「つう、かく……痛みに」

 エイリアスの言葉に、おれは心当たりがあった。
 確かに岳里はおれが全力で足を踏んづけても、腹を殴ってもまったく動じることがない。だから前々から痛みに強いんだろうな、とは薄々感じていたんだ。
 でもわからなかった。戦いにおいて痛覚に鈍いということは、痛みをあまり感じないということはいいことなんじゃないだろうか。
 多少の傷なら痛まない、なら動きが鈍くなることもないし、痛みで恐怖を覚えることもない。なのに、どうして。
 おれの内心で浮かべた疑問にエイリアスは笑みながら答える。

「痛みとは、身体が危機を訴えるもの。確かに多少の痛みを感じなければそれは戦いにおいて有利な点となりうるだろう。しかし、感じないだけで確かに身体は傷ついているのだぞ。与えられた傷が多ければ多いほど、深ければ深いほど、常人であればその動きは本来鈍くなるところだが、この竜人は身体の悲鳴を無視して動き続けることができる。だが、大きな怪我を抱えたまま動き続ければ、やがては限界に気づけず倒れるだろう。それが、今の状況だ」

 痛みが鈍くても、その身体が特別頑丈って言うわけじゃなくて。みんなと同じく、傷ついている。
 岳里が背中に負った大きな傷は、本来であれば動き続けることができるようなそんな軽いものじゃない。無理をしようとしても、身体がいうことを利かないはずだ。
 でも岳里はその無理を押し通せて。だから、動き続けることができて、戦えて。本当は、身体を酷使してるだけに過ぎなかったんだ。
 だから糸が切れたように、唐突に倒れ込んだ。――いや、突然のことじゃない。普通ならとっくに動けないところを、それを本当に身体が一切言うことを利かなくなるまで無理矢理動かし続けたから。だから。
 ならもう、岳里は動けない。残量が切れた電池がもう使えないように、岳里は立ち上がることさえできないだろう。
 知らなかった岳里の身体の事実に言葉を失う。
エイリアスは無知な己に打ちのめされるおれを、愉快そうに笑いながら眺めていた。どこか無邪気さを垣間見せるそれは、皮肉にも初めて兄ちゃんの表情に重なって見えて。
 言いようのない感情の波をどうにか押さえ込むおれに、機嫌よさげなままエイリアスは目を細めて告げた。

「選択者よ、ひとつ提案をしよう。わたしと手を組む気はないか」

 睨むように視線を返したおれに一切物怖じすることなく、エイリアスはさらに言葉を重ねていく。

「おまえの内に宿る力をこちらに提供してもらう代わり、おまえと、この場にいるおまえの親しき者どもだけは助けてやろう」

 それは、おれと兄ちゃん、岳里と十五さんのことを示しているんだろう。
 ――未だに信じ難いけれど、おれには誰もが片方しか持たないはずの魔力と治癒力、そのふたつが合わさった特別な力があるらしい。しかもそれは魔術師アロゥさんや治癒術師セイミアを抜くほどの膨大な量。実際にその力を使い、エイリアスが岳里にかけた呪を解いたこともある。
 魔力と治癒力ふたつが合わさった力を持つのは本来、神であるディザイアだけ。でもただの人間のおれも、それを持っている。
 前にエイリアスがおれに対し、“十分な価値がある”と言ったことがあった。たぶん今の言葉からも察するに、あの時からずっとこの力を利用したいと思ってたんだろう。
 ぐったりと倒れたままの岳里に一度目を向けてから、再びエイリアスに視線を戻す。
 やつに手を貸すか――答えなんてそんなの、決まってる。
拳を握り、そのふざけた提案におれの意思を返した。

「受け入れるわけ、ないだろ……! この世界にはたくさん、おれの大事な人たちがいるんだ。みんなを裏切るなんてこと絶対にしない!」
「――この状況とて、首を縦には振らぬというのか?」

 浮かべていた笑みを消し去ると、エイリアスは伏せたままの岳里の頭を踏みつけた。
 咄嗟に岳里のもとへ駆け寄ろうと身体が動くも、向けられたあいつの視線が動くな、とおれに伝える。それに従わざるをえず、傍にいきたい衝動をどうにか抑え込んで肩を怒らしたままエイリアスを睨んだ。
 けれどやつは一切意に介さず、頭を踏みつけた足を今度は肩口へと向かわせる。
 まさか、と青ざめるおれの表情を見つめながら、そこから突き出る短刀の持ち手を蹴った。

