岳里の首に巻いた両腕の片方を外して、手を伸ばして窓を軽く叩いた。なるべく小さく、けれどヴィルだけは聞こえるように。
確かに耳に届いているはずなのに、でもヴィルは窓に目すら向けようとはしない。
「おかしいな……」
首を捻っていると、岳里がおれの身体を片腕で抱くよう抱え直して、自由になったもう片方の手で窓に手をかけ手前に引いた。鍵はかかっていなかったらしいそれはあっさりと動いて部屋の中への道を出現させる。
入るのか、とおれが問いかける前に岳里は器用に翼を畳みながら中に降り立った。
ようやく足をつけることができたおれはそれに安堵しながらも、改めてヴィルの方へ目を向ける。それでもヴィルの視線はうつろなまま、おれたちに見向きもしない。
動けずにいるおれとは違い、岳里は歩き出すとそのままヴィルが座るベッドの傍らまで行き足を止めた。
「ヴィルハート」
「――――……」
返事はない。おれが岳里の隣に追いついた時また名前を呼んでみたけれど、やっぱり反応すらなかった。
ぼうっと、ただ目の前を眺めている。何の感情も見えない虚ろな瞳で。
明らかにそれは、ヴィルらしくはなかった。
おれは不安を覚え、岳里へ視線を移す。
「なあ、ヴィルは……」
途中で区切った言葉に、岳里は考えるようにしてじっとヴィルを見る。
しばらく、岳里は口を閉ざした。それがようやく開いた時には、どこか悩ましげな溜息がつかれる。
「ヴィルハートは今、空だ」
「から?」
「ああ。理由はわからないが、恐らく何も考えることができないのだろう。だからおれたちに反応することもない。魂が抜けているような、そんな状況だ」
おれは恐ろしく思えて目を逸らしていたヴィルを、もう一度見る。
そっと肩に手をかけ、軽く揺すりながら名前を呼んでみた。けれどされるがままヴィルは身体を揺らすばかりで、やっぱりなんの反応もない。
「……とりあえず、戻ろう」
おれが前に傾けていた身体を起こし、岳里に振り返ったその時だった。
微かな、ヴィルの声がおれの動きを止める。
「ヴィル?」
振り返ったおれは、小さくヴィルの口元に耳を寄せる。
今までなんの反応もなかったヴィルが、静寂の夜の中でも消えてしまいそうなか細い声で、言った。
「――――と……はる、と……どこに、いる。はると……はると――」
その掠れ疲れ切った声は、おれの心を揺さぶるのには十分なものだった。
もう一度だけ、はると、とヴィルは口にすると、再び口を閉ざし、ただぼうっと目の前を眺めるだけの人形になる。
たまらずおれは岳里の身体に身を寄せた。
「岳里、早く戻ろう。おれ、ここにはいられない……」
岳里はおれの言葉に何も返さなかった。けれど、すぐに行動してくれる。
おれをその場で抱え上げると、しがみつくように抱きついたこの身体をしっかりと支えながらまた窓から空を飛ぶ。そのまま来た時と同じ道を辿り、自分たちの部屋に戻った。
岳里はすぐにはおれを離さず、ベッドまで運んでくれて、端に腰かけるようにしてようやく下してくれる。
岳里は床に跪き、下からおれの顔を見上げた。
「大丈夫か」
「……うん。ごめんな」
謝るおれに、岳里は首を振る。
「あれは、亡霊に近い存在だ。ヴィルハートではなく、初代闇齎らす者である、遥斗を探す悠雅だ。だから、あまり気にするな」
その言葉に結局、うん、としか返せなかったおれの頬を岳里は撫でてくれた。
