ひたすら町の中を走り続け、そのかすかな匂いを辿ろうと意識を集中させる。だが、そうするのを狙ったかのように、その匂いは多くの他者に紛れ途切れ途切れにしか感じることができない。
 時間が経てば経つほどに焦りもまた蓄積される。そうすれば空回りばかりするとわかってはいても、心を平常に保つことは最早不可能だった。
 どこだ、どこにいる。
 僅かにあがる声すら聞き逃さぬよう、耳も済ませるが、魔物の来訪に怯える町はどこも息をひそめていた。表通りの賑やかさなど彼方へ飛ばし、おれ以外、他者の影すら見当たらない。
 どの建物の中からも人の気配を感じ、それが尚更直感を鈍らせた。
 胸のざわめきが全身に響くようで煩わしく、そしておれをさらに駆り立てる。
 どこだ、どこなんだ。おまえは、どこにいるんだ。
 心で呼び掛けるだけの叫びに応える声はない。わかってはいるがそうせずにはいられなかった。
 足を止めずに進み続けながら、己の浅はかさを痛感し胸に強く存在する後悔の念に舌を鳴らす。
 何故あの時、先に行ってしまったのか。すぐにあとについてきていると思ってしまったのか。
 レードゥに指示された店主の店に入ろうとして、その入口の扉の取っ手に手をかけ後ろに振り返った時を思い出す。あの時の感情は説明しがたく、まさに言葉を失った。
 目を離したのはほんの十数秒程度。その間に、それまで後ろにいたはずの人影は消え、代わりに目まぐるしく行き交うこの世界の住人たちだけがそこにいた。
 その時胸に広がったのは言いようのない恐怖。その姿が見えなくなっただけで、全身の力が抜けるのを感じ、次の瞬間には激しい怒りに襲われる。愚かな自身に対しては言うまでもなく、だがそれ以上に――遠くで聞こえた、探し人のうめき声に。
 雑多な声に紛れ聞き逃してしまいそうになったそれを、確かにおれの耳は捉える。続けざまにもう一度その声は聞こえ、意思がそう命じる前に身体は走り出していた。
 だが、大通りに溢れる人の数に道を阻まれ、どんなに押しのけても分厚い人壁はそう簡単に崩れない。ましてや皆恐怖から逃げ出しているのだ。おれのもの通じる紙一重の感情に、我先にと前を押しのけ進んでいく。
 そうして、見つけることができなかった。途中でようやく見知った匂いを感じ、誘われるように細い路地へと身を滑らせ波から離れるも、匂いのもとはいない。それにどころかおれを撒くためか匂いは四散していた。どれも等しく微々たるものしか感じず、追うべきものがわからない。まんまと敵の策に嵌ってしまったのだ。
 それはからもう、虱潰しに匂いを追って行った。
 だが見つからない。どれほど走っただろうか。何故、気配を感じられない。
 不意に、腰がじわりと熱を生んだ。おれは足を止めそこへ手を向ける。脈打つようにおれへ何かを訴えはじめたそれに、絞り出すように、上がった呼吸の隙間で声を放つ。

