次の日も岳里は話さなかった。自然におれの口数も減り、精一杯今まで通りに行こうと話しかけたけど、それも反応はあれど返ってこない声が辛くて。
 結局夕方部屋に岳里が帰ってきてからは一度も話してない。
 これまで何度も、岳里との間に生まれた沈黙はあった。けれどそれが居心地悪く感じたことはなかったのに、今回のものは凄く嫌だ。
 それでもおれから話しかけようとかは思えず、それでも無理話題を探そうとしてもなんでだか見つからず。結局互いにベッドに入り、最後まで口をきかなかった。
 そのせいなのかはわからないけど、この日のおれの眠りはひどく浅かった。眠くて目を閉じているのになんだか寝付けなくて、でも瞼は重くて開かない。眠りに落ちる瞬間を彷徨っているような、起きているのか、寝ぼけているだけなのかよくわからないような感覚でいた。
 そんななか、不意に隣のベッドが小さく軋む。恐らく岳里が起きたんだろう。
 岳里はベッドから立ち上がると、そのまま部屋を出て行く。完全に扉が閉まり、そしてしばらくしてからおれも目を開け、身体を起こした。
 隣のベッドへ目を向ければ、そこに岳里はいない。毛布が端に追いやられたままの状態になっている。
 ベッドから立ち上がり、おれはそのまま岳里のベッドの下を覗き込んだ。するとやはりそこにあるはずの木刀がなくなっていた。
 岳里はいつも帰ってくると、ベッドの下にヴィルからもらったという大剣型の木刀をしまう。それが今はない。暗くてよく見えないだけかもしれないと手を伸ばしてみるが触れるものはなく、やっぱりさっき岳里が出ていく時に一緒にもってったんだとわかった。
 ――たぶん、またひとりで訓練しに行ったんだ。
 窓辺に向かい、ひかれたカーテンを開け外を見る。空が曇っていて、星や月が隠されていて時間がよくわからない。それになんだか胸がざわつく気がして、おれは岳里が出て行った扉に目を向ける。
 岳里がひとりで夜に出歩くことは珍しくない。岳里は気づいてないけど、出ていく瞬間におれが目を覚ましていることもある。そんな時は剣の修行なんだと、レードゥから知らされていたし、必ず夜明け直前ぐらいに帰ってくるから心配はしていない。いつもの、ことなんだ。
 なのに変な焦りがおれの中にあった。わからないけど、でもどうしてか落ち着かない。
 一旦はベッドの端に腰を下ろすが、そのまま横になる気にはなれなかった。

「…………っ」

 また立ち上がったおれは、そのまま扉へ向かおうと足を踏み出す。けれど、一歩目で一度動きを止める。
 ベッドに振り返って、枕の脇に置かれた“守り役の光”へ目を向けた。暗闇の中でも、透明で小さな玉の中にあるさらに小さな金色はきらきらと煌めいている。
 寝る時と風呂以外で外すことのないそれに手を伸ばそうとして、やめた。守り役の光から目を逸らして、今度こそ足を進める。
 扉の外に出るとすぐに、今日の当番だったらしいユユさんに声をかけられた。

「どうかなされましたか?」
「えっ、あ……ちょっと、用足し、に?」
「暗いですから、足元にはお気をつけくださいね」

 笑顔で見送ってくれたユユさんに何故だか申し訳なく思いながら、おれはいそいそと道を進んでいく。とりあえずまっすぐ進んで、後ろを振り返ってユユさんが見えなくなるくらいの場所で止まった。
 深夜には一部しかつけられてない光玉の明かりの下で、おれはどこに進めばいいのか考える。部屋を出てきたはいいものの、岳里がどこで特訓してるかなんておれは知らない。
 訓練って言ってもたぶんそう派手に動き回らないだろうから、そこまで広い場所ではないかな。でも木刀が大きいから高さとかは必要か? ユユさんには用足しって言っちゃったから、早く岳里見つけて帰らないと心配かけるかな――そう考えていると、不意に腰がじわりと熱を持つ。

