部屋に戻ると、どうやら起きていたらしいジィグンが窓の傍らに立ち空を見上げていた。窓硝子には先程降った僅かな雨が小さな粒としてついてる。
 アロゥが寝台へ腰かけると、ジィグンは振り返った。

「どうしたんだよ、浮かない顔して」

 長年連れ添った相棒である彼には、すぐに些細な変化に気づかれてしまう。敵わないな、と小さく笑みながら、アロゥはジィグンにひとつ願い事を口にした。

「頼む、ジィグンよ。明日は決して岳里から目を離さないでくれ」
「岳里から? ……ああ、そうか」
「うむ。もう耐えられぬのであろう。いつ“発作”が起きるかわからぬ。もしその時が訪れれば、もし彼が拒もうが助けてやってくれ」

 事情を知るジィグンはそれ以上の言葉は求めず、力強く頷いた。
 アロゥは返事を見届け、ゆっくりと瞼を閉じる。何も見えないはずの瞳に浮かぶのは、異世界から訪れたふたりの少年のことだ。
 間もなく、変化が望まずして訪れる。真実が暴かれた時、どちらに針は傾くだろうか。

「アロゥ」

 名を呼ばれ、アロゥはゆっくりと目を開ける。目の前には自分の半身ともいえる友の姿があった。
 常に変わらぬ姿を持つ、獣人であるジィグン。主従の関係を結んだが、二人の間にある絆はとてつもなく頑丈なもの。

「ジィグンよ。真実とは常に、酷なものであるな」
「そんなの当たり前だ。誰しも秘密があって、嘘を重ねてまで隠してることもある。それが楽しいもんなわけねえよ」

 そうだな、とアロゥは呟くと、ジィグンは部屋の出入り口へ向かった。

「明日の仕事の調整とかしてくるから、アロゥは寝てろよ。年なんだから無理して夜更かしすんなよ」

 じゃあなと言ってジィグンは止まることなく部屋から出ていく。その優しさに甘え、アロゥは寝台に横になった。
 真実は、酷だ。果たして彼らは――彼は、耐え得るのだろうか。

 

 

 

 今朝もまた声のない岳里に、おれの口も閉じたままになる。
 けれど、岳里が部屋を出て行こうと扉に手をかけたところで、意を決しこれまで腰かけていたベッドの淵から立ち上がった。
 そのまま岳里のもとへ歩み寄る。すぐにおれの行動に気づいた岳里がこっちを見ていた。
 岳里の隣で立ち止る。顔を見て言おうと思ったけど、そこまでの勇気はない。だからあえて岳里から目を逸らして、下を向いたままぼそりと呟くように声を絞り出した。

「――あんま無理せず、頑張れよ」

 岳里が話さなくなって、それにおれが耐えられなくなった日から、かけなくなっていた言葉。けれど、その前ではずっと見送る際に伝えていた言葉。
 夜中にもひとりで鍛錬に励むぐらいの岳里に頑張るな、だなんて決して言えない。無理するな、と言っても聞きやしないだろう。でもどうしてもおれの気持ちを伝えておきたかったから、だからいつも矛盾するその言葉を岳里へ送っていた。
 言わなかったのはほんの数日なのに、すごく久しぶりに言う気がして。そのせいかわからないけど、おれは岳里を目の前にしてとても緊張していた。ぎゅっと握った拳を解くことができないし、鼓動が早い。
 きっと、言葉が返ってくることはないだろうし、反応があったとしてもまた頷くだけだろう。でも、それでも構わないから応えてほしい。
 そろりと顔を上げれば、そこにはいつもとなんら変わらない岳里の顔があった。まるで、おれだけがどこかぎこちなくなっているような、これまでずっと傍にいた表情で。岳里は、おれを見ていた。
 おれは何も変わってないと、そう、言葉がないだけで言われているような気がした。
 不意におれの顔に伸ばされる岳里の手。けれどおれは驚くことなく、その手が頬に触れても岳里を見上げたままだった。
 手の平でそこを撫でられて、そのまま後ろに滑って耳の裏を軽くくすぐってくる。思わずその感触に少し声を上げて笑えば、そのまま首の後ろに手は回った。
 そして、首裏に当てられた岳里の手が急におれを引き寄せ、おれはその力にされるがままに目の前の岳里の身体に倒れこんでしまう。

