風呂から戻ってきた岳里の話を聞いたおれは、驚きに声をあげた。

「えっ、じゃあ岳里の剣は傷を癒せるんだ?」
「ああ。だからそのことを伝えにこれから王のもとへ行く」

 代わりとなる別の、ものを斬れる剣が必要だ、と岳里は続ける。
 それになんだか納得してしまい、おれはぱたんとベッドに後ろから倒れ込んだ。

「そ、っか。剣としては、使えないもんな」

 剣は、武器だ。戦うためにある。相手を傷つけるものでもある。それなのに岳里のクラティオルは反対に傷を癒してしまうのなら、戦いにおいて相手の傷を回復させてしまうことになる。それじゃ意味がない。
 わかっているけど、なんだか複雑な気分になり、おれは天井をぼうっと見つめた。

「おれもいこうか?」
「いや、部屋で待っていろ。用件を伝えるだけで、すぐに戻ってくる」
「ん、わかった。なら待ってるな」

 最後まで岳里は腰を落ち着けることなく、さっさと部屋に戻ってきたように、さっさと出て行く。たぶん、言った通りすぐ帰ってくるんだろう。
 おれは身体を投げ出した状態のまま、特に何をするでもなく、ほのかな光を放つ光玉を見つめた。直視していてもあまり目は痛くならないからか、つい見続けてしまう。
 岳里が戻ってきたら今日あったことでも話そうかな、と漠然と考えていると、不意に扉が叩かれる。

「おれだ、レードゥだけど」
「あ、入ってきて大丈夫」

 聞き慣れた声に身体を起こして、返事をしながら扉の方へ向かう。
 ちょうどレードゥが顔を出す頃には、そこに辿り着いた。

「よう、真司。――ん? 戻ってるってヴィルから聞いてたけど、岳里はいないのか?」
「岳里は今王さまのところに行ってるんだ」

 レードゥを部屋の中に招き入れながら、おれは岳里の剣、クラティオルの力のことを説明する。するとやっぱり珍しい力らしく、そんなの初めて聞いた、とレードゥもおれと似たような反応を見せる。
 ある程度その話をしたところで、おれはレードゥへ目を向けた。

「ところで、何か用でもあるのか?」
「ん……ああ、まあ、な」

 歯切れ悪い返事に、どこか覇気のない感じに、いつものレードゥらしさを感じない。どこか不安を感じるその姿に、けれどかける言葉は見つからなくて。
 ただレードゥの言葉を待ってると、ようやく上がった瞳と目が合った。

「――なあ、真司」
「ん?」
「次の満月の夜、おれの部屋に来てくれないか」

 まだ戸惑いを残しているような、けれど覚悟したような、そんな色を含んだレードゥの赤い瞳。
 おれは以前ジィグンから聞いていた、レードゥにとっての“満月の夜”を思い出して、思わず困惑してしまう。

「でも、満月の夜には誰にも会わないんじゃ」

 レードゥだけじゃなくて、他にヴィルとコガネも、満月の夜だけは決して部屋から出ないと聞かされている。緊急事態が起きたとしてもその時だけは関わらないと、隊長になる時王と契約すら交わしたらしい。だから、レードゥたちが城に勤めてからというもの、誰一人として満月の夜には会ってないとジィグンは言っていた。
 だからこそ、レードゥの方から満月の夜に触れるとは思ってみなかったんだ。だって、これまではあえて話を逸らす素振りすら見せていたから。

「ああ、そうなんだけどな――真司、おまえに頼み事をする以上、少し事情を説明しておく。これから話すことを、岳里にも伝えておいてくれ」
「うん、わかった」

 おれが頷くと、レードゥはどこか安堵したように、ようやく小さいけれど笑顔を見せてくれた。
 ふう、と一息ついてから口を開く。

「――実は、な。満月の夜になるといつも記憶が途絶えるんだよ。というより、満月を見たら、だな。見ないように気を付けていても何故か目が向いてな。まあ、起きればベッドに寝ているし、ただ眠りこけているだけなのかもしれないが……必ず、夜明けまで意識を取り戻すことはないんだ」

