自慢の兄だ。兄ちゃんが、おれを育ててくれてるんだ。おれはしっかりしてるけど、それは兄ちゃんのお陰なんだ。兄ちゃんが立派なんだ。

「おれ……」

 兄に迷惑がかからないように、ずっと。ずっと、おれはそうしてきたんだ。
 おれは兄ちゃんのために、そう振る舞ってきた。それが正しいと思って。実際それは間違ってなかったわけだけど、けれど今はそれが邪魔をしていると言われた。
 なら、おれはどうすればいいんだろう。

「この世界と、おれたちのいた世界とは、違う」

 おれの迷いなどそしらぬように、当然といったように、岳里は戸惑いなんて微塵も見せない声音を放つ。

「おまえが兄のためを思ってしたその行動は正しい。それに、これからは自分のために、同じように振る舞うことが必要となってくるだろう。だが、それはおれたちの本来いるべきはずの世界でだ。この世界でおまえは自分の身の振りが他人に影響するという心配をする必要はない。むしろ、おまえはおまえのために行動するべきだ」

 おれはおれのために行動するべき。この世界で、おれが何をしても、それが兄ちゃんのせいとなることはない。おれの責任はおれの責任だ。だからこそ、兄ちゃんのためでなく、おれのために動くべきなんだろう。そう、岳里は言ってくれている。
 ――でもやっぱり、わからないんだ。今までの自分を見てきて、どう変わればいいかなんて。どうすれば、いいかなんて。
 おれは応えられず、ただ黙りこんだ。頭の中では必死になって答えを探しているのに、見つからない。見つからないから、折角おれに変わるきっかけをくれる岳里に何も言えない。
 真司、と岳里がおれを呼んだ。初めて、おれに向かっておれの名前を呼んでくれた。
 無意識のうちに顔を上げておれを見る目を見返せば、岳里は言う。

「何も迷うことはないだろう。道は示されている」

 ――そっか。うん、そうだよな、岳里。ヴィルハートさんも、言ってたもんな。
 道は示されている。岳里の言う通りだ。それなのにおれは、なにをそんなに迷っていたんだろうか。

「ああもう、ややこしい! まどろっこしいんだよ、ヴィルも岳里もっ」

 不意に、そう声を荒げたのはレドさんだった。その言葉を身体でも表すように、右手でがしがしと長い赤毛の髪を掻き上げた。
 背を預けていた壁からおれに歩み寄り、目の前で腕を組む。

「いいか、真司。ヴィルが――おれたちが言いたいのは、もっとおれたちに素で当たれってことだ。気なんて遣わなくていい。甘えてくれたっていい。できれば友のように接してほしい。そう思ってるんだよ」

 誰にも相の手すら入れさせるつもりがないというように、レドさんは早口で、さらに言葉を連ねる。

「だいたいおれたちが隊長だからとか、おまえより歳が上だからとか、そんなことを気にしてんだろ? なら、この世界で王以外に礼儀を尽くさなくてもいい! 隊長とかどうとか、気にすんな。そもそも誰もおまえがどんなに軽く接しようが気になんざしねえよ。むしろ、変に改まられると逆におれたちが気遣っちまう。だからもう、おれたちに遠慮とかは無用なんだよ! ――ええっとそうじゃなくて、あーもう! つまりだなっ」

 またはじまりにもどったように片手で髪を掻き上げると、レドさんは強いまなざしでおれを見詰めた。
 そして一息吸って、叫ぶ。

「おれはおまえと、仲良くなりたいってことだ!」

 そう熱く申されたおれはただただかたまり、応えようと口を開く前に、レドさんはおれから目を逸らして、両手で頭を掴んでうなだれる。

「……畜生、なんでこんないい年こいて、こっぱずかしいことをおれは言ってんだ……ああもう、ヴィルのせいだぞ!」
「な、何故わしのせいになる!?」

 再びばっと顔を上げたレドさんが睨む先にいたのはヴィルハートさんだ。ヴィルハートさん自身も自分に矛先が向くとは思ってなかったらしく、ぎょっとしたように自然に出てきた言葉を叫んだ。

「短気を起こしたレードゥが自ら申したのではないか! いや、そういう世話焼きなところもわしは勿論あいして、ぐはっ」
「黙れ馬鹿、寄るな阿呆!」

 どうしてそんな風に持っていけるかはわらないけど、これまでに幾度となく聞いたヴィルハートさんからレドさんへの愛の叫び。けれどそれはヴィルハートさんがレドさんに抱きつこうとして振り上げた両手がその身体に触れる前に、両手の動きと一緒に中途半端に止まった。見事に隙だらけな土手っ腹に、レドさんの拳がめり込んだからだ。……あれは本当に痛いだろう。

