自分たちの部屋まで戻りようやく、捕まれていた腕は解放される。
確かに、していて楽しい話なんかじゃなかった。でも、どうしてろくに挨拶もさせてくれないままコガネのもとから去ったのか。
それを聞きたくて、前を向いたままの岳里に声をかけようと口を開く。けれど岳里がおれの名を呼ぶその前に、振り返ると、覆いかぶさるよう、寄りかかるよう、抱きついてきた。
「……岳里?」
おれが潰されない程度にかかる重みに両手を広げて、背に回し受けとめながら、肩に預けられた頭に目を向ける。けれど岳里は顔を上げることはなく、しばらくずっと沈黙を続けながらも、おれを離さなしはしない。
そして、ようやくぽつりぽつりと言葉を漏らした。
「おれには、わからない。たとえどんな状況であろうと、たとえこの世界すべてとおまえが天秤にかけられようと、決して、おまえを――真司を手放すことなど、できはしない……」
岳里はきっと、わざと顔が見られないようにこの体勢をとったんだろう。だから、そんな震えているかのような声で、そんな言葉を言ったんだ。
何を考えたのか。それはわからない。けれど今こうして口にしたそれを実際に思い浮かべて、恐れたんだろう。
岳里が、世界のためにおれを殺すということを。想像してしまったんだろう。
けれどおれが岳里にかけられる言葉は思いつかなかった。岳里の考えを肯定してしまえば、コガネのすべてを否定することになる気がして、できなかった。
「岳里、もう寝よう。明日から忙しくなるし、少しでも身体を休めないと」
ゆっくりと身体が離れるけど、その顔は俯いておれには見えない。
岳里の手を引き、ベッドに誘導する。抵抗もなくされるがままの岳里を横にさせ、おれもその隣に潜り込んだ。
決して岳里はおれの服を手離さなかったのに、おれが頭を胸に抱くとゆるりと離れていき、片腕は腰に回される。
岳里の熱を全身で感じながら、おれはようやく目を閉じた。けれど眠る気になれない。
コガネとの話の途中、岳里の様子がおかしかったのは、やっぱり選択の時と一緒に語られる“悲劇”が原因なんだろう。
同じ――初代光の者と同じ、当代光の者として。同じ、盟約によって主との絆を結ばれた者として。
盟約者を手にかけたコガネを、どうしても許せないんだろう。
おれは――おれは、コガネの気持ちが、わからないでもないんだ。おれとコガネの立場は違うから、そこまで自分に当てはめて考えられてはいないかもしれないけど。
でももし同じ選択する立場になったら。世界と一人の大切な人間とを天秤にかけて、答えを出せるだろうか。出した答えを、実際下すことなんてできるだろうか。
何度考えても、相当の覚悟がなければできないことだ。ヴィルの――初代闇の者である悠雅から強い恨みを買うこともわかっていたはず。悲しむのもわかっていたはず。それでもコガネは“光の者”として選んだ。
そうして、その時の答えは誤っていたことを知って、今償っている。満月の夜、人の姿から狐の姿になって。普段からヴィルの支えになって。
一度裏切った人の生まれ変わりの傍で、笑ってなくちゃいけないんだ。コガネは許されたとは思っていないし、もし二人から許すと言われても自分がそれを認めないって言った。ならコガネは、コガネとして生き続けているうちはずっと苦しむんだろう。
この先ずっと、ずっと。
それなのにこれ以上、誰が責められるっていうんだ。あの悲劇は、誰も悪くない。コガネは間違えたかもしれないけど、でもその行動が本当に悪かったかなんて誰にも判断なんてつかない。むしろ、コガネのその過ちは後世の教訓にもなっている。
それにコガネが悲劇を起こさなくても、いづれは他の誰かが苦悩して、そうして大切な人の命を自らの意志で吹き消していたろう。
