この世界に来てからはじめて青い顔を見せる岳里に、おれは光を見出した気になってもっと激しく自分よりも大きな岳里の身体を揺らす。この時力を込めるあまりに岳里の首を絞めていたことにも気付かずに。
 途中からレードゥもヴィルも参加してみんなで岳里を揺らし、薬を吐きださせようとする。そこへ、慌ててジャスが止めに入った。

「だがあの薬は、一般人には効かないはずだ!」
「……本当?」

 その言葉を聞いて、おれはぱっと掴んでいた岳里の首元から手を離した。岳里は僅かに腰を屈めて、小さくせき込む。吐きださせるには後一歩だったみたいだけど、もしもやらなくてもいいんであればそっちのほうがいい。
 おれがジャスに、どういうことか説明しやがれと言わんばかりに詰め寄った。

「い、いやね、岳里が飲んだ薬は獣人の力を抑えるために開発したものなんだよ。まだ試してはないが、普通の人間には恐らく効かない、はず、です……」

 そういえば獣人は人間と違って身体が強いと、ジィグンが言ってたっけな。その力を抑えるための、獣人用に作られた薬だから、岳里には効かないと言いたいわけか。
 なら大丈夫か、とほっと胸を撫で下して振り返ると、まだ青い顔をして首元を押さえる岳里の後ろで、レードゥとヴィルが未だ浮かない顔をしていた。

「……岳里よ、念のためだ。ちとこれを手にしてみろ」

 そう言ってヴィルが示したのは、机の上に無数に置かれたガラスでできた入れ物のうちのひとつ。空のビーカーを示した。
 岳里は小さく咳払いをしてから、そっちへ歩み寄る。
 そして、空っぽのビーカーを掴み持ち上げた。
 五、六センチぐらい持ち上げたところで、岳里が呟く。

「……重い」

 そう重たげに聞こえなかったけど、ビーカーを持つ岳里の手は震えていた。
 岳里は冗談でそんなことをするやつじゃないから、本当に重たくて、それに耐えるために震えてるんだろうか。
 おれの身体を抱き上げることさえできる岳里がここまで筋力を落ちたのはやっぱり、あの薬のせいだろう。獣人にしか効かないとか言っておいて、人間にばっちり効いてるじゃんか。
 ビーカーをおれが岳里から受け取っている間に、ヴィルとレードゥがジャスに詰め寄っていた。

「ジャースー……」
「す、すまない! だが効果は一時間ほどでなくなるはず、それは間違いない」

 両手を胸の前で広げ肩を小さくするジャスは、ふたりに迫られ今にも泣きだしそうだ。だけど、それに憐れむ様子すら見せないレードゥたちの顔は怖い。なんだかそれは今起きた岳里のことだけじゃなくて、なんていうか、積年の恨みみたいなものが……。

「おまえはいっつもそうだな! 今回は珍しく薬が成功してたみたいだから効果がわかってよかったものの、この前のあれは忘れてないぞ!」
「うむ! わしはおぬしの薬のおかげで髪が抜け落ち、三日三晩もつるっつるのままだったのだぞ! 後々元通りの長さまで戻ったからよいものを、あの羞恥は忘れられぬ……!」
「そ、それは……」

 思い出したくもない、と言ったようにヴィルは顔を覆いぐずぐずと泣き出す。それをレードゥが、あれは本当にひどかったよな、と慰めた。
 そ、そんなことがあったのか……頭がつるっつるのヴィルが想像できない。でも確かに、おれだったらトラウマになるかも。

「他にも腕力を一時的に強くする薬が失敗して女にさせられたり、翼が生える薬を飲めば強力な下剤だったり、成功することなんてほんの一部じゃないか!」

 めそめそと顔を手で顔を覆い泣くヴィルの背中を撫でてやりながら唸るレードゥの言葉を想像しただけで、確かに酷いことがわかる。
 それらを考えれば、まだ力が抜けるぐらいの薬の効果だったらマシなほうなのかもしれない。

