――“願わくば、これを読む者たちへの選択に、光が降らされんことを。”
その言葉を最後に、三代目国王サラヴィラージュの手記は締められていた。
まるでわざと消されたようにところどころ火の子に焼かれ読めなくなっていた部分があったものの、彼が伝えたかったことは十分そこに記されている。
かつてもこの世界には異世界より訪れた者がいた。そしてそれは手記に登場する“我が君”と呼ばれる人物が意図して召喚したのであり、また彼らは重要な役割を担っていたのだ。
その役割が、“光降らす者”と“闇齎らす者”と呼ばれる存在である。そして手記に記された“選択の時”にて選ばれたほうが、この世界の向かう道を示しているのだ。
光の者が選ばれれば世界は今の状態のまま時を進み、闇の者が選ばれれば世界は一部ではあるが、本来の姿に戻る、というものだ。
本来の姿とはすなわち、草すらまだ生えていない、命のない大地へ戻ることを意味しているだろうと、シュヴァルは言った。
何故そうわかるとかと言うと、すでに過去に三度、世界の半分が何もないただの大地へと姿を帰した記録があるからである。今までその現象については原因不明とされてきたが、もし今回の話が事実であるならば、この世界は人目に触れぬ舞台にて幾度か選択を迎え、そしてそのうち三度闇が選ばれたということだ。それには三代目国王サラヴィラージュの治めた時代も入る。そしてそれが、その不可解な現象のはじまりでもあった。その事実もまた、この話に虚偽はないと主張する。
――いや、もはやこの場の誰もが手記に記されていた事実を疑ってはいなかった。疑うにはあまりにも証拠が揃い過ぎていて、何よりそうであるならばすべてが繋がるからだ。
今から約二千二百年も前の人物が記した日記に、それから起きた三度の帰す大地の現象、そして、異世界から訪れたふたりの少年に、彼らが背負う“証”――
レードゥは無意識のうちに強く拳を握っていた。それが何に対するものなのかもわからない。ただ、何かこみ上げてくるものに必死に耐えるため、震えるほどに強く握り込む。
俯き唇を噛んでいると、不意にジャンアフィスが沈黙を破った。
ジャンアフィスが発言するときは大抵、言わば会議内容のまとめに入ろうとすることを付き合いの長いレードゥは知っていた。だからこそ、注意深く彼の言葉に耳を傾ける。
「――王よ、わたしにはいくつかの疑問がございます。よろしいでしょうか」
「ああ、構わない。わたしに答えられる限りのことを包み隠さず話そう。この場にいる者には知ってもらわなければならないからな」
深く頷いて見せた王の言葉に、ずしりと何かが肩にのしかかる気がした。
隊長である立場の自分が背負うのは配下の部下の命ばかりではない。様々な責任や、民の命、その他多くのものを自分は背負っているのだと、レードゥは自覚している。だからこそ常にかかる圧力が、さらに増した気がしたのだ。
「まずひとつ。サラヴィラージュさまが“我が君”と敬うお方は、この世界の“神”でよろしいのでしょうか」
「……ああ。時期的に見ても、サラヴィラージュの時代に神は眠りについたとされている。それに、神以外に彼が我が君というほどのお方はいないからな」
神――それはこの世界、ディザイアの創造主である。かつてはこの世界にともに存在していたが、今は時空のはざまにて眠りにつている最中だ。あまりに長い時を眠り続けているため、姿を現さない神は民の間ではただの信仰の象徴とされているが、神は実在する。
レードゥ自身はまだ神にまみえたことはない。しかし、時には何らかの祝いごとの時に目覚めたりしていて、その間隔は不定期であるが、国王であるシュヴァルや長年城に仕えてきたアロゥは一度だけその姿を見たことがあるという。
自身が仕える主が見たと言うのだから、レードゥはたとえ自身が見たことがなくともその存在を疑ったことはない。それに、関節的ではあるがレードゥは神と接触を果てしているのだから。
神のことを考えると、途端に耳がじんと熱を持った。それは愛剣イグニィスが形を変えた姿である左の耳飾りから発せられたものだ。レードゥが隊長に任命された際に王から下賜されたものではあるが、実際には神が鍛えた剣であり、それを王に委ね、自分のもとへ与えられたものである。
隊長、副隊長となるものが王から賜る武器。そのうち、隊長に与えられるものはすべて神が自ら鍛えたものなのだ。
