いったい、なんなんだ?
 そうは思うが、レドさんは優雅に口元へカップを傾けていた。
 しばらくしてようやく、

「真司に、岳里、ね……?」

 ごくりと喉をならす音でも聞こえてきそうなほど真剣な声音で、ミズキは確認を取る。岳里は声を出さずに、親指を立ててそれにオーケーサインを出した。
 なんか、前にもこんな光景を見た気がする。

「ふう、ようやくだわ。案外難しいのね……」

 気を抜いたらまた間違えそう、とミズキはため息をつく。

「だろ? おれも結構苦労したよ。岳里のやつ、厳しいから」
「別に普通だ」

 しれっとレドさんに小さな反論をすると、岳里は用意されていたクッキーを口に放り込んだ。
 長い手直しの間に、ミズキが淹れてくれたはずの紅茶はすっかり冷めていた。出してくれたミズキが手を伸ばしてないのに、おれが飲むわけにいかないと待っていたけど、こんなことなら飲んどけばよかったな。折角淹れてくれたのに。
 だがその要因を作った岳里は、少し疲れた様子を見せるミズキを尻目に、カップの取っ手を持たずに器をがしりと握ると、まるで水を飲むように一気に煽っていた。
 きっとこいつだったら紅茶を飲む姿でさえ様になるんだろうと思っていたおれは、思いの外ワイルドに紅茶をいただく姿に、ああやっぱり岳里は岳里だと、妙な納得を覚える。
 不意に、岳里がおれを見た。

「……」
「……な、なんだ?」

 がしっと、岳里はおれに用意された紅茶が注がれたカップを握る。
 あ、と思う間もなく、岳里はさっきと同じようにして紅茶を飲んでしまった。
 小さく音を鳴らして戻されたカップの中は、数滴残った程度で最早カラだ、カラ。おれの紅茶は残ってない。そしておれはまだ口をつけていない。

「――岳里」

 睨むけど、岳里は目を逸らし、用意されたお菓子さえも遠慮なく頬張りだす。
 文句を言ってやろうと岳里に再び声をかけようとしたところで、今までの一部始終を見ていた隊長のふたりが、笑い声を上げた。

「ああ、なるほどね。そういうことなの」
「気付いたか? な、真司は愛されてるだろ」
「ええ、確かに。とても愛されているわね。ふふ、今淹れ直すから待ってて」

 ふたりはよくわからない会話をしてから、ミズキは席を立ってまた紅茶の用意をはじめた。
 さっきの内容からして、おれが愛されてるのって、岳里から、か……?
 というか流れ的に岳里しかいない。けれど、おれが愛されている覚えはない。むしろ何か恨みがあるんじゃないかと思うんだけど……。
 でもわざわざレドさんたちにその理由を尋ねる気にもなれず、おれはただ、味わうことを知らないようにばくばくと無表情に菓子を食う岳里を見た。すると、ぴたりと口に菓子を運んでいた岳里の手が止まった。口はもごもごと動いたままだったけど。
 どうかしたのかと菓子の沢山入っていた受け皿を見ると、そこは空っぽ。
 ああなるほど。なくなったから動かないんだな……おれ、食べてない。
 相変わらずの遠慮のなさに、軽い殺意が芽生えた瞬間だった。
 改めて紅茶を淹れなおしてくれたミズキは、空になった皿を見て、また新しい菓子も追加してくれた。
 今度こそ飲んで食べるぞ、と思ったおれは、紅茶が温かいうちに口をつける。
 普段あまり紅茶なんて飲まないけれど、その香りに少しだけ気分も回復した。

「あなたたち、次はジャスに会いに行くんですって?」
「ジャス……?」

 知らない名前を出されて思わず繰り返す。

「ああ、あの変態……じゃわからないわよね」

 ごめんなさい、ついね、とミズキは笑う。
 ……さらりと流そうとしてるけど、今、変態って……。

「前回の十四会議に欠席していた隊長のひとりで、十二番隊隊長だ」
「ジャスっていうのは愛称で、名前はジャンアフィスよ」
レドさんのあとにミズキが続いた後に、おれはカップを机の上に置いた。