「岳里っ」

 耐え切れず上がったおれの悲鳴に応えるように、今度は上から踏みにじり、さらに奥へと刀身を埋める。
 冷徹な表情のまま、エイリアスはその残酷な行為を続け見せつけた。
 いくら痛みに驚くほど鈍い岳里といえどもまったく感じないわけじゃない。身体に入り込んだ鋭利な刃物を無遠慮に弄られれば、随分な苦痛を強いられる。それなのに岳里は痛みに上がりそうになる声をどうにか飲み込みながら、非情な行為に動けない身体で耐えていた。
 あんな岳里の表情、初めて見た。痛みに歪み、歯を食いしばる顔。
 今すぐエイリアスを突き飛ばして、岳里を助けたいのに。なのに岳里は懸命に痛みに耐えながら、それでもおれに動くなとその視線で伝えてくる。

「まだ気は変わらないか」
「――っ」

 惨たらしいことをしているとは微塵も思わせない、なんの色も見せない平坦な声音でエイリアスはもう一度問う。
 何も答えないままでいると、さらに岳里が責めたてられる。隙間なく埋まっていたはずの短剣はいまや岳里の肉を抉ってか、ぐらぐらと内に入り込んだままエイリアスの足によって動かされていて。血だまりは身体の下にさらに円を広げていく。
 本当なら目を背けたい。助けられないのなら、見えない場所まで逃げて耳も塞いでしまいたい。そう思うけど、でもおれは目を逸らさなかった。ただ歯を食いしばり、膝の上で限界まで強く拳を握りしめる。
 いつまでも言葉を撤回しないままでいると、不意にエイリアスが岳里から足を退けた。そしてそれまで散々遊んでいた肩口に刺さったままの短剣を抜き取り、手に持つ。
 短剣は刀身すべてを岳里の血に濡らしながら、エイリアスの手にまで滴った。
 いったい何をしようというのか。目で動きを追っていると、エイリアスと視線が重なる。
 兄ちゃんの顔なのに、中身が違うだけでまったく別人になってしまったように、そこにいつもあった温かさは微塵もない。

「そうか、いやと言うのか――なら、もういい」

 言い終えると同時に、真っ赤に染まる短剣がおれに向けて投げられた。岳里がおれの名前を叫ぶが、身体が逃げようと動くことはできない。
 これで二度目になる、迫る短剣からもう守ってくれる人はいない。自分で逃げることもできない。できたのは、ただ目を見開くことだけで。
 短剣はまっすぐ軌道を逸れることなく、おれの胸を突いた。

「っぐ、ぅ!」

 ――けれどそれが立てたのは鈍い音じゃなく、前に岳里の剣に弾かれた時のような高い音だった。この身体に突き刺さることなく再び弾かれ、遠くへ飛んでいく。
 胸に当たった衝撃に押され思わずうめいて顔をしかめるも、けれどそれだけで。
 自分でも訳がわからないまま胸元を見れば、短剣が当たった場所の服は確かに生地が裂かれていた。でもそこから覗ける素肌に一切の傷はなく、血も出ていない。多少の痛みはあっても、ただかたいものを、石をぶつけられたような程度だ。
 それに驚いていたのはおれだけじゃなかった。エイリアスも、岳里も十五さんでさえも。確実に胸を突き刺さしたと思ったはずの短剣が弾かれ、みんな驚いたように瞠目している。
 本当に、何ともないのか。首周りに指をひっかけて下にずらしてみるけど、やっぱり肌が多少赤くはなっているものの傷はない。

「なん、で……?」

 困惑に呟けば、ふと上から覗き込んだ胸元から、首に下がった岳里の鱗が見えた。
 それは、りゅうが生まれる前、初めて竜人の里に向かう数日前に岳里から贈られた首飾り。竜人たちは己の鱗を番になった相手、もしくは盟約者に贈るらしく、岳里もその風習に倣い、自分の鱗を身に着けやすいようにと首飾りにして贈ってくれていたんだ。
 竜の鱗はとてつもなく頑丈で、滅多なことでは砕けないものらしい。連なった鱗が竜の身体を外部の攻撃から守り抜く強固な鎧となるそうだ。でも強度からいえば大抵のものを弾く盾になるも、ひとつひとつはさほど大きくはない。だから渡されたひとつの鱗で身を守るのは無理がある。けれど、頑強な自身の鱗を番に贈ることで竜族たちは相手を己が守護していると周りに知らしめる意味合いがあると、そう岳里から聞いていた。
 ――きっと、これが守ってくれたんだ。
 おれに投げられた短剣。きっとそれは偶然であるんだろうけれど岳里の鱗に当たり、だから弾かれたんだ。でなくちゃ他におれが今無事であることを説明できるものはない。
 そっと胸元から鱗を取り出し、傷がないかを確認する。けれどつるりとした紺色のそれは一切の汚れすらなく、つややかに揺らめく蝋燭の火をその身に映していた。
 そしておれが鱗の首飾りを取り出したことによって、エイリアスもようやく弾かれた短剣の謎を紐解いたらしい。
 忌々しげなやつの声が耳に届く。

