これからどうなるのか、どうすればいいのか。はっきり言って、自分のことだけどまったくわからない。これまでほんの少しの時間だったけど、この世界で見たもの、聞いたものは、この世界はおれたちの世界とは違うんだとただ教えるばかりで。どうやれば戻れるのかわからないし、いつ帰れるのかもわからない。ただ今は流れに身を任せるしかないんだ。
 これからする、おれたちについての話し合い。それは、おれたちの今後に大きく関わるものだ。おれは岳里みたいに頭がいいわけじゃないけど、それぐらいはわかる。
 ――今が、怖くないわけがない。これまでに会った人たちはみんな優しい人で、異世界から来たなんていう胡散臭いおれたちを邪険に扱いはしなかった。でも、そう簡単に受け入れられるはずがないんだ。だって、この世界に来てしまったおれですらまだ、夢であってほしいと思ってるんだから。
 おれはそっと冷えた指先を握る。強く、自分を隠すため。
 一度は上げた顔を再び僅かながら下げると、すぐ隣に立っていた岳里が若干おれに寄りかかってきた。とはいっても、気のせいかと思えるぐらい、ほんの少し。でも不思議と、岳里はわざと寄りかかってきたんだとおれは感じた。
 ――やっぱり凄いなあ、岳里は。
 おれも少しだけ、岳里に身を寄せる。弱さを隠すためじゃなく、負けないように、拳を握り直した。
 大丈夫、おれはひとりじゃない。
 覚悟を決めて、前を見据えた。

「率直に言おう。彼らはこの世界の人間ではなく、地球という世界の、日本という国より訪れた」

 もとからこの事実を知っているレドさんに、ネル。それと他にも数人、王さまの話しを聞いても顔色を変えなかったけど、目つきの悪いハヤテさんさえその言葉に驚き、唖然とした様子でおれたちを見た。

「――つまり、異世界の者と、おっしゃるのですか……?」

 いかにも信じ難いと言った様子で、ヤマトさんが口を開く。それに王さまは静かに頷く。

「信じられないのも無理はないだろう。わたしとて、まだ受け入れがたい。しかし、彼らの出で立ちは明らかにこの世界の者ではない。それに彼ら自身もこの世界を知らず、気付けばウルーの森にいたという」

 王さまの口からでたウルーの森、というのには聞き覚えがないけど、たぶんおれが最初に目覚めたあの森のことを指してるんだろう。
 隊長たちはそれぞれ深刻な表情でおれたちを見たり、俯いたり、様々な様子で口を閉ざす。いくら王さまの言葉といえど、やっぱり信じられないんだろう。

「――敵国からの送り者、としての可能性は? この世界を知らないふりなどいくらでもできますし、空想の世界を異世界とうそぶくことは証拠がない以上容易いことです。彼らが異世界より訪れたというのは、わたしは到底信じられません」

 不意に、アフィルが口を開いた。その表情は相変わらず険しく、瞳が宿す意思もかたい。
 確かに、おれたちがこことは違う場所から来たなんて保証はどこにもない。証明できるものもなにひとつない。
 それをどうやって、王さまは真実と確定させるんだろうか。

「もし間者であるなら、その悪意にすでにアロゥの張る結界に反応しているはずだ。アロゥ、どうだろうか。まだ報告は受けていなかったが、真司と岳里がこの国に踏み入れた際、結界は反応したか?」
「いいや、しませんでした。もしそのようなことがあれば、まず先に王に報告しましょうぞ」
「――アロゥの結界の精密さは、ここにいるものならばまず知っているだろう。彼らの身は、王であるこのわたしが保証する。それに彼らには、彼らの世界のことを話してもらった。空想にしては実にしっかりとしたものだったから、嘘ではないだろう。彼らが異界から訪れし者だということは、ほぼ、間違いない」

 王さまの話を聞く限り、国の敷地に悪意を持った人が入り込めばわかってしまうような、便利な結界というものがあるみたいで、どうやらそれで少なくともおれたちは敵じゃないとわかるみたいだ。アヴィルが反論せず引き下がったところをみると、確かなものなんだろう。
 これでひとつ、おれと岳里にとって有利な情報が挙げられたわけだ。異世界から来たことは王さまが信じてくれたし、なによりこの国によからぬことを企んでないと証明できたんだから、恐らく危ない目には遭わなくて済むと思う。
 でもきっと、それははじめから王さまはおれたちを酷い目に遭わせるつもりはなかったはずだ。だってもしそうなら、聞かれるとわかってたはずのことに対しての切り返しを用意しておくはずがないから。
 たぶん、王さまが隊長を集めたのには他の理由があるんだ。