「っ、ごめ……!」

 自分は何にも悪くないのに、咄嗟に出た言葉。慌てて岳里の顔を見れば、小さく笑っていた。
 すぐに岳里の手は離れたけど、それに気づけず、おれは思わずじっと岳里の顔を見つめてしまう。
 滅多に見れることのない岳里の笑みに、見入らずにはいられなかった。
 岳里の方から離れていく身体。最後におれの頭をぽんぽんと二度撫で、さっさと部屋を出て行ってしまう。
 しばらくそこから動けないまま、岳里が音もなく閉めていった扉を見つめた。
 ――なん、だろう。不思議と胸にあった不安が、少しだけ軽くなった気がする。
 岳里が笑ってくれたから。だから、そう思えるんだろうか。
 しばらくしてようやく、今日はライミィのもとへ行くと約束していたのを思い出した。以前は午後からでなければ会えなかったけど、大分ライミィも回復したようで、もう午前から部屋に来ていいと言われてたんだ。
 いつまでもぼうっとしてはいられないと思いながらも、無意識のうちに少し浮ついた気分で準備をする。
 それからライミィの部屋で久しぶりにこの世界の語学を学んでいたおれのもとに、岳里が倒れたと連絡が来たのは、あいつと別れてから大分時間が経っての頃だった。

 

 

 

 岳里が倒れたと連絡をしに部屋に飛び込んできたコガネさんに連れられ向かったのは、何故か医務室でなく中庭で。けれどそんなこと気にする余裕すらおれにはなく、ただ目の前で走るコガネさんの背を必死に追いかけた。
 ただ岳里のことだけを考え、思い、歯を食いしばる。
 岳里、岳里――っ。
 ただでさえ動揺しろくに自分の体力も考えずに走り続けたおれはすぐに息が上がり、苦しくなる。それでも足を止めずに進み続け、ようやく中庭にたどり着いた。
 そこには岳里が地に膝をつきうずくまっていて、ジィグンとヤマト、そしてヴィルに三人に身体を押さえつけられていた。
 どうやら岳里は暴れているようで、声を上げながら三人を振りほどこうともがいている。岳里の力は凄まじいようで、化け物並みの腕力だと言われるヴィルを加えた大の男三人でも完全にその動きを制することはできないらしい。何度も岳里に弾かれそうになりながらも、全力で押さえにかかっていた。

「ぐぁああっ、あああ!」

 決して手を離すなよ、と声を掛け合う三人の声に決して溶け込むことなく耳に届くのは、初めて聞く岳里の、苦痛の声。久々に聞いた岳里の声は苦しみを叫んでいる。

「っ岳里!」

 息も整わないまま岳里へ駆け寄ろうとした。けれど、おれの声に反応し上げられたその顔を見て、思わず足を止めてしまう。
 おれを見つめたのは、金の瞳。岳里の焦げ茶の目は金色に輝いていた。そして、右の頬には紺色の鱗が生えていた。

「あ……」

 無意識のうちに一歩後ずさる。その瞬間、岳里がまた顔を下げて唸り声を上げる。すると一瞬にして、岳里の黒髪が頬の鱗と同じ色に変わった。

「くっ――はぁっ、は」
「がく、り……」

 もう一歩下がると何かにぶつかる。振り返れば、コガネが後ろにいた。岳里と同じ金色の瞳が、どこか辛そうに歪んでいる。

「真司。あれは岳里だ」

 絞り出すようなその声はとてもおれに嘘を言っているようには到底見えない。
 おれはもう一度、未だ苦しみもがいている岳里へ目を向ける。ヴィルが岳里の顔を地面に押し付けていた。けれどその青く地に散る髪は見間違いようがない。

「でも、目が……う、ろこも……」
「あれは保てなくなっているんだ。“発作”が起きたから、理性である人の姿が、本能に飲まれかけている」
「保て、なく……? ひ、人の姿って、本能って、一体」

 コガネの言葉にますます混乱するおれは、岳里とコガネを交互に見る。
 困惑するおれの背を、コガネがゆっくりと押し出した。それに促されるまま一歩一歩、岳里に歩み寄る。

