おれは岳里に抱えられたまま、ついに部屋の前にまで来た。

「ここは今空いてる三番隊隊長が使用する部屋なんだ。右隣の部屋はコガネとヤマト、その隣はおれだ。左の部屋にはアロゥとジィグンがいるし、何かあったら気兼ねなく声をかけてくれよ」
「わしはの部屋は一番左端だぞ。ここは隊長たちに部屋が与えられている一角でのう。周りはみな先程会うた隊長どもの部屋だから、周りの目など気にせずともよいぞ」

 部屋は一番隊、とかの数字に合わせて、そこにその番号の隊長がいるそうだ。だから、一番隊のレドさんは一番右の部屋で、その隣が二番隊のコガネさんの部屋。十三番と、一番最後の数字になるヴィルハートさんは一番左の部屋というわけだ。
 ちなみに、なんでヤマトさんがコガネさんと同じ部屋かというと、それはふたりが心血の契約を結んでいるからだそうだ。一応ヤマトさんも隊長だから部屋を持っているけど、そっちにはあんまり行っていないらしくて、ほとんどコガネさんの部屋で過ごしているんだとレドさんが教えてくれた。アロゥさんとジィグンが同じ部屋なのは、やっぱりそれも心血の契約を結んだ者同士だからで、ちなみに副隊長の部屋は城の中にはないらしい。
 隊長の部屋には必ず、ふたりで生活できるような構造になっていて、それは、獣人のためなんだと、ヴィルハートさんが教えてくれた。隊長になると、獣人を持つ確率が上がるから、いつでも一緒にいられるように、あらかじめ隊長の部屋は獣人が主と暮らすことを前提で作られているそうだ。そしてそのおかげで、おれは岳里と同じ部屋を与えられたというわけで。
 別に岳里と一緒の部屋だって、おれは全然構わない。そもそも、部屋に案内してもらえるだけでもありがたいことだし。
 少し身を捩り、きちっとしまった扉を目にする。扉には、『3』と書かれていた。数字はおれたちの世界と同じみたいだ。――おれたちはこれから、この部屋で過ごすことになるんだ。
 隊長たちに挟まれた部屋。隊長しか、本来は住めない部屋――わざわざ空いている隊長の部屋を使えだなんて、監視するためなんだな、やっぱり。
 おれがいくら考えたところで、わかることじゃない。本来来客用の部屋とか使うとは思うけれど、急な話で、ここしか空いてなかったってこともありえるし。
 ……もう、よそう。考えるの。
 考えると、途端にぽうっと、頭が熱に浮かされるような感覚があった。それはさっき倒れかけたときからで、もう身体が考えるのを止めようと諫めているのかもしれない。
 その忠告を無視すれば、また倒れかねないし、おれは素直に身体に従うことにして、考えを中断した。

「おまえらも疲れてるだろうから、今日はもう部屋で休んでろ。飯はちゃんと時間になったら運ばせるから」
「詳しい話はまた明日だ。この部屋はこれからしばしの間住む場所だから、早う慣れてゆっくりせい」

 もし何かあったら、外にいる兵士を通じておれたちを呼べよ、とレドさんは言ってくれた。

「ありがとございます。言われた通り、ちゃんと休みます――いい加減、下ろせって」

 ふたりにお礼を言ってから、ようやくおれはずっと言いたかったことを岳里に伝える。
 なんでいつまでもおれは抱かれてなきゃならないんだ。しかおもお姫様抱っことかっ。おれが、女の子にするなら話は別なのに……なんでする前にされることを経験しなきゃいけないんだよ……。
 今度もまた無視を貫かれると思ったが、案外あっさり、おれの足は床に着く。おれが完全に自分の足で立つまで、岳里はおれの身体を支えてくれた。
 正直、こうもあっさりと下ろされるとは思わず、文句を用意していたおれは、ただ、あ、ありがとう……と歯切れの悪いお礼を述べることになった。
 ――そ、それもそうだよな……岳里も男を抱くなんて嫌だったのかもしれない。レドさんたちが言ったように、またおれに倒れられたら困るから、したんだろう。
 変に意識していたおれが急に情けなく感じた。ジィグンとハヤテさんのやりとりを見たから、ちょっと過敏になっていたのかもしれない。そうだよな……岳里はおれと一緒のところから来たんだから、女の子が好きに決まってるか。おれだってそうだし。
 心の中で、邪険に扱って悪かったと謝罪の念を岳里に送る。さすがにあれほど口を悪くしてたんだから、声に出す勇気はおれにはなかった。

