時々夢に見たり、ふとした拍子に思い出して過呼吸のみたいな状態になることもあった。けどその度に岳里に手を握ってもらったり、頭を撫でてもらったりしてどうにか落ち着いて、眠りについて。そんなことを繰り返しながら、三日が経った。
 初めの頃はおれはずっと寝たきりでひたすら瞼を閉じていたけど、ようやく体力も回復しつつあるのか、日中起きていられる時間が大幅に増えた。それでもおれの怪我の状態は未だいいとは言えるものじゃなくて、うつぶせの状態で横になることを強制される。
 この世界に来てからというものずっと借りていた三番隊隊長の部屋には戻らず、あの時気を失ってからはじめに目覚めた部屋でずっと過ごしていた。どうやらここはセイミアが常在する医務室の隣の個室らしくて、早く怪我を治すためにもここから離れるわけにはいかないらしい。
 なんでも、治癒術を扱えるセイミアは常にその術の源のような力を放出し続けているそうなんだ。常に垂れ流されているその力は本来人が持つ自然治癒力を高める効果があるそうで、だからそのおこぼれで回復を早めるためにおれはこの部屋にいるというわけだ。
 なるべく近くにいなくちゃセイミアの力が届かないから、だから隣の部屋を宛がわれたんだと、そう岳里から説明を受けていた。実際におれには実感はないけど、怪我の具合の回復は多少早いらしい。
 そういうわけで前の部屋に戻ることはまだ許されてなくて、わざわざ岳里はこの部屋の床で寝泊まりしておれの看病をしてくれた。看病とはいっても、夜中に突然目を覚まして暴れそうになるおれを抑えたり、歩けないからトイレまで連れてってもらたったり、風呂入れないからって身体拭くの手伝ってくれたり。あとは、その、傷口に……く、薬を塗ってくれたり、とか。
 岳里は本当によくおれの身の回りの世話までしてくれた。果てにはご飯も岳里の手から食べさせられそうになったり、下の服まで着替え手伝おうとしたり。さすがにその辺は自分でやるって説得してどうにか手を引いてはくれたけど、明らかに不服そうな顔をされたっけ。
 そんな、おれを憐れんでくれる岳里は暇つぶしの相手もしっかりとしてくれた。なんでもいつの間にかこの世界の文字を理解してしまったらしい岳里は、寝た切りで行動が極端に制限されるおれにこの世界の歴史を読み聞かせてくれるんだ。
 落ち着いて淡々とした岳里の低い声は聞きとりやすくて、時々難しい説明があればおれのために噛み砕いて岳里なりの解釈を交えて話してくれたりして、少しずつではあるけどこの世界について知っていった。とはいっても、本を読み聞かせてもらってこの二日間で教えてもらった内容は復習にあたって、獣人と心血の契約だったり、この世界の男女比だったりについてなんだけど。それでも、改めて聞いた内容をおれなりに理解し直していく。
 ――そうやって、この世界をもっと好きになるための手伝いを、岳里は口だけではなく早速行動してくれたんだ。
 本人は何も言わずに突然本を読みだしたけど、その理由がわからなくないぐらいにはおれも自分の言動には責任を持ってるつもりだ。だからこそ岳里の意図にすぐ気付けて、その心遣いが嬉しかった。
 今もまた、そうして岳里が読み聞かせてくれる本の内容に黙って耳を傾ける。今回は今おれたちがいる国、ルカ国の現国王のシュヴァルさまの前に王さまだった人の話についてだった。
 先代の王はヴァルヴァラゲーゼさまっていう凄い名前で、おれは岳里に何回か聞いてようやくそれを覚えられたぐらいだ。気を抜いて言おうとすれば思わず噛みそうになりながらも、本を読み終えた岳里へ、恒例の質問タイムへ移りその名前を呼んだ。

「そのヴァルヴァラゲーゼさまって、橙色の髪に緑の目だったんだろ?」
「ああ」
「あんまりシュヴァルさまと似てないんだな」

 王さまは銀髪に青い目だったと思い出せば、岳里が違う、とおれの言葉を否定した。
 思わず何が違うんだと首を傾げれば、すぐに答えを教えてくれる。

「ヴァルヴァラゲーゼとシュヴァルは親子ではない。ましてや血のつながりも一切ない赤の他人同士だ」
「赤の他人って……どうして血のつながりもないのにシュヴァルさまがヴァルヴァラゲーゼさまの跡を継げたんだ? よくわかんないけど、王位って先代王の子どもが継ぐんじゃないのか?」