イグニィスは時折、意思を持つかのようにその身をほのかに熱くし、レードゥへ自分の存在を知らす時がある。剣に思考があるのかはわからないが、神が鍛えたものであるのだからこそ納得できた。だからレードゥはなおさら神の存在を信じることができるのだ。それはこの場にいる隊長全員がそう思うところだろう。
だからこそ、ジャンアフィスが神について言及したのことは単なる前置きであると予想がついた。
「承知しました。では、“かのお方”とはどなたか」
「――それについてはわたしもわからない。だがその人物と神との間に諍いがあり、それが原因で神は眠りにつくことになったということがわかっている以上、少なくとも強大な力を持つ方だと推測できる」
ジャンアフィスが本当に聞きたかったことは、レードゥも気にかかった“かのお方”のことだった。
『我が君はおっしゃった。先のかのお方との争いにより、己の力が著しく消費され、それを取り戻すために眠りにつかねばならぬと。』
『我が君はおっしゃった。成り行きに任せたからこそ、かのお方が産み落とされてしまったのだ、と。』
――そう、サラヴィラージュの日記に、神の言葉として記されていたかのお方なる人物。その呼び方からして、我が君と敬う神ほどではないものの、三代目はかのお方も同じく上の立場としてみていたことがわかる。
しかし、国王よりも上の立場の人間は極めて限られた。
神と同等に近い力を持つ者。そして、自然の成り行きにより、“産み落とされてしまった”者――恐らく、人間でも獣人でもないのだろう。
ならば何者なのか。知りたいところであったが、今一番情報を有しているシュヴァルですらわからないのだから、これ以上現段階で今件について追究できそうにない。
ジャンアフィスは次の質問に早々と移った。
「王よ、真司と岳里のふたりが何者であるのか、何故この世界に訪れたのか、おおむね理解は致しました。ですが、ならばこその疑問が浮かびます。――恐らくこの疑問を抱くのはわたしだけではないでしょう。僭越ながらわたし代表してが糺させていただきますが、よろしいでしょうか」
「ああ」
「ありがとうございます。――確かに、岳里の背中にはサラヴィラージュさまがおっしゃる、“光降らす者”の証である太陽がありました。わたしも実際目にしましたし、疑いようがありません。しかし……真司の背には、“闇齎らす者”の証である月ではなく――彼が背負っていたのは、“太陽と月”のふたつ。岳里が間違いなく光降らす者であるならば、ならばふたつの証を持つ真司は何者なのですか」
厳しい表情をする王へ物怖じせず、ジャンアフィスは丁寧にそれを言葉にしていく。
――そう、岳人の背中にあった証は“太陽”だった。光降らす者の証とされるそれが岳人の背中一面には描かれていた。レードゥ自身もはっきりと目にしたのだ。あの時、真司が暴行を受けたあとの、岳人が部屋を去るためにレードゥへ背を向けた瞬間に。今でも覚えている。上に何も纏わない岳人の肌には、黒く描かれた日輪が存在していた。
太陽を持つ岳人が“光降らす者”ならば、三代目の日記によればもうひとりの異世界の者である真司は自然と“闇齎らす者”であるはずだ。しかし、真司が背負うものは闇の者の証である月だけでなく、光の者の証である太陽も含めたふたつだったのだ。
レードゥは実際に真司の証を目にしてはいない。だがシュヴァルにネルにアロゥ、真司の治療を担当したセイミアに、たまたまその場に居合わせていたジャンアフィスの五人がすでに確認している。見誤った可能性はない。
光降らす者が太陽を背にし、闇齎らす者が月を背にし。では、そのふたつを持つ真司はいったい誰なのか。
ジャンアフィスの言った通り、それはこの場にいる誰もが抱いていた疑問であった。岳人は光降らす者。ならば、真司は何者か。闇齎らす者はどこにいるのか。そう、考えていたのだ。
しかしジャンアフィスは違った。普段は研究や発明ばかりで自身の身の回りすら無頓着でだらしがなく、頼りない彼ではあるが、その頭脳はまさに他を寄せ付けないほど秀でた何かがある。
咳払いをひとつ吐いてから、ジャンアフィスは王の手元にあるサラヴィラージュの記した手記に目を配った。
「――すみません、少し内容を変更します。真司は何者かと、先程わたしは問いましたが……作為的に穴だらけとなった手記に、故意に隠された可能性がある、神から与えられたもうひとつ役割を持つ人物が、真司なのでしょうか?」
「――!」
この場にいる数人が息を飲む。その中にはレードゥも混じった。