「が、くり……岳里」

 途中でおれはコガネに頼らず自分の足で岳里の傍へ寄る。
 呼吸すらままならないようなその姿に、気づけば駆け出し、岳里の傍らに膝をつけた。

「岳里、どうしたんだよ、何があったんだよっ」

 息を大きく乱す岳里におれの声が届いているのかわからない。けれど何か言わずにはいられなかった。
 もう一度名前を呼ぼうとした瞬間、ヴィルに押さえつけられていた岳里の顔が、その手から逃れ後ろにのしかかっていた三人を吹き飛ばす。身軽になったその身体を起こすと、ぐっとおれに迫った。
 咄嗟のことに動けないおれの目の前に、岳里の顔が寄せられる。間近で見る金の瞳に、紺の鱗に、目が奪われる。それは確かに見たことがあるもの。
 鼻先が触れ合うほど近くまでお互いの顔が迫ったところで、ぐっと岳里が動きを止めた。そして辛そうに顔を歪めたまま、おれの肩を突き飛す。
 余裕がないはずの今でも岳里は十分力を加減してくれたようで、おれは僅かに身体が後ろに引きずられ倒れただけで済んだ。すぐにコガネが駆け寄ってきて助け起こしてくれる。

「真司、大丈夫か?」
「あ、ああ……おれは、大丈夫」

 岳里の方を見れば、またヴィルたちに身体を押さえつけられ、頬を地面に押し付けられていた。
 汗を頬に垂らしながら、ヤマトが口を開く。

「この反応、やはり主は真司で間違いないみたいだ」
「ジィグン、アロゥはまだ来ぬか」
「もうすぐ傍まで来ているようですが、岳里が人体を保つのはもう限界です。一度、姿を変えさせましょう」

 続いたヴィルの言葉に、ジィグンはそう返す。おれが思わず三人の視線を向けると、それに気づいたらしいヴィルと目が合った。けれど、すぐに逸らされる。

「これ以上長引かせてもただ苦しむだけ――岳里、聞こえているな。もう真司に隠し通すことはできぬ。不本意な傷を作りたくなければ、その本能に抗うな」

 ヴィルがまず、岳里の頭を押さえていた手を離す。次にジィグンが離れ、ヤマトがそれに続き距離を置く。最後にヴィルが岳里の背中から手を離して、もう誰も岳里に触れていない。
 枷のなくなった岳里は両手で顔を覆い、苦しげな叫び声を上げる。紺色に変わった髪が急に伸び岳里の背中を、足を覆った。
 何が起こるのか、それがわからずおれはただその姿を見るめるしかできない。――いや、本当はわかっているのかもしれない。
 無意識に手を振るわせていると、不意に肩に手が置かれる。振り返ればコガネが、岳里を見つめたままおれに触れていた。

「――真司、よく見ておけ。あれが岳里だ。岳里の、真実だ」

 岳里の、真実。本当の、岳里。
 コガネに向けていた視線を前に戻すと、岳里の姿はさらに変わっていた。
 背中から大きな翼が生えていたんだ。岳里の身体の大きさと見合わない、大きすぎるそれは蝙蝠の羽のようで、確かな見覚えがある。でもその事実を認めたくはなかった。
 翼は前に動くと、岳里の身体を覆う。
 岳里の声は止まった。この場にいる誰しもが沈黙しているからか、さっきまであれほど騒がしく聞こえていたのに今では誰もいないように静まり返る。
 不意に、岳里を覆う翼が動き、ゆっくりとそれが持ち上げられていく。地面についていた翼はそこから離れて、地と翼の隙間から覗いたものにおれは息を飲んだ。
 徐々に姿を現したのは岳里の足ではなく、紺色の鱗に覆われた太く大きな足。それに見合った鋭い爪がある。
 もう、見てはいられなかった。
 コガネに言われた言葉も忘れ、おれはうつむき目を逸らす。
 岳里の真実。本当の姿。信じたくない。信じられない。じゃあ、おれと一緒にこの世界に来て、これまで一緒にいてくれた岳里はなんなんだよ。

「真司」

 コガネに名前を呼ばれる。けれど、おれはその声に応えられない。ただ俯いた視線の先にある自分の震える拳を見つめることしかできない。
 だって、すべてを見てしまえば認めるしかない。おれの信じていた岳里が、その姿が――

「真司よ、真実を恐れてはならん」

 背後からコガネ以外の声がおれに言う。きっと、このことを知っていたんであろう、アロゥさんの声。
 ゆっくり、息を吐きながら、顔を上げる。目に映る紺色の鱗に覆われた巨体に、おれをまっすぐに見つめる金の瞳。
 そこにはやっぱり、夜に出会ったあの竜がいた。