「……?」

 腰の、どちらかというと右側が。なんだろうと手でそこに触れてみるけど、何もない。熱を感じるのに、指先にはそれがない。でも確かに腰が熱い。
 よくその理由がわからないまま、いつまでも立ち止ってられないとおれが歩きだすと、腰の熱が増した。
 歩けば歩くほど、生まれる熱。いったいなんなのか不安に思いながらも足を進めると、分かれ道に来た。
 なんとなく左に進んでみると、ふと熱が冷めていく。そのことにほっとしたけど、でも何故だか、違和感を覚える。
 左の廊下を三歩進んだところで、おれは一度足を止め、踵返す。そしてそのまま右の廊下へ進みだすと、腰の熱が再びじんわりと感じられた。
 ……こっちって、ことか?
 自分の身体の異変に戸惑いながら、おれは熱が増していくほうへ足を進めていく。最初の頃はどちらかと言えば温かいな、というくらいだったのに、先に行けばそれだけ熱を帯びる。
 熱い。そう感じながらも、足は無意識のうちに早まり廊下を歩く。
 不意に、よく歩く道を進んでいることに気づいた。これは、風呂場へ向かう道だ。そこでようやくおれは岳里が秘密の特訓に使用しているのであろう場所に見当がついた。
 多分、だけど、風呂場へ続く道の途中にある中庭だと思う。おれが初めて魔物を見た場所――初めて、岳里が剣を手にした場所。
 魔物が吐いた火の玉に綺麗だった木花は灰になり、噴水も壊されたけど、でも数日後にはそこは元通りの姿になっていた。その時、城というものの凄さを感じたっけ。
 あそこならそれなりの広さは確保できるし、人通りも少ないし、夜に多少声を上げても迷惑にならない。そこまで部屋から離れてもいないから、ちょうどいい場所だ。
 おれはもう腰に感じる熱に頼ることなく、ほぼ確信を抱いてそこへ向かう。
 あの角を曲がればすぐに中庭へ出ることのできる渡り廊の手前まで来ると、その先からずず、と何か重いものを引きずるような音がした。何の音かはわからなかったが、誰かがいるのは間違いない。
 やっぱり岳里はここにいる。不思議と心臓の鼓動が早まり、おれは曲がり角の一歩手前でごくりと生唾を飲んだ。
 そっと、気づかれないためにも壁の影から中庭を覗き込む。
 岳里を一目みたら、早く部屋に戻ろう。そう思っていたおれは、岳里を探すよりも先に目に飛び込んだ光景に、思わず愕然とした。
 思わずそこから目を逸らして、壁にぴっとりと背中をつけて身をひそめる。どくどくと、さっきとは違う心臓の高鳴りを深呼吸でどうにか落ち着かせようとするが、あまり効果はなかった。
 背中がじっとりと冷や汗を掻くのを感じながら、息を飲みこみ、もう一度中庭を影から覗き込む。
 二度見てもそこには確かに、“それ”は存在していた。
 隣にある木など悠に超すほどの高さにある頭を見れば、後ろに流れるように二つの角があり、凶器になりうるほど尖っている。そんな大きな体にはびっしりと並んだうろこがあって、背には二対の大きな蝙蝠のような翼が。手足には鋭い爪があり、小さく開いた口から覗く牙もなんでも噛み砕けそうなほど厚く太い。太い尾は地面の上に垂れているが、あれがしなっただけでおれなんて簡単に吹き飛ばされそうなくらいで。
 その身体は大きいのに、でも鱗の色が暗いものだからか、闇に馴染みその姿はそう目立たない。だけど瞳が、金色に光る瞳がその闇に溶けず鮮明におれの目に映る。まるで、月のように丸い金の瞳。まだおれの存在には気づいてないようで、それは空を見上げていた。
 爬虫類にどこか似た“それ”はまさしく――竜だ。ファンタジーの世界には付き物の、蛇より蜥蜴に似た西洋竜が中庭に鎮座していたんだ。
 何度見てもよく見ても、その姿は漫画やゲームに出てくる竜に近く、見間違いようがないほど十分な存在感を出している。
 驚きと、混乱と、恐れと、様々な感情におれの思考は疑問に乱れる。
 竜だ、竜がいる。なんで? ディザイアには竜がいるのか? それともこれも魔物の一種なのか。おれに気づいて襲ってこないだろうか。誰かに報告した方がいいのか? なんでここにいるんだ、逃げた方がいいのか――
 けれどそんな考えも、途中ですべて止まる。おれの目は、ぽっかりと暗闇に浮かぶ竜の瞳に釘付けになっていた。
 金の瞳。その目を、初めて見る気がしなかった。どこかであの瞳を見た気がする。でも、一体どこで。
 不意にその瞳が、おれへと振り返った。