「ここで、隊長の諸君らに意見を求めたい。異世界からこの世界に訪れてしまった彼らには本来の帰る場所もなければ、当然行く充てもない。そこでわたしは、この国で彼らを保護しようと思うのだ」

 微かに、空気が重くなる。そうなるくらいのことを王さまは言ってのけたんだ。
 だって見ず知らずの、得体の知れないおれたちをこの国で受け入れようって言ってる。異世界から来ました、なんていかにも怪しいことを言うおれたちを。面倒なことしか抱えていないおれたちのことを。
 それなのに王さまは、そんなおれたちを受け入れる気でいるんだ。
 まず真っ先に声を上げたのは、王さまの隣に座るネルだった。

「おれァ、賛成だあよ」

 いかにも当然、といったように、ネルはおれたちを見て不敵に笑う。そんなネルに次いで、ヴィルハートさん、レドさん、コガネさんも頷いてくれた。

「わしも賛成かのう。現段階で判断するには、あまりにも早かろう」
「ま、悪い奴には見えないしな」
「信用できる、というまでは言えないが、様子を見る価値はあるはずだ」

 ヤマトさんは主であるコガネに従うといい、ハヤトさんはどうでもいいと、いかにも興味がないといった様子で腕を組んだ。だが、それは決まれば拒否はしないってことだ。
 顔は怖いし、ジィグンにあんなことする人だけど、実はいい人なのかも。
 おれが勝手にじんっとハヤテさんに感動していると、突然、だんっ! と机を叩く音が部屋に響いた。突然のことにびくりと肩を震わし驚き、音のした方に顔を向ければ、眉を吊りあがらせたアヴィルがそこにいた。

「わたしは反対です。こんな得体の知れぬ者たちを国に招き入れるなんて! いくらアロゥさまの結界を抜けたとして、掻い潜る術がないわけでもありません。それだけで信頼するなど、あまりに無防備です!」

 異を唱えたアヴィルは、これまで賛成と言ってきた隊長たちに、そして王さまに、みんなを憤ったように一瞥する。

「それに今、隊長は全員揃ってはいません。この状態では、まだ決まりかねます!」

 それは最もな意見だった。確かにここにいる隊長たちはおれたちに好意的だけども、もしかしたら、アヴィル以外でもこの場にいない隊長が異を唱えることだってある。決して全員が賛成してくれたわけではないんだ。
 不安定な感情をぐらぐらとさせ不安になるが、おれがどう思おうが話は続く。

「意見はそこまで、かあよ?」

 興奮したように肩をいきり立たせ鼻息を荒げるアヴィルに、そう冷たく言い放ったのはネルだった。
 今までの不思議な口調は変わりはしなかったものの、明らかにかたく鋭利になる声音に、声をかけられた当のアヴィルだけでなく、つられておれもびくりと肩を揺らす。
 これまで聞いてきたのが楽しそうな声ばっかりだったから、今の不意打ちの恐ろしげな声に驚かずにはいられない。
ぴしゃりと、冷水を頭からかぶせられた気分だ。

「アヴィル、てめえはどこまで王を馬鹿にする気なんだあよう」
「そんなつもりはっ」
「自分の言葉、思い返してみなあよ? 王を浅はかと言うてめえは何さまなんでえ? ――とっくに、欠席する隊長たちから意見は聞いてんだあよ。全員様子見、つまり一時的に城に置くことを許可したあよ」

 その言葉に、アヴィルは顔を大きく歪める。悔しい、という感情だけでなく、他にも複雑に絡んだ気持ちが見えた。
 俯き唇を噛みしめると、申し訳ありませんでした、と呟くような小さな声で謝ると再び椅子に座り直す。
 もう、会議に参加できなかった隊長たちとは話しをつけてたのか。
 密かに胸を撫で下ろす半面で、どうしても俯いたままのアヴィルが気になって仕方なかった。
 気を落とすアヴィルに、王様が声をかける。