「おのれ、どこまでも邪魔してくれるな」

 吐き捨てた言葉とともに岳里の頭を蹴ると、エイリアスは一度懐に手を差しこみ、そこから新しい短剣を取り出した。それからおれに向けた目はただ冷たくて。今度こそ、自らの手で確実に殺そうという意志を滲ませていて。
 向けられる確かな殺気に気圧され、おれはその場から動けなくなる。頭ではこのままじゃいけないと、逃げなくちゃとわかっているのに。鱗の首飾りを握りしめたまま固まってしまった。
 鋭く磨き上げられた刃は、鱗よりもより鮮明に炎を映し出している。それを見せつけながらエイリアスが一歩おれへと足を踏み出した、その時だ。
 動けなかったはずの岳里が立ち上がり、後ろからエイリアスを羽交い絞めにした。

「なっ、おまえは動けなかったはず……!」

 明らかに動揺を見せたエイリアスだったが、すぐに顔色を戻すと耳慣れない言葉を出す。けれどその口を、岳里の傍らで沈黙を貫いていた十五さんが布を押し込み封じてまった。

「……っ!」

 エイリアスの目は十五さんへと向かい、怒りを露わに睨みつける。しかしそれに臆することなく、十五さんは手早く他にも指先もまとめ縛り上げ、動かせないようにしてしまう。
 そこでようやく、岳里が息を切らしながら口を開いた。

「これで、おまえは術を発動、できないだろう。結界を解くことも不可能だ」

 岳里の言葉に、エイリアスはただ静かに睨むだけだった。
 魔術師が術を発動させるにはふたつの方法がある。ひとつは口頭により呪文を紡ぐもの。そしてもうひとつが指先で空に描く魔法陣だ。どちらかさえ遂げれば魔術が発動となる。
 だから岳里がエイリアスを押さえている間に、十五さんは口と指先を封じたんだ。
 でもそれは、“作戦ではおれがやる予定”だったもの。まさか十五さんが協力してくれるとは、思ってもなかった。
 ついエイリアスから十五さんへ目を向ければ、おれの視線に気づいたのかこっちを向いた金の瞳と目が合う。そしてエイリアスもまた、唯一自由と行っていいその目で自分を拘束する二人へ鋭い視線を投げつけていた。そこには怒りや恨みといったそんな暗い感情がうごめいていたけれど、その中に確かに驚きと疑問を抱いていた。
 動けないまでに十五さんが痛めつけ、その上痺れ薬を盛られていたはずの岳里が、何故立ち上がりそして行動できているのかと。そう、問いかけているようにも見えた。
 岳里もそう思ったんだろう、一度口に溜まった血を吐き捨てながら説明してやる。

「確かに本気で十五とやりあった。だが致命的な傷はあえて、おまえの目にもわからない程度に軽くしてもらい、目的を果たすための最小限の体力を残しておいたんだ。そしておまえも告げていた通りおれ自身の痛覚の鈍さがもたらすものを、忘れたふりをしてな。隙を見せるのを待っていた」

 もともと毒などを用いることは想定内だったから、あらかじめ中和剤を服用してきたとも告げる。それでもエイリアスの疑問は解かれていないようだった。
 じろりと十五さんを睨み、さらなる説明を求める。

「十五とおれは、ともに住んでいた時間は短くとも家族だ。エイリアス、おまえが無理につなげた繋がりとはまた別の、おれたちだけのものがある。たとえ十五が話せなくともあいつの意思は多少なりともわかるし、反対にあいつも多少なりともおれの意思が通じる――だから、おれは賭けたんだ」

 岳里と十五さんは弟と兄という兄弟の関係であり、その瓜ふたつな顔が物語っているように血の繋がる家族だ。けれどおれが岳里をおれの世界にひょんなことから召喚してしまったから、それ以来岳里はディザイアに帰ってこれないままずっと向こうの世界で暮らしていた。
 勿論ディザイアに住む十五さんや、祖父にあたるカランドラさんとは離れ離れになり、ずっと連絡もとることもできないままでいた。そして、おれと一緒にまたこの世界に呼びだされ、そこでようやく十年ぶり近くになる再会を果たしたんだ。
 けれど、十五さんはおれの兄ちゃんと一緒に敵側へと回ってしまっていた。声を失っている十五さんが自分の意思を語る時はなく、本当に従わざるを得ないからエイリアスの傍らにいるのかさえ、それさえわからずにいた。
 でもずっと、岳里と同じ金の瞳でおれたちに訴え続けていたんだ。おれは読めなかったその目に滲んだ色を、岳里は理解し、そして信じたんだ。
 離れ離れになっていた時間よりも短い、十五さんと一緒に竜族の里で過ごした時間。その時に培われた絆を、思い出を、十五さんも忘れていないことを。
 その目が伝える、ただひとつの想いを。