“神から与えらえたもうひとつの役割を持つ人物”――つまりジャンアフィスは、異世界より訪れた二人の“光降らす者”“闇齎らす者”と、そしてこの国の歴代の王たちに与えらえれた“見守る者”というものの他に、あとひとつ役割があるのではないかと、そう言っているのだ。
その言葉を聞いてから、レードゥは無意識のうちに日記の中身を思い返していた。
確かに、空白となってしまった部分が不自然だとは感じていた。だがまさかそこにもう一人の人物が入るとは思いもよらなかったのだ。改めて振り返れば、確かにあとひとつの役割を持つ人物が入っていてもおかしくないことが確認できた。むしろ、その存在を隠すかのように文章は消失している事実さえわかる。
ジャンアフィスの躊躇いのない真っ直ぐな声音に、シュヴァルは息を漏らすように小さく笑った。サラヴィラージュの日記を持ち上げ、皆に見せる。
「――はは、相変わらず頭が冴えるな、ジャス。おまえの言う通りだ。見てわかる通り、これは一度焼失しかけたことがある。どうにかすべてを回る前に火は食いとめられたようだが、三分の一は灰となり、影響からかところどころも火の子に焼け穴があいてしまっている」
その言葉を証明するためか、シュヴァルは隊長たちに見せるようにぱらぱらと紙を捲って見せた。
次々に文字が過ぎてゆく中、時には面に小さな穴があいていたりして欠落している。
最後までめくり続けた後、シュヴァルは一旦は閉じたそれを適当な場所で見開き、再び隊長たちに示す。その部分もまた、右下以外に燃えた跡があり、穴あきになってしまっている。
それを眺めているうちに、レードゥはある異和感に気づいた。
穴があいているところから覗くのは、すぐ後ろの面だ。小さいそこから文字が見える。それは、あまりに不自然なことだった。
「――はじめ、これが燃えてしまったことは単なる事故と思っていた。だが、それではあまりにも説明がつかないだろう。一枚一枚、一部分だけが燃えるなどな。――どうやらこれは、意図的に燃やされ、一部も焼失させられたと考えていい」
仮に、この日記が燃えてしまった時見開いた状態で置かれていたとして、ならば片面しか右下部分は燃えないだろう。だからこれは閉じられた状況で燃えたと考えらえれる。だが、ならばなぜ、ページの一枚一枚にそれぞれ火の子がついてしまうのか。閉じられた状況ならば表紙、裏表紙、どちらかに火の粉が飛んだはずだ。たとえそれが中の紙に移ろうと、灰になるのは所詮二、三ページほど。百歩譲って、中にも火の子が滑り込んだとしよう。だがそうであるならば、なぜその紙のひとつの面ごとに燃えてしまった場所が違うのだろうか。穴があいてしまうほどなのだから、せめてそのページの後に続く後ろの紙にも焦げ跡がつく程度はあるはずなのに。
つまり、三代目の残した手記は誰かが故意に燃やし、さらにその一部分を選び文章を欠かした。これはもはや可能性が高いという曖昧なものでなく、断定された事実である。
「そしてジャスの言う通り、この消されてしまった部分にもうひとりの人物が存在していておかしくないと、わたしはみた。光の者、闇の者に続くあとひとり。なんらかの役割を持つ者がいる可能性が極めて高い。もしかしたら、それが真司なのかもしれない」
その可能性に、真司の背にあるふたつの存在を見なければ気づかなかった、とシュヴァルは言って手記を閉じた。
「真司についてはしばらく様子を見る。少なくとも、今の段階では闇の者かどうかはわからない。この先、背中の証に変化が現れる可能性もあるからな。――それに、今彼は心身とに傷を負っている。この話を明かす時はいずれ訪れようが、今は真司が落ち着くのを待つことにすると決めた。その一環として、これまでは二人の存在がはっきりしなかったために部屋に閉じ込めていたが、これからは城内のみ自由にさせる。しかだがこれからも二人の面倒を見てやってくれ。特に、真司の方には注意しろ」
各隊長は、仕える主の声に、はっ、と声を返す。レードゥもまた一番隊の隊長として返事をするが、内心では複雑な気持ちだった。
岳里はその正体がはっきりしたために疑いなくこれから接することができるが、しかし、真司に関してはそうもいかない。
これから先、まだ真司を“警戒”しなければならないのだ。その言動のひとつひとつに気づかれぬように目を配り、なんらかの違和感があれば即座に王へ報告をして。
目を閉じ、友になりたいとよく言えたものだと、レードゥはあの時を思い出す。