 今度はその、ジャンアフィスさんに会いに行くのか。……変態の。
 思わずと言った様子で口をすべらしたミズキの言葉を思い出しながら、おれはどんな人か想像してみる。けど、そもそも周りに変態がいないから想像すらできなかった。
 変な人じゃなければいいけど、と考えたところで、ふと思った。
 いや、待てよ。いるな、変態。
 盗み見るようにそっと隣へ視線を向けてみれば、もぐもぐと頬にたっぷりお菓子を詰める岳里がいた。
 その姿は、おれの涙を舐めた人物には見えない。――あ、そうか。
 岳里は変態じゃなくて、変人か。
 そっちのほうがしっくりくるな、とひとりで心の中で頷けば、急に岳里が視線だけをおれに向けてきた。ばちりと合った瞬間、もう遅いけど慌てて目を逸らす。

「ジャスのところなら、わたしもついていきましょうか? 最近は研究所に籠っていたようだし、そろそろ新しいがらくたでも開発しているころじゃないかしら。そんな時のあの馬鹿に捕まったら大変じゃない」

 目を背けた先では、なにやら物騒な会話を、ふたりの隊長が話していた。
 研究室、開発という単語からして、ジャンアフィスさんは発明家かなにかかな? でも、それにしたって捕まるって……。
 おれの脳裏に、昔テレビで見たモルモットと小さなネズミの姿がよぎった。よく実験台にされる動物の代名詞だ。
 ……まさか、な。

「――そりゃあ嬉しい申し出だけど、遠慮しとくわ。この後、ヴィルと合流する予定があるんだよ」
「あら、そうだったの。彼ならまあ……あなたには問題があっても、護衛にはぴったりね」
「ま、そういうことだ。だから、ミズキは久々の休暇を楽しめよ」
「ふふ、ありがとう。そうするわ」

 口元に指先を添え、可愛くミズキは笑ってみせた。
 隊長って、やっぱり忙しいもんなのかな。レドさんのいう、久々の休暇の前に、どれだけの働いた期間があるかおれはわからないけど、たぶん、一週間とかじゃないと思う。少なくとも、もっと長い時間をミズキは――隊長のふたりは、働いてるんだろうな。
 そう考えると、仕事の合間だ、とか言ってちょくちょくおれたちの部屋に顔を出してくれていたレドさんに申し訳なく思えた。

 

 

 

 あの後、ほんの少しの間ではあるけど、みんなが紅茶を飲み終えるまでの短い時間をミズキと談笑をしてからおれたちは部屋を出た。今度はジャスのところに案内するからな、とレドさんが先頭を歩く。
 部屋を出ていく際、ミズキは、アヴィルの堅物は気にせず、またわたしに会いに来てね、と笑っておれたちを見送ってくれた。でも、アヴィルを主に持つミズキには悪いけど、どうしてもあのあまりよくなかった第一印象の姿が抜けないおれには、その名前を聞くだけで肩が重くなる。気にしないなんてやっぱりできない。
 ありがとうと言った時、おれ、普通に笑えたかな。
 別にアヴィルも、なによりミズキも、誰も何も悪くない。――レドさんが言ってた通りに、おれたちの置かれた状況が、それが悪かったんだ。おれたちの身元がはっきりしてれば、こんなことにはならないもんな。
 どうしようもないことをどうにかしようとしても、しかたないんだ。今は、なりゆきにまかせるしかないんだし。
 廊下を歩きながら、そっと心の中でため息をついた。すると斜め前を歩いていた岳里がちらりと流し目でこっちを見てきて、どきりとした。心の中で吐いた息が、聞こえてるんじゃないかと思って。
 思わずおれがかたまりかけると、その前にあっさりと岳里の視線は外され、代わりにその目はおれの後ろを見た。不意に、足も止める。そこまで岳里との距離が離れていなかったおれはぶつかりそうになって、慌てて止まったが、別のことに気を捕らわれていたせいで判断が遅れて、そのまま岳里の背中に顔から衝突する。