 たとえ何か起きたとしても、寝ていたら何もできない。なら初めから頼りにされないよう、だから、満月の夜は誰にも会わないことにしているらしい。
 その、満月を見たら意識を飛ばす、っていうのは、気づいた時にはもうそうなっていたみたいだ。レードゥ自身もなんでそんなことになるかわかってないらしく、対処のしようもないらしい。

「だから、満月の夜は月が昇る前に部屋に閉じこもることにしてんだ。だけどな」

 途中で言葉を区切ったレードゥは、懐から一枚の紙を取り出しておれにそれを渡す。
 半分に折られたそれを受けとり広げると、そこにはこの世界の文字が書かれていた。
 “次の満月の夜、真司と岳里を部屋に呼ぶ。”
 確かに、そう書いてあった。

「これは……」
「多分、だが。おれが書いたものだろう。字もおれのものだしな。――前の満月の日に、目覚めたらそれが置かれてたんだよ。よくわからないけど、きっと何か意味があるんだと思う」

 レードゥはじっと、おれの手元にある紙に書かれた文字を見つめる。

「これで、おれにとって満月の夜が 一体何なのか。その時何が起きてるのか。答えがわかるんなら――少し怖いけど、おまえらに託そうと思うんだ」

 多分、レードゥ自身が一番不安に思ってるんだろう。満月の夜のこと。
 あえて何も言ってこないけど、メモが残っていたって言うことは、きっとこれまでにも自分の記憶がないけれどものが動いていたこととか、あったんだと思う。それに満月を見た瞬間に気を失うのにいつも起きたらベッドにいる。それは、意識がないうち勝手に自分が動いてるってことだ。
 それに、ただ意識を飛ばすだけなら、今おれの目の前にいるレードゥはこんな表情をしないはずだ。
 なんてことないふりしてるのに、どこか不安を見せる、そんな顔。今まで見たこともない、苦しげな表情をしていた。

「次の満月の夜、岳里と一緒におれの部屋に来てくれ。――頼む」
「わかった。次の満月だな。岳里と行くよ」
「ありがとな」

 レードゥは弱々しげにおれに微笑み、そして部屋を出て行った。

 

 


 岳里が帰ってきたらレードゥのことを話さなくちゃ、とただ待ってた時は違う心持でいると、不意に部屋の扉が開く。
 それに合わせておれは腰を下ろしていたベッドから立ち上がり、そこへ向かう。
 ノックもなしに部屋に入ってくるのは岳里しかいないってわかってたからだ。おれの予想通り、岳里がぬっといつもの表情で入ってくる。
 けれど今回は、それに続いてヴィルも姿を現した。
 おれと目を合わせるなり、いつもの笑顔を浮かべ片腕を上げる。

「よう真司。さっきそこで岳里と会うてな。一緒に来させてもらったのだ」

 岳里は部屋に入って足を止めたヴィルとは違って、ずんずんと足を進めるとそのまま自分のベッドに腰掛けた。
 おれがヴィルに椅子を勧め、改めて向き直る。

「ヴィルもおれたちに何か用があるのか?」
「“も”?」
「あ、いや……間違えただけだよ」

 さっきのレードゥのこともあって、思わずつけてしまった言葉に、鋭くヴィルが反応する。ただ曖昧に笑って誤魔化すも、むしろヴィルより岳里の視線の方が気になった。
 けれどそれに気づかないふりをして、ヴィルに話を促す。
 ヴィルは一度目を伏せてから、口を開いた。

「王に、選択の時について話してほしいと頼まれてな。語るべきことを伝えに参った」

 この部屋に訪れた目的を聞き、無意識に身体が強張る。
 その話を聞くことが怖いのか、それとも自分の役割が背負う責任を不安に思うのか。それはまだわからない。けれど、これは聞かなくちゃいけないことだ。
 深く、息を吐く。それからヴィルの目を見て頷いた。
 おれの表情を見てから、ヴィルはゆっくりと、話し始める。

「この世界がかつて――わしが、初めてこの世界に喚び出された頃。もう二千年以上も前のことだ。この世界ディザイアがどんな場所であったか、おぬしらは無論知らぬであろう」