「ぐうう、さすがわしの惚れた男よ、よき拳じゃ……」
「おまえ、本当に大丈夫かよ……」

 それでも、うずくまりながらもヴィルハートさんは嬉しそうに笑顔を浮かべていた。
 その姿を見て、レードゥさんもさすがに一歩後ろへよろけるように下がる。

「――ぷっ」

 おれは思わず吹き出した。
 みんなの視線が、おれに集まる。けれどもう、それに慌てて取り繕うなんてことしない。ほころんだ口元も、そのままにして。

「あはは! もう、仲がいいんだか悪いんだか、どっちなだんよ!」

 自然に浮かぶ笑顔に身を任せ、思ったことを口にした。けれどそれに気を悪くするふたりでもなく、おれにつられるように口元を緩ませる。

「うむ! わしらは仲がよいのだぞ!、うらやましかろう!」
「悪くないってのは認めるけど、そんなうらやましがられるようなもんでもないだろっ」

 そうしてまたはじまったふたりの口論に、おれは何故だか大げさなくらい笑った。目に涙が浮かぶくらい、この世界に来てはじめて、大笑いした。
 なんだろう。すごく心が軽い。スカッとしたっていうか、なんていうか。よくわからないけど、すごくすごく、気分がいい。
 ひとしきり笑った後、おれは目尻に薄らと浮かんだ涙を拭う。

「――でも、おれもそんな風になりたい。おれもふたりと、みんなともっと仲良くなりたい」

 ふたりみたいに、言いたいこと言い合って、喧嘩して、でもすぐ仲直りする、そんな友達のような関係。年齢とか住む世界が違うとかそんなの普通の、なんの垣根もない友の関係。レドさんが言ってくれたように、おれも、そうなりたい。
 そう言えば、さっきとはまた違った優しい笑顔をふたりは浮かべた。

「そうか。ならばまず、わしのことをヴィルと呼べ。みなそう呼ぶぞ」
「おれのことも呼び捨てで構わないからな」
「うん、ありがとう。――ヴィル、レードゥ」

 多少舌ったらずな感じになりながらも、ヴィルと、そしてレードゥの名前を呼ぶ。
 レードゥは驚いたように少し目を見開かしたけど、それでも笑顔で受け入れてくれた。
 それから気を取り直して再び歩き出したおれたちの間には、少しも居づらさを感じなくなったていた。以前は移動中に少なかったふたりとの会話も弾み、なんだか前の世界に戻って、友人たちと気兼ねなく話していたあのころに戻ったみたいだ。それが、凄く嬉しくて、また少し、この世界で頑張ろうと思えた。
 会話の途中で再びはじまったレードゥとヴィルの口論に、おれは笑いながら、ふと隣を歩く岳里を見る。
 唯一岳里だけが、雰囲気が変わっても口数を増やすことはない。相変わらず何を考えているかわからないけど、その歩く姿勢のよさはぴしっときまっている。

「――岳里」

 名前を呼べば、返事もなにもなく、ただ顔だけが向けられた。
 この世界に来てすぐの頃は恐ろしく思えたその仕草が、今のおれには違く見える。相変わらず無表情だとは思うけど、怖いと思う気持ちはまったくない。そう思えることだけでも、すごく嬉しく思えた。

「ありがとな」

 珍しく岳里は、見落としてしまいそうではあったけど、小さく顔色を変える。驚いたように僅かに目を見開かせた。でもおれの言葉に応えないまますぐに視線を戻し、いつもの岳里に戻ってしまう。
 でもそれは、決して不快に思ったからじゃないって、ちゃんとわかった。それ以上の、何を思っているとかまではさすがにわからないけど、岳里が嫌と思ってないならそれでいい。
 おれも岳里から目を逸らして、目の前の目立つ髪色をするふたりのやりとりをほほえましく見詰めた。
 隊長ぐらいだったら言葉は正さなくていいし、敬称なんて使わずに呼び捨てにしちまえ。ただし王さまは勿論、アロゥさんあたりの人にはちゃんとしろ。――とか、そんな身の振りの話をしているうちに、何やら異臭漂う部屋の前に来た。
 扉の下の隙間からは、なんだか黒い液体がちょっとだけ出てきてる……。