「ぷっ」

 よろけさえしない岳里の身体はクッションの代わりにはなろうともしてくれず、もろにその衝撃はおれの、主に鼻にきた。
 でかい背中から顔を離して、急いで鼻を押さえる。
 おれの間抜けを聞いたのか、レドさんの足音が消えた。

「どうした、ふたりとも」
「あ、いや、岳里が……」

 岳里の影にすっぽりとおれが隠れてしまってるせいで、前にいるレドさんの姿が見えない。鼻を押さえながら、声を張って答えた。
 悪いのは、岳里だ。突然止まるほうが悪いんだ!
 おれは別にどうもしてない、という言葉も溶かしながら伝えてから、そっと鼻を押さえていた手を離してみる。しばらくしても濡れた感じはこない。どうやら鼻血は免れたみたいだ。
 それぐらいに、岳里の背中は痛かった。石みたいにかたいというわけじゃないんだけど、鼻血が出る心配をするくらいに柔らかくもない。
 ――ふん、どうせ背中の筋肉もすごいんだろ。

「岳里?」
「来るぞ」

 何が、とレドさんが尋ねるよりも先に、自ら答えを主張するように地鳴りが聞こえた。遠くから聞こえる微かな叫び声に、おれもその正体にすぐに気がつく。

「……あいつは普通に来ないのか」

 ため息混じりのレドさんの声は、どこか疲れを滲ませる。
 そういえばおれも、あの人の普通の登場を見てな気がするな。
 そう思っているうちに、地鳴りと、そして叫び声がはっきりとここへ届くようになる。

「レードゥうううう!」

 そのころにはもう、廊下の奥から真っ直ぐにこっちに向かってくる紫の塊が見えた。

「おいふたりとも、壁際寄っとけ。ぶつかんぞ」

 いつまでも岳里の影にいたまま、レドさんのことになるとあの人は恐ろしいんだな……なんてしみじみ考える。すると、ひょっこり岳里の脇から出てきたレドさんが、おれと岳里を壁に押しやった。
 レドさんはそのまま、面倒くさそうな顔をして、廊下のど真ん中に立つ。その顔は、やっぱりどこかけだるげだ。
 ――ていうか、レドさんはそこにいて大丈夫なのか?
 という心配は、結局はまだふたりのことをよくしらないおれには杞憂だったらしい。
 ハートを辺りに飛び散らせながらレドさんの名前を叫び突撃してきたヴィルさんとレドさんがぶつかる、と思わずおれは目を閉じた。けれど一向になんの音も、悲鳴も聞こえない。
 恐る恐る目を開ければ、そこには以前にジィグンとハヤテさんの出会いの時にあった流血沙汰の悲劇はなく、かわりに、至福そうに頬を緩ますヴィルハートさんと、うんざりとしたようすでそのヴィルハートさんに正面から抱きつかれるレドさんがいた。

「ああ、逢いたかったぞレードゥ。おぬしがこのわしを頼るなど、そう無いこと。言伝を聞いた時から早うこうしたかったぞ……!」
「そうか、うん。わかった。わかったから、そろそろ離れてくれよな?」

 すりすりとレドさんの頬に自分の頬を擦り寄せるヴィルハートさんはまるで聞こえていないみたいに、ふふふ、と涎を垂らしそうな勢いで幸せを感じている。
 はぁ、とレドさんがため息をついてもお構いなしだ。
 本当、ふたりは仲がいいんだな……ちょっと、ヴィルハートさんの愛情表現が激しすぎるけど、でも、レドさんが少しうらやましいかも。
 決して男に言い寄られることじゃなくて、激しい愛情表現に疲れることでもなくて、こんなにもはっきりとした好意を寄せてくれる相手がいるということだ。もちろん、自分もそう嫌いじゃない相手から。
 今はけだるそうな表情をレドさんはしてるけど、嫌ではなさそうに見える。単に諦めているようにも見えるけど、本当に嫌だったりしたら普通、拒否するのってやめないはずだ。好きにさせてもいいと思える相手だから、ヴィルハートさんを自由にさせてるんだろうな、とおれは思う。
 きっとレドさんにしてみれば大変なことなんだろうけど、でもそういう関係が、ちょっとだけうらやましいんだ。楽しそうっていうか、腐れ縁みたいなものがっていうかなんて言えばいいのかよくわからないんだけど……。
 ふたりをじっと見ていると、ふとヴィルハートさんが振り返り、おれと目が合う。