「じゃ、おれたちはもう行くから、おまえら部屋に入れよ」
「まあそう悪くはないはずだぞ」

 どの部屋もつくりは一緒だから、保証する。とレドさんたちが笑う傍らで、岳里が先にドアノブに手をかけ、そのままためらった様子も見せずに開けてしまった。だけど、岳里に隠れて部屋の様子がわからない。
 岳里が部屋の中に入り、おれもそれに続き、ようやく部屋の全貌が見えた。
 四角く一部屋のそこには、特にこれといって目を引くものはなかった。ベッドがふたつ少しの空間を挟んで枕元を壁側に当て並べられて、その反対の壁際にはふたりが腰かけるだけの簡易なテーブルとソファー。隅にはふたつ並んだクローゼット。それに暗めの赤い絨毯が敷かれているだけの、本当に言ってしまえば侘しい部屋だった。でも広さはそれなりで、家具の少なさが異様に目立つぐらいだ。ふたりで住むには、十分だと思う。
 おれの身長を越す大きな窓が正面に見えて、そこから覗ける空はもうオレンジ色に染まっていた。
 いつの間にか、随分時間は経っていたみたいだ。

「しばらく誰も使ってなかったから、何にもないだろ。言ってくれれば、用意できるものなら用意してやるから」

 おれがじっと部屋を見ていると、後ろからレドさんが言った。
 確かに……何もない。なんだか寝るだけの部屋、みたいな。
 起きてそのままのベッドとか、ゲームとか漫画とか、散らかっていた自分の部屋が懐かしくなるも、なるべく思い出さないよう、おれは心の中で頭を振った。

「ありがとうございます」

 変に気を使わせないよう、へらりと笑って見せる。

「それより、おふたりはもう行かなくちゃならないんでしょう? おれたちはもう大丈夫ですから」
「――そっか。じゃあ、本当になにかあったらすぐ呼べよ?」
「はい」

 案外心配症なのか、念を押すレドさんに、おれは返事をする。それからようやくヴィルハートさんと一緒に部屋を出ていこうとするが、それでもまだおれたちが気にかかるのか、最後まで何度もおれたちを見やった。
 本当、いい人なんだな……。
 おれは笑顔で軽く手を振ってふたりを見送り、ようやく扉が閉められたところで、静かに手を下ろす。
 そうして、部屋にはおれと岳里だけになった。
 何気なしに岳里を見てみれば、ただじっと、ふたりが消えた扉を見詰めている。

「――すごいことに、なっちゃったな」

 自然と、そんな言葉が口から零れる。岳里がおれのほうに振り向いたが、何か言うことはなかった。
 ただ、岳里の瞳は痛いくらい真っすぐにおれを見詰める。これはイケメン効果なのか、それともただ目力が凄いのか、その強い視線から目が離せない。今ばっかりは、不思議とこの見つめ合う相手が女の子だったらよかった、なんてことも思わず、ただその瞳に見入る。
 それから、どれくらい経ったろうか。たぶん、数秒間だったと思うけど、何十分にも感じたこの時間は、岳里が目を逸らして終わりを告げる。ふい、と顔を背けられ、その時ようやく、おれは岳里と見つめ合っていたことに気がついた。
 何やってんだか、おれ……。
 何故男と見詰め合わにゃならんのだ、とようやく今の自分たちがおかしかったことを悟るも、もうどうしようもない。
 顔を背けられたあと、岳里がそのまま動き出したので、なんとなくそれを目で追ってみると、岳里はふたつ並んだうちの、扉側のベッドまで向かう。そこで靴を脱ぐと、そのまま毛布の上に寝転がり、そして早くも瞳を閉じていた。