……とても、これは残酷なことなんだろうけど。
悲劇を起こしたのがコガネでよかったと、おれは思った。巻き込まれたのが遥斗で、ヴィル――悠雅でよかったって。
自分のしたことを正当化しなければ、罪を忘れるわけでもないコガネ。
最後まで遥斗への愛を貫き続ける悠雅。
きっと、自分を殺したコガネを許せるであろう遥斗。
この三人だったから。だから、きっとそう思うんだろう。
おれは腕に抱く岳里に込める力を少し強めた。
すれ違ったままそれぞれ死んでしまった、三人。会おうと思えば会える距離にいる。でも、会えない。
それぞれ、苦悩し続けている。今でもそれは続いている。
どうにかできないだろうか。
おれにできることなんてないかもしれない。できたとして、余計なおせっかいにしかならないかもしれない。けれどもう、せめてすれ違うこの今をどうにかできないだろうか。許しあわなくても、ただ最後の別れだけでも。ごめんの、一言だけでも。
せめて――
おれは岳里の温もりを感じながら、いつの間にか深い眠りについていた。
岳里と、そしてユユさんの隊長、副隊長就任式は何事もなく無事終わることができた。
その時岳里は改めて王さまからクラティオル、神武玉を与えられる。ユユさんも副隊長としてまだ使用者の定まっていない、けれど各隊の隊長副隊長が持っているものと同じただの武玉でない、神の力が宿った神武玉を下賜される。
その時に見せたユユさんの表情は、嬉しそうで、不安そうで、何やら複雑そうだったけど……でも、もう覚悟を決めたのには変わりないらしい。王さまからそれを手渡される時、普段とは違って堂々とした様子で跪き、頭(こうべ)を垂れていた。
岳里の三番隊隊長就任を喜んでくれたのはやっぱり、岳里とよく関わってきた隊長のみんなや、一緒に鍛錬をしてきた十三番隊のみんなとか。その表情は嬉しいというよりも安堵に似た表情だったと思う。
けれどその反面、――何故、という表情がよく並んでいた。何故この国に来て間もない岳里が隊長になったのか……そう、ありありと浮かんでいる。
もう岳里が竜族であるということは城中に広まっていたし、公表もされていた。選択の時に関わる光降らす者であるということは伏せられたままだから、この秘密を知らない大多数の人が岳里が姿を現してからこんなにも早く隊長になれたのは竜人だからっていう理由しかないと思っているはずだ。実績も何も残していない、さらにはヴィルやアヴィルを負かしたという事実は噂として広がっているけど、あまりにも信憑性のない話に単なる噂は噂だと認識されていると、ネルからも聞いている。
そんな、いい噂が流れなくてさらには隊長たちに不遜な態度をする岳里に、向けられる目は決して友好的なものではない。
正直、不安はある。岳里ああいうやつだし、あまり口を開かないし、自分のことなのにどう言われようがお構いなしなところがある。言わせたいやつには言わせておけ、みたいな。
一度そうと思われてしまえばそれを覆すのは大変だし、それが原因で敵を作ってしまわないか、気が気じゃない。何より、岳里が悪く思われるのは、いやだ。
前に、レードゥに言われたことがある。
『岳里は真摯に剣と向き合っている。今は噂ばっかが先行ってて、違う岳里の姿が周りに映っているかもしれない。だが、いずれ岳里の本当の姿を見れば、誰も文句言えなくなるさ。岳里の才能がずば抜けていることは勿論あるんだろうが、あいつはそれに甘えてない。おれが気づけたんだ。周りも少しずつ知っていくさ』
岳里は剣の訓練を怠らない。むしろ、おれの目から見て、だけど無茶な方法を取っている。毎日朝早くから遅くまで鍛錬して、それでも夜中ベッドを抜け出しては剣を手に訓練することだってあるんだ。