「言葉を話せない十五のために、おれたちが造り使っていた合図。他人にはわからない、おれたちの言葉を覚えていることに、賭けたんだ」

 そして十五さんは覚えていた。幼い頃に岳里と二人で交わした声のない会話のことを。だからこそ岳里の意図を汲むことができ、エイリアスに悟られないよう本気の斬り合いをしながらも、肝心のところでは手を抜いてくれたんだ。
 岳里が背に負ったあの大きな傷が、そうなんだろう。出血もひどく範囲も背中一面と広く、エイリアスの目から見ても確かな致命傷となるものだった。でもあれでも岳里が最低限動けるようにと加減してくれたんだ。
 だからこそ岳里は体力が尽き果て倒れたふりをし、エイリアスが隙を見せる機会をうかがい、そして拘束することに成功したんだ。
 でも岳里が言ったように、これはおれたちにとって賭けだったんだ。本当に十五さんがこちらの真意に気づいてくれるか、岳里との思い出の会話を忘れていないか。それはここへ来るまで、実際に行動に起こすまでわからなかったから。
 でも十五さんは――助けたい、と。兄ちゃんを助けたいとその目で訴えてくれた。それを信じておれたちはここまでやってきたんだ。そして十五さんは岳里の兄ちゃんとして、おれたちの信頼に応えてくれたんだ。
 本当はおれは今日十五さんに会うまで、際まで疑いを晴らすことができなかったけど。でも最後におれ自身の答えは間違ってなかったんだと、信じてよかったと心から思えた。
 岳里の言葉だけでようやくからくりを知ったエイリアスは、鼻から大きく息を吐くと、急に冷静を取り戻したように気を落ち着かせる。
 その目にぎらつかせていた怒りは綺麗に消え去り、ただ無感情の顔で岳里を見た。それに岳里も傷だけの身体を奮いたてながら、重たい息を吐きまた口を開く。

「――おれたちは、おまえが悟史の身体を使っているのは、何かしら利点が生じるからと判断した。だから、おまえを追い詰めるために覚悟した」

 岳里の言葉に無表情を被る三人とは違い、おれだけが息を飲んだ。
 未だ握りしめたままの鱗にさらに力を込めてから、それからそろりと手放す。手は寒さにかじかんだようにうまく動かなくて。それでもどうにか丸まった指を広げて、岳里と十五さんに集中するエイリアスに気づかれないまま懐に手を差しこむ。
 指先で触れた硬い感触に、ただでさえ冷えた手の熱がすべて奪われる。心臓だけを早く鳴らして、ぎゅっとそれを握りこんだ。それだけで呼吸が荒くなりそうになる。
 岳里はあえておれに一度も目を向けないまま、エイリアスに続けた。

「何かを得る時、何かを守る時。綺麗ごとばかり並べてはすべてを失うこともある。おれたちが持てるものには限りあるからこそ今手にするものを失わないためにも、何かを捨てるということも必要だ。――“捨てること”を覚悟した、おれたちの決意を教えてやる」

 岳里の言葉を合図に、おれはその場から立ち上がり駆け出した。
 多分何か叫んだと思う。でも自分でもよくわからないまま、自分の声も聞こえないまま、がむしゃらにエイリアスとの距離を一気に詰め、そして。
 ろくに前も見ないまま当て身を食らわすようにぶつかり、自分が起こした衝撃の反動でおれは後ろにひっくり返った。
 尻餅をつきながら見開いた視界から見えたのは、驚いたようにおれに目を向けたエイリアス。そして、その腹に突き刺さった短剣。それは深々と根元まで突き刺さり、じわりと血を溢れさせ服を濡らし始めていた。
 岳里がエイリアスの拘束を解くと、やつはよろめき、その時口に押し込まれていた布が落ちる。未だ驚愕の冷めない目でおれを見つめながら、震える指先で、腹に刺さったままの短剣ごとそこを押さえた。けれど血は止まらず、指の間からも零れだす。
 やがてエイリアスは、兄ちゃんの顔を苦痛に歪ませながら膝から崩れた。
 尻餅をついたまま動けずにいるおれと同じ視線になってもなお、強い眼差しが向けられたままで。荒い息を断続的に浅く繰り返すおれにその苦しみを訴えるよう、口を開いた。