「――寝るのか?」
「寝る」

 今度は返ってきた返事に、少し安心しながら、おれももう片方の空いているベッドまで行った。
 ――何もわからないうちに、今日を我武者羅に走りきった気がする。さすがにおれも、疲れたなぁ……。
 結局まだわけかわらないままだし、なんだか頭もぼうっとするけど、これは現実で、これからも続いていく。
 ベッドの端に腰かければ、案外強いスプリングがおれの体重を軽く支えて見せて、あまり沈むことはなかった。もうちょっと柔らかいのを想像していたおれは、若干ショックを受けながらも、靴を脱ぎ、岳里とは違い、毛布に包まる。制服のままだということは、もう気にならなかった。
 これからも続いていくこの現実。きっと、慣れるのにはまだまだかかると思う。でも、今はここで生きていくしかないんだ。
 疲れがたまってたんだろうか。横になるとすぐ、眠気が襲ってきた。身体もどっと疲れを訴え出し、異様なほど重く感じる。もう指先一歩、閉じた瞼さえ動かせそうにない。
 考えなければならないことはまだたくさんあるけど、今はもう、休んでもいいよな――
 誰が聞いているわけでもないのに、おれは心の中で自分自身を安心させるように呟く。けどそれさえもう、朦朧としていた。
 隣のベッドが小さく、ぎしり、と軋んだ気がしたが、それはもうおれがすっかり眠りに落ちた後だった。

 

 

 

 静かに執り行われる葬式のなか、少年はただじっと、半ズボンを握りしめて果てない悲しみに耐えていた。下唇を噛み締め、ゆるやかに、だがしっかりと流れる時間。一体少年には、どれほどの速度に思えているのだろうか。
 未だに少年の頭に残る傷跡を守る包帯が痛ましい。重たい鉛で押しつぶされている心が悲しい。
 彼が成人しているほどに成長していたなら、まだこの憐れみも軽くなっていたのだろうか。だがいくら考えたとしても、少年はまだ七歳の誕生日を迎えたばかりで幼く、“死”を受け入れるのにはまだ早すぎた。ましてやそれの死を与えられたのが両親ならば、あまりに残酷な話ではないだろうか。
 けれど、少年は泣かず、拳を握り気丈に振る舞った。不憫に思い声をかけてくれる両親の知人たちに笑顔を向けることができはしないものの、涙は見せなかった。
 ただ淡々と、式は執り行われる。時間は過ぎていく。少年は動かず、まるでそこだけ時の流れに切り離されたように止まったままだった。
 いつしか式は終り、椅子から立ち上がった人々は足音すら潜めるように、会場から出ていく。それでも少年は俯かせた頭を上げないままでいた。
 不意に、少年の隣の席に男が座る。

『――真司』

 少年の名前を男が呼べば、ようやく幼い顔が上を向く。そこには、子どもには到底似つかわしくない隈が薄らと浮かんでおり、男は苦しみを隠すように笑って見せた。
 男は手を伸ばし、少年の頭に巻かれた包帯を避けて優しく撫でる。少年が動揺したように男を見詰め、それから再び頭を下げてしまってから、その手を止めた。

『真司』

 再び少年の名前を呼ぶ。けれど、今度はその顔を見ることはできなかった。
 少年が見ていないからか、ただ本当に隠すことができなかったかはわからない。けれど男は、無意識のうちに懸命に作っていた優しげな頬笑みを消し、顔を歪める。そして爆ぜたその衝動のまま、肩を小さくして俯く少年を力強く抱きしめた。
 突然のことに驚いたのか、少年は思わず、にいちゃん、と掠れた声を出す。男は返事をする代わりというように、さらに抱きしめる力を強めた。そこから何か感じ取ったのか、少年も男の背中に短い腕を回し抱きつく。
 温かい少年の体温を感じながら、男ははっきりと声を出した。