「っ!」

 無意識のうちに身体が動き、おれは壁に隠れる。
 自然と荒くなる息に、いつの間にか収まっていたはずの冷や汗がまだどっと噴き出た。
 竜が動き出す音はしない。額に滲んだ汗をそのままに、おれはもう一度、中庭のほうへ顔を出してみた。
 すると竜と目が合い、すぐに顔を引っ込める。確実におれの存在に気づいたようで、じっとこちらを見ていた。
 さらにもう一度、ちらりと片目だけで覗いてみれば、やっぱり竜の視線はおれから外されていない。じっと見つめ返しても身動きひとつせず、金の目は揺らぐことなく静かにそこで輝いていた。
 竜の瞳には、警戒の色が見えない。不機嫌な様子でもないし、おれに興味を持っている様子でもない。ただじっと、おれを見ているだけだ。
 試しに、壁の影から抜け出し、そっと全身を竜の前に出してみた。けれど恐怖がぬぐいきれたわけもなく、片手は壁につけたまま。すぐにでも逃げ出せるように全身から力を抜かないまま一歩踏み出してみても、竜は眺めるだけで何もしてこない。
 それを確認し、意を決して口を開いた。

「お、まえは……ここに、いていいやつ、か……?」

 この城に、この場所に。人を傷つけず、壊すこともしない、無害なのか――答えるわけがないとわかっているのに、そう聞かずにはいられなかった。
 当然のように竜が何かを返してくれることはなかった。ただ、ほんのわずかに細められる目。それが何を意味するかはわからない。
 ――おれは今ここで、どうするべきなのか。やっぱり、隊長の誰かを呼ぶべきか。
 不意に、竜が頭を動かした。
 おれは咄嗟に壁の影に戻ると、竜はそのまま高い位置にあった頭をぱたんと地面に置いた。瞳は変わらずおれを見たまま、けれどそこからそれ以上動こうとはしない。
 おれと竜との間にはまだ距離があって、その首が伸びてこっちに少し近づいてきてもそれでもまだ確実に間がある。
 竜というのがどれくらいの速さで動くのかは知らないけど、逃げ出すなら、今しかない。これ以上間を詰められれば背中を向ける間もなくその牙に、爪に、捕まってしまう。
 じり、と足を引きずりながら一歩後ろへ下がる。竜は動かない。その目が、逸らされることも。
 もう一歩下がろうとしたところで、おれは動きを止めた。
 ゆっくりと、一歩を踏み出す。一歩、また一歩。竜へ、近づく。
 その度に心臓が高鳴り、無意識のうちに指先が震える。喉がひくつき、おれは何度も息を飲みこんだ。
 足を止め、手を伸ばす。つるりとした、暗い色をする竜の鱗の触れた。思っていたよりも温かくて、感触は違えどその熱は人肌のものに似ていて。
 もう片手を伸ばし、両手で竜の鼻先を撫でる。ふん、と鼻息でおれの風が微かにそよいだ。