 ヴィルは窓の外に目を移す。それはそこから覗く空を見ているように見えたし、もっともっと、ずっと遠くを見つめているようにもとれる。

「かつてこの世界には、今人々を脅かす魔物などおらんかった。男女の出生も等しく、女どもは囲いなどなく自由に己の意志で生きていたよ」
「魔物が……いなかった? 女性も、男性と一緒に、同じように?」
「うむ。魔物という脅威がない代わり、国同士がいがみ合っていたな。おまえたちの世界のように、女も好きな男と恋をし、子を成し、家族を作った。この世界にとっては、今では考えられぬことであろうだが」

 窓から目を離すと、ヴィルはおれと岳里をそれぞれ視界に写し、腕を組む。

「魔物が現れたのはおよそ一千年前。男女出生に差が生まれたのは、六百年ほど昔のことだ。どちらも突然起きた、世界異変である。何故そうなったと思う?」
「――もしかして、選択の時が、関係してるのか?」
「うむ、その通りだ」

 不安を残しながらおれが答えると、ヴィルは深く頷いた。
 世界に起きた突然変異。それと選択の時がどう結びつくのか、答えておきながらよくわかっていないおれに、ヴィルは丁寧に説明してくれた。
 関わっているのは確かに選択の時だけれど、正確には役割を持った人たちの方らしい。その中でも主役となる、選択者、光の者、闇の者のこと。
 神さまに選ばれ異世界から呼びだされる選択者と闇の者、そして選択者が召喚し契約をした獣人である光の者には、それぞれとても大切な仕事がある。だから、選択の時に尽力を注いでくれるそのお礼に、神さまはひとつだけ、その三人の願いを叶えるてくれるそうだなんだ。
 もとの世界に戻った後金持ちになることもできるし、人の気持ちも心変わりさせることができる。死んでしまった人間を生き返らせることさえも、なんでも。願いを増やせっていう願い以外はどんなものでも叶えてくれるそうだ。
 ――どうしてその願いと選択の時が関係あるのか。それはすごく単純な話で、これまで役割を担ってきた人々のうち、誰かが願ったからだ。
 この世界に魔物が生まれることを。
 この世界の男女の出生に差がでることを。
 そしてもうひとつが、心血の盟約の破棄。
 かつての世界では、獣人を召喚した際に交わすのは契約でなくて、今おれと岳里の間にあるような盟約だったそうだ。でもそれも、役割を持っていた誰かが願い、心血の盟約は竜人と人間との間だけに残され、獣人と人間との間の繋がりは心血の契約へと姿を変えさせられたらしい。
 盟約から契約への変更は一番古い変化で、だから今はもう誰も知らないような、時に埋もれてしまった事実だそう。
 そうやっていくつもの願いによって、現在のディザイアがある。そう、ヴィルは言った。
 でもそこまで聞いて、当然の疑問が浮かぶ。何故、この世界にとって歓迎できないことを役割を持った人たちは願ったのか、っていうことだ。
 魔物はこの世界にとってとても危険な存在で、人が襲われることもある。旅の途中で一番多い死因は、魔物によるものだと聞いたことがあった。
 男女の出生に差があれば、女の人は自然と保護される存在になる。それに女の人の方が数が少ないわけで、産まれてくる子どもの数に限りもできてしまう。女の子は一定数しか生まれないから、増えるわけでも減るわけでもないけど、そのこともあって、出産総数は大昔と比べて大いに削がれたとも、ライミィから教えてもらった。
 始めからあった世界の仕組みなら、まだそういうものなんだって受け入れることはできる。けれど、それは誰かが願って生まれた仕組みで、それを願われさえしなければ反対にこんな世界はできてなかったってことだ。
 魔物もいない、男の人も女の人も自由に暮らせる、普通の世界。なのにどうして、わざわざそれを歪めたのか。おれがその疑問をヴィルへ投げれば、もうそれを予想してたんだろう。きっと初めから用意していたんであろう言葉を並べ、さらに深いところまで教えてくれた。
 ――それは、この世界が選択の時を迎える条件だ。
 無差別に神さまが今選択を迫らせようか、と決めるんじゃなくて、いくつかの条件を作って、それに世界の現状が当てはまったその時。選択を迎えることになる。
 その項目のひとつに、世界の発展があったんだ。世界がよりよい、人間の住みやすい場所になりつつある時。本当にそれが正しい方へ向かっているか、選択の時が訪れる。
 人が増えればそれだけ早く、世界は発展していく。早く発展していけばいくほど、また同じく選択をする時も迫るというわけだ。
 だから、四代目の選択者は願った。なるべく、少しでも長く、世界の現状が変わらないよう。生まれてくる子の数に制限をかけ、世界の発展が遅れるようにと。
 神さまはその願いを聞き入れ、そして男女の出生率に差をつけた。女の子が生まれる数を制限し、人口を増やさないようにって。
 その願いは、この世界のことを思ってのものだったんだ。皮肉にも、魔物が誕生した理由もそれに通じるものがあるらしい。けれどそっちは、あくまでそれは副作用的なものに捕えているらしく、本当の狙いは別にあるみたいだ。
 魔物がこの世界に生み出されるように願ったのは、三代目の闇の者らしい。三回目の選択の時、世界は国同士で戦争をし、ひどい有様だったそうだ。子どもでさえ戦場に駆り出され、そして呆気なく死んでいくような。人間が同じ人間を殺す、そんな現状が耐えられなかったらしい。
 だから三代目の闇の者は願った。人々がいがみあい、憎しみが生まれ、悲しみが繰り返されるくらいなら。同じ人間よりも恐ろしい存在を生み出せばいいと。敵国同士がその脅威を前にした時、手を取り合えるような、そんな関係になってくれるように。人間同士が殺し合ってる場合じゃないと思ってもらえるように。
 そして生まれたのが、魔物だった。三代目の闇の者の願い通り、魔物が出現して以降各国休戦調停により、紛争みたいな小さな争いはあれど大きな戦争はしなくなった。むしろ魔物に対しお互い協力し、その脅威から民を守ることに尽くしてくれているそうだ。
 そうやって、選択の時を迎えるにあたって世界を見てきた役割を持つ人々は、それぞれの願いでこの世界を変えた。勿論みんながみんなそういわけではないけど、中には本当に最後までこの世界の平和を願って――選択の時など、不要になることを願ってくれる人もいたんだ。
 この世界は、これまで選択の時を乗り越えた役割を持つ人物たちが変えた世界、というわけになる。
 話を終えたヴィルは、何も言えないでいるおれに微笑んだ。