 単純な疑問を口にすれば、それについて岳里は丁寧に説明をしてくれた。
 なんでも、この世界はそもそもが血縁という概念が薄くて、まず親子や兄弟というものが存在しない、というところから説明は始まった。
 男女の比率が大幅に偏り女の人が少ないこの世界では、必然的に女の人は沢山の子どもを産むことを求められている。だからひとりで何人もの子どもを産むんだそうだ。それに、大抵生まれる子どもごとにその父親が違うし、生まれたばかりの赤ん坊は母親のもとではなく一か所に集められまとめて育てられるから、言わば同じ世代に生まれたやつがみんな、血はつながってないけど兄弟のような関係になるらしい。それでいて、そういう理由があって親子という縁も薄いそうだ。大抵の人が自分の父親も母親も知らないらしく、それでいて実際に血が繋がってる兄弟も知らないということになる。
 だから案外、すれ違ったその人が実は血のつながった兄貴だったり弟だったりすることもあるそうだなんだ。
 申請さえすれば両親のことや、兄弟のことが記された資料を受け取ることはできるらしく、知る手だてがないわけでもないとも岳里は教えてくれた。ただ、ずっとそんな風にやってきた長い歴史があるから、大体の人は自分の出生なんてものを調べることはせず、気にせず生きているらしい。
 そういうわけで、この世界は血縁という概念が薄いというわけだ。王さまという立場もそれは同じで、あまりに血筋に拘ることはないそうなんだ。
 そもそもこの国の王になるには血筋ではなく、“識別の眼”という特別な力を持った人がなられるらしい。
 “識別の眼”っていうのはなんでも、そのままの意味でその人の持つ性質や特別な何かを見分ける力のことだそうだ。簡単に言えば、その人が根っからの悪人かわかったり、どんなものに向いてるかとかがわかったりするというものだ。
 なんでも、生まれたばかりの赤ん坊は必ず遅かれ早かれ王さまと直に顔を合わせをするらしい。それでその中から治癒術の才能だったり魔術の才能、剣術の才能だったりを際立って持つ子どもを識別の眼を使って見極めて、城で引き取り育てるんだそうだ。そして王になる器である証の眼を持った人物も赤子のうちから見つけて、王にするための教育をするらしい。
 識別の眼は遺伝するものでなく、その眼を持った王様の子どもだからといって同じ力を持つわけでないから、だから王さまになるためには血筋は関係ないそうだ。
 ただし識別の眼を有した人の子孫たちは不思議なことに何かしらが秀でる人が多いらしく、城に勤めている人で、歴代の王の血を継いでいる人は少なくないらしい。実は五番隊隊長のアヴィルも、先々代国王ナルジェさまの血をひいてるそうだ。ナルジェさまはアヴィルの祖父にあたるらしい。

「ふーん……その、識別の眼っていうのを持つ人が王さまになれるってのはわかってけど、じゃあもしその眼を持ったやつが見つからないうちに当代の王さまが亡くなったりしたらどうなるんだ?」
「識別の眼を持つ、王座の後継者がまだ見つかっていない場合、もしくは幼く政事を行えないような場合。あらかじめそういった事態に備え指名された人物を王の代理として置く。先代ヴァルヴァラゲーゼもシュヴァルが跡継ぎとして発覚した直後に亡くなったそうだ。その時の代理として指名されていたのはアロゥだったらしいぞ」
「え、アロゥさん?」

 おれが聞き返すと、岳里は膝に置いた本に目を向けるように小さく頷いた。

「だがアロゥは当時まだ赤子であったシュヴァルを即位させ、自ら傍らで幼き王を支えることを選んだようだ」
「へえ……なら代理だとしても、アロゥさんが王さまになってたかもしれなかったんだ」
「ああ。アロゥは魔術師の才能だけでなくそういった器もあったらしいからな」

 話しが一旦区切られたところで、扉が叩かれる。その音は随分と控え目で小さく、おれは聞き逃したけど、耳のいい岳里は気がつき、立ちあがり本を椅子の上に置くと扉へ向かった。
 岳里が扉を開けようとする前に、もう一度微かな音が聞こえる。今度はおれのもとにも届いた。
 がちゃりと取っ手を回し、岳里が扉の前にいるであろう人物と顔を合わせる。おれのところからだとよく見えないけど、何か話しているようで、なかなか入ってくる様子はない。
 一体、誰なんだろ?
 もうしばらく待っていると、ようやく岳里が動いた。扉を開けたまますたすたとおれのほうへ戻ってくる。その後に、誰かが続いて来た。その顔を見て、おれは思わず身体を強張らせる。