「――おれの名を呼べ」

 そうすればおれはおまえのもとへ行ける。だから早く、おれの名を。早く、おまえのもとへ。
 この声が届いたのか、頭の中で今にも崩れそうな声がおれを呼ぶ。

『がく、りっ――!』

 その途端にぞわりと背筋が震え、鋭い頭痛が眉間を抉るように暴れまわり、おれは目を閉じた。身体が浮遊感に一瞬、全てを支配する。
 たん、と改めて地に足を着け目を開けると、それまでの景色は一変し、目の前に三人の男がいた。
 瞬時におれはその状況を理解する。
 椅子に座り下を眺める青い髪の男に、反対に立つ緑頭の男は誰かの足を掴んでいた。双方下劣な笑みを浮かべ、床に寝る人物を眺める。その人物をおれの目からまるで隠すように、背を向け赤毛の大男がしゃがみ込んでいた。そのせいで、おれの視界に映るもうひとりの横になった身体は、緑頭の男が掴む足しか見えない。部屋に漂うのは、濃い血の匂い。そして、探し求めていた匂い。それらの情報だけで、おれの理性を失わせるには十分だった。
 唸り声をあげ、ようやく侵入者に気づき振り返った男どもへこの激情を知らしめる。本能からか、力量の差を悟り顔を青ざめさせるやつらに、怒りに煮えたぎり本来の色を取り戻した、金色の瞳を晒す。
 誰かが息を飲むと同時におれは一歩を踏み出し、動けずにいる赤毛の頭を殴りつけた。
 悲鳴が上がることもなく、大柄な男が一瞬にして壁際に身体を叩きつけられ、そこにひびを張りながら床に倒れる。いつものように手加減などしていないのだから、そうなるのも仕方のないことだろう。それを見た残りのふたりが息を飲んだが、おれにその絶望は届かない。
 意識はただ、ついに見つけた相手に奪われる。目に映るのは拘束された四肢、力なく投げ出された両腕に、頬に腹にある痣。晒された下半身から流れる血に、泣いた跡を示す筋に。

「……っ、ぁ――」

 嗄れた声が、小さく呻く。
 ――――それからの記憶は、ない。

 

 

 

「もうやめよ」

 かたい声音とともに、振るっていた腕を掴まれる。その手を払い振り返り様に殴ろうとすると、後ろにいた見知った顔に、拳を当てる直前に勢いを止める。その男はそうなることがわかっていたかのように、目前で停止したそれに表情を変えることをしなかった。
 ただ厳しい眼差しをおれに向け、諭すように薄く口を開く。

「怒りに囚われるでない。今すべきことは断罪ではなかろう」

 落ち着きを持つも力強いその言葉に、すう、と自分が戻っていく。一度ゆっくりと瞬き、瞳の色を焦げた茶へと変化させれば、高ぶり荒れた心が徐々に安定を取り戻す。
 それを悟ったように、目の前の男、ヴィルハートも瞳に宿した険しい色を僅かならがらに和らげる。おれはまた何かを告げようヴィルハートが口を開いたのを見ながらも、それを聞くことなく振り返った。
 床に転がる邪魔な塊を跨ぎ、肌を晒けながらぐったりと瞼を閉じ横たわる身体の隣に膝を落とす。
 まずはその身体を拘束する三か所の紐を順に解いていく。引けば引くほど結び目が頑強になるように縛られたそこを半ば力づくで千切るよう外せば、現れたのは血の滲む手首。気を失ったはずの今もかたく強張り握られた拳を開かせれば、掌に爪が食い込んでいたらしく、そこにもまた血が浮かんでいる。もう片方の手首もそして掌も似た惨状で、受けた行為に感じた恐怖をありありと訴えかけていた。
 足のほうも繋がる紐を解く。そしてそこから辿るように目を移したのは、臀部の惨たらしい有様だった。今も止まっていない血に、再び意識が遠のくほどの激情を感じるが、それに耐え、己が羽織る上を脱いだ。その下には他に何も着ていないために素肌が露わとなるが、そんなことはどうでもいい。
 服の端を噛み、その傍らを掴んだ片手を動かし布を裂き、ふたつに分断する。そのうちの片方を適当に折り、掌に収まるほどにまとめた。
 それでまずは涙を拭う。今のおれの手は汚れすぎていて直接触れることを自身が望まない。ましてやその汚れは、醜い血。これ以上この身体に下種なやつらのものを触れさせたくはなかった。
 それから切れた口の端から伝う血を拭い、次に再び視線を下へと戻す。
 手にした布を一回分開き、血に染まった面を仕舞うように折り直して、綺麗な部分でそっとそこに触れた。

「ぅ――」

 小さく呻く声が耳に届き、思わず動きが止まる。視線を顔へ向けてみれば、目を覚ました気配はない。ただ眉間には深い皺が刻まれ、無意識のうちに強張る身体がおれの行動さえも拒絶する。