『兄ちゃんは真司の隣からいなくならない』

 少年から返事はなかった。けれど構わず、男は言葉を続ける。

『これからは、兄ちゃんが真司を守ってやるから。だから、真司は兄ちゃんを信じてくれ』

 胸の中、小さく鼻をすする音が聞こえた。それは随分水っぽく、ようやく男はまた笑った。うん、と涙声が返事をする。
 男は隣に座る少年を抱きしめたまま持ちあげ、膝の上に乗せ直して、よしよし、と震える小さな背中を叩いてやった。

 

 


 遠くから水音がし、ふと、目覚める。何度が瞬きをすると、ぼやけていた視界がすっきりしてきて、見慣れない天井が目に映った。電気がないのに、天井の真中にある丸い球体が柔らかく光を出していて、辺りは薄暗い程度だ。
 ――ああ、そっか。ここ、ディザイアだっけ。
 仄かに光るあの丸い玉がなんなのかはわからないけれど、明らかに電気で光ってるわけじゃない。きっと不思議な力で光っているんだろうけど、おれにはよくわからないものには変わりなかった。
 ただぼうっと前を見詰めていると、突然声をかけられる。

「大丈夫か」

 視線を少しずらせば、ベッドの隣に座っていたのか、岳里がいた。暗くてどんな表情をしているかはわからないけど、、おれを見ているというのはわかった。
 けれど、岳里の言葉の意味がよくわからず返事に戸惑っていると、すっと伸ばされた岳里の手の甲が、おれの首筋に触れてきた。
 すり、と一度撫でられ、思わず小さく声を上げると、その手はすぐに退いていく。

「まだ熱いな」

 よくわけがわからないままそう言われ、ますます困惑したおれにようやく気がついた岳里が、言葉の意味を説明してくれた。

「熱を出していたんだ。色々あったから、その疲れが熱になったんだろう」
「――そっか」

 熱、か。どうりでこんなにも身体が重いわけだ。異世界に来たんだ、そりゃ疲れだって溜まるよな。
 まるで他人事のようにどこか遠くから自分のことを見詰めていると、ふとあることが気になった。

「……もしかして、ずっとそこにいたのか?」

 おれが起きた時にはもう岳里が隣にいた。まさか、意図的じゃなきゃ、そこに座ってるわけがない。

「他にすることもないからな」

 特に表情があるようでもなく、あっさりと岳里はそう言ってのけると、いったんおれの視界から消える。
 それから聞き覚えのある、ぼちゃぼちゃという水音がして、再び顔を見せた。そして、おれの額にひやりと湿った布を乗せてくれる。
 ――気持ちいい。
 その心地よさにおれは目を閉じた。
 そういえば、目が覚める前にも水音がしていた気がする。きっと、岳里は熱を出したおれの世話をしてくれてたんだろう。そう思うと、気恥しくもあり、申し訳なくも思った。大変なのは、岳里も同じだから。
 額に思いやりを感じながら、おれは岳里にちゃんとお礼をしようと口を開く。けれど、それよりも先に岳里が声を出した。

「まだ寝てろ」

 行動とは裏腹にやっぱり愛想のない声に、おれは思わず笑ってしまう。

「あんがと。そうする」

 その言葉と、これまで看病してくれた言葉に対し、おれは改めて礼を言って、視線をまた天井に戻す。隣に存在を感じながら、おれはまた眠るために目を閉じた。
 もしこれがおれの部屋なら、目覚まし時計のささやかな秒針の進む音が聞こえてきただろう。けれど、この部屋からは聞こえない。聞こえるのは、おれの呼吸の音だけだ。隣からは聞こえてこない。それなのに、不思議と岳里がそこにいるのだとわかった。本当に不思議だ。
 ――たぶん、岳里は少なくともおれが寝るまで傍にいてくれる。そんな気がした。

「……なあ、岳里」

 再び瞼を上げ、岳里がいる方を向き、その名を呼んだ。
 返事はなかったが、確かに俯いていた岳里がおれのほうを向き、目が合う。
 ただじっと、そのよくも見えない目を見詰めながら、おれは口を開いた。