おれはそれを止めさせることはできない。ただ、見守るしかできない。
岳里は剣を手にして日が浅い。周りの人たちから比べればそういう無茶をしてさえ、おいつくのには時間がかかるだろう。ただ岳里が持つ自分自身の才能で、その他の人たちが積み重ねてきた時間と肩を並べているんだ。
でも、才能だけじゃどうにもならない部分はたくさんある。今みたいな羨望と嫉妬の眼差しだとか、体験してきたものの差だとか。
今は、仕方ないんだ。まだみんな岳里を知らない。岳里も、まだ理解してもらえるには足りないものがある。だからどうしようもない。でもきっと、いずれ岳里は周りに認めてもらえる日が来るはずだ。
レードゥが言ってくれたように、周りが少しずつ岳里を知っていってくれれば。岳里も、言葉なんてなくていい。ただ今の岳里のままでいてくれれば、きっと。
岳里の、岳里自身の味方になってくれる人が少しずつ増えていくはずだ。
剣の姿をしたクラティオルを掲げ、王への忠誠を口上する岳里を見守りながら。ただおれは、そう胸の内で願っていた。
式典が終わり、おれは一人部屋に戻る。隊長としての仕事の説明や、今後率いることになる三番隊の面々との顔合わせのために、岳里はあの場に残っているからだ。
おれは先に戻っていろと言われて、同じく部屋に帰ろうとするレードゥと一緒に廊下を歩いた。
歩きながらおれに話しかけてくれるレードゥはいつものレードゥで。昨日の夜に触れてはこなかった。きっと、知りたいとは思ってないんだろう。だからおれもあえてそれについては口を閉ざす。
しばらく進めば部屋の前に到着して、おれはレードゥに手を振り別れた。
中に入って、昨日の夜から晴れない胸を抱えながら岳里の方のベッドに飛び込む。ぐるりと毛布に包まり、ただぼうっと目の前に見える景色を眺めた。
今日は七番隊の手伝いはいいと言われていたから、おれがやることはない。かといって何かしようと思っても何もする気になれず、ぼうっとしたままでいると、扉が開く音がした。
身体を起こしてそこを見れば、まっすぐこっちへ向かってくる岳里と目が合う。
「早かったな。もっとかかるかと思ってた」
「そう早くもない」
岳里の言葉に、おれはそっか、とただ返すしかなかった。自分で思っていた以上におれは、ただ時間を過ごしていたのかもしれない。
少しもったいなかったか、と思っても、やっぱり気持ちが切り替わらない。でも折角岳里が隊長に就任した日に辛気臭い顔なんてしていたくないと、心の中で頭を振るう。
肩にかけていた毛布が落ちたのをそのままにして改めて岳里を見れば、その手が何かを握っていることに気づいた。
岳里もおれの視線に気づいたのか、自分の握られたその手に目を向ける。
「武玉だ」
おれの座り込むベッドまで歩いてくると、その手の平を開いて握ったものを見せてくれた。
ころりと、黒と鈍色をする小さなふたつの玉がそこで転がる。
「クラティオルでは何も斬れはしないからと、王が寄越した」
「そっか……これも神さまの力が?」
「いや、これはただの武器だ」
武玉には二種類あって、隊長と副隊長だけが持てる神さまの力込められた特殊な神武玉と呼ばれるものと、魔術によって玉の姿も持つただの武器の武玉とがある。そのうちの、武器が玉の姿になった方が今持っているやつらしい。
なんでも、岳里が双剣を扱えるからと、ふたつくれたようだ。
聞くところによるとどちらも大剣に属するもので、片方はクラティオルによく似た細身の長剣で、もう片方は幅のある、いかにも重たげなものらしい。
岳里に武玉をつけるのを手伝ってほしいと頼まれ、おれはそれを快諾した。
ベッドに腰掛けた岳里の手を取り、クラティオルもついている紐を手首から一度解き、穴を開けた新しいふたつの武玉をそこに通し結び直す。