「――大丈夫だから、任せろ」

 何ひとつ、こいつにとって平気なことなどない。だが他に言葉が見つからず、おれに言えることはそれだけだった。
 まるでこの言葉が通じたようにほんの少しだけ緩和される眉間の縦を確認し、おれは続ける。
 少しずつ、布が直接肌に傷口に触れぬよう、布の持つ吸着力に頼り血を吸い上げていく。未だ止まらぬ血にすぐにそこは赤く染まっていくが、改めてその無残な様にまみえたおれは、堪らず布を握る力を強めた。
 裂けたそこは、恐らく何の準備もされていなかったのだろう。血にばかり濡れ、それ以外の湿りが見えない。これだけでも十分無慈悲で冷酷な行為であるが、それだけではなかった。
 恐らく挿入されたのは陰茎ではない。ちらりと壁際に倒れる塊へ視線を向ければ、下の衣服に乱れはないがその拳が赤く濡れている。
 ――慣らしもされていないそこへ突き入れようとしたのは拳か。
 目を逸らしたくなるように惨たらしい様を見せるそこに視線を戻し、残ったもうひとつの布も先程と同じように畳み、惨状を覆い隠すように当てる。片足の膝ほどまで下がった服にもう片方も通させ、布がそこからずれないようにしながら着せた。
 上着の方は力任せに開かされたのか、留め具が歪み戻すのは難しかった。直すのは諦め、ただ重ね合わせるようにして前を閉じさせる。

「――真司」

 気を失った相手から得る返答はない。
 頬に伸ばしかけた手を、直前になって止めた。まだ洗い流していない汚れが手にこびりついている。それは乾きはじめているとはいえ、まだ湿った感触でおれを嘲笑っていた。
 まるで笑い声まで耳を撫でる幻聴が聞こえた気がして、頭を振るいそれを飛ばす。
 いつの間にか隣へ来たヴィルハートは閉じている部屋の扉を指差しおれに示した。

「外に兵を一人つけている。そやつに城への案内をさせよ。真司をすぐにセイミアへ診せるよう命じてある」
「わかった」

 すぐに行動しようと、おれは横たわった身体の背中とひざ裏に手を差し入れ抱き上げた。意識がある時と違い抵抗がない代わりに、その重みが余計におれの心を責め立てる。拭いきれない男たちの匂いも、血の匂いも、さらにおれを苛む。
 だが、今はこの胸の痛みなど気にする暇はない。ましてや反省するのも今すべきでないと、早く外へ出ようと足を踏み出そうとしたその時、背を向けたヴィルハートがおれの名を呼び止めた。

「――今回のことは、すまんかった。わしらの過失だ」
「……いや、いい。守れなかったのはおれだ。おまえが言った通り、おれには足りていなかった。おれのせいだ」

 以前、簡単な手合わせの前にヴィルハートに告げられた言葉が今になって深く深く、重たく、心を抉る。

『これから先、己の力のみで守れると思うか?』

 ――過信していたつもりはない。だが、言われずとも一人で守って見せると意地を張ったのはおれだった。あの時素直にその事実を認めていれば、今起きたこの結果はまた違ったものだったかもしれない。だが、今更悔やんでももう遅い。事は起きた。そして、真司は傷ついた。十分すぎるほどの報いだ。
 おれの胸へ頭を寄りかからせる真司を見つめていると、不意にばたばたとした足音が聞こた。そして次の瞬間には荒々しく扉が開け放たれる。

「おいっ、これは――真司!」

 部屋の中に声を荒げ入ってきたのはレードゥだった。魔物と戦ってきた名残だろうか、特徴の赤髪がところどころ色を黒く染めている。服にもそれは飛び散っていた。余程慌てて訪れたのか、その額に滲む汗が、荒げた息がそう告げている。
 すぐにおれが抱える真司の様子に気がついたようで、すべては飲み込めていないようだったが、床に転がるものに目を配り、おおよその見当はついたのだろう。顔を青くし、息を飲む。
 その姿を見たヴィルハートが傍らに移動し、レードゥの腕を引いて立ったままでいた入口から退かせた。
 こちらに目を向け、視線に言葉を乗せて伝えてくる。それに従い、腕の中の真司に少しでも振動を与えぬよう気を配りながら部屋を後にしようとした。