「す、すまない……」
「――別に治るならおれはそれでいい。それとヴィルハート、嘘泣きはその辺りにしておけ」
「え、嘘泣き!?」

 責められうなだれるジャスに助け船を出したのは、被害者のひとりである岳里だった。ヴィルはヴィルで嘘泣きだったらしく、つまらぬのう、と呟いて、潤んだ瞳ひとつない顔を上げた。レードゥもばらすの早えよ、と岳里に唇を尖らす。
 う、嘘泣きだったんだ……いや、そりゃ簡単にヴィルが泣くとは思わなかったけどさ。なんだかんだでふたりしてジャスを弄るの楽しんだだけなんじゃ――そうは思うけど、たぶん話の中身は本当なんだと思う。ジャスは否定しなかったし、レードゥたちの目は本気に見えたし。
 相変わらずの無表情な岳里だけど、今のジャスには輝いて見えてるんだろうか。だっと駆けだしレードゥとヴィルの間を割いて岳里の前まで行くと、右手を両手で掴んで涙ぐんだ。

「あ、ありがとう岳里……! 君はなんて優しいんだ!」
「――離せ」

 珍しく岳里が嫌そうに顔を歪めジャスに言うも、ぶつぶつと何かを言っていて、まったく聞こうとする様子もない。
 普段の岳里なら避けるだの、手を振りほどくこともできるだろうに、やっぱり力が落ちてるんだろうな。

「ほらジャス、おれたちも悪かったって。だから岳里を離してやれよ」
「ううっ、すまない……」

 レードゥに引き剥がされたジャスは未だ落ち込み気味だ。そんな下がった肩を、嘘泣きを止めたヴィルが軽く叩く。

「どんなに酷い状況になったとして、おぬしの作る薬はどれも一時的な効果を示すだけなのだからまあよい。それに、今回は珍しく薬の効果だけでも早めにわかってよかった。だがな、やはりもう少し、成功の確率を上げておくれ……」
「わ、わかってはいるんだがね……できるだけうまくいくよう努力はするよ」
「まあ、なんだ。ぜひともそうしてくれ。さて、とりあえずおれたちはもう行くからな」

 ため息をつきながらも苦笑いをするも、レードゥとヴィルはもう付き合わない、という言葉を口にしない。それどころか、声には出していないけど、暗にまた付き合う旨を言葉に宿らせている。
 話を聞く限りそれなりの被害があるみたいだけど、それでも注意だけで終わらしてしまう。やっぱりそこらへんに、おれにはまだわからない絆があるんだろうか。
 なんだかんだで、実は毎回こういったやり取りをしてるんじゃないかと、おれは勝手に想像した。

「ああ。本当にすまなかったね、岳里。だがまた今度も付き合ってくれれば嬉しいんだが……それに君たちの身体に興味があるしね」
「ジャス!」

 どうだろう、と言いたげに岳里を窺うジャスに、さすがにレードゥとヴィルのふたりが睨んだ。びくりと肩を揺らすジャスは、なんとも言えない顔で再び岳里の顔を見返した。

「別に構わない。治るのならいい。変なことをしなければ」

 岳里は、自分の掌を見詰め、握り拳を作っては解く。
 ……力が入らないのって、どんなもんなんだろう。ビーカーひとつ持つのでも震えてたくらいだしな。
 普段馬鹿力の岳里があれだけになるんだから、ごくごく一般的人なおれがもし薬を飲んでたら、どうなってたんだろう。
 ……はは、自分の体重すら支えられなさそうだ。

「ありがとう岳里!」

 望んだ回答を受けたジャスは嬉しそうに、また岳里に飛びつこうとしたところをヴィルに襟首掴まれ阻止される。けれど本人は気にする様子もなく、にこにこと嬉しそうに岳里を見ていた。その顔に、さっきの反省の色はもう薄れているようだ。
 ――案外、強かかもしれないな。