よく、わからない気持ちが胸に渦巻く。痛いような、悲しいような、苦しいような。何かが胸につかえているような、言いようのない不安のような、そんなものが。
聞くまでもなかったのかもしれない。ヴィルはきっと――遥斗に、ずっと会いたかったんだろう。誰の前でも見せないけれど、心の底では、ずっと。ずっと、死んでしまった、守れなかった遥斗を探して、いるんだ。
膝の上で拳を握ると、岳里の手が重ねられた。いつの間にか冷えていたおれの手が岳里の熱に触れ、少しずつ、気持ちが落ち着いていく。
――もしかしたら、レードゥの中で眠り続けているという遥斗が満月に影響されるように、ヴィルも満月に何かしらの影響を受けているのかもしれない。
さっき見たヴィルはいつのもヴィルじゃなかった。だからその可能性は高いと思う。
おれは力を奪われたように脱力して、腰が重くベッドに沈む。それでも気持ちはだいぶ落ち着いて、一度大きく深呼吸をする。
息を吐き出したその時、岳里の手が離れていった。そのまま岳里は立ち上がると、扉の方へ身体を向ける。
「コガネのもとへ行ってくる」
「……コガネの?」
予想してなかった言葉に、思わず首を傾げた。
「用でもあるのか? でも、今から行くのはさすがに迷惑だろ」
「あいつが何を知り得ているのか、聞きに行く」
「何を、って……どういう意味だよ」
岳里の手が離れたからなのか。それとも、含む言い方に何かを感じたのか。おれの心はまたざわつき出す。
不安なのかはわからないけれど、ひどく心もとなくなる。でも、それでも岳里が今何を考え、どうしてコガネのもとに行こうとしているのか知りたかった。
岳里は肩ごしに視線だけをおれに向ける。
「満月の夜、決して人前に出ないのはレードゥ、ヴィルハートだけでない。ましてや、あの二人とは縁の深い男だ。何かあると、おれは思っている」
おれのためなのか、岳里にしてはその意図がわかりやすい言葉を並べた。
満月の夜、部屋に籠る人がいる。それはさっき会ったレードゥと、ヴィル。そしてあと一人、二人と仲がいいコガネだ。おれはレードゥの――遥斗たちのことで頭がいっぱいになっていたから、その事実を忘れていた。けれど岳里はしっかり覚えていたんだ。
レードゥは遥斗が表に出てくるから。ヴィルは、抜け殻のようになってしまうから。なら、コガネは? 二人のように何か、特別な何かが絡む事情を抱えているかもしれない。
だから岳里はそれを確かめに行こうとしているんだ。
「おれも行く」
「休んでいろ。調べてきたことは明日、改めて話す」
「大丈夫、とは言えないけど……おれも知りたい。遥斗たちに関わっているようなことであれば、なおさら。――ごめん、わがままだってわかってる。でも、おれも行きたい」
じっと岳里の目を見つめて、しばらく。岳里は一度小さく息をつくと、一度は扉に向けた身体をおれの方へ向き直る。
「行くぞ」
差し出されたその手を、おれは頷き自分の手を重ねた。
おれたちの部屋の隣のコガネの部屋。コガネの従える獣人のヤマトも一緒に暮らす部屋の扉の前で、おれと岳里は並んだ。
岳里が一度おれに目を配ってから、扉を叩く。少しの間をおいて、扉越しから声が聞こえた。
「こんな夜遅くに、どちらさまかな」
それはヤマトの声だった。その言葉通り、今の時間帯を考えたひっそりとした声に、おれも同じく声を潜めて答える。
「おれだよ。真司と、それと岳里」
名乗ると扉はすぐに開いて、少しの幅からヤマトが顔を出す。