「――くさい」

 そう呟いたのは岳里で、珍しく顔をしかめ、鼻を押さえていた。
 確かに匂いは臭く、何かが腐ったような不愉快なものだ。でもそこまでは感じない。どちらかといえば、くさい、かな? と違和感に気付くぐらいだ。鼻を押さえるほどではないような気がする。
 色々と常人離れした岳里は、もしかしたら鼻もすごい効くんだろうか。

「大丈夫か? すぐ済ますから、悪いけど少し堪えてくれな」

 ヴィルが扉の前に立ち、ではゆくぞ、と一言声をかけてくれてから、ノックをした。

「ジャスよ、おるか」
「――――ヴィル?」

 そう間も置かずに開いた扉からは、ひょろりと長身だけどかなり細身の、白衣の男の人が出てきた。
 この人が、ジャス――ジャンアフィスなのかな。
 緑の髪を胸の半ばぐらいまで伸ばし、肩で結ったその人は、少し下がっていた眼鏡を中指で押し上げながら、同じく濃緑の目でヴィルを捕らえた。不健康そうに白いその顔は、三十代ぐらいに見える。意外そうに目を見開いている姿は、おれの思う科学者の姿とは少し異なった。なんかこう、もっとクールでスカした感じなのかと……。
 でもジャンアフィスは、素直に感情を出す辺り、そう気難しそうでも、とっつきにくそうな感じも見えない。
 ジャンアフィスと思われる人は、はじめはきょとんとしていた顔に笑みを浮かべた。
 ドアノブにかけたままだった手を離し、よれよれで所々謎のシミを作っている白衣の襟を正す。

「珍しいじゃないか、ここへに訪れるなんて。ん? おまけにレードゥまで」
「うむ。今日は真司たちをおぬしに紹介すべく参ったのだ」
「ちなみにおまけはおれじゃなくてヴィルな、ヴィル」

 どっちでも構わなくはないか? と尋ねるジャンアフィスに、レードゥは重要だ、と答える。
 その姿を見る限り、なんとも普通な会話だ。ミズキやみんなが言うような変態には見えない。

「おい真司、岳里、こっち来い」
「あ、うん」

 レードゥに手招きをされて、おれと岳里は数歩分空いていた三人との距離を埋めた。
 その間にジャスと目が合ったが、人がよさそうに笑顔で迎えられる。

「やあ、はじめまして。君たちがあの、異世界から来たと言う少年たちだね? わたしはジャンアフィスだ。ジャスと呼んでくれて構わないよ」
「――おれは真司。よろしく」

 戸惑いながらも、おれは自分で選んだ言葉を口にした。ジャスを見てみれば、その顔から笑顔は消えてはおらず、よろしく頼むよ、と返された。
 よかった……。やっぱりレードゥやヴィルがああは言ってくれたとしても、不安がないわけじゃなかった。けれど今のジャスの反応を見て、少なくともふたりの言ってたことは気遣いじゃないとわかれてよかった。
 おれがひとり胸を撫で下していると、ふと空気がおかしいことに気がついた。

「…………」

 隣に顔を向けてみれば、なんだか少し怪訝そうに沈黙をする岳里の姿があった。
 ――ああ、そっか。普段なら、おれが名乗った後すぐに岳里も名乗るはずなのに、今回はそれがないんだ。
 一体、どうしたっていうんだろうか。レードゥたちも、不思議そうに岳里を眺めていた。ジャスさんに至っては、困惑しているようにも見える。
 さすがにこのままじゃどうしようもできないと、おれが声をかけようとすると、その前に岳里は口を開いた。

「――岳里だ」
「ああ、よろしく岳里」

 その声は普段となんら変わらなくて、もう一度視線を向けてみれば、さっきみたいな、何かを感じているような顔ではなくて、いつもの読めない無表情に戻っていた。
 本当に一体、どうしたんだろう。それとも、さっきのはおれの気のせいだったのか?
 不意に岳里がおれへと視線を向けたので、おれは慌てて目を逸らした。あまりに不自然なその動作に気がついたヴィルにどうかしたのかと心配されたけど、首を振ってそれに応える。内心では、なんであんな風に逸らしたんだろうと、自分でもよくわからないもやが巣食う。
 いつもドンと構えているような印象の岳里が表情を変えると、なんだかおれまで不安になる気がした。