あれは、本心だった。異世界に突然来てしまい、何度も混乱し精神的に不安定になっているにも関わらず、自分を頼ろうとはせず線引きをする真司を本気で心配したのだ。真司の隣には常に岳人がいる。だからこそ完全な孤独を感じず真司はこの世界にいれるのだろうが、それでも周りをもっと頼りにしていいことを知っていてほしかった。それがたとえ、違う世界の人間であろうと。だから、ヴィルハートのお節介に便乗してああも羞恥を感じる台詞をとっさとはいえ言えたのだ。なにせ、ずっと心に留めいた言葉でもあったのだから。
そのお蔭かはわからないが、その後の真司は多少なりともレードゥに、この世界に心を開いてくれたと思う。以前にも増して口数は増え、よく声を出して笑ってくれることも多くなった。それが嬉しくて、レードゥもよく真司たちが押し込められた部屋に顔を出したものだ。
だが――もしかしたら自分が開いた僅かな隙間を、閉ざさせてしまったかもしれない。
真司に行われた非道な仕打ちを思い出し、レードゥの胸は酷く痛んだ。心臓の脈打ちが大きく鳴り、何かがつっかえたような苦しみがある。
あの時真司に起きた全ては、自分の責任だ。もはや、どう詫びればいいのかも、どう顔を合わしたらいいのかすらわからない。
情けない話ではあるが、怖いのだ。真司と顔を合わすのが。彼から笑顔が消えてしまっているのではないかと。もう、目を合わせてもらえないのではないかと。それほどまでに、真司に起きた出来事は彼の心を深くえぐっていてもおかしくはないものだ。
だからレードゥは、真司が目覚めたとの報告を受けても、この三日間、会いに行くことはできなかった。真司がいるという医務室の隣の個室の扉の前まで足を向けたことはある。だが結局はそこまでで、いつも目の前の扉を叩くことはできなかった。
謝って済むことではないが、どうしても一言言いたい。だが、意気地無しの自分にはもはや彼と会うことすら許されないか。
「あの、王。もし真司が闇の者であったとするのなら、どうするのですか……?」
一人、悶々として苦悩するレードゥに、追い打ちをかけるかのように、アヴィルが躊躇いがちに声をあげた。
問われた言葉を聞いたシュヴァルは、僅かに目を伏せる。そこにはもうその答えが映し出されているが、彼はあえてそれを口にした。
「――この日記以外に情報がない今、真司が何者なのかまだ断定はできない。現時点で断言できるのは、岳里が光の者ということだけ。この国に、世界に必要とされているのは岳里のほうだ。――闇の者が世界を破壊すると言うのなら、わたしはそれを阻止したい。いや、しなければならない。この国を守ることはもちろんだが、かといって他だからと目を背けるわけにはいかないのだ。……わかってくれ。我らに求められていることは多くある。ひとつの命を犠牲にして助かる大きなものがあるのなら、そうせざるをえないのだ」
まるで体内を犯す毒を吐くように、シュヴァルの言葉は苦い思いを募らせていた。
光降らす者が選択の時に選ばれたのなら、この世界は継続される。しかし闇齎らす者が選ばれれば、世界を闇が飲む。言うまでもなく、この世界に住まう者が望むのは存続であり、ならば必然的に求められるのは光の者である岳人だ。
では、闇の者はどうなる。求められない闇はどうすればいい。そしてもし、真司が“闇齎らす者”であるならば――彼は何のために、この世界へ招かれたのだろうか。不幸な目にばかり遭い、この世界を呪わずにはいられないのではないか。
そう思えば、さらに胸が痛む。どうしようもできない苛立ちに似た何かが内に募り、レードゥは無意識のうちに膝の上で握っていた拳を震わせていた。
闇の者はこの世界にとって害あるもの。だから、その存在自体が選択のひとつであるなら、それを消してしまおうというのだ。――つまりは、殺すということ。
そのシュヴァルの考えに、異を唱える人物はいなかった。皆がその考えを黙することでそれに賛同する。
自分たちの使命に私情を挟むことはない。だからこそ王も民を思い決断したのだ。それがどんなに苦しいものか、レードゥは言われずとも理解しているつもりだ。否定することなどできるわけがない。
各々重く口を閉ざすと、その空気を振り払うかのようにネルが立ちあがった。
「おうい、もう聞きてえことはねえかあ? それならさっさと解散しちまうぞう」
ネルが特別真司を思っているのは隊長の間でも有名な話だった。だがそんな素振りすら見せず、ネルはいつもと変わらない表情で場を仕切る。