「はぁ……ほら、ふたりとも。この馬鹿はほっといて行くぞ」

 そう言って言葉通りすぐにジャスに背を向けて歩きだしたレードゥの後を、おれたちは追う。
 先に歩きだした岳里の背中ばかりが見えて、扉が見えないのは相変わらずか……。

「ああそれと、もうひとつ薬の効果で注意事項を言い忘れていたんだが……」

 おれが変な僻みを覚えていると、ふと思い出したように、背後からジャスが声をかけた。
 注意事項……? 何か大切なことなのかな?
 おれが首だけを回し振り返ると、今度は身体を向けた前から、レードゥの叫び声が飛ぶ。

「危ない真司っ!」
「え――うわあっ!?」

 おれがまた顔を前に戻すよりも先に、何か大きなものが身体にぶつかり、その衝撃で後ろに倒れた。反射的に腕を出せたから、辛うじて頭を強打することはせずに済んだものの、打ち付けた尻が痛い。咄嗟に床に突いた手首も、鈍い痛みが走る。

「ってて……」

 呻きをあげながら、思わず閉じていた眼を開くと、そこにはおれの両足を割るようにして身体を挟み、腹に顔を押し付けている岳里がいた。でかいものがぶつかったと思ったけど、どうやらそれは岳里が倒れてきたみたいだ。

「っ、すまない」

 動揺した岳里の声が耳に届くけど、一向にそこから動こうとしない。

「おれは、大丈夫だけど……もしかして、立てないのか?」
「――ああ、そうらしい」

 おれの腹で呟いた岳里の息が、薄い布越しに伝わり少しくすぐったい。

「大丈夫か、ふたりとも」

 レードゥたちも駆け寄り、倒れたままのおれたちの隣にしゃがみこんだ。

「身体を起こすこともできそうにないか?」
「できない」

 レードゥに問われて、岳里が身体を動かそうと試したのが、重なった身体から微かに伝わる。だからこそ、その力の微弱さに気がついた。それは弱々しいとか、それ以前の問題だ。今の様子を見る限り、頭をあげるのすら辛いのかもしれない。
 おれと、レードゥとヴィルの力を借りて、岳里をとりあえずおれから離してその場に座らせた。その背中を支えてあげなくちゃまた倒れるから、おれは岳里の背後に回って、手で支える。
 その時に、じくりと右手首が痛んだ。さっき倒れた時、変に捩じったのかもしれないけど、そう気になるほどでもないので、そのまま岳里の背中を押して支柱代わりになる。
 座らせたことで、まだ頭はぐらぐらと揺れていたけど、どうにか自力でそこだけは支えられるようだ。瞼さえも重いのか、いつも以上に目が細く鋭くなっている

「……さて、ジャスよ。この状況について説明してもらおうかの」
「す、すまなっ」
「謝罪は無用じゃ。早う弁明せよ」

 問答無用なヴィルの強い声音に、ジャスはたじたじとしながら、さっき言いそびれた重要注意事項を口にした。
 なんでも、薬は腹の中心から徐々に効きだすみたいで、いづれは全身に回るものだったらしい。それで、早くどこかで身体を横たわらせないと、足の筋力も落ちるから倒れてしまう、ということだそうだ。
 話を聞いている間もずっと、岳里の頭はぐらぐらと揺れ、背中を支える手には遠慮のない重さがかかる。もしかして、ずっとこんな状況に耐えてたんじゃないだろうか。だって、いくらなんでもいきなり力が抜けて倒れるわけじゃないし、倒れるまで踏ん張ってたんだと思う。
 一度はおさまったはずのレードゥとヴィルの説教が再開されている隣で、おれは岳里に声をかけた。

「辛かったんなら、もっと早く言えよな馬鹿」
「……すまない」
「今回はおれがいたからよかったけど、もし後ろに誰もいなくて、頭でも打ったら、大事になりかねなかったんだからな」