「こんばんは。一体どうしたんだい? 何か急用かな」
「コガネに会いたい」
誰もが声を押さえたくなるような暗闇の中で、岳里だけがいつもの調子で返した。
けれど、コガネさんの名を聞いた途端に、それまで微笑みを浮かべていたヤマトさんが厳しい表情に変わる。
「ごめんね、コガネさんには会わせられない。君たちは知らなかったのかもしれないけれど、満月の日、コガネさんは誰にも会わないんだよ」
「知っている。だからおれたちはここに来たんだ」
「知っているなら、答えが覆らないことはわかるだろう? すまないけど、用があるなら、明日に――」
「構わない、ヤマト。二人を中に入れてくれ」
拒否するヤマトの言葉を遮った声は、部屋の奥から聞こえた。そしてそれは、紛れもなくコガネのもの。
ヤマトさんも驚いたのか、中に振り返った。
「でも、コガネさん。今夜は……」
「いいんだ、ヤマト。この二人は恐らく、すでにレードゥにもヴィルにも会ってきたんだろう……そうだろう、真司、岳里」
奥から聞こえてくる声は、レードゥのように別人になっていなければ、ヴィルのように空っぽになっていない。コガネ自身の言葉だ。
「うん、会ってきたんだ。ついさっき、二人に」
おれが答えると、コガネはそうか、と呟いた。
「ヤマト、おれのことなら案ずるな。さあ、客人を招き入れてくれ」
「……わかりました。どうぞ、二人とも中へ」
最後までヤマトさんは顔色を晴らすことなく、けれど主であるコガネさんの言葉に渋々従う。
それまで僅かにしか開けなかった扉を大きく開かせ、おれたちに道を示した。
多分、何かあるのは間違いない。あの二人とは違う、何かが。
おれが動けずにいると、不意に岳里に手を掴まれる。そのまま歩き出した岳里に引かれ、部屋の中に入った。
そして、ようやく会えたコガネの姿を見て、言葉を失う。あの岳里でさえ、目を見開いた。
「驚かしてすまない。だが、満月の夜にはこの姿になってしまうんだ」
「……コガネ、だよな?」
「そうだ」
そう、コガネの声で頷いたのは、ベッドの上に腰を下した――大きな、金色の毛を持つ狐だった。
「満月の夜、コガネさんはこの姿になるんだ。だから。誰にも会えないし、会わない。決して、この秘密は誰にも言わないでね」
おれたちの驚く顔に苦笑いしながら、ヤマトはコガネであろう狐のいるベッドの隣に立ち、おれたちに向き直る。
ようやく衝撃がひき始めたおれは、まじまじとそこにいる狐を見つめてしまう。すると太い尾が一度ベッドを叩いた。それは狐が置物なんかじゃないと、教えてくる。
「おまえ、は……まさか……」
ようやく状況が飲み込めてきたおれの耳に、未だ戸惑う岳里の声が届いた。
おれは思わず、岳里に振り返る。信じられないものを見るような目がそこにはあった。初めて見る表情かもしれないそれは、あまりにも岳里らしくない。
けれどコガネは岳里の反応をまるで想定していたように、悠然と岳里を見つめ返す。
「岳里?」
不安になったおれが名前を呼ぶと、はっと気づいたようにこっちへ視線を向ける。それから一度頭を振るって、大丈夫だ、とようやくいつものように答えてくれた。
「コガネ、おまえは……初代、光降らす者。遥斗と盟約を交わしこの世に生を受けた獣人の、あの“コガネ”だったんだな」
「え……」
岳里の言葉に、今度はおれが、コガネさんを見つめる番だった。
初代の光降らす者。遥斗と盟約を交わした獣人。それが、コガネ?