「っ、はは。おまえ、あったかいなあ」

 いつの間にか詰めていた息を吐き出して、おれは強張っていた顔を崩した。
 もう少し手を伸ばして、さらに奥の場所を掻くように撫でる。心地いいのか、竜は目を細めてから、しばらくしてゆっくりと瞼を閉じる。尾がずず、と地面を重い音を立てながら動いた。

「気持ちいいか?」

 返事はないが、代わりにまた尾が揺れる。わかりやすい反応だ、とおれの頬はさらに緩んだ。
 不思議と、この竜の身体に触れたら。怖いだとか、襲ってこないかとか、そんな心配は消えた。どうしてか。それはうまく説明できないけど、でもたぶん、竜の身体があったかかったからだと思う。だから、不安はなくなったんだ。
 薄らと開いた竜の瞼から覗く金の目に、おれは微笑みかける。竜は顔を持ち上げることなく、けれどそのまま伸ばしてきてぐいぐいと目の前にあるおれの身体を押す。
 もっと撫でろ。そう言われている気がして、おれはさらに大きく手を動かして竜の鼻先を掻いた。
 指先には常に竜の熱に触れていて、あれほど出会った瞬間にはびくびくしていたのに、今はむしろ安堵するような、気持ちが落ち着く感じがする。その熱が、ぬくもりが。あいつの手と同じだからかな。
 おれは手を動かすのを止めて、ゆっくりと竜の鼻先に身体を倒す。おれの身体ほどもある大きな顔に手を回し頬を付けても、竜はされるがまま大人しくいてくれる。

「ここにいていいやつか、なんて聞いてごめんな」

 そう言うと、竜は応えてくれたかのように、ふんと鼻を鳴らした。

「なあ、おまえはいつもここにいるのか?」

 今度は何の反応もなく、押し付けた頬をそのままに竜の顔を見上げれば、閉じていたはずの金の瞳がおれを見つめていた。

「――明日は、いるか?」

 しばらくの間を置き、竜はまた鼻息で答える。竜の鼻先から身体を起こして、金の瞳を見つめ返した。

「なら、また来る。今日はもう戻んなくちゃいけないから、明日また。会ってくれな?」

 身体を離して竜との間に僅かな距離を開けると、竜は重たげな大きな頭をゆっくりと持ち上げる。その動きに合わせて、おれも顔を上げた。
 竜の背後はまだ雲がかかって、月は見えない。けれど、丸い金の瞳が満月のようにぽっかりと闇を弾いている。
 おれはそれを最後に目に収め、竜に背を向けた。
 それから戻った部屋の前には、出て行った時と変わらぬ姿でユユさんが立っていた。おれに気づくと、にこりと笑ってくれる。

「おかえりなさいませ、真司さま。遅かったようですが、何か問題でもございましたか?」
「あ、ちょっと寝ぼけて道間違えたみたいで……」

 無事戻れてよかった、と言えば、ユユさんはお気を付けくださいね、と返してくれる。

「あの、そういえば岳里は戻ってきました?」
「岳里さまはまだお戻りになりません。時期にお戻りになられるでしょうから、真司さまはお休みください」

 もう何度か、岳里を見送ったことがあるのであろうユユさんはそのまま部屋に入るよう促す。それに従い自分のベッドに戻りながら、隣の岳里のベッドへ目を向ける。出た時と変わらない状態で、そこには誰もいない。
 耐え切れず小さな溜息をひとつついて、おれは自分のベッドにもぐりこんで目を瞑る。
 ――竜に会ったことを言えば、何か話してくれるだろうか。
 竜と出会ったおれの中に不思議と興奮はそうなくて、元いた世界じゃ決して会うことのなかったその姿よりも、瞼の裏に映るのは常に傍にいるやつだけだった。

 

 

 