「っ岳里! 悪い、おれのせいで――」

 しかし、今度はレードゥがおれを呼びとめる。足を止め、背中越しに振り返ると、そこには先程の苦しむ声音とは違い、驚いた表情を浮かべる赤髪の騎士がいた。
 途切れた言葉を不審に思い、その視線を辿ればそれは、おれの背中に注がれている。上に服は着ていないために、露わになる背。
 内心で小さな溜め息をついた。恐らく、先ほど暴れた際におれの怒りに触れ、下の服に入れていた韜晦石(とうかいせき)にひびでも入ってしまったのだろう。ならば、今まで隠し続けていた背中の“証”は晒されていることになる。確認していないが、真司の方にもそれが表れている可能性は高い。
 これについて説明するには、あまりに時間がなかった。それよりも早く城へ戻り、治療をしないとならない。
 おれがそう言おうとする前に、レードゥの方から首を振った。

「おまえ、それ……いや、何でもない。悪い、引きとめて」

 レードゥ自身、それの説明を求めている場合ではないと判断したのだろう。落ち着きを取り戻したやつは、様々な感情の入り混じる複雑そうな顔を浮かべながらも、おれの背を押す。
 今度こそおれは、部屋の外へと足を踏み出した。

 

 

 

 岳人が去った後、しばらく黙していたレードゥはようやく口を開いた。

「七番隊への連絡は?」
「済んでおる。腕のいいやつを連れてくるだろう。――簡易なものではあるが、応急処置もわしがしておいた」
「そうか」

 レードゥは床に並べた三人の男たちに目を向け、苦い表情を浮かべる。それには男たちの怒りもあるが、僅かながらにも憐れみも混じるのだろう。
 男たちはみな一様に、虫の息と言っていいほどに呼吸が浅い状態にあった。言葉に表し難い惨状で、彼らが犯した罪に対する報いとはいえ、それはあまりにも過ぎたものだと、ヴィルハート自身もそう感じたものだ。
 岳人が真司の乱れた衣服を整えている間に、ヴィルハートも同じく岳人によって伸された男たちの処置に当たったのだが、その有様には堪らず口元を歪め閉口した。
 一人は顔を失くし、一人は四肢をあらぬ方向へ捩じり曲げられ、一人は内臓が潰れたのか腹のへこみが戻らない。しかも苦しみが続くようにか、あえて殺さぬように手加減をしたり、急所を外している。本来なら、死んでいてもおかしくはない状態で彼らは生かされていた。
 彼らを見つめながら、レードゥはかすかに震えた声を出す。

「何が、あった?」
「真司が強姦に遭った。どこまでされたかわからぬが、裂け血を流していたのは確認したよ。――突いたのは、拳だ」

 レードゥは息を飲み、唇を噛みしめていた。非道な行為が行われたと察したとしても、やはり自分と同じく、使われたのが拳とまでは思いもしなかったのだろう。
 強く握られ震える拳が目に入るが、その心中までは見えない。だが、激しく自分を責め立てているのだとヴィルハートにはわかっていた。
 今回真司たちが街へ行くということで同行者として選ばれたのがネルと、そしてレードゥだ。しかしネルが体調不良を理由に同行不可となり、レードゥが一人で彼らを連れだした。つまり、街で何かふたりに起こったとすれば、責任はすべて彼にあるのだ。もちろんレードゥもそれを理解しているし、責任感が強い彼が手を抜くこともなかっただろう。しかし、今日に限って異常事態が起きた。魔物が、それも中級のものが国を守るために張られた結界に触れたのだ。
 レードゥは自己判断により、真司たちから離れたのだろう。その場にいなかったヴィルハートがそれ以上予想できることはないが、魔物が侵入しようとしてくる場所がレードゥのいた場所と近かったから、国を守るものとしてそちらを優先した。ただそれだけのことで、そこにいたのが自分だとしても同じ行動をしていたことだろう。レードゥの下した判断は間違いではない。
 ――だが、代わりに犠牲となった者がいた。それが深くレードゥの心を抉っている。責任感が強く心優しい彼でなくとも、後悔せずにはいられないことだ。
 あの時離れなければ。そう、考えているのだろうか。
 俯き唇を噛みしめ、背負うものに耐える姿に、堪らず手を伸ばしたくなる。だが、それを先にレードゥの声が払った。