「――さて、もう行くかな」
「何だ、もう行ってしまうのかい?」
「まあ、挨拶も済んだことだしな」

 そう声を上げたレードゥに、すぐにジャスは反応を見せた。
 その瞬間、レードゥが気まずげに視線を逸らすのをおれは見てしまう。

「まあなあ、そう急くこともないだろう? 挨拶だけでは寂しいじゃないか」
「いや、でもほら、まだ行くところもあるしよ」
「大丈夫、そう時間はとらせないから。なあ、真司、岳里」

 にこやかにレードゥに迫っていたジャスは、不意におれたちへ振り返る。その顔には、人のよさそうな笑顔が残ったままだ。

「多少の時間なら、あいているだろう?」
「え、それは……」
「わたしは君たちと交流を深めたいのだよ。君たちのような異界の住人に会ったことなどないので、興味があると言うのが正直なところなのだがな」

 笑顔だけど、笑顔なんだけど……なんだか少しずつ、ジャスさんとおれとの距離が詰まっていく。おれが後ずさりしても、その分ジャスさんはにじり寄る。
 発明家としておれたちのことがやっぱり気になるんだろうし、おれも話ぐらいならしてもいいと思うんだけど、気になるのはやっぱりさっき見たレードゥの言動だった。
 どうも、早くここから離れたそうだったけど……。
 やっぱり断るべきだと思って声を出そうと口を開くと、目の端で岳里が動こうとしているのが映った。その目つきは、やけに険しく見える。
 これはまずい、という考えが確定される前に、おれは無意識のうちに声を出していた。

「だ、大丈夫! 少しぐらいなら……」
「ばっ……!」
「本当かい? ありがとう」

 おれの声に、迫っていたジャスさんは離れ、レードゥは言葉を詰まらせてから、手で顔を覆って宙を仰いだ。ヴィルは対象に、深くうなだれる。けれどおれにとっての最重要項目の、岳里の制止は果たされたようで、目を向ければやつは伸ばしかけていた手をゆっくりと下ろしているところだった。
 レードゥとヴィルが何か考えてたのはわかるけど、でも岳里がジャスに何かしてからじゃ遅いから……ごめんふたりとも。
 心の中で謝りつつ、目の前で嬉々として扉を開けるジャスを見た。そして、その開いた先に視線を移して、おれは早くも選択を間違えたことを知る。

「散らかっていて恥ずかしいんだが、ここではなんだからな。さあ、どうぞ中へ」
「え、あ、は、はあ……」

 歯切れの悪い返事とともに、顔が引きつる。けれどまるでそれには気が付いていないように、ジャスの笑顔は無邪気だ。今さらやっぱり、と言わせないように。
 ちらりとジャスの隙を見てレードゥたちに目を向ければ、若干責めるような目でおれを見ていた。やっぱり、間違いだったみたいだ。
 最優先事項は何をしでかすかわからない岳里を止めることよりも、何か危険があるジャスのお招きを断ることだったんだ、きっと。
 今さら気がついても遅いと言わんばかりに、ジャスは入らないのかい? と笑って見せた。
 案内されるままに部屋に足を踏み入れれば、外で感じていたあの匂いが直球に鼻に、猛烈なアピールかましてくる。

「こりゃまた……いつになく臭えな」
「うむ、今回は何をしておったことか……」
「すまないね、今窓を開けるから待っててくれ」

 山積みになった書類や本の山に自然とできた道をするするすると避けながら、奥にある窓までたどり着くと、ジャスはまず引かれていたカーテンを開けた。光玉の光ではない自然の光が部屋に入り込む。
 かちゃりと鍵を外し、窓が開け放つ。一気にさわやかな風が入り込んで、部屋の中の濁った空気を押し出す。
 ようやく詰めていた息を吐き出し、肩の力を抜く。臭いは未だこびりつくように部屋の中に残ってるけど、でもこれで少しはマシになる。
 ちらりと隣に立つ岳里を見れば、いつも通りの無表情だけど、でも顔色が悪いように見えた。扉の外からすでに臭いに不愉快そうにしていただけに、少し心配だ。大丈夫なんだろうか。
 不意に、岳里は視線だけをおれに寄こす。
 言うなら今だろうと口を開きかけた時、ばさーっと派手な音が立った。
 驚いて反射的に音のほうへ振り返ると、窓の近くから少しだけ部屋の中心に移動したジャスが、苦笑いを浮かべている。その足元には恐らく紙の山になっていたんであろう書類のようなものが、床に散らばっていた。

「あはは……すまないね」

 そう頭を掻きながら散らばる紙を避けて歩くジャスは、下に気をとられて今度は別の山を崩す。それもまた床に散るが、それだけで済まず、他の山にぶつかり次の山から、また次の山へ、連鎖していく。
 そうしているうちに、床一面が真っ白な紙に覆われてしまった。代わりに部屋はほんの少し広さを取り戻す。