 隣でもおれと似たようなことを武器にし、レードゥがジャスを叱りつけていた。
 おれは立てていた両膝を崩し、胡坐を掻いて、そのまま岳里の背中をおれの身体へ倒してやる。傍から見たら男同士でなにやってんだって思われるような体勢だけど、どうせここには理由を知る人しかいない。ちょうど顎下に、岳里のつむじがきたから、今まで支えてやった仕返しに、そこへ遠慮なく顎を乗せた。

「手、疲れるからこれでもいいだろ」
「頭も疲れたのか」
「ん、だからレードゥたちの説教が終わるまでこれな」

 岳里は何も言わなかった。おれはそれを肯定と捉えて、同じように口を閉じで、横目で三人を眺める。
 正座をしたジャスは小さくなりながら、ふたりの、おもにレードゥの説教を受けていた。

「なあ、岳里」
「――なんだ」

 いつもは低くても響きがよくて聞きとりやすいはずの声が、舌足らずに聞こえた。舌の力も抜けてるんだろうか。
 そんな風に思うと、このまま岳里の心臓も止まってしまわないか少しだけ不安になる。

「辛くなったら、ちゃんと言えよ。おれ、あんま頼りにならないかもしれないけど、どうにかなるようちゃんと頑張るから」

 顎先で岳里の頭をぐりぐりとやりながら、続ける。

「だから、頼むからおまえも――」

 けれどそこまで言いかけて、おれは言葉を止めた。いったん頭から顎を離して、今度は顔を横にして頬を押し付ける。
 頼むからおまえも、一緒に来たのがおれでよかったと思ってくれ、なんて言ったら、気持ち悪いなんて思われるかもしれない。そう考えれば自然と声は出なかった。

「――やっぱ、なんでもない」

 岳里からの返事はなく、おれもそれ以上は何も言わなかった。
 それからもう少しの間レードゥたちのやりとりを、岳里の頭に顔を乗せたまま眺めていたら、不意にヴィルと目が合う。

「……なんだ、やけに仲がよいではないか。ジャスの失敗も、たまにはよいものということかのう?」
「あ? ――ああ、なるほどな」

 ヴィルの言葉に、説教の途中にも関わらず、レードゥがおれたちに振り返り、おれと目を合わせた途端に破顔した。
 それがなんだか気恥しくなって、岳里の頭から顔を離すと、力が抜けて重たい岳里の背中を起こさせ、少し前のように膝を立ててそこに寄りかからせ手を補助として支える。

「――ま、早いとこ岳里を別の場所に移してやらねえとな。また話は後な」
「ま、まだあるのかい!?」
「文句あるのか」
「……ないです。甘んじてお受けいたします……」
「よろしい――ほっぽってて悪かったな」

 どうやら話は完結、とまではいかないまでも、ようやくひと段落はついたらいしい。
 若干岳里を忘れてたんじゃないかとも疑ったが、ヴィルが、少しは身体の力は戻ったか、と聞いてきたから、これまでのやりとりは様子見を兼ねていたことがわかった。

「首すら座らない」
「そりゃまた……まあ、仕方ない。ずっとここにいても身体は冷えるだろうし、おまえたちの部屋に戻るか」
「両脇をわしとレードゥで支えれば、運べはするだろう。岳里よ、少しばかり辛いと思うが、耐えてくれよ」
「――助かる」

 素直にありがとうとは言わないのが、なんだか岳里らしいと思いながら、おれは岳里の両脇にしゃがんだふたりの手伝いをする。
 ふたりとも背が高いけど、岳里も負けないほどの長身だ。そんな岳里のまったく力に入らない身体は相当重いはずだけど、大してその重さも感じさせず、よっと声をあげて、ふたりの力だけで立ちあがらせた。

