなんだけど、今まではどこか大人びたような笑い方だった。けれど今は、その姿に似合う、子供みたいな笑顔を浮かべてるんだ。
 獣人は年を取らないから、見た目と年齢がはるかに違うことはよくあるって、ジィグンは言っていた。だから、いくらネルが見た目が中学生くらいだって、もしかしたらおれたちよりもうんと年上かもしれない。でも、頭でわかっていても、やっぱりその姿に似合った笑い方、無邪気な笑い方をしていると思った。

「――そういえば、ネルも獣人だったんだよな」

 さっきのネルの言葉の中に、我がマスターってあって、ふとそのことを思い出す。けど、ジィグンの時もそうだったけど、いまいち人間と獣人の区別がつかない。獣人は動物の姿にもなれるって言うけど、実際まだ見てないから、あんま信用してもないのが正直なところだ。
 そんな疑問までは声に出さなかったけれど、まるでネルはそれを見越したみたいに笑った。

「おれァはなあ、ほれ」

 そういいながら、ネルは襟元を指に引っ掛け、そのままぐいっと下げる。指は左胸の上を大きく開けた。すると左の鎖骨のすぐ下に、“猫”と書かれているのが見えた。

「あ、ネルは猫の獣人なのか」
「そうだあい。だから、にゃんにゃん、なんでえ」

 そういいながら、服に引っ掛けていた指を離し、今度は両手の指先を丸めてにゃんにゃんと顔の両隣で手招いた。
 ネルは男だけど、猫の獣人だからか、なんだかその猫の真似が様になってる気がする。いや、猫の獣人だから、真似ってわけじゃないのか?
 混乱しつつも、どこか微笑ましい気持ちが混じる笑顔を向ければ、ネルの真っ黒で少し癖のある髪の毛がもぞもぞと動き始めた。
 最初は見間違いかと思ったけど、やっぱり動いてる。絶対動いてる。
 思わず目を擦ってみれば、次の瞬間。

「にゃんにゃん」
「ぶっ」

 また猫の真似をするネル。いや、その姿は明らかに猫だった。――正確には、猫耳生やして尻尾も生えて、口元がちょっと真中が上がってて、端が丸まってて。爪も若干長く、鋭くなってて。そんな姿をした、ネルだった。
 思わずおれは噴き出したけど、背後にいる岳里からは何の動きもなく相変わらず無反応。けれど、確実におれは動揺した。
 目を見開いても耳はぴこぴこ動いてるし、尻尾もくねくねしてる。

「これが、獣人の半獣ばあじょんだあい」
「……」

 あまりの衝撃に言葉を失うおれに、けらけらと愉快そうにネルは笑った。

「なさけねえぞお、真司ィ。岳里は平然としてるでえ?」

 ぎぎぎ、と後ろに振り返れば、まあ予想はしてたけど、しれっとした岳里の顔があった。さすがにおれみたいに吹き出すとは一切思ってなかったけど、せめて目を見開くだとか、口をぽかんと開けるだとか、何かしら反応しててもいいってのに。
 それからまたネルに視線を戻せば、もうあの耳も尻尾もなくなっていた。

「まあ驚くのも無理はねえなあ。獣人しらねえんだから、普通の反応だあよ」

 異常が岳里だあいと、さりげないフォローを残してネルはようやく前を向いた。
 正直今まで話してる間ずっとおれたちのほうを向いて後ろ向きのまま歩いてたから、いつ壁に当たるか心配で仕方なかったんだ。……でも、途中から驚きでそんな心配吹っ飛んでたけど。
 まさか、いきなりくるとは思わなかった。というか、やっぱり実際獣化した姿を見ると疑いようがない。
 なんだか申し訳ない気持ちが膨れ上がって、おれは心の中でネルと、ジィグンの二人に謝罪した。
 おれが心の中で謝っていると、ネルが今度は振り返らず声だけをかけてくる。

「ま、この世界の人口の八分の一は獣人だからあ、あんま珍しいもんでねえぞ? これからいっぱい目にするだろうよう」

 ちなみに、十三人いる隊長のうち、四人が獣人なんだとネルは教えてくれた。

「四人も? 他の人たちはなんの獣人なんだ?」

 動物が好きなおれは、ネルの言葉に思わず反応する。
 だって獣人は、見た目は人間だけど、動物の姿も持ってるんだろ? さっきのネルが証明してくれたように。だったらそれだけで、おれは結構好感が持てる。動物に悪い奴はいない、的な感じで。まあ所詮は偏見だけど。
 実は昔、ルナっていう黒猫を飼っていたことがあるんだ。迷い猫だったルナは家に来て四年ほどで亡くなったけど、当時動物が苦手だったおれを動物好きに変えてくれた大切な存在だ。今でも猫を見るとルナを思い出すぐらい、凄く大好きだった。だから本当は、さっきのネルの姿を見て少しルナの面影を見れた気がしたんだ。多分ネルの耳も尻尾も黒かったからだと思う。
 きっと今、おれはきらきらと目を輝かしているはずだ。恥ずかしいけど、自分でもわかる。でもそれは勝手になるもんだから仕方がない。
 おれが問いかければ、ネルは再びおれたちに振り返って、ひぃみつ、と目を細めて笑った。

「まあこれから会うんだしぃ、それまでの楽しみにとっておきなあよ、真司ィ」
「あ、それもそうか」

 その言葉に、おれはあっさりと頷いた。それもそうだと思ったからだ。
 そんな風にあしらいが得意なネルのおかげか、おれは気付かなかった。隣を歩く岳里の表情が何かを探っているようだったのも、王さまには何度も教えてようやくまともに呼べるようになったおれたちの名前の発音も、ネルは違和感を覚えさせずに呼んでいたことも。何も、気がついてはいなかった。

 

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