おれたち二人の視線を浴びるコガネは、毛並みと同じ金色の瞳をゆっくりと瞬かせる。
「――いかにも。とは言っても、今はただの人間だがな。この姿は満月の夜だけ、おれの罪を知らしめるためになるんだ。レードゥとヴィル同様、満月の力により増幅した神の力がこうさせる」
「神さまの、ちから……ヴィルも――ヴィルがああなったのも、神さまの力が影響してるのか?」
おれの疑問に、コガネは頷く。
本来生まれ変わるはずである魂を無理矢理繋ぎ止め、悠雅という人物をそのままヴィルハートとして生まれさせた。それはヴィルが誕生する以前も、選択の時を迎える度に何度も繰り返されていることだ。そしてそれを可能とさせているのが、神さまの力だと、コガネは説明する。
「ヴィルの場合、ヴィルの魂は完全に神に手によって運命を捻じ曲げ支えられているようなもので、本来、まったく別の魂となって生まれ変わっているはずの存在。つまりは、悠雅をヴィルとして保たせる神の力が与える影響が大きい。レードゥとハートの場合は、レードゥという生まれ変わった魂の一部としてこの世にあり続けているから神の力の影響も少なく、魂への負担が少ない。だからこそ満月の夜、ハートが表面に出てくるだけで済んでいる。だがヴィルは、神の影響力が大きいがために、魂への負担も大きいんだ」
ましてや、酷使し続けてきたからな、とコガネはぽつりと呟くように言った。
コガネがハートと呼ぶ人物はきっと、遥斗のことだろう。ヴィルも遥斗がハートと呼ばれていたこともあるって言ってたし。
「なら、ヴィルが空っぽになっていたのは……」
「空っぽ、か。まさにその通りだな。簡潔に言えば満月によって増幅した神の力が高まり過ぎて、無になってしまったんだ」
どこか寂しそうな目をしながら、コガネは窓の外を見る。
そこから覗く満月は、いつもはきれいだと思えるのに。なんでか、今はぞっとするような、恐ろしいものに思えた。
「おまえがあの“コガネ”だということは、二人は知っているのか」
今にも雲に隠れてしまいそうなそれを見つめていると、どこか険のある岳里の声が聞こえ、おれは振り返る。
隣には相変わらず表情を変えない岳里がいた。でも、さっきの声には明らかな、敵意のようなものを感じ、なんだか不安になってコガネさんに視線を移す。
「――知らないさ。ヴィルがハートの存在を知らぬように、おれの存在を二人は知らない。彼らと同じく、輪廻に捕らわれた者だとしてもな」
「おまえは何のためにこの世界にいる。遥斗のように選択者の支えになるわけでもなく、ヴィルハートのようにあるべき道へ導くためでもなく。コガネ。おまえは何のためにその姿をしながら、この世に生き続けているんだ」
「岳里、落ち着けよ。なんか変だ」
「黙っていろ」
明らかにコガネさんを責めるように口を開く岳里を止めに入るも、おれの方を見ることなく、岳里は冷たく言い放つ。
その姿におれは戸惑いを覚えた。岳里が、こんな態度をとったのは、初めてだったからだ。苛立っているような、そんな雰囲気を感じる。
おれはどうしていいかわからず、一度もこっちを見ようとしない岳里を見つめるしかできなかった。
すぐ隣なのに、とても遠い場所から。
岳里もいる。コガネも、ヤマトもいる。それなのに、突然一人っきりの場所に閉じ込められた気分だった。
言葉を失うおれに、けれどいつもの岳里じゃない岳里は、気づかない。
「答えろ、コガネ。選択者を、盟約者を世界と天秤にかけ、そして手に掛け――最悪の結末を導いた罪人、“コガネ”」
「っ、岳里、それ以上はおれが――」
「いい、ヤマト。おまえには、きっと岳里の気持ちはわからない」
あまりの言葉に、あの温厚なヤマトが岳里に詰め寄ろうとした。しかしそれを穏やかなコガネの声が止める。
「それに、彼の言葉は間違えていないさ。おれは大切な命を浅はかに奪っただけでなく、この世界に生きる多くの人の命さえも失わせたのだ。罪人と言われ、何も間違えていないだろう?」
「――っ」