「アヴィルが言ったことは間違いではない。確かに、危険ではないという確実な証明はないのだから。それよりも先に、他の隊長たちのことを告げなかったわたしが悪い。すまなかったな、アヴィル」

 小さく頭を下げた王様を見たアヴィルは、慌てて首を振った。
 戸惑った表情を浮かべながら、躊躇いがちに口を開く。

「い、いえ、決して王が悪いわけではありません。わたしが話を待たずして熱くなったのがいけないのです。以後、気をつけます」

 素直に謝罪するアヴィルだけど、一度は上げた顔を、言葉が終るとともに再び下げてしまう。けれど、誰もそれ以上の追及はしなかった。

「……みなさんが様子を見ると選択なさるのであれば、わたしもそれに従います。今は、それで構いません」

 “今は”という台詞をさりげなしに強調しながら、アヴィルは引いていった。
 それを見届けてから、まだ意見を出してなかったアロゥさんが、皺にまみれた骨ばる手を軽く挙げ、口を開く。

「わたしも賛成ではあるが、もちろんアヴィルの言いたいことも重々承知している。そこで、異界の者であるふたりに、この城に招くための条件を出したい」
「条件、ですか……?」

 “条件”という言葉に思わず不安に駆られ声を出してしまったおれに、アロゥさんは微笑み、緩やかに首を振る。

「なに、大したことではない。君たちにはこの城の中にある部屋を貸そう。その際は、客人として、食事等の面倒は国がみる。その代わりに、その部屋から出る際には必ず、隊長、もしくはわたしの獣人のジィグンを同行させること。――これは、あらかじめわたしと王とで話して決めた事なのだが、どうだろうか」

 この条件の本当の意味がわからないほどに、おれも馬鹿じゃない。つまり、ある程度の自由はきくけど、常に監視の届く支配下におき、要は軟禁するっていうことだ。
 いきなり現れて異世界から来た者です、だなんて言って信用してもらえないのは当然だし、そもそもそんな得体の知れないおれたちをこの国に置いてくれるっていうんだ。それにこの国のことを、世界のことを何も知らないおれたちの世話までしてくれるとまで言ってくれる。決して悪い話じゃない。むしろ有難すぎることで、おれたちは運がいいとまで言えると思う。でも――やっぱり、おれたちが部外者だってことには変わりないし、警戒されてるっていうのも変わらない事実なんだ。
 みんなおれたちの答えを待っている。どうせひとつしかない、その答えを。
 頭のいい岳里はきっとおれの覚悟を待ってくれてるんだ。おれの口から、答えを告げるのを。
 みんなの視線を浴びながら、おれは一度瞬いて、震えそうになる息を混ぜながら口を開く。

「――わかり、ました」

 答えると、アロゥさんはそうかそうか、とおれたちに微笑んでくれた。何人は、詰めていたらしい息を吐く。それがせめてもの救いに思えた。

「了解してくれてよかった。では早速、この国で過ごすにあたって注意事項を説明させてもらう。ネル、頼む」
「はあい」

 王さまはすぐにネルにバトンタッチすると、のんきな返事をしながらネルは立ちあがり、おれたちに向き直った。
 まず、この国で過ごすうちは、おれたちが異世界の者だということは秘密にするということ。遠い異国から来た客人だと周りには説明するから、おれたちにそれに合わせるようにと言った。おれたちが異界人だと知っているのは、王さま、隊長たちとアロゥさんの獣人であるジィグンだけだから、もし何かあればどんな些細なことでもいいから自分たちに直接話せと。それとさっきアロゥさんの言った条件の再度確認。後他になにか話すことがあったら、おいおい話すと言い少ない注意事項は終わった。

「さて、早速部屋に案内しよう。今日はもう疲れただろう。そこでゆっくり休んでくれ。何かあったら、部屋の前に兵士たちをつかせておくから、彼らに言うといい」

 部屋の前でも誰かが見張るのか、と思いながら、おれは頷いた。
 それから王様は部屋への案内をレドさんに任すと、レドさんが行くならわしも、とヴィルハートさんも行くことになった。

「何度も言うようだが、彼らはこの世界とはまったく異なる場所から来た。はじめはわからぬことばかりで不安も大きいだろうから、是非、力になってくれ。もちろん、わたしもできる限り手を貸そう。――改めて、よろしく」