「どうせだったら、真司が倒れてくれたほうが楽だったな」
「……悪かったなおれは小さくて」

 おれは別に小さくない。至って全国の男子高校生の平均のあたりをいくぐらいで、あれだ、普通だ。でもそれはあくまでおれたちの世界の話で、この世界じゃまた違うんだよな……。
 どれだけこの世界の人はでかいんだか。いや、丁度立った岳里の口元ぐらいにおれのつむじが当たるっていうところを考えると、やつの高さも相当なんだけどさ……。
 胸の内でため息をついていると、おれの肩をぽんとレードゥが叩いた。

「まあまあ、楽だなって話だからそう拗ねるなよ。おまえはまだ成長期なんだから、望みはある」
「そう気にするでないぞ。小柄のほうが敵の懐に入りやすいという利点もある。悪いことばかりではないだろうよ」
「はは、は……どうも……」

 望みはあるってことはやっぱりおれは小さいと判断されているわけで、ヴィルのフォローに関しては一切共感を得れないんだが。敵て……いやおれは戦わないぞ?
 でも至って真面目に励ましてくれているんであろうふたりに、おれは曖昧な笑顔を返すしかできない。
 そこへ、正座から立ち上がったジャスが歩み寄ってきて、いつの間にか手にしていた小瓶をおれに示す。

「そうだ、真司。今ならこの身長の伸びる薬をためせば三メートル超えも夢では……」
「ジャス?」
「……すみません」

 けどまあその売り込みもレードゥの笑顔の制しに屈し、大人しくジャスは引き下がっていく。
 そんなやり取りを最後に、しょんぼりとするジャスをひとり部屋に残しておれたちは出た。
 岳里の足は完全に引きずられ、座らない首は前に項垂れている。後ろから何かあったか手を伸ばせるようにと後ろを歩いていたおれには、なんとも奇妙な心持でそれを見詰める。
 いつも頼りになるというか、どっしりしてる岳里もやっぱり人間なんだなあって、変な話そう思ってしまったわけだ。まあ、薬のせいではあるんだけど。
 そのことに、何だがほっとした気持ちもしたのは気のせいかな。

 

 

 

 部屋まで戻り、まずふたりは岳里をベッドへ放り投げた。

「ったく、なんでこんな重労働をする羽目に……やっぱり今度から倒れるなら真司にしとけ」
「うむ、まったくじゃ。岳里よ、おぬしもうちっと縮め。重くて敵わんわ」

 そんな文句をたれるふたりに、岳里は放り投げられた姿のまま突っ伏す。何も言うことがないのか、それとも言えないのか……まあおれはふたりに同感だからフォローなんてしてやらない。おまえはもっと小さくなれ。世の中の男たちのために。
 そんなことを思いながらも、このまま息ができなくてもしかたないから、全力で岳里を仰向けにひっくり返してやる。
 それだけでもぜいぜいと息を上げるおれ。ここまで岳里を運んだふたりの体力は、改めて兵士のものなのだと感服すした。いや、決しておれが非力ないわけじゃない。おれは普通だ、おれが普通なんだよ……。
 この世界にいるとなんだか自分がみじめになってくるのは、気のせいかな……。

「ま、ここまでくるのにも結構時間がかかったし、もう少しくらいで薬は抜けてくるだろうよ」
「それまで大人しくして、真司に甘えてるとよいわ」
「はは、確かにそれがいいや」
「――」

 ふたりの軽口にやっぱり何も答えたえなかった岳里だけど、目線だけを動かして、ぎろりと睨む。けど、動けないだろうあはははは、とふたりは逆なでするように笑ってその視線を涼しく受けた。
 傍から見るおれが若干恐怖を感じるほど、岳里の視線は鋭かったけど、ふたりには効かないみたいだ……これも、ふたりが兵士だから? ――思えば思うほど、自分が弱く思えてくるのはなんでだろう。まあおれは小心者ってことだけは認める。ハヤテみたいなやつは怖くて直視できないし。……おれ、彼女できたらちゃんと守れるかな。