「なんか、ごめんな、岳里。おれ、何度も何度もうだうだして。でもやっぱり、考える時間ができるとどうしても、さ。現実ってわかっていても、夢だって思いたい。今でも、そう思うんだ。――弱いよな、おれ。自分が思っていたよりも、うんと弱かった。おれ、情けない……」

 何度弾けたって消えない不安、混乱。そのわけを、岳里にだけは話しておこうと思う。これからもきっとおれは迷惑をかけるから、そのためにも。それに、なんだか話しておかないといけない。そんな気がして。
 そう意を決し、おれは岳里から視線を外し前を見据え、話し始めた。家族の、たったひとりの大切な家族のことを。

「実はおれ、親いないんだ。どっちも。十年前の交通事故で死んだんだ」

 やけにしんと静まる部屋に、おれの声は空気に溶けていく。あの頃のことを思い出しながら続けた。
 あれはおれが七歳の誕生日を迎えたばかりの時。両親と、それと年の離れた兄ちゃんと一緒に遊園地に行こうとしたときだった。父さんが車を運転をし、母さんが助手席に座って。おれは兄ちゃんと後ろに乗って、なんのアトラクションに乗ろうか話している時だった。
 反対車線を走っていたトラックが突然、道をはみ出しおれたち家族が乗る車と正面衝突したんだ。
 おれはその衝撃で空いていた窓からシートベルトを締めていなかった身体が飛びだし、頭と足を打ち付ける怪我で済んだ。けれど運転席と助手席に座っていた両親は即死。兄ちゃんはひしゃげた車に身体を挟まれたらしいけど、どうにかそこから脱出した。腕を激しく窓に叩きつけたみたいで、十三針を縫う怪我、左足を骨折し、その他打撲等の怪我をして、しばらく入院した。
 ――両親がいなくなって、おれたちはふたりで暮らしていくことになった。
 兄ちゃんは歳が離れているといってもまだ高校三年生で、大学受験を控えていた。だけどそれ取りやめて、高校卒業後すぐに兄ちゃんは父親の方の大叔父、佐竹丸(さたけまる)さんの協力を受けて就職した。両親が残してくれたお金や保険金を使えばそのまま大学を行くことはどうにか可能だったのに、兄ちゃんはそうはしなかった。
 おれと一緒に暮らすために、わざわざ自分の身を犠牲にする道を選んだんだ。
 兄ちゃんは会社に行く他にも夜や休みの日にはバイトをしたりして、すごく大変そうだった。おれも何かしたかったけれど、小学生ができることなんてたかが知れてて、家事をするぐらいが精いっぱいだった。
 けれど兄ちゃんは家事しかできないおれを、真司は偉いって誉めてくれた。どんなに忙しくても、疲れてても、必ず夕飯は一緒に食べてくれて、おれの作ったご飯は世界一おいしいって笑ってくれた。本当は、おれよりも何倍も大変なのに。
 いつもおれを心配させないように笑ってくれてた兄ちゃんだけど、時々、限界まで疲れた時や苦しくなった時はいつもおれに、さみしい想いをさせてごめんって謝る。おれは一緒にご飯を食べれるだけで十分だったけれど、兄ちゃんはそうは思っていなかったみたいだったんだ。きっと、兄ちゃんは父さんたちの代わりを一生懸命しようとしてくれていたんだと思う。――だから、ちょっと心配症になってさ。
 いつも出かけるときになると、あれ持ったかこれ持ったか、なんて確認して。遅くなるなら絶対に連絡しろだの言うんだ。

「――なのにおれ、連絡しないでこんなことろにきちゃったよ」

 きっと兄ちゃん、心配してる、と言う声は、無意識に震えた。
 途中からもう自分が何を言っているかわからなかった。けれど、どうしてもまとまらなくて、言葉も止まらなくて。こみ上げる感情のまま、岳里に話した。こんなことを話したかったんじゃないのに、もう何を伝えたかったのかさえわからなくなってきた。
 ついに言葉を詰まらせたおれに、今まで静かに話を聞いていた岳里にが口を開く。