レードゥもネルを見習うように、一度目を閉じ深く息を吸ってから、挙手をした。
手記について聞いてから、ずっと考えていた疑問がひとつあった。それを尋ねず会議を終わらしてしまうわけにはいかない。
「最後に、わたしからひとつ。よろしいですか」
「ああ」
「――サラヴィラージュさまの時代に存在した異世界より訪れた二人はどうなったのですか。無事、もとの世界へ戻れたのでしょうか」
この世界に来てばかりの時、今すぐ戻れないかと岳人へ詰め寄った真司を思い出さない日はなかった。
真司の役割がどうであれ、彼が異世界から来てしまったことにはかわりない。この世界の住人でないのだから、ならばいずれもとの世界に帰らなければいけない。以前にも同じ役割を持ってこの世界に訪れた人間がいるというのなら、手記にはそのことについて触れている部分もあるかもしれないと思ったのだ。
せめて、サラヴィラージュの時代に訪れた異世界の者が選択後、無事もとの世界に戻っていれば、まだ希望は残されている。
しかし、シュヴァルの表情には一向に光が差すことはなかった。
「そのことに関して、詳しく日記に記されていなかったが、はっきりしていることは――何らかの理由で闇の者が光の者を殺したのち、己も自害したということのみだ。恐らく、示された悲劇とはそのことについてだろう」
もとの世界に帰ったという情報はなかった、とシュヴァルは付け加えた。
始めに王が席を立ち、その後をネルとアロゥが追い、残された隊長たちは一人、また一人とこの場を去って行く。
そうしてついには、レードゥだけがいつまでも椅子に座っていた。
「レードゥよ」
自分とともに会議室へ残っていたヴィルハートが傍らまで歩み寄り、名を呼ぶ。しかし、それに答えられるほどレードゥに余裕はなかった。
かけられた声に答えるではなく、ただ縋るように、俯いたまま口を開く。
「なあ、ヴィル。真司たちは帰れんのかな」
もとの世界に、とは言わずとも、ヴィルハートには伝わっているのだろう。
しばらくの沈黙ののち、言葉は返された。
「それは、“選択の時”が終わりを迎えた時、自ずと答えがでるだろう」
「選択の時……それって、いつなんだよ」
「わしも知らぬ。いづれだ」
いずれ。いずれ、訪れるであろう“選択の時”。恐らくそれまでには真司の役割も判明していることだろう。それは少し先の話なのか、それとも何年も先のものなのか、それすらもわかっていない。
まだ、彼らについて、わからないことばかりだ。それで本当にいいのか、それすらレードゥにはわからなかった。
顔をあげれば、こちらを見ていたヴィルハートと目が合う。その紫の目は、穏やかにレードゥを見守っていた。
「レードゥ。時期に時が満ちればわかる。今は己のすべきことをするのみだ」
「……ああ、そうだよな。悪ぃ、ヴィル。ちょっと弱気になってた」
幼い時から自分を見てきた瞳。自分もまた、彼の目を見返してきた。こうして視線を交えるだけで、不思議と心が落ち着く。
昔から、不安に思うことがあれば黙ってヴィルハートを見つめたからだろうか。
「よい。ただしわしの前でのみ、晒けろよ。他の者の前では許さんぞ」
「ばあか、何言ってんだよ」
いつもの調子の軽口に、レードゥも似たように返す。
よし、と心の中で意気込み、ようやく長く座っていた席から腰をあげた。前を向いたまま、隣に立つヴィルハートへそっと言葉を足す。
「本当に、ありがとな」
隣で小さな笑い声が聞こえ、レードゥは少し早足でそこから離れ、待ってくれていたヴィルハートを置いて一足先に魔法陣が浮かぶ壁へ歩いていく。
こうしてレードゥが弱った時、必ずヴィルハートは傍にいる。そうして、黙って支えてくれるのだ。それにどれほど救われたかはわからないが、素直にはなれず、実際に言葉で感謝することはそうない。
だからこそ、珍しいレードゥの言葉にヴィルハートは笑ったのだろう。無論それが嘲笑でないことを理解しているからこそ、一方で増す気持ちがあった。
その場に残されるように立ったままでいるヴィルハートは、離れていく背中をただ見つめる。一度は伸ばしそうになった手を抑え、ただ、見守る。
「――悲劇は、わしが繰り返させぬ」
小さく呟かれた言葉にも気づかず、レードゥは出入口である壁の前でヴィルハートへ振り返った。
「ヴィル?」
「ああ、すまぬ。今行く」
ヴィルハートはいつものように笑い、レードゥの後を追った。