 朝になって、岳里はおれの隣のベッドにちゃっかり寝ていた。いつ帰ってきたのかわからないけど、おれが再び寝付いた後に帰ってきたということだけはわかる。
 相変わらず声はかけられなくて、おれから少し話しかけてもやっぱり動作の反応のみ。何度か、昨日会った竜について言おうと思ったけど、もしそれでも変わらなかったら。そう考えると、自然とおれの口は閉じたままになる。
 朝飯を食い終わってから、部屋を出ていくまで。また岳里と一言も交わすことはなかった。
 今日は一日は本を読むことにしていたけど、ベッドに転がったまま手にしたそれは一向に捲れない。
 読もうとしてもすぐ考えがどっかにいってしまって、文字を追っても頭には入ってこなかった。結局一時間もしないうちに読書は諦め、見開いたままの本を顔に置き、目元を覆う。
 せっかくライミィが、おれに読みやすい本を見つけてくれたと言うのに。どうしても今は、何をやる気にもなれなかった。けれど、頭には二つの考えがぐるぐる交互に巡る。
 ひとつは、岳里のこと。なんで突然喋ってくれなくなったのか。反応はある。だからきっと、おれが何かして、それに対して怒ってるってわけではなさそうだ。かといって具合が悪そうでもないし、今朝もまたきっちり出された分を平らげて部屋を出て行った。
 何度考えても、その答えは出ない。けれどおれが考えるだけじゃ解決しないとわかってても思わずにはいられなかった。
 ごろんと寝返りを打てば、顔から本が落ちる。ひとりでぱたんと閉じてしまったそれに手を置きながら、もうひとつのことを考える。
 昨日会った竜のことだ。まだ誰にも、竜に会ったことを話していない。騒ぎになってないところを見ると、考えられるのは、この世界で竜はよく見かける生き物であること。もしくは、ただ単に今あの場所に居なくて騒がれていないだけ、か。
 魔物がいるくらいだし、竜がいてもおかしくないのかも。でも、もしかしたら竜って魔物に区分されるかもしれない。
 本当は竜のことを誰かに言ったほうがいいのかもしれない。いや、言わなきゃいけないと思う。でも言えなかった。
 どうして言えないのか、それはおれ自身もよくわからない。でもあの竜の存在を教えたら、あの竜の周りが騒がしくなる気がして。そうなるのが、嫌な気がして。

「……わっかんねえ」

 もう、何もかもがよくわからなくなってきた。
 岳里のこと、竜のこと。おれのことも、なんだかわからない。
 目の前にある本に置かれた自分の手を見つめる。その指先に熱を集めるのを想像する。
 少しずつ、蓄える。するとおれの手はゆっくりと光り出した。
 これが、治癒術。まだ誰の傷を癒したわけでもないけど、セイミアがそうだと言ったからこれは治癒術だ。
 一度瞬くと、光はすぐに消えた。
 ――もとの世界には決してなかった力を、おれは今手にしてる。それは、おれがこの世界に来た意味と何かつながってるんだろうか。
 目を閉じ、もう一度寝返りを打って本に背を向ける。
 おれがこの世界に来た理由って、あるんだろうか。

 

 

 

 夕方帰ってきた岳里には変わらず声はなく。また、昨日とそう変わらない空気のまま夜が訪れた。
 岳里は今夜もそっとベッドを抜け出し、部屋の外へ出て行く。それからしばらく間を置いておれも部屋を出た。
 今日の扉の番はユユさんではなく、まだ見たことのない人だった。その兵士がちょうど壁に寄りかかってうつらうつらとしていたから、こっそりと忍び足でその場を後にする。
 自然と足を速めて、目的の場所へと向かった。
 昨日も訪れた中庭へ顔を出せば、気づけばあった胸の小さな不安が消える。