「真司、岳里よ。わしはな、この世界に初めて寄越された闇齎らす者だ」
「え……」
「――この世界に訪れてより、長きに渡り選択の時を見守ってきた。彼らの、各々の願いも見てきた。だからこそよく二人に課せられたものの重さがわかるつもりだ」

 ヴィルは、初代闇の者だったから。だから、最初の選択の時から知っていたんだ。それから何度も生き返って、見守ってきた。
 そして、今おれたちにしているように。ヴィルが今の人生で背負っているその役割を果たしている。“真実へ導く者”として。

「この世界はすでに、幾度かの選択を迎えた。そしてその度に変化してきたのだ。それは誰かの願いによって、誰かの導き出した答えによって。この世界を支えているものがある。それは忘れないでいてほしい」
「――うん。忘れない、忘れないよ」

 ヴィルの言葉が時々重たくのしかかる理由が、今ようやくわかった気がした。
 たくさんの時間を生きてきたから。それもあるだろう。だってヴィルはもう百年なんて悠に越え、この世界で暮らしてきている。けれど何より、たくさんの人の、たくさんの苦悩をその目で見てきたから。傍で、見守ってきたから。だから様々なことがわかるんだろう。
 誰かの願いによって、誰かの導き出した答えによって。この世界を支えているものがある――そう言ったヴィルの言葉を、おれは胸の中で繰り返し、もう一度深く奥底に刻む。
 忘れない、忘れちゃならない。もしおれがこの世界に選択を下すのであれば、決して。
 この世界はもう、たくさんの人々が生きてきた。そしてその願いに支えられ存在してきた。そうして、作り上げられた世界。
 おれは、覚悟を持って答えを決めなくちゃいけないんだ。
 ぎゅっと握り拳を作り、深く自分に与えられたものの重さを噛みしめていると、それまで沈黙していた岳里が不意に口を開いた。