「兄のことを忘れなければ、きっと帰れる。おまえが兄を思うように、きっと兄もおまえのことを思っているはず。強い思いは引き合うものだ。――それまでに長い時間がかかるかもしれないが、必ずまた兄と会える。おれが、必ずおまえを兄のもとへ帰してやる」
「岳里、が……?」

 おれの言葉に、岳里は頷いた。

「――悲しいのは、痛いから」。

 悲しいのは痛い。どこか幼いその言葉が、おれの目頭を熱くする。
 気付けばかってに、今の思いを口に出していた。

「かえり、たい……かえりたい、岳里。早く、ただいまって。心配させて、ごめんって。謝って、兄ちゃんを安心させてやりたい。心配、してるから――――かえりてえっ」

 いつの間に、こんなに涙もろくなったんだろうか。これ以上情けない姿を見せたくないのに。
 おれは目元を両腕で覆った。
 涙が肌を、耳を伝って落ちていくのがわかる。口元さえも歪み、おれは唇を噛み締めた。

「大丈夫だ。おれが、おまえを兄のもとへ帰してやる」

 二度目の岳里の力強い言葉が、熱くなった耳にそっと届く。
 おれがこんなにも女々しく泣くから、心配してくれてるのかな? 気休めを言ってくれてるのか? ――でも、もしそれがこの場凌ぎのものだとしても、岳里の言葉が、おれの涙を止まらなくしてしまう。
 ――違う、違うんだ。本当はわかってる。この言葉はその場凌ぎなんかじゃない。岳里はきっと、こんなことを簡単に口に出すやつなんかじゃない。本気で言ってくれてるんだ。本当に、おれを帰そうとしてくれてるんだ。
 必死で涙を止めようとしているおれに、岳里はさらに言葉を続けた。

「これからもまだ悩むことがあるだろうが、その時はこうしておれが話を聞く。考えることは大切だが、ためこむな。――おまえの思いは、おまえと同じ立場のおれが一番わかる。だから、おれを頼れ」

 同じ場所から、同じように来たおれと岳里。同じくその場所で待っている人がいる。だからこそ、抱えるものもきっと一緒なんだ。
 きっと、ひとりでわけもわからないままこの世界に来ていたら、おれはおかしくなってたと思う。けれど、おれはひとりじゃなかった。岳里が、いてくれてたんだ。
 その事実が、今のおれを保ってくれてる。きっと他のやつじゃ駄目だったと思う。岳里みたいに、なんか変に落ち着いてるやつじゃなきゃ、駄目だった。

「――あり、が、と……っ」

 必死に伝えようとした言葉はおれの情けない嗚咽に紛れる。けれど、きっと岳里には聞こえているはず。だから、そう信じておれは続けた。

「おれも、がんばる。岳里、おれもがんばる……っ。おまえと、一緒に、帰れるように」

 岳里がどんな表情をしているかもわからないし、どんなことを思っているのかもわからない。けれど、おれ自身に言い聞かせるように、おれ自身を強くするために、おれは決意を口にした。
 そうだ。おれだって、頑張らなくちゃ。岳里だけに苦労させるわけにはいかない。おれはおれのできることをして、元の世界に帰るんだ。岳里と一緒に。
 ――今だけだ。今だけ、思いっきり泣いてやる。でも、これからは前を見よう。前を見て、現実を認めよう。
 ぎ、と椅子の軋む音がしたと思ったら、少しずれた毛布が動く。腕をどかし視界を開かせると、岳里がベッドに身を乗り出して、毛布をかけ直してくれているところだった。
 すん、と鼻を鳴らすと、岳里がおれのほうに顔を向けた。そして毛布を直した手をそのまま伸ばし、涙でぐちゃぐちゃになっている顔に触れると、そのまま服の裾で濡れる跡を拭ってくれた。

「わかった。だから、いい加減もう寝ろ。まだ熱はあるんだ」
「ああ――岳里、おやすみ」

 それ以上返事はなかったけれど、岳里が椅子を立つ気配はなかった。おれは不思議とそれに安堵し、涙が止まる気配はなかったが、再び瞼を閉じてからしばらくして、いつの間にか眠りについていた。

 

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