「ば、かな……あに、を――」

 兄を、刺すとは。
 最後は掠れて聞き取れなかったけれど、エイリアスは確かにそう口を動かした。
 それに応えられる状況にないおれと、沈黙を貫く岳里。そして、同じくきつく唇を噛みしめたままエイリアスの様子を離れ見つめる十五さん。誰一人として言葉を返すことはない。
 やがてエイリアスは、歪に笑みを浮かべ、呪詛を唱えるように忌々しげに吐き捨てた。

「ふ、は、はは……なるほど。取り戻せぬ、のなら、せめて。これ以上、使われぬ、ようにか。はは……」

 はっきりと不愉快な思いを声に乗せながらも、エイリアスは声をあげて笑う。けれど刺された痛みからなのか、ひどく力なく頼りない。
 荒い息を繰り返し、脂汗を滲ませ苦悶の表情を浮かべるやつに、岳里は冷たく見下ろしながら告げた。

「おれたちは悟史の身体を放棄することにし、真司もそれに従うと決意してくれた。だから、それを証明するために実の兄を刺したんだ。エイリアス、おまえは真司が兄を見捨てることはないと高を括っていたが、これが覚悟したおれたちの答えだ」

 岳里の言葉に笑みもひっこめ口を閉ざしたエイリアスは、十五さんへ目を向けた。けれど十五さんは血を流すその姿を見ても無感情な表情を崩さないまま、手を差し伸べることもなくその場に立ち続ける。
 しばらく二人は見つめ合い、やがてエイリアスから目を逸らした。そしてそれはそのまま、おれの方へ向けられる。
 エイリアスはじっと、短時間にも関わらずひどく疲労した顔でおれを見た。まだその中身はエイリアスが陣取ってるはずなのに、普段は到底兄ちゃんと重ならない表情をしてるはずなのに。それなのにこんな時ばかり兄ちゃんの顔になって。
 裏切ったな、とおれを責めているようで。
 その目から顔を逸らすこともできず、ただ全身を強張らせ震えるしかできなかった。
 もう手放したはずの、エイリアスに刺さったままになっている短剣の感触が未だ手に残っている。肌を突き破り肉を進む、あの瞬間を、冷たく感覚を失っている指先が脳裏で何度も繰り返す。
 兄ちゃんを刺した。おれが、刺した。あの腹にある短剣はおれが握っていたもので。ろくに前も見ないまま突き進んだ身体はぶつかり、倒れた時にしっかり痛んで。でもそれ以上の、しんでも、しまうかもしれない傷を、兄ちゃんに与えて。
 おれは、おれが――兄ちゃんを。兄ちゃんをこの手で。
 声すら出せない様子を見つめてから、エイリアスは血濡れた手で自分の腹に深々と突き刺さる短剣を握りこむ。そしてそのままそれを引き抜けばさらに出血は量を増して、身体を伝って下に溜まっていく。
 エイリアスは手にした短剣を適当な方へ放り投げた。木製の床に大きな音を立てながら落ちるそれは、水に投げ込まれた石が生み出す波紋がいつまでも続かないように、すぐに部屋に静寂を戻す。
 誰もが口を閉ざし、ただおれとエイリアスの荒い息ばかりが響くようになった頃。不意にエイリアスが背を丸めた。

「ぐ、ぅ……は、っ」

 苦痛に満ちた声を漏らし、何をしようというのかとその様子を岳里が油断なく見守る。
 しばらくして、丸まった身体から黒い靄のようなものが出てきた。それは上空に、不確かな円を形作るように溜まっていく。
 次第に身体から出される靄の量は減り、上の方で黒い塊になったそれはゆらゆら揺れた。

『確かに想定外であったが、まあいい。もう十分に力は集まった』

 完全に兄ちゃんの身体から放出される靄が消えると同時に、頭に直接声が響いてきた。いや、声というより、言葉が浮かんだ、っていう方が近いかもしれない。
 恐らくエイリアスのものであろうそれは、高低も、男のものか女のものかさえわからない。感情も読み取れないような、すべてが曖昧だった。
 エイリアスが初めて自身の声を出した直後、背中を丸めていた兄ちゃんの身体が崩れる。咄嗟に支えようと動いたおれよりも早く、床にぶつかる前に十五さんがその身体を抱きとめた。床に膝をつけ、その上に反転し仰向けにさせた兄ちゃんを横たえさせ、真上から強く傷口を押さえる。けれど、すぐに血は十五さんの手を汚しながらその指の隙間から流れていった。
 おれからじゃその顔は見えないけれど、兄ちゃんの意識はないようだ。そのことを、必死に傷口の血を止めようとする、無表情ながらもどこか焦りを見せる十五さんの表情で悟る。
 兄ちゃんを助けようとする十五さんに、声は嘲笑った。