「――――」

 扉からぬっと顔を出したのは、あの強面のハヤテだった。一度ばちりとおれの視線を交わすも、すぐにそっぽを向く。
 相変わらず眼光の鋭さに、おれも思わずその目を視界から逸らすために少し下へ視線をずらせば、ぱっちりとした大きな目がおれを見つめていた。その蒼い目は、何度かぱちぱちと瞬く。

「――あっ、あの……!」

 おれも同じくぱちぱちと目を瞬くと、向こうからおずおずといった様子で声を上げた。
 やや高い声音にようやくベッドへ胸を付けた状態から少し身体を起こし、肘を折って支えを作りながら、改めてその、ハヤテの腕にかけられた茶髪の少年に目を向ける。
 十歳ぐらいのその少年は、ハヤテの腕に腰かけるように抱かれながら、どこか忙しなく視線をさまよわせていた。
 ふっくりした頬を真っ赤にしながら、よくやくおれのほうを真っ直ぐ見ると、頭を下げる。

「はっ、はははじめまして! ぼく、はっ、ふ、ふろ、フロゥと……っ」
「――落ち着け、フロゥ。何言ってんのかわからねえ」
「あ、うん。ご、ごめんハヤテ」

 余程緊張してるのか、何度も言葉をつっかえる少年に、あの怖い顔をするハヤテが声をかける。その声もまた愛想は無縁の低いものだったけど、でもフロゥと呼ばれた少年は怖がる素振りをせず、素直に頷いて見せた。
 何度か深呼吸をしてから、改めておれを見つめる。

「はじめまして、ぼくはフロゥと申します。アロゥさまの弟子です」
「ああ、アロゥさんの」

 おれが思わず声を出すと、フロゥは、嬉しそうに大きく頷いた。
 ベッドの左端にぎりぎりにまでおれは詰め、隙間の空いた右端にフロゥが腰かける。
 岳里は傍らに置いた椅子に座り、ハヤテは少し離れた壁際に腕を組み、我関せずといった様子で目を閉じていた。
 寝転がったままのおれに、この部屋に来たばかりの頃とは打って変わって、楽しそうに笑顔で話しをしてくれる。
 この部屋に訪れた詳しい経緯を聞き、おれはその言葉達を頭でまとめて、にこにこと笑うフロゥに確認をした。

「つまり、フロゥはこの部屋に防音の魔術をかけてくれたのか?」
「はいっ! ですがぼくはまだ未熟なので、もしかしたら上手く魔術をかけられていないかもしれないと思って……なので今日、ちゃんと効果を発揮しているか聞きたくてきました」

 まだ幼いながらにしっかりと話すフロゥを見ながら、おれの顔は自然と綻ぶ。笑顔を浮かべる愛らしい表情の少し離れた後ろにいる岳里から強い視線を感じたが、おれはしっかりと視界にフロゥだけを入れながら一生懸命に話す姿に頷く。
 なんでも、おれが今いるこの部屋にはフロゥが防音の魔術をかけてくれていたらしい。フロゥはまだ魔術師としての腕前は頼りなく、ちゃんと自分のかけたものが効いているのか知りたく、おれたちに直接尋ねに来たそうなんだ。
 おれはここで初めて、その防音の魔術とやらがこの部屋にかけられていることを知った。
 言われてみれば確かに、ここは人通りの多い医務室の隣の部屋だっていうのに、これまで話し声のひとつも聞こえなかった。大してそのことを気にしてなかったから気づかなかったけど、おれがこうして落ち着いてこの部屋にいれるのはフロゥのおかげだったというわけだ。
 おれは足音すら聞こえなかったことと、おかげでゆっくりできていることをフロゥに伝え、感謝の言葉を告げた。