「こいつらは、岳里が?」
「うむ。恐らくわしが止めに入らねばこやつらがどうなっていたかわからん。――それほど、怒っていたよ」

 ヴィルハートが部屋に足を踏み入れた時にはもう男たちの意識はなく、我を忘れ獣のように唸り荒ぶる岳人の姿がそこにはあった。
 ヴィルハートですら安易に彼の領域に踏み入るのを躊躇うような、ひしひしと伝わるその怒りに激情に、輝く金の瞳に――人知れず、顔を青くしたものだ。できることなら関わりたくないと、頭や感情でなく本能がそう訴えるほど。しかし他を想い苦しみ怒る者を放っておくことは人として、国を守護する騎士として、そして彼の理解者として、できなかった。
 岳人を見ているとかつての自分がそこにいるようで、その胸中にある制御不能の黒くうねりを上げる冷たい感情が伝わってくるようで。――いや、思い出しているのかもしれない。自分は堕ちたその闇に。だが、岳人はまだ完全に堕ちていない。まだ、戻れる場所にいる。そして真司はまだ、生きているのだから。
 恐れから、高鳴る心の臓をひた隠し、振るわれ続ける岳人の腕を掴んだ。自分も少しばかりはその怒りの捌け口になろうと思っていたが、その決意に反し岳人はあっさりと動きを止めた。己の拳すら裂け血を垂れ流すそれが目前に迫ったというのに、よく動かなかったと、あの時の自分を褒めてやりたいものだ。
 とにかく、無事とは言えぬがどうにか収まった彼の怒りを思い出せば、今でも背筋が震えた。もう数え切れぬほど魔物という人外の化け物を相手にしてきたヴィルハートであるが、畏怖の念を抱かずにはいられない。
 ふう、と実際に重い息を吐くと、レードゥからヴィル、と名を呼ばれる。振り返った先の彼は、ヴィルハートを労わるように見つめていた。
 ――本来なら自分のことで手一杯のはずであるのに、こうして他を気にかける。そこがレードゥの愚かなところであり、愛すべき点だ。そう思いながらヴィルハートはすまないな、と小さく苦笑して見せた。
 レードゥは岳人の怒りを目の当たりにしていないが、ヴィルハートの様子を見てなんとなく気づいたのだろう。自ら表情に出したつもりはないが、そこは生まれた時からの縁が二人を繋いでしまう。そればかりはどうしようもないことだ。
 そして、深い仲だからこそ互いに知る秘密もある。

「ヴィルは――また、夢を見たのか?」

 躊躇いながらも口にされたレードゥの言葉に、ヴィルハートは頷き答えた。
 レードゥと、ヴィルハートには互いに幼い頃から不思議な力があった。それを知るのは他に、幼馴染のコガネと彼の獣人であるヤマト、そして国王にその腹心であるネルとアロゥだけである。
 ヴィルハートの持つ不思議な力とは、予知夢を見るということだ。といっても見るのは年に数回程度。予知夢を見るのに法則性はなく、眠っているとふと夢を見て、それが数時間後、または数日後、いつかはわからないがそう遠くない未来に必ず夢見た内容が現実になる。
 そして今回も夢を見た。だからヴィルハートはこの場所へと部下を連れ訪れることができたのだ。しかし――