「ヴィルハート」
「なんだ、岳里」
「先程話した、心血の盟約の話だ。何故それが契約に変えられたのか、それも話すべきだ。もう、伏せておくこともないだろう――おまえが、初代闇を齎らす者であったのであるならば、おれも改めてその口から聞きたい」

 おれが岳里の方へ目を向けると、岳里はまっすぐにヴィルを見つめていた。
 岳里の言葉に、ヴィルは苦笑する。

「ふふ、岳里よ。おぬしは滅多なことではわしに願いなど口にせぬが、こんな時ばかり求めるか。酷なことをしてくれる。――いいだろう、話そう。まず、心血の盟約と心血の契約の違い について話そうか」

 ふう、と一息ついてから、ヴィルは再び語り始めた。
 かつて獣人と人間の間に交わしたのは、心血の契約ではなく盟約だった。むしろ、契約なんて存在しなかったんだ。盟約は契約のように獣人一方が縛られる誓いなんてなかった。
 心血の契約を交わした獣人は、契約者である人間とは主従関係が結ばれる。獣人は、主である人間を傷つけることはできない。それは故意であろうと、偶然であろうと。けれど主が獣人を傷つけることは可能だ。それは、人間の身体が獣人に比べてあまりにも弱いから。相手をする獣人にもよるけれど、生身でお互い武器も持たずぶつかり合ったとして、まず人間側に勝ち目はないだろう。それほどに違い、人は弱く獣人は強いんだ。庇護されるべきは人間だから、そんな戒めが生まれたのだろうと言われているらしい。
 けれど、心血の盟約にはそんな戒めはない。まず、人間と獣人は主従ではなく対等な立場にある。契約の場合人間側を主と呼ぶことが主だが、盟約の場合は盟約者と呼ばれることがほとんどだそうだ。決して、盟約によって主従関係が生まれることはない。
 契約の場合主を傷つけることはできないけれど、盟約であれば盟約者に危害を加えることは可能になる。たとえそれが、死に至るほどの大怪我になろうとも。
 他に違いは、盟約の方が魂の結びつきが強くなる。だから獣人にとって最重要である、主の一部を二十日に一度とらなくてはいけないというものも変わってくる。契約の場合食らうのは髪でも爪でも、主の身体の一部であればどこでもいいけど、盟約の場合はそうもいかない。主の体液、つまりは血とかじゃないと駄目なんだ。でもその代わりに、三十日に一度に間隔が伸びる。
 他にも細々とした違いがあるみたいだけど、大きな違いはそのあたりみたいだ。
 契約は、主となる人間の意志が優先される。けれど盟約では対等な立場であり、獣人も人間も平等で、どちらが優先されるようなものは盟約を交わした相手の一部を食らうことで獣人は生かされる、っていう点くらいしかない。
 盟約は当人同士の口約束のようなみたいなもの。契約は条件を付けた誓いのようなものだとヴィルは言う。その辺は以前岳里から聞いていたし、おれの頭がこんがらがることもなく話を改めて整理することができた。
 昔は契約なんて存在しなかったから、獣人を召喚する際はみんな盟約を交わしていたそうだ。仲間を迎える気持ちで獣人を喚びだしていたらしい。盟約であろうが契約であろうが、召喚された獣人は召喚した人間と相性のいい人物が来ることにも変わりはなかったそうだ。

「――だが、それ故に悲劇は起きてしまった」
「悲劇……?」
「うむ。選択の時において、必ず語られる“悲劇”だ。決して繰り返されぬよう語り継がれるべき。初代の選択者、光の者、闇の者に起きた、救いようのない話だ」