「む、真司よ、体調はもうよいのか?」
「あ、はい……お陰さまでもうすっかり」
「そうか。ならばよかったな。これでわしも安心だぞ」

 だが治ったと思って油断はするでないぞ、と、これまでに何人にも言われた忠告を、ヴィルハートさんも口にする。それには頷きで応えた。
 やっぱりおれを気にかけてくれるヴィルハートさんはいい人だなあ。少しだけ話したことがあるけど、レドさんが絡まなくちゃそう変な言動はとらないし。

「おい、そろそろ行くんだから離せ」
「つれないことを言うでない。おぬしとわしの仲ではないかっ」
「仲って……ただの幼馴染だろ」
「今はな」
「今後もだっつの」

 普通にしてれば、普通にいい人、なんだけどなあ……。
 しばらく攻防戦を繰り広げてから、ヴィルハートさんはしぶしぶレドさんを離した。ようやく移動を再開して、みんな歩きはじめる。

「今からジャスのもとへ行くのだろう?」
「ああ、あの馬鹿研究に夢中で一向に真司たちのところに顔出そうとしねえからな」

 前に部屋に案内された時みたいに、レドさんとヴィルさんが前を歩いて、おれと岳里が後ろをついていく形で進んでいく。

「次に会いに行く隊長さんって、発明家かなにかなんですか?」

 自信がない相手の名前をぼやかしながら、おれはふたりの会話に混じった。

「発明家……まあ、一応そうなるのかね。」

 レドさんの歯切れの悪い返事に、ヴィルハートさんが続ける。

「十二番隊は開発部隊ゆえ、それを束ねるジャスは真司の言う通り発明家と言えるだろうな。作るものの大抵ががらくたとはいえ、まあ使えるものも発明しておるし」
「へえ……えっと、何番隊かによって、仕事とか、ちがうんですか?」

 前にも七番隊、セイミヤの隊は別名治癒隊と呼ばれている、と聞いたことがある。今回は十二番隊が、開発部隊と呼ばれていた。なら、全部で十三隊ある各隊ずつに何か役割があるのだろうかと、単純に疑問に思ったおれは、ふたりに尋ねた。

「ああ、それぞれ主立った役割が違うんだよ」

 レドさんが率いる一番隊と、コガネさんが率いる二番隊は迎撃部隊と呼ばれているそうで、仕事もその名の通り迎撃をする隊らしい。
 迎撃の意味を知らなかったおれが後からこっそり岳里に聞けば、攻めてくる敵を迎え撃つことだ、と教えてくれた。
 今は隊長不在の三番隊と、ジィグンの主であるアロゥさんが率いる四番隊は、城内警護。
 アヴィルが率いる五番隊と、今はまだ会っていないライミィという人が率いる六番隊は城壁警護。城壁と言ってはいるけど、街の治安を守ることも活動に入っているらしい。
 次のセイミヤを隊長とする七番隊は、治癒部隊。医療関連のことを任されているそうだ。
 ハヤテさんが率いる八番隊は空上部隊、ヤマトさんが率いる九番隊は陸上部隊、さっき会った女の子の獣人のミズキ率いる十番隊は海上部隊と言って、それぞれ城を離れた国の領土に現れる敵、主に魔物の退治をしているらしい。名前の通り、八番隊は空を、九番隊は陸を、十番隊は海をと、守備範囲を分けて見回っているそうだ。この三つの部隊には特に獣人が集められているみたいで、各隊の隊長も獣人であることが特徴らしい。主に戦うことが仕事、らしいから、隊員に獣人が多いのは、身体的に優れているからだそうだ。
 ネルが率いる十一番隊は、国王警護。王様の警護と、身の回りの世話も含めた仕事で、非戦闘員も少なくはない隊みたいだ。
 そして次に、今からおれたちが会いに行くジャンアフィスさん率いる十二番隊は、さっきも聞いたように開発部隊。兵器の製作から、一般的日常で使える便利な用品も開発したり、他にも開発だけでなく魔物の生態の研究もしているみたいだ。ようは、科学者の集まりみたいなものだと思う。ここの隊は一番変人が多い隊だから、決してひとりで近づくなとレドさんに念を押された。
 ついでのように教えてもらったけど、光玉だったり、風呂場で使うシャワーの役割をする水玉だったりは、実はアロゥさんだけでなくそのジャンアフィスさんも協力して作ったものらしい。
 最後に、ヴィルハートさんが率いる十三番隊。ここは、特攻部隊と呼ばれているそうだ。正式名称で、特別攻撃部隊。主立って戦地に赴くのが、この隊らしい。