「……真司? どうかしたか?」
「え、あ、ごめん。なんでもない」
「飛んでおったのう。何か、これから動けぬ岳里へどういたずらするか考えておったのか?」
「――まあ、そんなとこ?」

 おまえもなかなか大胆だなあ、なんて言ってふたりは笑う。
 岳里のほうへちらりと視線を向けてみれば、おれのことを見ていたらしいやつと目が合った。ふとおれはさっきの恐ろしげな視線を思い出してすぐに目を逸らそうとしたけど、そこにあったのは険の一切混じらない目だ。でも、何を考えているかわからない目。
 おれは結局、視線を逸らした。

「さて、今日はもうそのまま休んじまえ。明日にはネルが城ん中案内するって張り切ってたしな」
「ネルが?」
「うむ。城の中は広いからな。思いの外歩くことになるから、覚悟しておくとよいぞ。特に案内役はネルじゃ。どこを通らせられるかわからんぞ」

 どういう意味なんだと首をかしげて見せても、ふたりは穏やかに笑うばかりで答えてはくれなかった。
 それからレードゥとヴィルはふたり一緒に別れを言って、部屋を出て行った。抜け目なく、何かあったら気兼ねなく呼べよ、という言葉を残して。

「――なあ岳里、なんかいたずらされたい?」
「したら後でやり返す」
「……やめときます」

 おれの冗談を理解したうえで、岳里は同じ冗談を返してくれたのか、謎だ。でも本気で後が怖くなったから、おれは肩をすくめながら、自分のベッドまで歩いてあとは跳び込んだ。
 かたいスプリングがおれを受け入れて、身体にはそれなりに強い衝撃がぶつかる。

「岳里ぃ、まだ身体力入らないか?」

 ごろごろと何度かベッドの上で転がってから、最終的にうつ伏せになりながら岳里に振り返る。すると、今まで扉のほうを見ていたはずの岳里の顔が、こっちに向いていた。

「っ、驚くだろ!」
「首だけなら動くようになった」

 おれの心臓の音を無視するように、岳里は平坦に言葉を告げると、何度か瞬きをする。その動作はもう重たそうじゃないし、舌の回り具合もいつもどおりに聞こえた。ジャスの言った通り効果はそれほど続くものじゃないらしい。
 徐々に回復しつつあることを知ったおれは、くるりと寝がえりを打って岳里に背を向ける。

「まだ治ってみたいなんだけどさ、悪いけど寝てもいいか?」
「別に構わない」
「ん、あんがと」

 本当なら、ちゃんと岳里の力が戻ってから、そうするべきなんだろうけど、ベッドに飛び込んですぐに瞼が重くなりはじめる。
 岳里は少しずつ回復しつつあるようだから、申し訳ないけど、仮眠をとらしてもらうことにした。
 逆らうようにして開かしていた瞼を閉じてすぐに、思ったよりも眠たかったのか、おれはすぐに眠りに落ちた。

 

 

 ――何も迷うことはないだろう。道は示されている。
 岳里が言った言葉。でも、それは違う。
 確かにちゃんと道が見えるようにある時もあった。けど、それでもその道が見つけられなくて迷っていても、その道すらなくても、何度も岳里がおれを導いてくれたんだ。岳里がおれに、正しい道を示してくれてたんだ。
 きっと、岳里が一緒でなかったら、おれはもうとっくにおかしくなってたと思う。一緒にこの世界に来たのが岳里だったからこそ、おれはこうして今レードゥとヴィルと一歩どころか二歩も三歩も歩み寄れたんだし、笑っていられるんだと思う。
 岳里がいたからこそ、岳里だったからこそ、おれはこうしておれでいられるんだろうな。

 

 