「よかったです。ぼく、お役に立てんたんですね」
「うん。本当ありがとうな」

 にこにこ笑うフロゥの頭を撫でまわしたくなる衝動を抑えながら、おれも笑顔を返す。

「なあ、フロゥはいくつなんだ?」
「ぼくは六歳です」
「へえ、それなのにしっかり――」
「フロゥ」

 しっかりしてるな、と褒めようとしたところで、低い声がおれの言葉を遮る。
 声の主の方へ目を向ければ、相変わらず目を瞑った体制で壁に寄りかかっていた。

「もう用は済んだろ」
「ハヤテ、今はしんじさんが話してたよ」

 唸るような機嫌の悪い声に、おれは思わず眉を垂らすも、フロゥはなんら怯える様子もなく、ハヤテを強く見る。その視線に気づいたのか、ハヤテはゆっくりと瞳を開け、フロゥを高い位置から見下ろした。
 相変わらず強い眼光に、おれは堪らず息を飲む。

「うるせえ、終わったんならとっとと帰るぞ」
「口が悪いよ、ハヤテ。いつもアロゥさまに言われてるだろう」

 威圧ある鳶色の眼に、おれは情けなくも内心でびくびくと震えあがるが、フロゥは一向に怖がる素振りは見せず、さらにはハヤテに注意すらした。
 ハヤテはしばらくフロゥを睨むように見ていたけど、舌打ちをすると、さっきと同じように目と口をどちらも閉じる。その様子を、フロゥは仕方なさそうに息を吐き見守っていた。
 ハヤテ、と一度フロゥが名前を呼ぶが、応えようとはせず、拒絶するように黙ったままだ。
 もう一度溜め息をひとつつき、フロゥは改めて岳里と、それからおれへ視線を向けて、深く頭を下げた。

「……ごめんなさい、しんじさん、がくりさん。ハヤテ、人見知りが激しいからこんな態度とってしまって……」
「誰が人見知りだ。てめえがそうなんだろうがよ」

 その言葉に、黙ったはずのハヤテがフロゥを睨む。けれどフロゥは気にする様子もなく、むしろその声が聞こえていないように話を続けた。

「おまけに素直じゃないんです。こんなですけど、仲良くしてあげてください。本当は可愛いやつなんです」
「おいフロゥ、てめえいい加減にしねえと黙らすぞ」
「黙るのはハヤテだよ。君が誰かれかまわずそう口も態度もわるくするから勘違いされるんだ。いいかい、君はぼくの獣人だ。君がしでかしたことはぜんぶ、ぼくの責任なんだよ。ぼくに迷惑かけたくないのなら、今はだまってて」

 低い声を凄むも、それでもフロゥは変わらなかった。
 出会ったばかりのあの緊張し、言葉をつっかえどもった姿はどこにもなく、堂々とした様子で自分よりもずっと大きなハヤテと向き合う。ハヤテが向ける視線の鋭さは、六歳の少年に向けるものに到底思えない。フロゥよりも年上のおれでさえ、その目と合っていないはずなのに、恐怖から身体が強張るのに。それなのにそんな様子もなく、フロゥは凛とハヤテと視線を交わしていた。
 二人はまるで視線でのみ会話をするように、ただじっと口を閉じ見つめあう。そうしているうちに先に折れたのは、ハヤテのほうだった。

「……いいからさっさと済ませろ」

 諦めたようにため息交じりに告げられるも、フロゥは満足げに笑う。

「すみません、しんじさん、がくりさん、ぼくはそろそろおいとまいたします。よければまた、お話ししてくれますか?」
「うん、いいよ。おれももっとフロゥと話したいし、またいつでも」
「はい!」

 大きくくりくりとした目に見つめられ、おれは何度も頷きその笑顔に癒される。
 その度に強く感じる視線に気づかないふりをして、来たときのようにハヤテに抱えらられたフロゥが手を振りながら部屋を去っていくのを、ベッドの中から見送った。
 ぱたり、と小さな音を立てて扉が閉められ、おれは手を下ろした。

「なあ、岳里」
「なんだ」
「フロゥって、やっぱり……」

 歯切れ悪く言葉を区切れば、岳里は小さく息をついた。
 岳里はおれの言えなかった続きを悟ったらしく、おれと同じように、扉へ目を向ける。

「アロゥの弟子であり、ハヤテの主であるフロゥ。生まれた時から右足が不自由だそうだ。そのせいで、自力で歩くことはできない」
「そうなんだ、やっぱり……」

 自分から教えてくれるようせがんだくせに、それを聞いた心はあまり晴れなかった。
 さっき見たばかりの明るい笑顔を思い出していると、いつの間にか視線をおれに向けていたらしい岳里が口を開く。

「話がある」
「ん? どうしたんだよ、改まって」
「おれはヴィルハートから、剣を習うことにした」

 おれもいつまでも扉を映していた視線を岳里へ向ければ、岳里は相変わらずなんの表情も浮かべないままそう言った。
 じっと岳里の目を見ても、その内を窺えない。何食わぬ顔のままおれを見返してくる。