ただ顔を歪ませ、ヤマトさんは握った拳を震わせながらも踏み出した一歩を戻す。
岳里は変わらず、ただコガネを射抜くように見つめていた。
「おれがこの世にいるその理由。それは、ヴィルの――悠雅の魂のためだ。おまえたちはヴィルが時折、狂ったように暴れ出すのを知っているか?」
「い、いや、そんな話は、知らない」
沈黙する岳里の代わりに、おれが答える。
「知らないのも無理はない。おまえたちが来る以前によくあった話だからな。ヴィルが暴れる条件は、レードゥが遠征やらで三日以上、あいつの傍を離れた時のみだ。これまでは十三番隊の中とその他一部の間だけで留めていた話だし、噂としてさえ聞いたこともなかっただろう」
おれたちが来てからは問題事が多く、遠征に向かう機会が減ったからそんなことは起きなくなったと、ヤマトが補足するように説明してくれた。
「何故レードゥと長時間離れると暴れる」
「――魂を酷使し過ぎたせい、が一番の要因だ。ヴィルはさっきも言った通り、神の力で本来生まれ変わり前世を忘れ生きるはずが、役割を持ち、記憶を持ち、生き続けている。それは、魂を削るような行為なんだ」
丸いひとつの玉があったとする。それが、魂だったとする。
玉は、生まれてから死ぬまで、少しずつ削れていく。そして生まれ変わった時、その削れてしまったところを埋めるように新しいものが足されて、また初めの丸に戻るんだ。人の魂はそれを繰り返して、そして新しいもので補って、輪廻を巡るそうだ。
でもヴィルは、悠雅は生まれ変わっても無理矢理自分のことを思い出し、そしてまた悠雅として生きる。だから削れた部分が補填されないままになっているそうなんだ。
コガネはそう、おれたちに説明をした。
玉が削れ続け、消えてしまったら。そしたらその魂も完全に消えることになる。
魂が消えることは、二度と生まれ変われなくなるということ。
「ヴィルの魂は、もう残り少ない、そのため、自我を保つことが難しくなっているんだ。あいつはよく、レードゥに抱きついたりして身体に触れているだろう? あれは、ヴィルの無意識の行動だが、レードゥの魂から少しずつ力をわけてもらっているんだ」
「レードゥから?」
「レードゥはハートの意識の維持のためとはいえ、神の力を少なからず宿している。そのおかげか、他者に比べると初めから持っている玉が、大きいんだ。多少ヴィルに奪われても一向に問題がないほどにな」
「ならば何故おまえは自我を保てている。おまえも、ヴィルハートと変わらない症状が出ていてもおかしくはないだろう」
相変わらず厳しい岳里の声音に、コガネはそれを咎めることなく苦笑した。
「おれは、今回初めて生まれ変わったんだ。同じ、“コガネ”として。もとは獣人の魂。人間として転生できるようになるまでに時間がかかった。だから、おれはまだヴィルほど魂を消耗していない」
「何故、ヴィルハートはおまえのその名を疑問に思わなかった。獣人の名は、この世界のものとは別の、音が違うものを与えられる。それを、あのヴィルハートが知らないとは思えない」
岳里は何か急いでいるように、コガネが答えたら次の質問へと、そう間を開けることなく続ける。
おれは岳里の言葉の意味がわからなくて、でも聞くことはできなくて。ただわけもわからないまま見守っていると、それを察してくれたのか、コガネが説明を入れてくれた。
「おれのコガネという名で、浮かぶ“漢字”があるだろう? 他の獣人たちの名もそうだ。ヤマトや、ハヤテ。ミズキ」
コガネは黄金。大和、疾風、水樹――他に当てはまる漢字があるかもしれないけれど、確かにコガネが言うように、それはある。おれも以前に不思議に思ったこともあった。けれど――
「でも、ネルやジィグンは?」
「あの二人は、それぞれ字名だ。本当の名は別にある」
他にも稀に獣人で、ネルたちのように名を変えて暮らしている人たちはいるみたいだ。
この、ディザイアに生まれてくる人間の名前は漢字に変換することができない。レードゥやヴィルハートみたいに。