 王さまは立ちあがると、すっとおれたちに手を差し出してきた。一瞬、ぼけっと出された手を眺めるが、すぐにそれが握手を求めているんだと気が付き、慌てて自分も手を出す。そしてがっちりと王さまと握手をしよう、とその手に触れようとしたとき、脇から突然伸びてきた手がおれよりも先に王さまの手にがっちり触れた。そして、大げさなぐらいに腕をぶんぶんと振る。

「が、岳里……」

 はじめはきょとんとする王さまだったけど、すぐにその顔は笑みに変わり、しっかりと岳里の握手をし直した。

「よろしく、岳里」
「ああ」

 あくまで上からの岳里に気を悪くせず、王さまは手を離す。そして改めておれに手を向けようとしたが、おれが手を出す前に岳里がまた同じように手を構えて待っているもんだから、王さまは今度こそ笑い声をあげた。それにつられて、隊長たちも小さく笑いだす。
 なんでだろう。おれが恥ずかしい。ていうかジィグンの時もそうだったけど、なんでおれに握手させてくれないんだよ……。
 おれは不満を持ちつつも、言葉だけで、よろしくお願いします、と王さまに頭を下げた。
 それからすぐに会議は解散し、まず先に王さまとネルが会議室を出ていった。出ていくときは入るときと同じようで、壁が光り、ふたりはその中に消えていく。それに次いでアロゥさんとハヤテさん、コガネさんにヤマトさん、アヴィルと、次々に光の中に入り、この部屋を出て行った。

「さて、おれたちも行くぞ」
「あ、うん」

 立ちあがったレドさんとヴィルハートさんが、光の壁のまでおれたちを呼んだ。おれは小走りで、岳里はゆっくりと歩きながら、ふたりに追いつく。

「よかったな、いられることになって。何かあったら気兼ねなく言ってくれよ」
「わしも力になるぞ。なんでも言うよい」

 ふたりの傍まで行くと、それぞれ笑い声をかけてくれる。その言葉に、おれは思わずじんときた。
 信用されてないってわかってても、社交辞令ってものだってわかってても、やっぱり嬉しい。知らない世界でも、出会ったばかりの人でも、頼っていい人たちが近くにいるだけで、すべてが大きく変わる。
 それに何より、おれの思いをわかるやつだっている。
 ようやくおれの隣に立った岳里を見上げれば、不意にぐしゃぐしゃと頭を撫でられた。

「っ、なにすんだよっ」

 レドさんたちにばっちり見られているということもあるし、そもそもおれが受け入れられないことをされ、おれは思わず岳里の手を払い退ける。けれど、あくまで岳里は表情を変えない。

「やっぱおまえらって、そういう仲なのか?」
「なんじゃ、恋仲だったのか」

 こうしてふたりに茶化されても、岳里は最後までポーカーフェイスだ。でも、おれはそうもいかない。

「ち、ちがう!」

 慌てて岳里からひとり分の距離を置いて、乱れた髪を手櫛で梳かす。その間に、おれの頭上で様々な無言の視線という名の会話があったことを、おれが知るよしもない。
 悪い、すまなかった、と笑いながらふたりに謝られながら、ようやくおれたちも光の中に入って行った。
 そして眩い光に瞼を閉じながら、おれはふと思う。
 いくらなんでも、おれたちにとってうまく行き過ぎな気がする。見張るとは言われても、やっぱり異世界から来たってだけで何の価値もないおれたちを優遇しすぎじゃないだろうか。
 それに、本来こういう会議はおれたちの前でするものじゃないんじゃ……だって、本当におれたちをスパイみたいなものだと思っているなら、何も気付かないふりして、ようこそ、なんて言って安心さて泳がせた方がよっぽどいい気もする。それなのになんで――なんで、わざわざおれたちの前で会議をしたんだろう。
 でも、いくら悩んでもおれにはやっぱり王さまの考えなんてわかるわけもなく、ただレドさんとヴィルハートさんの後をついていった。

 

 

 

 廊下を歩きながら、周りに気配がないことを確認したうえで、王は声を出した。

「おまえが怒るなんて、珍しいこともあるものだな」

 先ほどの短い会議の中で、随分とわかりやすく表れたネルの怒り。この幼い表情が険しくなる姿にまみえるなど、いつぶりだっただろうか。
 特に、主であるシュヴァル以外にネルが自分の感情をはっきりと晒すことはそうない。それにも関わらず、まだ隊長という大任を命じられたばかりで焦るアヴィルの些細な言葉に、あれほど冷たくするとは、さすがにシュヴァルも驚いていた。
 視線を頭の後ろで腕を組み隣を歩くネルに向ければ、その容姿に似合った、幼げな表情をする。