『無駄だ。すぐにでも治癒術をかけない限り助からないだろう。だが、ここは結界内。果たして抜け出すまでに闇の者の体力は持つかな。――いや、たとえ今すぐできたとしても、無駄な足掻きだろうがな』

 言葉が伝わってくる度に、空に浮かぶ黒い靄が揺らめく。
 影の存在。実体がない姿。それが、エイリアス。そうディザイアは言っていた。ならつまり、あの靄こそが本体なんだろう。
 やつの姿が見えているということは今、ついに兄ちゃんは解放されたことになる。でもエイリアスの放つ言葉のひとつひとつにひどく心が揺さぶられた。
 十五さんもそれは同じのようで、ここへきて初めて顔を歪ます。そして小さく口を開いて、声にならない声で確かに兄ちゃんの名を呼んだ。傷口を押さえたまま抱き寄せ、未だ微動もしない兄ちゃんの胸元に顔を押しつける。
 そんな十五さんの様子を見せられたおれは、今にもはじけ飛んでしまいそうなほど強く心が締め上げられる。傍らで二人を見つめる岳里もまた、何も言えずにいた。
 そんな中で、エイリアスだけは見つめる風景が違っているかのように、けれど重たい雰囲気は同じに言葉を響かせる。

『――竜人よ、光の者よ。おまえには随分と面倒をかけさせられたな。竜の血を継ぐ者ということで目を瞑ってやっていたがもう容赦はしない。次会った時にこそこれまでの償いをしてもらおう』

 岳里にだけ向けられたものには薄ら笑いのようなものが含まれていて。それを聞いたおれの身体はぞっとし、ただでさえ震え上がる身体がさらに小さくなる。
 そんなおれのことなんて気にも留めず、言葉は連ねられた。

『しかと覚えておけ、気高き竜を穢す醜き半人者よ』

 言い終えるとともに、黒い塊はすうっと昇っていった。けれど天井間際になるとぴたりと止まる。

『ああ、そうだ。選択者よ、おまえに言い忘れたことがあった』

 今度は岳里でなく、おれに向けられた言葉。それに無意識にびくりと身体が揺れる。

『今回のことでおまえは兄を失うだろう。余程幸運なことが続かぬ限りは助からない。まあ自らの手で下したのだから、今更後悔はあるまい? ましてや、おまえはもう一度両親を殺しているのだからな。さらなる絆を断ち切ったとて、己だけは何も知らぬと時が過ぎれば笑っているだろうよ。なんと哀れな者か』
「……おれ、が、父さんと、母さんを……?」
「やつの言葉に耳を貸すな!」

 鋭い岳里の声が飛ぶも、すべてを聞いてしまったおれは兄ちゃんを刺した混乱さえも忘れ、呆然と高みにいるエイリアスを見た。
 父さんと母さんを殺した? おれ、が?
 ちがう、そんなわけ、ない。だってあれは事故だった。車両同士の衝突で、おれはただ同乗してただけの、はずで――
 でもエイリアスアは、おれが殺したと、そう言った。ここで嘘をついてなんになるならその言葉は真実なのか。

「……おれが、二人を」
『おまえの持つ力は、身に余るもの。その強大なる力で周りの人間を不幸にさせないよう、せいぜい注意することだな。それによって救われたこともあれば、失うものもあるのだから――』

 言葉にほくそ笑む姿を滲ませながら、エイリアスは天井をすり抜け姿を消した。
 完全に気配も消えたと判断した岳里は、天井を睨むのを止め、へたり込んだままのおれへと駆け寄る。
 未だ呆けたまま上を見つめていたおれの肩を掴み、強く揺さぶった。

「しっかりしろ。まだ終わっていない」
「――あ……にい、ちゃん……」

 ようやく我を取り戻し、おれは正気を取り戻してくれた岳里を押しのけるように立ち上がり、十五さんに抱えられた兄ちゃんのもとまで走った。

「兄ちゃんっ」

 横たわる身体の傍らに膝をつき、顔を覗き込む。
 もうその顔は、邪悪さを滲ますエイリアスのものじゃなかった。血の気が引き脂汗を滲ませ苦痛に歪められながらも、確かに兄ちゃんのもとだとわかる。
 その表情を見つめてから、十五さんに押さえられた傷口に手を向けて目を閉じ、そして強く思いを溢れさせた。
 けれど、どんなに強く助けたいと思い浮かべても、この手から治癒術特有の発光が起こらない。いくら待っても思いを込めても何も始まらなかった。
 開いていた指先を丸めて拳を握りながら、後ろにきていた岳里に振り返る。