 日が暮れかけた今、開けたままの窓から差し込む光は燃えるように赤い。
 熟れた光を、ジャンアフィスはその場に立ち眺めていた。
 美しいそれに感動するわけでもなく、その光を疎むでもなく、ただ無感情に眺める。ただただ、その時を待ち夕陽を見詰める。
 不意に、扉が二回、ノックをされた。それに続いた小さく控えめな声に、ふっと頬を緩める。

「どうぞ」

 短い一言ののち、少し間を置いて扉は開かれる。そこから現れた小柄な影に、手招きをした。
 小柄な影の持ち主である彼は素直に、ジャンアフィスの元まで歩み寄った。しかし、その視線はすぐに逸れて床や、机の上の惨状に向けられる。

「――まったくもう、どうしてこんなに散らかしてしまうんですか」

 危険なものもあるのでしょう、と声音をかたくする彼に、ジャンアフィスは苦笑した。
 謝罪を口にしながらも直す気がないのは、今までの繰り返しで理解したのか、それとも今度こそと信じたのかはわからなかったが、彼は応えることなく、ため息をひとつ返すと、ジャンアフィスの目前にまで寄ってきていた身体を転回し、物が散らかるほうへ軌道を逸らしてしまう。
 何も言わずに、床に散らばった資料をしゃがみ拾いはじめた。

「混ざってしまって困るのはジャスさんじゃなくて、下のみなさんでしょう。少しは隊長として、しっかりなさってください」
「ははは、君にそう言われてしまってはわたしは立つ瀬がないな。気をつけるとしよう」
「そう言って、こうやってぼくに注意されるのは何度目ですか?」
「さあ――両手両足で足りないほどとは理解しているつもりだよ」

 そう軽口を叩いてやれば、彼はもう、と呆れた声を出しながらも小さく頬笑みを返した。その笑みは男ながらも、彼がまだ幼さの残る顔立ちをしているということも手伝い、とても愛らしいものだ。だが本人はそれに気がついてはおらず、こうして誰にでもそれを振りまくので困ったものである。
 ふと窓の外へ目を向ければ、もう間もなく完全に日が落ちるというところにまで来ていた。遠く彼方の空の色はすでに、紅から紫へと身を染め変えはじめていた。
 ああ、もうすぐ時間だ。わたしの――我の時間だ。
 自分に背を向けせっせと紙を拾い集める彼に気付かれないよう、ジャンアフィスはその口元に今までとは異なる笑みを浮かべる。にい、と口の端を吊り上げ弧を描く。それが酷く醜いものだとも働く彼は知らず、手の届く範囲の紙をすべて拾い終え、振り返った。

「これ、どこに置いておきます?」
「わたしに渡してくれるかい」

 そう言いながら片手を彼に差し出し、催促をする。
 彼は素直に頷き、自らジャンアフィスのもとへ歩み寄ってきた。手伝いをさせているジャンアフィス自らが自分のもとへ来いと憤ることもなく、傍に来た彼は紙の束を差し出した。
 ジャンアフィスがそれを受け取ると同時に、日は完全に沈み部屋の中が月明かりに薄暗くなる。

「あ、今光玉をつけ――っ」

 気を利かせた彼が光玉を光らせようと手を叩こうとしたその時、ジャンアフィスはその細い腕を取り、力任せにその場に押し倒した。
 床に背中を打ち、彼は苦しげに呻く。けれどジャンアフィスはそれに構うことなく、鼻先まで彼に顔を近づけた。
 怯えたような、でもどこか期待した彼と間近で視線を交わす。

「夜だよ、セイミヤ。光などいらないだろう?」
「――はい」

 諭すように、先程の乱暴な行為に謝るように、そっと吐息混じりにジャンアフィスはほくそ笑む。彼――セイミヤは、床に押さえつけられ、肩にかかるほどの闇色に染まる金の髪を散らしながらも、そっと目を閉じた。
 それは、彼の合図だ。全てを受け入れる、はじまりの。
 ジャンアフィスは無防備な白い喉元に、獣のように食らいついた。

 

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