「ふん、別に珍しくなんかねえよお。ただあんな餓鬼が嫌いなだけだあい」
「随分手厳しいな。確かに彼はまだ若いが、隊長だぞ?」

 いかにもあんなやつ嫌いだ、と告げるネルの言葉にシュヴァルが苦笑いを浮かべると、ネルはもう一度、さらに唇を尖らせ、すねた表情をした。

「――若さは関係ねえよう。だったらセイミヤのほうがまだ若いしい」

 一番仲が良く、ネルが可愛がっている七番隊隊長の名前を出しながら、そのあとに小さな声で、熱いだけじゃなんもできねえよう、と呟いた。そんなネルの頭を、王様はそっと撫でる。
 今度は唇を尖らせることはなかったが、口を真一文字に曲げ、目線を下げてしまった。若干赤く染まった頬が、愛らしくてたまらない。
 ――きっと今、ネルは後悔しているに違いない。もし仮に、本当にネルがアヴィルのことを嫌い、もしくは苦手としよう。しかし、だからといって無暗に相手を傷つけるようなことをネルがすることは決してありえない。
 不器用で、傷つき傷つかすことを恐れる、そんなやつなのだ。
 シュヴァルは、低い位置にある猫っ毛の頭を優しく愛でた。少しでも早く、ネルの中のわだかまりが薄らぐようにと。
 いつしか歩みを止めたふたりは、顔を見合わせ、くすりと笑い合った。シュヴァルはネルの柔らかい髪を掻きわけ、その小さな額を露わにさせると、そこに口づけを落とす。ネルも瞳を閉じ、シュヴァル受け入れる。
 それから言葉もなしにふたりは再び歩き出した。今度は、先ほどよりもふたりの間を詰めて。
 それからしばらく歩き続け、再びシュヴァルは口を開く。

「――よかったのだろうか、真実を告げぬままで」

 ぽつりと、まるで器から零れてしまったような小さな声で告げられたそれが、先ほどの会議のことだと言わずともネルになら伝わる。シュヴァルはそのまま言葉を続けた。

「アロゥとも相談したが、今はその時ではないだろうと言われた。当然あのようなことを彼らに言えるわけがないが、だが、せめて隊長たちには伝えるべきだったんじゃないかと、おれは――」

 おれは、まだ迷っている。そう、シュヴァルは言った。己をおれと呼び。
ネルの前でだけ、王は王でなく、シュヴァルへとなる。そこには、他国から麗々の王と皮肉交じりに呼ばれる残酷な男はどこにもおらず、ただただ甘さと優しさ、そして己が背負う責任の重さの間に揺れるひとりの人間がいた。
 何よりも脆く儚く、そして優しい王。真実という大きな存在の前に今にも泣いてしまいそうな彼を、ネルは歩みを止め、そっと抱きしめた。

「今はまだ、何が正しいかなんて言えねえんだあ。だからまだ見えない先に決断できねえのもしかたねえよう」
「――ネル」

 今はまだわからない。この迷いが、出した答えが正しいのかなんて。まだ見ぬ先にしか結果は出ないのだから。だから今は、時を待つしかないのだ。
 そう告げるネルの名を、シュヴァルは僅かに震える声で呼び、大きな身体を曲げて、細い首筋に顔をうずめる。そんな彼の頭を、今度はネルがよしよしと撫でた。

「まったく、情けねえ声を出すなあよう。おまえはいつまでたっても餓鬼だなあ」

 昔からちっともかわらねえなあ。図体ばっかでかくなってよお、とネルは笑う。
 城のやつらが見たら示しがつかないぞ、と言われながらも、シュヴァルはネルから離れようとはせず、目の前の小柄な身体をさらなる力で抱きしめる。しかし、ネルの言葉もあり、すぐにその抱擁をシュヴァルから解いた。そして改めて向き合ったうえで、シュヴァルはあのふたりについて、目線を下げる。

「彼らはいい子たちだった」
「そうだなあ。真司はおれのお墨付きだしい、岳里は愛想がないけど真司を大事にしてくれてるしなあ。誰かを守れるやつが、悪いわけねえしよう」
「おまえは随分と真司を贔屓するな」