「――よかった、来てくれたんだな」

 おれがそう声をかけると、地面に丸まり寝そべっていた竜が静かに顔を上げた。
 巨体に歩み寄ると、大きな頭がおれにすり寄ってくる。それに応え、おれも自分から手を伸ばした。
 何度か撫でた後、おれが手を下すと竜は僅かに顔を上げる。その脇を通って、横たわる竜の身体に身を寄せ、地面に直接座り込んだ。
 じわりと布越しに竜の体温が伝わってくる。その温もりに、目を閉じた。

「……岳里はなんで、しゃべってくれないんだろうな」

 気づけば、そんなことを口にしていた。

「いくら話しかけてもさ、首は動いても口は開かないんだよ。おれ、やっぱり何かしたのかな」

 こてんと竜に頭まで預ける。目を開ければ、今日は星が見えていた。月も、雲に隠されることなく浮かんでいる。視界の中に竜が顔を出す。丸い金の目が、おれをじいっと上から覗き込んだ。

「はは……愛想、つかされたとか? おれ結構、面倒事に巻き込んでるもんな、岳里のこと。甘えすぎてたのかな」

 当然、竜が答えてくれるわけない。
 それでもおれは言葉を続ける。

「どうしたらまた話してくれるようになるんだろう。何が原因なだろ。全然わかんないんだよなぁ」

 愚痴にも似た弱音に、自分自身に嫌気がさす。
 おれには知らないことがあまりにも多すぎる。岳里のこともそうだし、この世界のこともそうだし、何より、自分のことさえも。あまりにも、無知だ。だからこそ岳里に頼りすぎてる。尋ねれば大抵のことを岳里は返してくれた。本で読んだ、人に聞いたと言って、この世界のことも。
 いつもどっかりとふてぶてしく思えるくらいに堂々とそこにいる岳里が、そう揺らがない岳里が、おれの気持ちを知ってくれるそんな岳里の隣がひどく心地よくて。でもそれは一方的におれが岳里に頼っていただけなんだ。
 おれは岳里と一緒にこの世界へ来てしまったことに安堵した。岳里でよかったと、そう思える。でも岳里は頼るばかり、甘えるばかりのやつでよかったって思えるわけないだろう。
 見上げた竜の顔から目を逸らし、背中を丸めて膝を抱える。そこへ自分の額を押し付けて、小さくなった。
 そう、思わなかったわけじゃない。むしろ何か岳里に返さなくちゃと、日頃よく考えていた。でも何も思い浮かばなくて、そうしてる間にも岳里は岳里の速さでさらに届かない先へ進んでしまって。もう、その背中は遠くへ行ってしまって見えない。
 おれなりに一歩一歩確かに行こうと思っても焦りは自然と生まれて、さらに空回りさせて。

「……置いてかれる、岳里に」

 ぼそりと呟いたこの声が、竜に届いたかはわからない。ただ、背中を預ける大きな体が僅かに動いた。
 置いていかれてしまう。時折振り向いてくれていたはずの岳里は、いずれおれに見向きもしなくなるだろう。それが今、訪れようとしているのかもしれない。
 ぎゅっと胸が締め付けられるような痛みを感じて、小さくしていた身体をさらに丸める。
 ――悲しいのは、痛い。
 いつか言った岳里の言葉をふと思い出す。あいつにしてはどこか幼げのあるその言葉に、おれは納得した。
 この、息苦しさを覚えるほどの胸の痛みに。

「確かに悲しいのは、痛いなぁ」

 今もどこかでひとりで鍛錬に励んでいるんであろう岳里。
 今ここで、弱音を吐いているおれ。
 置いていかれるのは当然で、追いつけないのも当然だ。
 胸が痛かった。その事実が、どうしようもない真実が、悲しいと思えた。
 背中から感じる竜の熱が、少し前におれを抱きしめ眠ってしまった岳里のものと重なる。おれを助けてくれたあの手を、思い出す。
 不安な時には、辛い時には必ず傍にいてくれた、岳里がここにいるようで。背中合わせでおれの後ろにいるようで。