 

 


※少し前に戻ります。

 岳人が部屋を出てしばらく歩いたのを確認し、その後をジィグンは物陰に隠れながら追っていった。
 気配に敏い彼を警戒し、ジィグンの身にはアロゥから目晦ましの魔術がかけられている。それに加え現在ジィグンは姿を人体でなく、もうひとつの姿である鼠へと形を変えていた。ネルの尾行すら気づく岳人といえども、今のジィグンを見つけることは余程周りに注意しない限りできはしない。ましてや、今彼はそこまで周りを警戒する気力はないだろう。
 ――己の姿を、今の人の姿を保つのに精一杯なはず。
 念には念をかけ、ジィグンは呼吸すら意識しながらそっと早足で進む岳人を追っていった。
 岳人は予定通り、まっすぐ十三番隊の鍛錬場へ向かう。その足取りに一切の迷いはなく、後姿はぴんと背筋が伸び堂々としたものである。なにより、なんの違和感も覚えさせない普段の岳人がそこにいた。
 アロゥは今日、岳人の“発作”が起きると予想していたが――ジィグンは小さな身体で大きな歩みの岳人を懸命に追いかけながら、自らの頭に渦巻く様々な疑問に頭を捻らせた。だが、考えに集中する暇などなく、すぐに内心で首を振って邪念を追い払う。
 しばらく進むと、岳人の前にふたりの人物が現れた。コガネとその獣人のヤマトだ。

「やあ岳里、おはよう」
「おはよう岳里。今からヴィルのところで訓練か?」

 それぞれ岳人に言葉をかけたが、当の岳人はそれに言葉を返さずただ頷いただけだった。
 数日前から岳人が一切口を開かなくなった、という噂はすでに城中に広がっており、それを知っていたのであろうコガネたちは特に咎めず、そうか、と言う。

「ならばおれたちも一緒に行こう。ちょうどヴィルに連絡があってな」
「おれはコガネさんの付き添い。今日は休みなんだ」

 そういうのは自分のために有効に使え、とコガネの言葉の途中で三人は歩きはじめた。
 先程までの岳人の大股は少し狭まり、歩みも遅くなる。追いかけやすい速度となり、ジィグンは僅かながら余裕を持つことができた。
 少し距離を置いた物陰からでも三人の会話もしっかりとジィグンの耳に届く。
 そこにはコガネとヤマトの岳人への気遣いが窺え、会話を岳人にはい、いいえ以外の答えが必要のないものを選択し繋げていた。故に岳人も声を必要とはせず、頷くか、首を振るかで問いかけに答える。
 岳人自身、それに感謝しているのか、いつもよりもコガネたちのほうへ視線を向け話を聞いている気がした。
 何事もなく歩き続け、コガネとヤマトを交えてからそう間もなく鍛錬場へ辿り着く。

「む、コガネにヤマトではないか。どうかしたか?」

 先にこの場に着いていたヴィルハートが岳人以外を見つけ、歩み寄ってくる。
 ヴィルハートは岳人にまず本日の訓練内容を口頭で告げ、先にやっているよう命じ、自分はコガネとヤマトとともに場を移し、そこから離れた。
 その距離はちょうど、岳人の優れた聴力をもってしても届かぬぎりぎりの範囲だった。
 ジィグンはすぐさま岳人の元へ向かえるよう、彼から視線を外すことなく、しかし身体は三人の元へ向け走った。
 真っ先に気が付いたのはヤマトだった。

「……ジィグン?」

 鼠の姿をしたジィグンに何かを悟ったらしい。すぐに一度名を呼んだ唇を閉めると、岳人に気づかれぬよう、ジィグンを地から掬い上げる。
 ヤマトの掌に乗ったジィグンを見たコガネは、潜めた声で言った。

「岳里のことだな。――そうか、アロゥの考えもおれたちと同じというわけか」

 ジィグンが頷くと、コガネは小さな溜息をひとつついた。
 その様子から察するに、ジィグンの予想通りコガネの言ったヴィルハートへの連絡とはやはり岳人のことらしい。

「まだ確定したわけでないから、とりあえずヴィルの耳に挟んでおこうと思ったんだが」
「おれからご説明させていただきます。つい先日――岳里が話さなくなった頃からです。彼の匂いが変わりました」
「“匂いが変わる”、“声を出せなくなる”――まさに、おぬしらの特徴だな、ヤマト、ジィグン」