 妬けてしまうぞ、と冗談をシュヴァルが言えば、真司もおれの特別なんだあい、とネルは微笑む。
 すでにふたりがどういった関係なのか聞いているシュヴァルは、ネルが真司を特別という理由もわかるので、本当に少し焼いているが、それを口にすることはなかった。

「――できることなら、ふたりがこの世界の“光”であってほしいが……」
「……そうだなあ」

 ネルの寂しげな声に、シュヴァルはそっと隣を歩くその細い肩を抱いた。
 それ以上ふたりが何か話すことはなく、寄り添い合いながら、長く続く廊下を歩き始めた。
 

 

 

 レドさんとヴィルハートさんが並んで前を歩き、おれたちはその後ろをついて長い廊下を進んでいく。これまでに何人かの兵士らしき人とすれ違ったけれど、みんなおれたちを不思議そうに眺めた。その視線が、別に睨んでいるわけでもないのに苦しく思う。

「それにしても、よかったな、おまえら。ここにいれることになって」

 無言で歩いていると、不意に足音だけが響く沈黙をレドさんが破った。三、四歩分遅れてを歩くおれたちに視線を向け、おれも安心した、と言う。

「まあ恐らく、王は始めからおぬしらをここに留めようとお考えになっていたことだろうがのう。だがやはり、運が良いぞ。あの王とネル、そしてアロゥまで味方につけたということは」

 もちろんわしらもおぬしらの味方じゃがのう、とヴィルハートさんはかっかっと笑う。
 明らかに反対の意を見せていたアヴィルのことを口に出さないのは、おれたちを思ってのことなんだろう。
 おれたちを快く思っていない人もいるというのを忘れちゃいけなんだろうけれど、こうして味方してくれるふたりと話している間だけでいいから、そのことを考えたくはなかった。それに折角、ふたりが気を使ってくれてるわけだし。

「本当、ありがとうございます。これで少しは落ち着けるますかね?」

 正直そう考えても沈む思考は戻ることがなかったけど、ふたりのために、なにより自分のために、おれは無理をして笑って見せた。おれの顔を見たレドさんは少し戸惑ったように笑い返して、それからまた前を向く。おれの薄っぺらい笑顔はすぐに消えた。

「もう少し歩くから、ちゃんとついてこいよ。似た構造だからな、慣れないやつは絶対迷子になるんだ」

 そんなことに前を行くレドさんが気付くわけもなく、その言葉を最後に会話は途切れた。
 先を行くレドさんとヴィルハートさんの後をついていきながら、おれはぼうっと考える。ふたりの赤と紫の髪を視線に入れながら、あり得ない色だ、なんて思いながら。
 ――ここは、異世界。ディザイアって名前の、おれたちと本来いるべきじゃない場所。今でも信じられないけど、夢であってほしいけど、これは現実で。漫画なんかじゃよくあるトリップってのをしたわけで。
 少し視線を下げれば、さっきまで目の前にあったレドさんの赤い髪より深く黒い、廊下に敷かれた長い絨毯が目に映る。数え切れないくらい人の足に踏まれた、歴史を持っているもの。どうせだったらこれが新品みたくふわふわとした毛を保っていたら、まだ夢だと思えたのかもしれない。けれどいくら目を凝らしたところで、硬くごわついている材質が変わることはない。
 どうすれば、いいんだろう。これからおれは。ここは異世界だ。だったらおれは戻らなきゃ。おれの“世界”に。でもどうやって? どうやってここにきたのかも知らないのに、どうやって帰ればいいんだ? そもそも帰れるのか? ああ、でも帰らないと。待ってるはず。待っていてくれてるはずだから――。
 もう自分が何を考えていたのかさえわからなくなってきた。ただ漠然と思い浮かぶ考えを適当に並べるばっかりで、本当は何ひとつ思っちゃいないのかもしれない。これからどうするか、本格的に考えなきゃならないってのに、やっぱりわからないんだ。
 ――信じられるか、こんな現実。信じられるもんか。どう認めろっていうんだよ。なんだよ、ディザイアって。知らない。何もわからない――わかるわけ、わかるわけない!
 急激におれの中に滞っていた感情が静かに爆ぜると、ふいに視界がぐらつく。