「は、はは……まあいい、あとで直すよ」

 少しの間床を見詰めたジャスは、諦めたように肩をすくめると、避けることを止めてそのまま紙を足の下敷きにして戻ってくる。

「あ、立ち話もなんだから、どうぞ腰かけてくれ」

 さあどうぞ、と手で示された場所に視線を向けるも、隅にあるそのテーブルらしきものにも、椅子らしきものにも、何かごちゃごちゃ置かれている。科学の実験なんかでおれも使ったことのある試験管だったり、フラスコ、ビーカー、その他名前の忘れたものもいくつか……人ひとりがまるまる寝れそうな大きなテーブルに、所狭しと置かれている。そのどれもに共通するのが、何かしらの液体が入ってるということだ。色も様々で、無色透明もあれば黒いの、緑の、赤いの、金色に輝くものまである……一体何をどうしたら輝く液体ができるんだろう。
 でもその道具を見れば、何だか本当に発明家なんだなって思えた。
 改めて部屋の中を見回して、座れる場所が存在するのかを探ってみる。けれどいくらどうみて探しても、最初にこの部屋を見た時の衝撃そのままの状態だ。いや、実際いくつか山は崩れたけど、それぐらい大したことないみたいな……。
 だいたい十二畳ぐらいのそう広くない部屋の中には、もので溢れていた。
 まず左の壁際に長机が角から角までふたつがかりで伸びていて、壁にいくつもの玉が埋め込まれている。それは青色で、今までの経験から言えばたぶんそこから水が流れるんだと思う。
 その玉の下には水を受け入れるためであろう受け皿がずらりと同じ数だけ並んでいる。そしてその周りには沢山の道具が置かれていて、狭い道をするする歩く猫でさえ歩行が困難なほどだ。
 備え付けられた椅子の上にまで道具は居座る。
 他にも右の壁際には本棚が四つあるが、本はすべてぐじゃぐちゃに滅茶苦茶に入れられ、収まりきってない本が適当に放られている。床にはさらに研究資料か、それとも成果をまとめたものかは知らないけれど、おれの読めないこの世界の文字で書かれた言葉が陳列する紙が、山になっていくつも積み上げられていた。中には、おれの胸元までの高さがあるものまである。それぐらい器用なら、いっそ片づければいいのに。
 ジャスも今さらながら椅子すら占拠されていることに気がついたようで、苦い笑い声を上げた。

「あれ……はは、すまない、座れそうにないね……」
「いや、構わぬさ。そう長居もできぬしな」
「そうなのかい? 残念だね……」

 本当に残念そうに眉を寄せ顔を若干下げたジャスに、レードゥが肩を叩く。

「また今度暇がある時にでもゆっくり話せばいいさ。だからもうかえ――」
「そうだな。じゃあ時間もないようだし、手早くいこう」

 だからおれたちもう帰るぜ、と言ったレドの言葉を途中で遮ったジャスは、そのままくるりと白衣を翻し、紙の山でおれたちからは死角になってるばしょへ身体を屈め、何かをしはじめた。
 かちゃかちゃどガラス同士がぶつかる音を聞く限り、そこになにかあるのは間違いない。
 レードゥの言葉をうまくかわしたのか、それとも本当にただの偶然かはわからないけど、レードゥとヴィルが早く帰りたがってるのも確かだ。その手早く済ませようとしてる何かが、あまりにいいものじゃないんだろうな。だって、レードゥたちの顔が明らかに暗くなってるから……。
 何やらぶつぶつと、言い合っている。

「よし、今こそおまえの出番だ」
「やはりわしを呼んだのはこのためだったのだな……酷いぞレードゥよ、わしがどうなってもよいのか!」
「ばっか、うるさい。声がでけえんだよ、ジャスに気付かれちまうだろ」
「ぬ、すまぬ……」

 素直に謝るヴィルさんは改めて声を潜めるが、結局それすらおれたちに届いてることは気付いてるんだろうか。

「し、しかしだな、わしとて我が身は可愛いのだ」
「ならおれにやれって?」
「いや、そうは言っておらんっ。我が身よりもぬしの身じゃ!」
「じゃあよろしくヴィル」
「――っ、しかたがないな……」