「そうやって名前だけで獣人か否かを判断することができるんだ」
「そうだったのか……でも、どうしてコガネは漢字を知ってるんだ? この世界の文字じゃないだろ?」
「ハートと悠雅に教わった。二人は日本語と漢字をおれに教えてくれたんだ」
「だからおまえはおれたちの名の発音も、すんなりいったというわけか」
どこか嘲笑めいたものが混ざるような岳里の言葉に、コガネはただ頷く。
この世界の人がおれたちの岳里、真司っていう名前を呼ぶ時、どこか発音が変になる。けれど、中には直さなくても発音できる人がいて――そういえば、ヴィルも初めから呼べていたっけ。
「ここまで話せばもうわかるかと思うが、おれは前回の、獣人として、初代光の者としての生を受けた時、今と同じ名である“コガネ”を授かったんだ。もちろんコガネという名を悠雅も……ヴィルも知っている」
ああ、そうか。だから岳里は、許せないはずの獣人“コガネ”の名前を持つ、人間の“コガネ”に疑問を抱かなかったのか、知りたいんだろう。ましてや人間にはコガネなんて名前はつかなかったはずだから。
「ヴィルも、気にはなっていたろう。だが気にしないことにしたのかもしれない。たとえ名前は同じでも、姿は当時と同じというわけでもないからな。単なる偶然と思ったか、それともおれのこの名を忘れたいほど憎んでいるか、はたまた、ハートがくれたもうひとつの名で覚えているだけか」
コガネはまた遠くを見つめながら教えてくれた。
コガネがいた時代はまだ、心血の盟約しかなかった。盟約を交わす際には、人間側が召喚した獣人に名前を与える、っていう儀式がある。おれがカルディドラっていう名前だった岳里に、“がくと”と名付けたように。
コガネが言うには、ヴィルは遥斗がコガネに与えた名前の方を憶えているのかもしれない、ということだった。
「こればっかりはおれにはわからない。あの人には――ヴィルにはヴィルなりの考えもあるだろうし、たとえおれがあの時と同じ“コガネ”だと気づき、何かされたとしても。おれは、甘んじてそれを受け入れるだけだ」
「殺されることになってもか」
「当然だ。むしろ、ヴィルにはその権利がある。遥斗にもだ。今おれは、どうあの罪が償えるのか探している。だが、見つかりはしないだろう。それほどおれの業は、深い。おれに差し出せるものは、なんでも渡すよ」
そう話すコガネの隣で、ヤマトは沈黙を貫きながらも沈痛な表情で、拳を握っていた。それが震えているのを見てしまったおれは、けれどできることなんてなにもない。
ヤマトにとって、コガネはすべてだと、そう本人から言われたことがある。かけがえのない存在だと。けれどきっと、それでもコガネの邪魔はしないだろう。
心の底で何を願っていようが、止められるわけがないんだ。
「――それで。改めて問うが、何故おまえはこの世界に在る。なんのために、償いきれぬ業を抱え、自らが陥れた魂の傍らで笑っている」
コガネは、目を伏せた。
「さきほど、話したな。ヴィルの魂はもう残り少なく、自我を保つことが難しくなっていると」
「ああ。それで、レードゥとあまり長い時間離れると、暴れるんだよな?」
「そうだ。おれはその状況に陥ったヴィルを止めるために存在する」
顔を上げたコガネは、それぞれおれと岳里の顔をじっと見つめる。おれもその金の瞳を見返した。
まるで、岳里の本来の瞳の色のような、輝く瞳。暗い部屋の中でも、はっきりと見える。
「おれは、ヴィルのように選択の時に関しての役割はない。ハートの存在のようにいざという時選択者の助けとなることもできない。だが神が今のおれの存在を許したのは、ヴィルの魂を少しだけでも永らえさせる役目を担わせたからだ」
コガネは、こう続けた。
ヴィルの暴走を止める方法はただひとつ。おれたちがさっき見た、魂の抜けたような状況にさせることだけだ。簡単に説明するなら、すでに多くが欠陥してしまったヴィルの魂を別の何かで一時的に補えばいいということ。そしてそれを普段無意識のうちにヴィルはレードゥの魂を借りてしているんだ。