 ヴィルハートの苦笑に、名を挙げられた二人は頷いた。
 詳細を話さずとも、ヴィルハートはすでに察していたのだろう――異世界より出でしはずの岳人が、“獣人”の可能性があるということを。そして岳人の、獣人特有の発作がいつ起こってもおかしくない事実を。
 彼らが、ヴィルハートたちがいつから感づいていたかは知らないが、ジィグンの主であるアロゥは初見で岳人が人間でない可能性に気がついた。というのも、それは岳人が魔力を有していなかったからだ。
 この世界の人間は誰しも、魔力か治癒力を体内に有している。しかしそれは“人間”に限った話で、人間以外の動物や魔物は持っていないものであった。そして半分が人間で半分は獣である獣人も魔力や治癒力がない。人間しか持っていない特殊な力なのである。
 偉大な魔術師として名を馳せるアロゥは、他者の魔力と治癒力の量を見える目を持っていた。アロゥを上回る魔力の持ち主は見えないが、世界一とまで謳われる彼を凌ぐ者はこれまででフロゥだけだった。だがそこに新たに真司が加わり、ジィグンも話を聞かされた時は驚いたものだ。
 アロゥにも見えない魔力はある。しかし、ある程度魔力を有しているかそれとも持っていないか程度は見えずとも感じることができた。だから岳人の中にあるものが見えなかったと時。アロゥは岳人が自分よりも上の魔力の持ち主、ではなく、はじめから魔力を持たない人間では非ず者、と気がついたのだ。
 だが、岳人を獣人と勘付いた者はアロゥだけでなかった。まず次に、獣人たちだ。
 基本獣人は獣の姿が混じるからか、人間よりはるかに五感が鋭い者が多い。それは人間の姿をとっていても発達しており、おもにその嗅ぎ取る“匂い”で岳人に違和感を覚えたのだ。
 獣人には獣の匂いが混ざる。どうしても消すことのできないものだ。故に獣人たちは相手が獣人だとすぐに匂いで悟ることができることもあった。それは人間には嗅ぎ取れない僅かなものである。
 岳人は初めから人間の匂いではなかった。だが、獣人のような獣の匂いが混ざっているわけでもなかったのだ。だから獣人たちは岳人に人間とは違う何かを感じていながらも、彼が獣人という確信は持てずにいた。
 それは獣人たちの中でも鼻が利くヤマトも同じだったらしい。人間ではないが、獣人とも違う――別の、嗅いだことのない匂いが混じっているんだと、ヤマトは掌に乗るジィグンに言った。
 だが、その匂いが数日前から急に変化が現れた。
 これまで岳人の匂いは、人間の匂いが強く不明な何かの匂いは時折消えてしまうほど弱いものであった。しかし数日前、ちょうど岳人が沈黙をはじめた頃からそれが逆転した。
 人間の匂いが弱まり、その何かの匂いが急速に強まったのだ。
 実はそれが、獣人特有の“発作”の現われの前兆であるひとつだった。そしてもうひとつが、人の言葉を話せなくなるということ。いや、それよりも声が発せなくなると言うのが正しいだろう。
 獣人は主によって生き長らえる。主の身体の一部を食べることで命を繋げる。しかしそれは毎日食するわけでなく、二十日に一度、髪だろうが爪だろうが飲み込めばいい。
 もし、それを忘れ二十日に違づいたその時。おおよそ二十日目の二日前、十八日目に獣人の身へ警告である“発作”が起きるのだ。
 だが発作には強靭な肉体を持つ獣人といえども大きな負担を強いるため、その発作の起きる十八日目の数日前から、先に獣人の身体に前兆が起きる。
 それが匂いの変化。それと、声の変化だ。
 そもそも発作とは、普段は人の姿をする獣人たちがそれを保てず、強制的な獣化をすることを示す。鼠の獣人であるジィグンであれば鼠の姿になり、大狼の獣人であるヤマトは狼の姿になるというわけだ。それは主の身体の一部を食わずにいて、体力の低下から起きる本能の暴走と言える。
 人間の姿を理性とするならば、獣の姿は本能と言えよう。普段は本能を理性で押さえつけているが、本能が強まり理性を保てなくなると、押さえつけられていたはずの本能が表に飛び出す。それが獣人特有の発作であり、強制的な獣化だである。