「――っ」

 噛みしめているはずなのに、わななく唇の隙間から殺しきれない嗚咽が零れる。じわりと、涙が膝を濡らしていく。
 もうどうすることもできず、おれは身体を丸くしたまま肩を震わした。
 背後の竜が大きく身体を動かし、ばさっと何かを広げるような音が聞こえたけど、おれは顔を上げることができない。
 なあ、岳里。どうしたらおれを待っててくれる?
 どうしたらおまえに追いつける?
 どうしたらおまえの役に立てる?
 どうしたらおまえは、おれにまた声を聞かせてくれる?
 おれじゃわかんない。全然わかんないんだ。お前が今どこにいるのかさえ。
 唇を噛みしめていると、不意におれの腕にこすり付けられるものがあった。鼻を啜りながらそろりと顔を上げると、そこに見えたのは竜の鼻先。
 おれが顔を上げたのに気が付くと、今度は顔に鼻をすり寄せる。つるりとした鱗が頬を撫でる。

「――あんがと、な。おまえがいてくれて、よかった」

 丸めていた背を伸ばして、膝を抱えていた腕を解いて、竜の顔に抱きついた。鼻先に身体を押し付けてるもんだから、きっと呼吸が苦しいはずだ。けれど竜は好きにさせてくれる。
 ふと気づくと、いつの間にか雨が降っていた。しとしとと、涙のような雨が。けれどおれの身体は濡れていない。
 空を見上げると、そこには竜の翼が広がっていて、本当だったらおれを濡らす雨を防いでくれていた。今も、自分の翼の下にいるおれに顔を伸ばしてくれている。
 さらに強く竜を抱きしめ、それから身体を離した。
 まだ涙は頬から流れたが、それを腕で拭って水気を取り払う。

「もう大丈夫。だから、おまえは帰れよ。雨、冷たいだろ。風邪ひくから。おれももう、部屋に戻るから」

 竜は自分の翼の下から顔を上げ、雨を浴びながらおれを見下げた。
 その目を見つめながら、隣の身体を撫でる。

「また明日もくるから、できればおまえにも来てほしい。――今日は本当に、あんがと。少し泣いたらすっきりした」

 それだけを一方的に告げ、おれは竜の翼の下から城の渡り廊下へ走った。一度振り返ると、竜がおれを見つめている。その顔ににっと半ば無理に作った笑顔を浮かべて、そのまま中庭から走り去った。
 しばらく歩くと次第に気持ちも落ち着き、ぐずっていた涙もようやく収まる。それでもまだ少し鼻を水っぽく鳴らしていると、不意に目の前に人影が見えた。
 思わず緊張し足を止めると、前を歩いていた人物が振り返る。見覚えのあるその姿に、おれは硬くなった身体をそっと緩ませた。

「アロゥ、さん」
「おお、真司か。どうした、こんな夜更けに」

 アロゥさんはいつもの穏やかな笑みを浮かべて、歩み寄ってきた。おれも自分から距離を詰めて、改めて二人で歩き出す。アロゥさんも部屋に戻ろうとしていたところらしい。
 なんとなく目が覚めて散歩をしていた、と言えば、アロゥさんはいつもの調子で頷く。

「そうか、実はわたしも同じでな。夜風に当たりたくなってこうして出歩いておったのだ」

 皆寝静まり静かで、考え事もはかどるんだと前を見ながら微笑むアロゥさんの横顔を、おれは盗み見る。
 ――たぶん、アロゥさんはおれが泣いてたことに気づいていると思う。夜で暗いって言っても光玉の明かりが足元が狂わない程度に照らしているから、お互いの顔もよく認識できる。
 でもアロゥさんはそのことには触れなかった。おれがそうしてほしいと望んでいると気づいてくれて、あえて口を閉ざしてくれた優しさに、申し訳ない反面安堵する。
 その気遣いを無駄にしないためにも、おれも平常を装ってアロゥさんと世間話で場を保った。