 時々、選択の時について話される時に聞いていた単語が出てきて、おれは思わず息を飲んだ。これまで教えてもらえなかったけど、今、ヴィルはそれを話そうとしている。初代、っていうことは、その時の闇の者だったヴィルは深くそれに関わっているはずだ。
 ふと岳里が気になって、視界の端で岳里の方を見れば、じっとヴィルへ耳を傾けていた。岳里は悲劇について知っているみたいだったけど、今はヴィルにすべて任せるつもりらしい。改めておれもヴィルと向き合い、その口から語られるものを待つ。
 ついに、ヴィルから、初代闇齎らす者から、声は出された。

「初めてこの世界に選択が下される、前の晩のことだった」

 そう切り出し、ヴィルは目を閉じた。
 闇の者であったヴィルは選択者に、すでに答えは決まったが、改めて考えさせてほしい。最後まで、本当にこの決断が正しいのか悩ませてほしいと、一人になることを願われたそうだ。だからそれを聞き入れ、ヴィルは選択者のもとを離れた。その重責を間近で見守ってきたからこそ、本当は傍に居たかったけどその願いを受け入れたんだ。
 けれど夜になって、胸騒ぎがしたヴィルが選択者の部屋に様子を見に行くと、そこには――胸を剣で貫かれた選択者と、選択者の身に埋まる剣を握る光の者の姿があったそうだ。
 光の者を押し退けて選択者に駆け寄った時にはもう、その人は息をしてなかった。
 その時ヴィルは選択者の胸に刺さった剣を引き抜き、光の者をそれで切り裂き、殺した。それだけでは足りず、ヴィル自身の力を暴走させて世界を壊滅的な被害を与えたそうだ。
 本当だったら、翌日選択者は――ディザイアに闇を選択するつもりだった。それをすでに、役割を持った人々にだけは告げていたんだ。
 勿論ヴィルも知っていたし、そして光の者もそれを知っていた。だからこそ彼は、己の盟約者である選択者を害したんだ。
 ヴィルは言う。とても、寂しげな瞳をして。

「わしは、な……愛しておったのだ。あいつを――選択者を。深く、何よりも。だが光の者のことも好いておったよ。友として、選択者に抱く気持ちの丈に届くほど、信頼しておった。だからこそ、なおさら己の暴走を止めることはできんかった。身の内からうねりをあげる怒りを収めるなど、到底な」

 相変わらずヴィルの瞳は沈んだ色をしているのに、それなのに口元がゆっくりと緩まっていく。

「だが今でも、あれを後悔したことはない。あの時ああしなければ、わしは恨みに自我を飲み込まれ、世界のすべてを破壊するまで止まることはなかっただろう」

 小さく吐かれた言葉を紡ぐ口が見せる、その微笑みをおれは理解できなかった。
 ヴィルもおれがどう思ったのか勘付いたのか、目を合わせると困ったように笑う。

「選択者を光の者が殺し、そして光の者を闇の者が殺した。それから闇の者は世界を半壊させ、選択の時に闇が選ばれた時に予定したいたよりも多くの命が奪われた。――そして、“わし”はすべてを終わらせた後に自害した。それが悲劇だよ。誰も救われぬ、憐れな話だ」
「じ、がい……」
「ふふ、当然であろう。罪なき人間を殺したのだ。償いは、己の命しか思い浮かばんかった。それに――あいつのいない世界になど、生にしがみつく価値もないと思ってな」

 ヴィルの言うあいつはきっと、初代選択者のことだろう。――愛していた、と言っていたんだから。
 その部分には触れてほしくないように、ヴィルは話を続ける。

「選択者がわしと光の者の前で、自身が下そうとしている決断について語った時。それが闇が齎される結果であると知った時。光の者は思ったのだろう」

 このままでは自身の守るべき世界が壊れてしまう。しかし、選択者は自身の決めた答えひとつ以外は持ち得ない。
 ならばもし、“選択ができない状況”になればどうなるだろう。