「それって……剣を扱う、ってことか」
「ああ。昨日、ヴィルハート自身からそう提案された」

 恐らく、おれが寝てる間にそのやり取りがあったんだろう。おれが起きている時は必ず岳里は傍にいたから。
 いやでも思い出す。岳里がはじめて剣を握ったときのこと。突然現れた魔物のこと。ユユさんと一緒に、岳里とジィグンを見守ったこと。そう遠くない記憶を引き出せば、必然的に返り血を全身に浴びた岳里を思い出してしまう。
 あの時は無事に済んだけど、もしかしたらあれが岳里自身の血になっていた可能性もありえなくはなかった。剣を使うということは、またあの時みたいに危ないことになるかもしれない。
 ぞっとする光景を想像して、おれは毛布の中に隠した自分の右手を左手で擦る。冷えたそこは水分も足りないようにかさかさとしていた。

「――無理、すんなよ」

 張り付く喉を開きながら、どうにかそれだけを岳里に告げる。目を逸らしてもぞもぞと身体を動かして、毛布を口元までずりあげた。
 おれに言えることはなんもない。岳里がやるっていうのを止めることはできないし、むしろやりたいならそうするべきだから。おれが、口を挟むことじゃないんだ。
 不意に、岳里の手がおれの頭へ伸びて、わしゃわしゃと掻いた。

「大丈夫だ」

 髪を乱しながら岳里は言う。
 不安を、顔に出したつもりはないのに、岳里にはどうしてだか気付かれる。それがなんだか悔しい。
 おれの頭を撫でるのは兄ちゃんぐらいで、ましてや同い年の岳里に子ども扱いされて、言い表しがたい複雑な気分になるけど、素直に気持ちいいと思った。岳里の手が何度もそう長くない髪の間を擦り抜ける感触に目を閉じる。

「――ん」

 岳里の言葉にようやく応えながら、おれはいつの間にか体温が戻った指先を握りしめる。相変わらずかさかさとはしてたけど、自分の手に触れているんだという感じに安心した。
 しばらくして岳里は、はじめの乱雑さを消して、穏やかにおれの髪を梳くように頭を撫でる。乱れた髪が元に戻ったところで手は離れていき、代わりに岳里の声がおれに触れた。

「おれが剣を習う間、おまえはライミィからこの世界の語学を学べ」
「ライミィ……?」

 どこかで聞いたことがあるような名前だけど思い出せず、岳里に首を傾げて見せる。

「ああ。六番隊の隊長だ。以前、夜中に帰還しただろう。今は怪我をし自室で療養中だからと、向こうから申し出があった」

 岳里に言われて、おれはすぐにその時の記憶を思い出す。
 確か、多くの怪我人が出たって、あの時おれたちの部屋の警備にあたってたユユさんは言ってたっけな。その隊長であるライミィも怪我してたのか。
 十三人いる隊長のうち唯一会ったことのないがライミィだった。

「岳里はもうライミィと会ったのか?」
「ああ、おまえが寝ている間に。この世界の文字を覚え本を読めるようになったら、暇をつぶしやすくなるだろう」
「あ、そっか」

 納得したのは暇つぶしができるようになる、ってことじゃなくて、これから岳里に本を読んでもらえなくなるということだった。
 これから剣で忙しくなるわけだから、呑気におれに読み聞かせる暇が岳里にはなくなるわけだ。たぶん、それも含めておれに文字を習わせようとしてくれてるんだと思う。

「わかった、おれはそうするな」

 おれもいつまでも岳里にひっつくように甘えてるわけにはいかないと、少し寂しく思いながらも頷いてみせた。
 少しずつおれも、この世界で生活できるようにならないと。
 そう意気込むおれの顔を見た岳里が、なんだか不思議な顔をする。変なことを言ったかとほんの少し不安に思ったけど、すぐに目を逸らされた。
 視線を下へと向けながら岳里は口を開く。

「――言い忘れていたが、これからはこの城内のみ、自由に往来していいそうだ」
「え、いいのか?」

 思わずおれが弾んだ声を上げると、のっそりと岳里は顔を上げる。そこにはさっきの言い表しがたい不思議な顔はなく、いつもの無表情に戻っていた。

「ああ。ただし、あまりうろうろするなよ」
「それは岳里の言葉?」
「……そうだ。城の中とは言え、安全とは言い切れない。人の往来が多い場所をなるべく歩くようにしろ。それにまだ構造を覚えていないだろう」