「十三番隊の仕事は、その名の通り――いや、やっぱなんでもない。まあ、ざっと説明してこんなもんだな」

 レドさんは十三番隊の説明だけは言葉を濁し、中途半端にそれを終わらした。あまりに不自然な区切り方に、前を歩くレドさんを見るけど、まるでおれたちから逃げるように顔を真っ直ぐ前に向けていた。隣を歩く十三番隊の隊長であるヴィルハートさんに視線を移すと、その紫の目はレドさんを見て苦笑いをしている。
 たぶん、レドさんの様子からいって、きっと十三番隊にだけはおれたちに説明しづらい何かがあるんだろう。中途半端に終わった話が気にならないと言えば嘘になるけどふたりを困らしたいわけじゃない。一度は尋ねかけてたその言葉を飲み込んで、代わりに違う、当たり障りのない台詞を呟いた。

「やっぱりそういうのって、大変なんですね……」
「まあな――――まっ、更に細かく分ければ各隊の中に更に小隊があるんだが、その話はまた機会があったらな」
「はい、ありがとうございます」

 振り返りはしない背中にお礼の言葉を投げかければ、そのまま片手をひらひらと振って応えてくれた。
 それぞれの隊にそれぞれの仕事が振られているそうだ。だけどそれは絶対ではないみたいで、人が足りなければ、本来その仕事を任されている隊とは違う隊がその仕事をこなすこともあるらしい。特にレドさんとコガネさんの一番隊と二番隊は、あまり自分の仕事に動くことはないらしくて、五・六番の街の見回りか、八・九・十番隊の魔物討伐を手伝うか、もしくは十三番隊の特攻部隊の援護に回るかのどれかをするらしく、結局は暇がないのだとレドさんは笑っていた。
 自分の中でさっき聞いた話の整理をしてみたけど、全部を理解したかと言えばそうも言えない……自分で聞いておきながらも、一度に理解するのはやっぱり難しい。
 後で岳里に内容を確認させてもらおう。
 やつに聞けば間違いあるまいと思っていると、不意に、ヴィルハートさんが歩きながら、おれたちのほうへ振り返った。

「ところで真司よ」
「は、はい?」
「おぬしはなぜわしらに気を使うて話すのだ?」

 え、と小さく声を漏らし、おれは思わず足を止めた。
 それを見た三人も、足を止めておれに向き直る。
 ヴィルハートさんを見ると、素直な疑問を口にしている、と言ったように小首を傾げていた。

「え、っと、それは……?」
「む? ああ、すまん。急ぎすぎたな。わしが言いたいのは、なぜ真司がわしらに言葉を正すのかということよ。それに、よく何か言いかけ止めることもあるだろう。そういった気遣い、遠慮を、なぜする?」

 そう言葉を足されても戸惑うおれに、ヴィルハートさんはさらに細かく教えてくれた。

「この城の中にいるおぬしたちと同年代の者、もしくは下の者は、礼儀を弁えている者しかおらん。だがそれは、兵士としての義務と言うても仕方がない決まりだからだ。一度街へ出れば、真司たちほどの年の者は大抵が生意気なやつばかりだぞ。言葉を正すといっても、堅苦しさなど微塵も感じぬ小生意気なものでしかない。この城にいる子らが特別と言ってもいいだろう」