「――そして、悩んだろうな。正式な決断が下されるまで、片時も頭からそれが離れることもなく、離すこともできず。わしにも、誰にも相談などすることなどできず」

 選択ができない状況――それは選択を下す者の口を封じること。つまり、選択者を殺すと言うこと。
 愚かな考えだろうと、ヴィルは笑った。けれどそれしかなかったのもまた事実だと、目を伏せる。
 光の者は、何度も悩んだ。何度も、何度も。いつまで経っても出せない答えに、選択に。狂いそうになるほど。
 守るべき世界にある多くの命をとるべきか。愛すべき友の一人をとるべきか。そして、選んだんだ。――多くの命が救われるであろう道を。愛すべき友を、盟約者を、殺す道を。
 盟約には人間側を害してはならないというものはない。傷もつけることができる。だから、たとえ心血の盟約を交わした相手である選択者を、その人の獣人である光の者が殺すことは可能なんだ。そして、だからこそ思いついてしまった方法だった。
 だからヴィルはまず、心血の盟約、そして心血の契約の違いについて話したんだろう。
 光の者は非道であれども、世界のためを思って選択をした――けれど、一度選択者が腹に決めた選択が覆されることはないそうだ。たとえ選択者が神に正式に宣言をする前だったとしても、結果的にそれは下される。

「選択者が一度でも確かな思いを持って、その選択にしようと心の中だけでも覚悟をすれば、すでにその時神にその選択が伝わっているのだ。だから選択者が神を目の前にして己の考えを口にする機会が失われてしまったとしても、何も問題はない。もし選択者が選択をしないまま選択のできない状況に陥ったとしても、そうすれば新たな選択者が寄越されるまでのこと。あれの行動は、結果としてより多くの命を奪ったのだよ。まあ、わしがしたことではあるがな」

 つまり、初代光の者のしたことはただ悲しいだけの、むなしいだけの、無意味なことだったのか?
 おれはもちろん、その当時の選択者を知らなければ光の者も知らない。けれどヴィルに信頼されていたような人であれば決して、悪い人なんかじゃなかったはずだ。予想、だけど――優しい、人だったんじゃないだろうか。
 散々悩んで決断したであろうその答えに、決して賛同はできない。けれどおれだって同じ立場で、世界と一人の友達を天秤にかけた時、本当に光の者の考えを持たないとも言い切れない。
 たとえ一人であっても、友達を裏切るのは辛いものだ。その命を奪わなければいけないなら、生涯それを抱えて生きていく覚悟が必要だ。生半可なものじゃないだろう。そんな、色々なものを受け入れる決意をして、行動したのに、それなのに。その行動が、無意味なものなら。これほど報われない話があるんだろうか。

「――よいか、真司、岳里よ。この世に無意味なことなどない。必ずそこには理由があり、意味があり存在する。おまえたちがここに来たことに意味があるように、この世界が存在する理由もまたあるのだ。たとえその当時無意味なことであったとして、後から理由は生まれてくる」

 あの時、光の者が下した決断も、当時は意味のない愚かな行為だった。けれどそれを教訓にして、それ以降の選択の時にはそれに似た悲劇が起こることはなかった――そう、ヴィルは言う。
 さらには、そんな、かつての悲劇を知った二代目の光の者が願ったそうだ。
 そんな悲しみが生まれるくらいなら、盟約などいらない。盟約者が――獣人が愛する人間が守られる誓いが必要だ。獣人が盟約者を害さねばならぬよう、そんな苦渋に満ちた決意をしなくてもいいように。

「――長くなったが、それが悲劇であり、今は主となっている心血の契約に関することだ。心血の盟約は最早、神に愛される竜族と竜族が愛した人間の間にしか存在せぬもの。もう、盟約の存在自体知らぬ者の方が多いが、おぬしらは忘れないでほしい」
「うん……」

 胸に詰まる思いから、おれはただ頷くしかできなかった。
 そんなおれを見て、ヴィルは空気を換えるように、寂しげなものでなく、いつもの笑顔を見せる。

「さあ、わしが話したかったことはあらかた言うことができた。あとはおぬしらが望むことで、わしが答えることのできる範囲で教えよう。とりあえず今聞きたいことはあるか?」