「っ、う――?」

 堪らず声を上げたときには、急に床との距離が縮まっていった。
 ああ、ぶつかるんだ、と冷静を保ちつつも混乱したおれは思う。けれど、もうぶつかる、というところで、赤い床が鼻先に触れるか触れないかで急停止した。そしてそのまま力強く後ろに引かれ、おれはその力に引っ張られるように、絨毯に尻もちをつく。呆然と前を見ていれば、慌てて振り返るレドさんとヴィルハートさんの姿があった。

「なに、どうした?」
「大丈夫か真司?」

 ふたりともしゃがみ心配そうにおれに声をかけてくれるけど、おれ自身がまず状況を飲みこめていない状態で、声を出そうにも出せなかった。ただ身体は今起こったことを理解しているかのように、どっと汗が噴き出る。心臓もバクバクと脈打ち、勝手に息が荒くなった。
 よくわからないけど、なんか急にくらっと来て――おれ、倒れかけたんだ。
 そう気付いた瞬間、身体が震えだす。もしあのまま床に顔面からぶつかっていれば、確実に怪我は免れなかっただろう。
 そんなおれの危機を救ってくれたあの手は、未だしっかりこの肩を支えてくれていた。後ろを振り向かなくたって、その手の持ち主をおれは知ってる。さっきまで、ずっとおれの後ろを歩いていた岳里に違いない。
 またおれは、岳里に助けられたんだ。

「立てそうか?」

 いつまでも反応しないおれに、レドさんは目の前で手を振って見せる。そこでようやく、おれもはっと、冷静になれた。

「あ、だ、だいじょうぶ」

 す、と自然に出されたレドさんの手を取ろうとしたところで、いつの間にかおれの背後から隣へ移動していた岳里が、突然動いた。

「うあっ?」

 立ちあがった岳里と同時におれの視線も高くなる。だけれど足は宙に浮いた状態で、不安定な均等に思わず距離を開けずにいる岳里にしがみいた。けれどすぐに、今の状況のおかしさに首を傾げる。
 同じように立ちあがっているレドさんとヴィルハートさんに視線を向けてみれば、ふたりして笑っている。それを見た瞬間、おれは今の現状をようやく理解し、間近にある岳里の胸を突っぱね暴れた。

「は、離せよばか! 何すんだっての!」

 今の状況――おれは岳里に言わばお姫様抱っこされ、そしておれを支えてくれている岳里の腕の中で暴れている。けれどこうしておれが暴れてるのにも関わらず、岳里の腕はしっかりとおれを支えていた。
 おれがどんなに暴言を吐いても、それでも岳里が動くことはなく、まるでおれを無視するかのように平然とした様子で前を見つめ続ける。そして、下ろしてくれる気配もない。

「まあまあ、いいじゃんじゃないか? このまま岳里に連れてってもらっても」
「またいつ倒れるやもしれんからのう。今度も同じように助けられるわけでもないだろうし、そのほうがわしらとしても安心だ」

 ヴィルハートさんたちも安心という言葉に、さすがにおれも言葉を詰まらせる。そう言われてしまっては、迷惑をかけるわけにいかない。実際どういうわけがおれも本当に倒れかけたわけだから、またいつ倒れるかもわからないし。
 でも、どうしても解せないこともある。
 男がお姫様抱っことか! 普通じゃないだろ!? これならまだおぶられるほうが万倍ましだっての!

「だ、だったらせめておんぶにしてくれよ……」

 おぶられることすら抵抗があるが、それでも今の状況よりはいいと、岳里からそっぽを向きながら申しでる。けれど、反応はなく、代わりに応えてくれたのはレドさんだった。

「どっちも変わんないって。ほら、いくぞ。岳里もちゃんと持ってやれよ」

 そう笑いながら言うと、そのままヴィルハートさんの肩を軽く叩いた後に、歩みを再開する。岳里もふたりの後を追い歩き始めた。
 きっと、今さらまたおれが異議申し立てをしたところで受理なんてしてくれないんだろう。
 誰ともすれ違わないことを祈りながら、おれは渋々と岳里の腕の中で大人しくなる。でも、内心はぶつぶつと文句を言うことも忘れずに。
 だからだろうか。いつの間にか、ぐるぐると悩むことをしなくなったなんて、おれはまったく気が付きもしなかった。

 

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