 発作による獣化は、発作が始まる数日前から体内から少しずつ始まり、そして声帯は早い段階で獣のものに変わってしまう。故に人間としての声が出せなくなり、喉から出るのは獣の鳴き声になってしまうのだ。
 だから、もし獣人の匂いが変わり、そして言葉を話せなくなったのならばそれは発作が近い証であり、早急に主の身体の一部を食らう必要がある。そうしなければ主の身にも危険が近づくからだ。
 発作が起きた時、獣人たちは自分の意思は関係なしに無意識に本能を抑えようと、獣化を拒否する。それが多大な苦痛をその身に強い、頭を割るような頭痛に苛まれるのだ。だがその無意識の拒否は一瞬のものであり、すぐに本能に身を委ね獣化すれば苦痛は一切なくなる。
 しかし、自分の意志で抗い続けた場合。その苦しみは続き、中には暴れ出し周りに危害を加える者さえ出てくる。何よりその苦痛が続けば意識がおぼろになり、制御できない本能がむき出しになってしまうこともあるのだ。
 そして何より危険なのが、主の身である。
 本能を制御できなくなった場合、その本能によって無意識に主の身体を求めてしまう。故に主に獣のごとく襲い掛かり、怪我を負わせてしまうこともあるのだ。中にはその獣人の発作による暴走が原因で命を落とした主もいた。
 本来契約に縛られ、獣人は主に意図して危害を加えることはできない。しかし発作が起きると、理性の箍が外れるからなのか、その規定が破られてしまう。それが獣人の発作の一番恐れられていることであった。
 人間と獣人では明らかに肉体に差がある。圧倒的に獣人が強く、人間は弱い。獣人がもし本気になり抑えもなしに人間に襲い掛かれば、相当鍛錬を積んだ人間でない限り大怪我を免れないどころか、死すらあり得ることもある。
 岳人と、そして真司がこの世界に訪れ今日で二十八日目になる。もし岳人がどこかで主に当たる人物の身体の一部を食らっていたのなら、これまで何事もなかったとしてもおかしくはない。だが発作の前兆が現れ、それから計算してみると今日発作が起こる可能性が極めて高いかった。それなのに岳人が主から何も摂取しようとしないのをみて、アロゥがジィグンを遣わしたのだ。
 そして今、ジィグンだけでなくコガネやヤマト、ヴィルハートなど、周りでは密かに岳人の暴走を危惧していた。
 岳人はこの世界に訪れてからというもの、人間離れした、獣人すらをも恐れを抱くような出来事をいくつも起こしたからか、たとえ匂いや魔力によって彼に疑いをかけることのできない人間ですら、薄々勘付き始めている。そしてその力は、獣人すら凌ぐ可能性に気がついている者も少なくはない。
 そんな岳人がもし発作による暴走を起こせば。被害はどれほどになるのか、これまで獣人の暴走を何度か目にしたことのあるジィグンでさえ予測がつかない。
 コガネ、ヤマト、ヴィルハートの三人はそれぞれ情報を交換し合い、時折ジィグンに確認を取って、改めて岳人の発作の危険を確認した。

「あくまで岳里が獣人であるということは予想でしかなかったが――アロゥがジィグンを遣わしたということは、より警戒しておいたほうがいいな」
「ええ、そうですね。……ヴィル、今日はおれたちも十三番隊の訓練に参加します」

 コガネに頷いたヤマト言葉に、ヴィルハートは息を吐いた。

「ああ、助かる。隊員どもはみな岳里の力量の鱗片を見てしまっておるから、きっと岳里が暴走すれば足が竦みろくに動けまい。だが、いくらわしとジィグンの二人がおると言っても岳里を止めるのには到底足りぬ。おぬしらがいてくれると心強い」
「訓練の手伝いとでも言えば、岳里も納得するだろう。おれは一旦リュハーラに仕事を任せに戻るが、ヤマトはここに残れ。すぐに戻ってくるから」

 リュハーラとはコガネが率いる二番隊副隊長の名である。ヤマトと違い勤務に当たっていたコガネはすぐにこの場に留まるということはできない。

「はい。なるべく岳里を疲れさせ、体力を削っておきましょう」
「反対にわしらは温存せねばならぬ。岳里の箍が外れた力など、想像もしとうないわ」

 それぞれ顔を見合わせ、頷き合った。

 

back main next