 さすが幼馴染というふたり。レードゥのヴィルの扱いが、傍から見てもうまいと感じる。
 出会う時はあんなに動揺してるレードゥだけど、これが本来のふたりの姿なんだろうなあ。……ヴィルが尻に敷かれてるって感じ? レードゥはうまくヴィルの惚れた弱みにつけ入ってるよな。
 ふたりの話もまとまったところで、タイミング良くジャスが山の影から身体を起こす。その手には小さな小瓶がひとつ、握られていた。中には青く透明な液体が入っている。

「それは……?」

 おれが尋ねると、ジャスは待ってましたと言わんばかりに、ふっふっふっ、と笑いだした。

「これはだね、わたしが発明した腕が四本に増える薬だ!」

 ででーん! という効果音を背負いながら興奮するジャスの背後で、レードゥとヴィルが頭を抱えている。

「う、腕が四本になる薬……?」
「そうさ! 誰しももしもう二本腕があったら、あれやこれができるのにと思うことはあるだろう? それを実現させるのがこの薬だ!」
「は、はぁ……」

 なるほど、こういうことか。
 確かにすごく忙しかったりしたとき、自分がもうひとりいたら、とか、もうひとつ手があればなあ、と思ったことはある。でも現実的に見てそれは不可能だって知ってるからこそそう嘆くわけであり、もし本当にそれができるのなら、レードゥたちがあんな表情をするわけがない。この薬が本当に使える薬なら、もっとジャスを敬っててもいいぐらいだし。
 つまり、確実にこの薬は効果を示さないって、ことだな……。

「さあ、どっちが体験するかい!?」

 どっち、というのは明らかにおれか岳里のどちらかということで、子どものように輝いた瞳が見てくる。けど、絶対嫌だ。だってそんなわけのわからないもの……実際四本になるのも困るし……。
 かといって、岳里に押し付けるわけにもいかない。だけど、きらきらと瞳を純粋に輝かすジャスに嫌とも言えない。
 どうしたらいいんだと心の中で頭を抱えていると、ジャスの後ろにすっかり隠れていたヴィルが声を出した。

「い、いや、ここは、わしが……」
「おれが試す」

 どこかぷるぷると身体を震わしながら手を上げようとしたヴィルの言葉を遮り、岳里が名乗りを上げた。

「が、岳里っ」

 やめとけ、という意味も込めて名前を呼ぶが、岳里はおれを一瞥しただけで、前に歩み出ると、差し出された小瓶を受け取ってしまった。
 ヴィルはジャスの背後でどこか安心したように胸を撫で下す姿を見て、余計に不安が煽られる。
 ほ、本当に腕が四本になったら、どうしよう。いや、きっと気持ち悪い。
いくら顔のいい岳里でも、腕が四本の姿はちょっと……なんて考えているうちに、岳里が一気に小瓶を煽った。

「どうだい、甘くできているだろう?」

 飲み終え口元を腕で拭った岳里から小瓶を受け取りながら、ジャスはきらきらとした目のまま尋ねる。飲みやすいように甘く作ったんだ、という言葉も添えられる。
 だが岳里はその言葉を聞いて、怪訝そうに眉を潜めた。

「――かなり苦いが」
「え」

 予想していた回答と真逆の答えを聞いた途端、ジャスは顔を青ざめさせ、さっき小瓶を取りに行った山の影に慌ててまた向かった。
 それになんだか嫌な予感を募らせながらも、おれは岳里に近寄る。

「だ、大丈夫か、岳里……」
「別になんとも」

 本人は至って平常で、本当になんでもないように見える。けれど、薬ってそんなにすぐ効くものじゃないし、そもそも腕が増えるだなんてもの……いくらこの世界に魔術やなんやあったとしても、そればっかりはやっぱり信用ならない。
 思わず岳里の片腕を握ると、ジャスが山の影から身体を出したところだった。

「は……ははは」
「な、なんだってんだよ、ジャス」
「ははは……岳里くん、すまない!」

 突然笑いだしたジャスにレードゥが恐る恐るといった様子で声をかければ、ジャスは引き攣ったよう笑みを止め、ばっと岳里に頭を下げた。

「わ、渡す薬を、まま、間違えてしまったようだ! 本当にすまない!」
「な、なんだって!?」
「がが、がく、岳里っ、今すぐ、今すぐ吐け! 吐けぇっ!」

 ジャスの言葉を聞くと同時に、おれが岳里に掴みかかって全力で揺らした。
 今吐きだせばまだ間に合うかもしれない! やっぱりあの時止めとけばよかったのにっ。

「吐け、吐け!」
「ま、待て……首、が……」

 

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