「駄目だ、まだ結界は解けてない。治癒術は使えないっ」
「ならまず結界内から脱出する。おれは真司を抱えるから、十五は悟史を頼む。とにかく結界から出るんだ」

 早口で紡がれた岳里の言葉に十五さんは頷き、自分の上着を脱いで布を裂くと、それで兄ちゃんの傷口を服の上からきつく巻いて結んだ。それでも出血は酷くすぐに布を濡らしていった。
 その様子を見ても何もできないおれは、ただ唇を噛みしめるしかなくて。手際よく止血し運ぶ準備を進める十五さんと荒い息を吐くばかりの兄ちゃんを見つめていると、ふと視界の端で床に投げ出されていた兄ちゃんの指先が動いた。

「――っ、う」

 微かな呻き声とともに、薄らと開かれる目。それは虚ろながらも、傍らの十五さんを見て、それからおれに目を向ける。
 荒れた唇が、ゆっくり動いた。

「し、んじ……?」
「兄ちゃん!」

 ひどく掠れた声で、でも確かにおれの名前を呼んだ。兄ちゃん自身の声で、意思で。
 堪らず顔を覗き込めば、震える指先が頬に伸びてきた。ぞっとするほど冷えたそれは肌を擦るように撫でていく。

「無事で、よかった」

 傷のひとつも負ってないおれを見て、兄ちゃんはそう言って小さく笑う。
 自分の方がよほど重症だというのに、それなのにおれの身を案じて。苦しいだろうに笑って。
 ――ああ、本当に兄ちゃんだ。馬鹿で人のいい、おれの兄ちゃんだ。
 振り絞った力では支えきれず落ちかけたその血濡れた手を掴み、自分から頬に押しつける。おれの冷えた指先では兄ちゃんを温められないけれど、でも熱いくらいの頬なら少しはそれができるかもしれないと、ぎゅうぎゅうに掴む力を込める。

「ご、め……ごめん、ごめん兄ちゃん。ごめんなさい」

 こんな苦しい思いをさせて。ずっと助けられなくて。心配ばかりかける弟で。
 何にも、できなくて。

「ごめんなさい、兄ちゃん……っ」

 気づけば頬に、兄ちゃんの手に、溢れ出した涙が伝う。
ようやく帰ってきてくれたのが嬉しくて、でもおれがつけた傷は深くてまだ血は止まらなくて。何もできない自分が歯がゆくて、兄ちゃんが兄ちゃんでいることに安心して。
 色々な感情が膨れ上がり、矛盾だらけの心はなんの感情で涙しているのかさえ教えてくれない。ただ今は握るこの手をもう絶対離さないと決意して。
 もう一度兄ちゃん、と呼んだ時、突然硝子にひびが入ったような音が響いた。
 ぴしりぴしりと、まるで亀裂が広まるように小さな音は連続して続き、それは頭上から聞こえる。思わず天井を見上げたその時、一際大きな音が響いた。皿を床に落としてしまった時のような、それよりは幾分か軽い、けれど何かが壊れてしまったような。
 そして空から響くそれは、この世界に来て一度だけ、初めて街に降りた時に聞いたことがあるものだった。
 咄嗟に岳里に振り返れば、おれの考えを見通し頷く。

「恐らく結界が解かれた。今なら治癒術が使えるだろう」
「やってみる」

 いつの間にかまた意識を失ってしまったらしい兄ちゃんの力ない手を身体の上においてやり、今一度傷口に手を翳す。するとさっきは出なかった光がほのかに溢れ出した。
 兄ちゃんを支える十五さんの指先に力が入る。その姿を見たおれは、それが意味するものを自分と同じ“期待”と勘違いしていた。そうとも知らずに期待を確信に変えつつ意識を研ぎ澄ます。
 ――これならいける。兄ちゃんの傷口も塞ぐことができる。
 おれの治癒術なら完治は無理でもせめて、最低限血を止めることくらいはできるはずだ。そうこれまでの経験で判断し、少しでもよりよく治そうと、いつの間にか止まった涙にも気づかず集中を高めていく。
 そして限界まで力を集めてから治癒術を発動させた。
 いつもであれば、手の平から発した光は傷口に吸い込まれるようにして消えていく。けれど今回は明らかに様子が違った。