 その言葉に、おれはふととあるものの存在を思い出す。
 選択の時に――選択者に関係のあるそれについて、知っておきたいと思い、口を開いた。

「ヴィル、ハートって人を、知ってる?」
「……!」

 ある時見つけた、赤い本。選択の時についてや、選択者のような役割を持った人について書かれていたその本の作者の名だ。
 おれの口から出た名に、ヴィルははっきりと驚いたような表情を浮かべた。すぐにそれを取り繕うように額に手を当て俯くも、それでもどこか、落ち着ないように瞳を彷徨わせる。
 それから少し間をおいてようやく安定したのか、ヴィルはゆっくりと答えを教えてくれた。

「ハート、は、知っておるよ。よくな……ハートとは、この世界の人間が呼びやすいようにした名であり、本当の名は遥斗(はると)。――初代、選択者だ」
「え……」

 思わずもれたおれの言葉に、いつものヴィルなら苦笑いのひとつでも返してくれただろう。けれど今はそれもなく、ただ辛そうに、じっと握った自分の両手を見つめるだけだった。
 はると。それは随分おれに馴染みのあるような音の名で、もしかしたら同じ世界の――それも、日本から来た人、だろうか。でも今はそんなのどうでもいい。
 それよりも気になったのは、そのはるとが初代の選択者であるということ。悲劇に巻き込まれた、自分の獣人である、仲間である光の者に殺された――ヴィルの、愛していたという人。
 だからおれの口からその名前が出た時、あんなにもヴィルは動揺したんだ。
 今もその影響を見せるヴィルに、どうしていいかわからなくなってしまう。

「その、ごめん」
「よい、気にするな。ただ、おぬしが既に遥斗を知ってるとは思わなくてな。少しばかり驚いてしまったよ。どこでその名を……ハートという名を知ったんだ?」

 とにかく、思い出したくないであろうことを思い出させてしまったことに謝れば、ようやくヴィルは小さくだけれど微笑んでくれた。

「あ、うん。前に書庫で赤い本を見かけて。それの著者がハートっていう人だったから」
「……そうか、“赤き導き本”だな。だが何故、それがこの城の書庫に」

 呟いたヴィルの小さな言葉に、岳里が口を開く。

「その本はおれが真司から回収したが、ちょうどイシュヴニカの騒動があった時だ。いつの間にか本は消えていて、今はどこにあるかさえわからない」
「今は、手元にないか……いや、すまない。少しその本には思い入れがあってな。特殊な魔術がかけられている故、対象となる人物以外にはその存在さえ認識されない代物だが、もしかしたら誰かが気づかず持ち去ってしまったのかもしれん。それの行方も探すことにしよう」

 そこまで言うとヴィルは席から立ち上がった。

「すまぬ、少し話疲れてしまったようだ。今日はここまでにしよう。また何かあれば尋ねてくれて構わぬ」
「うん。話してくれてありがとう、ヴィル」
「何、それがわしの役目。おぬしらが歩むべき道を踏み外さぬよう、目指す場所を見失わぬよう導くのが――わしの願いの対価だからな」

 ヴィルの願い――それは、神さまが叶えてくれるっていっていた、ひとつだけ叶えてもらえるもののことなんだろうか。
 けれどおれはそれを聞くことはできず、部屋に戻って寝るとしようと普段のように笑うヴィルをただ見送る。
 ぱたりと小さな音を立てられて扉が閉まり、しばらくおれはそこを眺めた。ようやく目を逸らしてすぐに、おれはじっとこっちを見つめる岳里が胡坐を掻くベッドへ向う。
 靴を脱ぎ捨て、岳里の後ろに回って同じように胡坐を掻き、そのまま背中を預けた。

「レードゥがさ、ヴィルが来る前に部屋に来たんだ。それで、次の満月の夜、おまえと一緒に部屋に来てほしいって言われた」
「そうか。行くのか」
「うん、行こう。そうしなきゃ、いけない気がする」

 複雑に渦巻く感情や、さっき聞いたばかりの話や、おれの背にある選択者としての責任や、色々な願いや。そのどれもが、おれの心をがんじがらめにして深いところへ引きずり込もうとしているような気がした。でも――
 どんなにおれの身体を預けても、岳里の身体は揺るがない。それどころか、背中越しにその熱をわけてくれる。
 でも、こうして岳里に触れるだけで。岳里の傍にいるだけで、巻きついたものが緩まり、離れていく気がした。

 

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