 どうにかヴィルハートさんの言っていることを理解しようと頭を回転させる。
 つまり、どうしてそう畏まるのかって、ことなのか? でもそれなら、年上の、しかも隊長という偉い立場の人に敬語を使ったりするのは当たり前だとしか答えがない。

「まあ、それはあくまでこちらの世界の話だがの。おぬしたちの世界をわしは知らぬ。だが、真司と岳里とでは態度の差がありすぎるように思えるのだよ」
「――ヴィル、その辺にしとけ。別にそんなのどうだっていいだろ? 真司を困らせてやるなって」

 ヴィルハートさんが次の言葉を続けようとしたところで、レドさんが割り入った。
 少しため息混じりの声に、ヴィルハートさんの視線がおれから逸らされてそっちへ向くけど、首を振る動作を見せて、レドさんに答える。

「レードゥよ。彼らが今わしらへ示すべきは信用できるか否か、だろう? ならば、わしらと彼らとの間に信頼を作る他あるまい。そうするに至り、妙な壁は不要とわしは考えておるのだよ」
「そりゃ、まあな……ったく」

 レドさんはその考えを正しいと肯定するように、頬を指先で掻き、しずかに身を引いた。壁に寄りかかり腕を組み、改めて聞く体勢を作る。
 そこで初めて、ヴィルハートさんの言葉を胸の内で繰り返していたおれはその真意に気がついた。
 それを確信づけるかのように、ヴィルハートさんはまたおれたちに、おれに、振り返る。

「よそよそしい信頼は、一度疑いが間に入れば簡単に黒に染まってしまうもの。それを確固たるものにするのには、要らぬ壁など取り払い、互いに歩み寄れるだけ歩み寄るしかあるまい。だが今の真司の前には、その要らぬはずの壁が見える。それは拒絶とは異なるが、遠慮だの、結局は互いの距離に線を引くものでしかないようにわしは思えるのだ」

 ヴィルハートさんは、おれのその、年上の人には礼儀を、という態度が気に食わないんだろう。いや、気に食わないって言い方は違うかもしれない。心配、してくれてるんだと思う。
 さっきも指摘された通り、おれたちが今この世界の人に示さなくちゃいけないのは、信頼だ。正確にいえば、おれたちが本当に異世界の人間だってこと。もしかしたらどこかの国のスパイかもしれないっていう可能性を疑われているわけで、それを払うには何か証拠が必要だ。けれど、それだけじゃなくて信頼も必要なんだ。その証拠を見せても、受け入れてもらえるような。だから、根本的に必要なのは信頼関係。
 その大切な信頼を、ヴィルハートさんは今のおれとじゃ築くことが難しいと言ってるんだ。

「――まあ、先程述べた、真司と岳里との態度に差がある、というのは訂正しよう。わしらの目から見ても、岳里は少し毛色の変わったやつだということは伺えるからな。だが、それにしても真司よ。おぬしは少し、周りを気にし過ぎではないか?」

 周りを気にし過ぎではないか。その言葉を合図とするように、おれはうなだれた。真っ直ぐに見てくるヴィルハートさんとこのまま目を合わせていられなかった。
 どう言葉を返していいのか、悩んだ挙句に、おれは思ったこと呟くように口にした。

「――だって、迷惑、かけますし……」

 自分の気持ちの大きさを表すように弱気で小さな声は、きちんとヴィルハートさんに届いただろうか。それを確かめたくても、顔を上げる勇気はなかった。そして、中途半端に区切った言葉を続けることもできない。
 ただおれはヴィルハートさんの視線を、みんなの視線を感じながら、小さくなる。

「それは誰にだ?」
「え……」

 そう切り返したのは、ヴィルハートさんじゃなかった。
 思わず顔を上げると、その声の人物は、何を考えているのかまったく読めない、相変わらずの無表情と目が合う。今まで沈黙を貫いていた岳里が、痛いくらい真っ直ぐにおれを見詰めいていた。