「そこでフロゥのやつがジィグンに蜥蜴を差し出してな。しかし、蜥蜴の尾だけで持っていたのが悪かったのが尾が千切れ、地に落ちたやつがそのままジィグンの足元から服に入り込んで――」

 蜥蜴、という言葉に思わずさっき別れたばかりの竜を思い出し、おれは思わず浮かべていた笑顔を消してしまう。
 さすがにそれを見逃すことはできなかったのか、アロゥさんが足を止めた。

「どうかしたのか、真司」

 穏やかなアロゥさんの目に、戸惑いながらも口を開く。

「その、アロゥさん。この世界に竜って、存在しますか……?」
「ふむ、竜か」

 竜がいた、ではなくその存在の有無をまず尋ねる。その反応次第ではあの竜が追われるはめになるかもしれないから、おれは慎重にアロゥさんを窺う。
 アロゥさんは再び歩き出し、おれはその後を追った。

「竜はおる。真司たちの世界の竜の認識と同じかはわからぬが」

 その言葉におれは、自分なりの言葉でおれたちの世界の竜について説明した。
 伝説上の生き物であること、物語なんかに登場する現実ではいない存在。その姿の特徴は、この世界で出会った竜を思い出しながら言葉にする。
 どうにかおれの説明でも竜について伝わったらしく、アロゥさんは頷いた。

「この世界の竜とほぼ一致しているようだな」
「実際に、いますか?」
「うむ。滅多に人前に姿を現すことはないが、竜は確かに存在する。この世界で竜は神の使いと言われていて、神聖なる生き物だ。とてつもない長寿でな、とても賢く、人間を超す英知の持ち主だ」

 アロゥの口ぶりからして、とても竜が危険な生き物だというようなことは感じられない。むしろ、好意的なものを感じられた。
 けれどそれだけじゃまだ安心でいない。

「竜に危険はないですか?」
「そうだな――竜は比較的、争いを嫌う穏やかな者が多い。彼らを侮辱するような言動を取らぬ限り大抵のことは寛容であるな。好まぬ者がいたとしても、その場合は竜自らがその場から去ることもある。ただ――」

 途中気になるところで言葉を区切ったアロゥさんに思わず、ただ? と聞き返したくなる。それをぐっとこらえて、続きを待つ。
 するとアロゥさんはくすりと笑った。

「ただ、番となった者を守るためならば見境がなくなるところがある。竜は長い生涯でたったひとりの伴侶を見つけ、その生を終えるまでその相手を愛し続ける一途な者たちだ。そんな愛しい番を守るためならば、本来は目を背ける争いすら厭わぬほどに。番を傷つけたり、彼らを蔑視せぬ限りはむしろ人間には友好的だろう」

 どこかいたずらげに微笑むアロゥさんに、おれはつい肩に入れていた力を抜いた。その様子を見るアロゥさんは満足げで、まるでおれがこう反応するのを知っていたかのようだ。

「さて、部屋に着いてしまったな。もっと話したかったが、また今度にしよう。早く寝るんだよ」
「ありがとうございました、アロゥさん。おやすみなさい」
「おやすみ、真司。よい夢を」

 いつの間にか目の前には同じ形をした扉が並んでいた。話に聞き入っているうちに、どうやら着いてしまったようだ。
 おれたちの部屋の扉の監視をしているはずの兵士の人が出て行った時のまま、変わらずに居眠りしている。唯一変わったところがあるとすれば、出ていく時は壁に寄りかかって立っていたのに、今では完全に座り込んでいた。
 けれどアロゥさんはその人をそのままに、別れの挨拶の後に最後にもう一度笑みを見せて自分の部屋に戻っていく。その姿を見送ってから、おれもなるべく音をたてないように静かに自分の部屋へ戻った。
 

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