「――っ!?」

 おれの意思で治癒術の強さは変わるし、それによって消費される治癒力の量も変わる。今回はできる限りの力を使おうと絞り出したつもりだけど、そもそもおれは自分の中にあるものを全部出しきることはできない。だからおれが出せる最大の力は、おれが持つ力のすべてを使っているというわけではない。
 それなのに、治癒術を発動した手の平から、まるで力の根こそぎ奪われるように兄ちゃんの身体に吸い込まれていった。それだけでもいつもと違うのに、今までに出したことのないくらいの力が兄ちゃんに勝手に流れていってるのに、けれど傷口に変化はない。
 わけもわからないままとにかく癒すためにと、しばらくは力が急速に奪われていく感覚に耐える。でもすぐにそれも限界になり、おれは発動していた治癒術を取りやめて手を離した。

「っ、は、はぁっ」

 身体が鉛のように重く、指先を動かすのさえ辛い。泥沼に使っているようなその感覚は、治癒術を使いはじめの、まだ慣れてない頃によく感じた症状に似ている。
 セイミアにその症状について尋ねてみたことがある。なんでこんなに疲れを感じるのか、って。そして返ってきた答えは、力を消費しすぎている、ということだった。
 おれは膨大の量の、治癒術と魔術が合わさった力を持っているらしい。けれどセイミアの推測によれば、おれが意図して使える力はほんの一部であり、だからその使えるだけの力を出し切ったら、まだ力は体内に残っていたとしても枯渇した状況になり身体に疲れとしてでるんだろう、と考えられるらしい。おれはまだ治癒術を使い始めたばかりで、無駄に消費されている力も多くそんなことになっていると思われる、ともセイミアは続けた。
 でもその治癒術の使い過ぎて疲れてしまうのは最初の頃だけで、ある程度時間が経てばおれもそこそこ操作できるようになったし、使える力の量も増幅して身体がひどく重たくなるほど疲れなくなったはず。少なくとも、兄ちゃんの腹の傷を癒すくらいなら、普段の治癒量に比べればそう大変なことじゃないはずだ。
 それなのに確かに身体にのしかかる疲労感は今まで感じたことのあるものよりも重く。自分の身体さえ支えきれずに、おれはついには倒れかけてしまった。
 けれど床にぶつかる前に、岳里が手を差し伸べてくれたおかげで何事もなく済んだ。仰向けで抱えられているから、正面に岳里の顔が見える。その表情も、不可解なこの現象に少なからず動揺しているようだった。
 片手でおれを抱え直し、空いたもう片方の手を兄ちゃんの傷口に伸ばし指先で触れる。すると意識がないながらも苦しげな声が漏れた。

「――治癒術が効いていない」

 ぽつりと呟いた岳里に、十五さんが視線を向ける。そして兄ちゃんを支え塞がる手とは反対を動かし、何やら岳里に伝えていた。
 細かく指先を動かしたり、時には握ったりして、でもおれには何をしているのか、何を伝えたいのかさっぱりわからない。でも岳里にはしっかりと通じているようだった。きっとこれが、昔二人が使っていた声のない会話なんだろう。
 しばらく十五さんからの言葉を見つめていた岳里は、やがてその手の動きが止まる頃には、厳しい表情に変わる。
 ろくに動けなくなってしまったおれを、自分も傷だらけだというのに抱えたまま立ち上り、重たい口を開いた。

「城に急ぐ。悟史に治癒術の効果は望めない」
「治癒、術が……」

 結界が壊れ、術が使えるっていうのに。治癒術さえかけられれば、きっと助かるという話だったのに。
 それなのに治癒術そのものが効かない? それはつまり、おれのだから効果がなかったというわけじゃない。術そのものが意味を成さないということで。

「助かる、のか? 兄ちゃんは、大丈夫なのか?」

 震える声で岳里を見上げるも、返されたのは沈黙だった。舞い戻った絶望がおれを容赦なく打ちのめす。
 兄ちゃんへ目を向ければ、十五さんがその身体を抱えながら立ち上がっているところだった。岳里の傍らまでくるとその足を止める。

「結果が壊れた以上、魔術による転移を行う。口を閉じていろ」

 そう早口で言うと岳里は、おれの懐に手を突っ込んでそこに仕舞っておいた魔導具を取り出す。それは帰還用にと用意された、城へ移動するための道具だ。
 この魔導具の使用には魔術を用いるため、エイリアスの張った結界内では使えない。だからおれたちが最初に着いた、籠の置いてある結界外際の場所に戻ってから使う予定だった。でも結界がなんらかの理由で破壊された今、この場でも使用可能だ。
 岳里は範囲内に十五さんが来たのを確認すると、手にした移転魔術用の魔導具の玉を、勢いよく足元に投げつけ破壊する。
 すうっと周りの景色が滲み消えていき、苦しげな兄ちゃんの顔も、鉄仮面を被り感情を押し殺す二人の顔も、すべてが見えなくなっていった。

 

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