「それはヴィルたちにか、それとも自分自身にか、それとも他の誰かか」

 おれが迷惑をかける、と言ったのは誰に対してなのか。
 そんなのわからない。ただ、おれが年上の人に、大人にしっかりしてる姿を見せなくちゃ迷惑がかかる、と思っただけで、それが誰に対してのものだなんて。
 普通なら、自分のためなんだろう。でもそれは少し違う気がする。おれはおれに迷惑がかかるから、しっかりしなくちゃと思ってるわけじゃない。でもなら、誰のために――
 ふとその時、今一番逢いたい人の顔が浮かんだ。
 岳里の言葉を、心の中で繰り返す。ヴィルハートさんたちか、おれか、それとも他の誰かか。
 きっと、多少言葉が荒くてもレドたちに迷惑はかからない。失礼な態度をとらない限り、おれ自身に不都合があるわけでもない。なら、おれが迷惑をかけると思った相手は――。

「兄のため、なのだろう」

 滅多に笑うことのない岳里が小さく微笑んだ。
 ――ああ、そっか。そうだったんだ。
 すとんと、ふわふわと宙を漂っていた不安定な思考か、地に足をつける。
 おれの両親は、おれがまだ小学生の頃に交通事故で亡くなった。両親が死んでから、おれを育ててくれたのは年の離れた兄ちゃんだ。たとえ親がいなくても、兄ちゃんが、親代わりになってちゃんとおれを育ててくれた。仕事で忙しくてもおれの面倒を手を抜くことなく見てくれたし、寂しくないようにって休みの日は必ず一緒に遊んでくれた。でもそれだけじゃなくて、悪いことをしたらしっかり拳骨のおまけつきで叱ってくれたりもして、本当に、兄ちゃんは立派に両親の代わりを務めてくれたんだ。つまみ食いをするだけでも鉄拳をくらわす辺り、もしかしたら周りよりも少し厳しかったかもしれない。
 兄ちゃんは言ってた。親がいないからといって、おれが笑われないように、と。
 おれを立派に育てようとしてくれた兄。だけど、年が離れているといっても、その頃は兄ちゃんもまだ高校を卒業したばかりで世間で見ればはとても若かった。周りは兄ちゃんがひとりでおれを育てると言った時は、当然のように大反対したらしい。けれど兄ちゃんが強い意志を持って反発したからこそ、おれたち兄弟は一緒にいることができたんだ。
 おれがどう行動しようと、いたずらだとか、悪いことをしない限り兄ちゃんは好きなようにさせてくれた。それも、実は両親がいないからと言って不自由な思いをさせないため、周りと同じように生活できるようにという兄ちゃんの意図があったのをおれは知っている。
 そうやって兄ちゃんがおれのことを考えて、思って尽くしてくれることは本当に嬉しかった。だからこそ、おれにもやるべきことがあるんだって気がついたんだ。
 おれの行動は、おれの意志だ。おれの責任だ。でも、おれはまだ子供で、本当にその責任を持つのは保護者だ。子どものおれが何かをやらかして、それは自分の責任だとどんなに言っても、結局はおれの保護者である兄の教育がなってなかったのだと、おれでなく兄ちゃんが責められるんだ。
 おれはそれをわかっていた。だから、背延びをしようと決めたんだ。兄ちゃんが、親がいないからといっておれが笑わわれないように、と思ってくれたように、おれも兄ちゃんが、若いからといって、子どもを育てられないと言われないように。
 友達にはそれまでと変わらず接したけど、先生や友達の親、出会った先の大人たちみんなにつま先立ちの姿を見せて、兄ちゃんはちゃんとおれを、しっかりと育ててくれているんだと、アピールしたんだ。
 大人と話す時は落ち着いて、敬語を使って、自分勝手にならないように。出来る限り対等になる気持ちで。わがままなことを言わないように、口数は少なくして誤魔化して。
 他にも行動とか、大人の目が少しでもあればおれはできる限り努力をした。この世界に来てからは混乱が大きくて、レドさんたちの前でも取り乱したりもしたけど、これまでのおれはそう意識してたんだ。
 そんな努力の甲斐あってか、しっかりしてるのね、と、よく大人たちから言われるようになった。お兄さんもしっかりなさってるものね、と言われることもあって、それがなにより嬉しかった。

 

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