それができなくなるから、ヴィルは自我が保てなくなる。だからもしもレードゥから補給できなくなったら、そこでコガネの出番だ。
コガネの魔力は、神さまの力を受けて魂を獣人のものから人間のものに変化させたからか、神さまのものに力の質に近いそうだ。それを利用するらしい。
そして最も重要なのが、コガネの“金の瞳”。
神さまに近い質の魔力と、そして金色の瞳――それを使って、満月を再現するんだ。
コガネが言うには、自分の両目に魔力を集め、力を宿らせた瞳を見せるだけで、ヴィルはあの抜け殻の状態になるらしい。
レードゥの魂から補っていた時は、それはあくまでレードゥ自身の、遥斗を抱え余っていた分に過ぎず、神の力の影響はない。けれどコガネの魔力は神さまの力の影響を大いに受けているから、だから満月のようにヴィルから意思を抜き取ってしまう。
そうして魂の消耗を押さえて、ヴィルがある程度回復したらその状態を解かすそうだ。
それが、コガネに与えられた役割。
満月の影響でコガネは獣人の身体になるそうだ。そしてさらには、人の形はとれなくて、今のような狐の姿のみにしかなれない。だから、自分の記憶があっても自我が残っていても人前に出れない。そして身体が獣人のものになることで他にも影響が出るものがある。それが魔力だ。
本来獣人は魔力を持たない。人間しかない特別な力だ。コガネは獣人の身体になることで一時的に魔力が消滅してしまうらしい。けれどその時にはヴィルも直接神さまの力の影響を受けるから、コガネは与えられている仕事をする必要がないそうだ。
「だから、この姿にせよ、おれに与えられた仕事にしろ、不要のものだからな。こうして部屋に籠らせてもらっているんだ」
話を聞き終えた岳里はただ、相変わらず睨むようにコガネを見つめていた。
「……おまえが、おれのことを快く思っていないことは十分わかっている。おれ自身、今ここに存在し、そしてのうのうとあいつたちの前に顔を出していることさえ不可解だ。だが、おれはどんなに絶望しようとも死ぬことはできない。今おれが死ねば、ヴィルも狂い死ぬだろう。そんなこと、させはしない。――だがもしおれが死ぬとするならそれは、あいつの手で、だけだ」
「……ヴィルハートのことがあってよかったな。もしそれがなければ、おれはおまえをどうしていたかわからない」
岳里の鋭い言葉に、ヤマトが今にも飛び出しそうに肩を怒りに震わす。けれどそれを制したのはやっぱりコガネだった。
「わかっているさ。おまえは――竜人は、盟約者に深い愛情を持つ。それ故に、盟約者を裏切り、そして殺したおれを許せないのは当然だ。ましてや、今彼らとともにいることを知ればなおさら。だが、今のおれのこの人生はおれに課せられた罪だ。おれは生きている限り、この業を背負っている。今はそれに免じて、おれのことは見逃してくれ」
「――行くぞ、真司」
「ちょ、岳里っ」
岳里はいつの間にか本来の色である金の瞳を輝かせながら、同じ色を持つコガネの瞳を最後にじっと見つめると、不意に踵替えした。その時おれの腕を掴み、間をおくことなく引かれる。
突然のことに身体の動きが追いつかず、おれは転びそうになるけどどうにか踏ん張りながら、後ろを振り返った。
「コガネっ! また、遥斗に、会いたいか……?」
残酷なことだとはわかっている。けれど、どうしても聞きたかった。
コガネは僅かに目を細めるだけで、動揺することもなく静かに口を開く。
「ハートは、おれを恨んでいるだろう」
会いたいか、会いたくないか。コガネは答えず、ただ、自分のおかれた立場をおれに知らしめる。
おれは、岳里に腕を引かれたまま、コガネから目を逸らすこともできないまま扉に視界を遮られた。
おれたちが去った部屋の中、ぽつりとコガネは呟く。
「――二千年間、後悔し続けているさ。これからもおれは、おれである限り許されることはないだろう。たとえあいつが、はるとが、許したとしても」
満月のようなコガネの瞳は、静かに閉じられた。