 やっぱり、うろうろするなっていう注意は王さまたちの言葉を口にしたわけじゃなくて、岳里自身がおれを心配して言ってくれたことだった。
 それが嬉しくて、おれは思わず毛布に顔をうずめて小さく笑う。岳里が居心地悪そうに目を逸らすのを見て、ますます楽しい気持ちに口は緩んだ。
 岳里は、言葉が足りない。だから本当は優しさの滲む言葉も伝わらないし、愛想なく見られがちだ。いや、実際愛想はないけど、でも岳里は自分本位なやつじゃない。ちゃんと周りを見れて、気遣えるんだ。なのに表情は乏しいし、口数は少ないから勘違いされる。おれも最初はそうだった。でも今は違う。少しずつ岳里のあまり変わらない表情がわかるようになってきたし、岳里の言葉は難しいけど、でもなんとなくその後ろにあるものに気づけるようになってきた。
 そうやって少しずつ岳里という人が見えてきて、理解できて、こうして笑えることが嬉しい。
 ひとしきり口元を隠しながら笑ったあと、いつまでもそっぽを向く岳里を見上げる。
 相変わらず無表情にただ横を向いてるように見えるけど、その内心がどんなことを今考えてるのか想像するとちょっと面白い。また吹き出すように笑いそうになりながら、どうにかそれに耐えて口を開いた。

「あのさ、岳里」
「なんだ」

 真横を向いておれに横顔を見せていた岳里は、向きを変えないまま視線だけおれに寄こす。

「たまになら、その……剣、練習してるとこ、見に行ってもいいか?」

 今度こそ岳里は顔ごとおれに向く。若干右の眉が上がっていた。
 それがどういう意味を成すのか、さすがにまだわからなくて、おれは岳里からの返事をただ待つ。
 右の眉がいつもの位置に戻った頃に、ようやく岳里は口を開いた。

「必ず、隊長格を一人傍に置け。これからしばらくおれは、おまえの傍にいれなくなるんだ」

 はっきりとはしないその言葉を肯定と受け取って、おれは頷いた。
 ――そっか。岳里が剣を習うってことは、一緒に行動するのも少なくなるわけなんだ。
 これまでにあまり岳里と離れて行動することがなかったから、その様子を想像するだけで少し怖かった。岳里の傍にいると、なんだか安心するっていうか、安定するっていうか。うまく説明ができないけど、守られてる気分になるのかな。だから、それが離れるのを考えると、おれは無防備に晒される気分だった。
 今までどれだけ岳里を頼ってきたのか。嫌でも目の前に突きつけられる。
 ほんと、いつまでも甘えてらんないな。
 つきりと痛む下半身に、毛布の下で腰をさする。なるべく岳里に気付かれないように手を動かしたつもりだったけど、その視線はすぐにおれの腰あたりに移っていた。それを見ていたおれは、岳里がもっと気付かないやつだったらよかったのかも、なんて恩知らずなことを思う。

「――……それと、もうひとつ別件がある」
「ん?」
「レードゥが、おまえの心配をしている」

 その名前を聞き、おれはあの鮮やかな髪色を思い出す。いつも、レードゥを思う時に真っ先に浮かぶ色。その次に、気まずそうにするレードゥの顔がすんなりと思い浮かんだ。
 きっと、レードゥのことだ。責任を感じてるんだろうな。

「うん、わかった。あんがとな、岳里」
「別に。ヴィルハートに頼まれただけだ」
「そっか、ならヴィルにもお礼を言わなくちゃな」

 小さく笑うと、岳里はまたおれの頭に手を伸ばし、今度はぽんぽんと叩くように二三度撫でてすぐに引いていった。
 離れていく手を眺めながら、胸の中では決して穏やかとは言えない気持ちが渦巻いていたのに、それがほんの少し軽くなる。
 やっぱり、岳里には敵わないな。
 ――おれに起きたことで辛い思いをしたのは、おれだけじゃないんだ。
 きっと岳里にも沢山心配かけたろうし、レードゥは責任を感じてる。そんなレードゥを見守るヴィルにも思うことはあって。
 他にももっとたくさんの人にいやな思いをさせてるんだろうな。見えないだけで、知らないだけで。
 それだけ多くの人に、おれは見守ってもらってるんだ。

 

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