「……間に合わんかったがな。すぐに城を飛び出し参ったが、遅かった」

 夢を見たのは数時間と遡るほどもない、ほんの少し前だった。不意に襲った眠気に倒れるようにして眠ったヴィルハートは、真司が攫われ縛りあげられるその姿を夢見た。そこまでで夢は途切れたが、その先に待つ行為は簡単に想像がついた。
 すぐにそれが起こるとは思わなかったが、あってからでは遅いと近くにいた自分の部下を二人連れ、街に出たのだ。そしてその時、結界に魔物が触れた証拠である陶器が割れたような音が空に響いた。真司が緑髪の男にさらわれた時周りの人々は皆、焦りを浮かべた表情で逃げるように動いていたのを思い出し、あの夢がこれからすぐに起きることだと察したヴィルハートは急いだが、それでも間に合わなかった。
 何のために夢見るのだろうか、と自嘲気味に笑うヴィルハートに、レードゥは首を振る。

「――真司のことは、間に合わなかったかもしれないけどよ。岳里のほうは止められただろ。何もできなかったおれに比べて、おまえはできることしたよ」

 だからそんな風に笑うな、とレードゥは辛そうに言った。それはヴィルハートに対してなのか、何もできなかったというレードゥ自身のことか、それともどちらに対してもなのか、計り知れない。

「なあ、ヴィル。まだ聞きたいことがあるんだ」
「なんだ?」
「――岳里の背中。あれは、何だったんだ?」

 レードゥの問いかけに、ヴィルハートは口を閉ざす。正確には話すべきか、話すのならどう説明するべきかを考えあぐねいていた。

 今まで岳人が何かしらの手を使い隠してきたのであろうあの背中の“証”は、ヴィルハートとレードゥに見られたため、もう隠すことはやめるだろう。そうなればようやく真司たちを囲む現状が動きを見せるはずだが、ヴィルハートは現時点でその証の存在すら知らないことになっている。恐らく、岳人と真司の背に刻まれた証を確認した王たちが何らかの行動に出るであろうから、その際に各隊長に話されることだろう。
 近いうちにいずれ伝えられることである。それに岳人の背について知ることがあるとレードゥに知られるのは、ヴィルハート自身が望んではいなかった。

「わしにもわからん」

 短い言葉ではあったが、レードゥはそれもそうだよな、と素直に納得をした。それから最後にひとつだけ、と言って、レードゥはもうひとつ抱えていた疑問を口にする。

「この家の周りは、一体どうしてあんな状況になってるんだ? あれが見えてこの家に来たら、外におまえんとこのやつがいたから、真司たちが中にいるってわかったけど……」
「――それもわしはわからぬ。わしがこの家に到着した際には、すでにあのように異変は起きていた」

 ヴィルハートの言葉に、互いに沈黙する。岳人の背中のことをヴィルハートは知っていたが、その異変ばかりは想像していなかった。知っていることを隠しているわけでなく、レードゥ同様本当に知らないのだ。
 そこへ、慌ただしい足音が響き、開いたままになる扉から、一人の兵士が顔を出した。その表情は驚きと、焦りと恐怖と、様々入り混じる。

「れ、レードゥ隊長、ヴィルハート隊長! この家の周りは一体どうなっているのですかっ? この周囲の植物か突然巨大化したと町人から連絡を受け参ったのですが、冗談と思いきや、本当に――ひぇっ!」

 鼻息荒く興奮気味の兵士は一気に言葉を連ねるが、それは情けなく上げられた悲鳴によって途切れる。ようやく床に頃がる惨たらしい状態の怪我人に気づいたらしく、顔を真っ青にして壁際まで下がり、ぴとりと背中を壁につけ怯えていた。
 だが、ヴィルハートもレードゥもそれに気にかけてやる余裕はない。今彼が口走ったように、この家の周りを中心に小規模ではあるが、地に根を張っていた小さな植物たちが、長身であるヴィルハートの背すら軽々と越すぐらいに急成長をしたのだ。その異変のわけを考えるが、どうしても説明のつく答えは見当たらない。
 ――いや、ひとつだけある。
 ヴィルハートの中にその原因である可能性が高い少年の顔が浮かんだ。常に岳人という人物の大きさに隠れてしまう、もうひとりの異界の少年。今回の犠牲者となった、哀れな者。
 もしかしたら、これが彼の“力”なのだろうか――

 

back main next