これで、岳里の武玉はみっつになった。クラティオルが一番大きく、他のふたつはそれよりも一回り小さい形にされている。
一度それを撫でてから、ようやくおれは手を離す。
「これでよし」
「助かる」
そこで、一旦おれたちの会話は途切れた。
昨夜から続く空気が、どうしてもおれたちの肩を重くする。何か話そうと思えば思うほど何も浮かばなくて、おれの口はなおさらかたく閉じてしまう。
お互い何か話すわけでもなく、離れることもできず、しばらく沈黙を続けていると、不意にそれを岳里が破った。
「真司」
名前を呼ばれて、それまで下げていた頭を上げる。岳里を見るけれど、でもおれを見ていると思った岳里は目を逸らしていた。
そしてまた、沈黙が始まる。確かに岳里はおれを呼んだはずなのに、それでもその口は閉じたままだ。
なんで名前を呼ばれたのか。そう問いかけようとしたが、おれは一度開いた口をあえて閉じる。しばらく待つとようやく、薄らと岳里の唇は開いた。
「……もし、ヴィル――いや、悠雅と遥斗を会わすことができるとしたら、どうする」
「え……そんな、そんな方法が、あるのか!?」
待っていた岳里の言葉に、おれは身を乗り出さずにはいられなかった。俯きがちな岳里に詰め寄るように、ベッドに手をつきその横顔を見つめる。
そこでようやく、一度息をついた岳里は覚悟したように、おれを見返してきた。
「まだ確定はしていない。あくまで、おれが考えた、予想の話だ。可能性としては低く、やってみないとわからない」
「それでも、もしかしたらあの二人を会わすことが、できるかもしれないんだな……?」
おれの言葉に、岳里は浅く頷いた。
遥斗と悠雅が、会える。死に別れた二人が、また会うことができる。
思い出すのは、ヴィルと、レードゥの身体を遥斗が借りていた時に浮かべた、それぞれの表情だ。心の中にしかいないお互いを見つめて、苦しそうにする二人の。
そして、削られていくヴィルの魂。コガネは、もうヴィルの魂は残り少ないとも言っていた。時々自我を保てなくなるほどに。
ヴィルはこれからも魂を削りながら、導く者としての役割を続けていくんだろう。これまでそうしてきたように、ずっと。
でも魂は、もし使い切ってしまったら。完全に消えてしまう。二度と、生まれ変わることはできなくなる。
残り少ない、ヴィルの魂。あと何度生まれ変わって、選択の時に携わりその役目を果たせるかわからない。何度、遥斗の生まれ変わりとなる人の傍にいられるかもわからない。
もしかしたら、今回がヴィルの、最後の人生になるかもしれない。もしかしたらもう、遥斗に会えるチャンスはないのかもしれない。
だったら、それだったらおれは――
「もし……もし、二人を会わせることができるなら」
悲しい別れしかできなかった“二人”。だからこそ今も苦しみ続けている、“三人”。
これが仕方のない連鎖だっていうなら。
「おれは、そうするべきだと思う」
それなら今、断ち切るべきだ。
無意識に強張る身体から、喉から出た声は掠れていた。
答えを聞いた岳里は目を伏せると、おれの手をとる。冷たくなった指先に視線が向けられ、少しの間をおいて、岳里は親指でそこを撫でた。
何度も優しく繰り返して、ようやく熱が戻ってきた頃。ベッドから抜け出し立ち上がると、おれの手を引いて部屋の外へ向かう。
無言で手を引かれ連れてこられたのは、ジャス個人に与えられた研究室だった。
ノックもしないまま中に入ると、いつものように書物の山に隠れていたジャスが顔を出す。
「やあ、真司、岳里。わたしに何か用かな?」
「話しておいた薬はあるか」
挨拶もしない岳里に、けれどジャスは笑顔を見せる。
「ああ、あるよ」
「実験台になってやる。寄越せ」
「ええっ! いいのかい!? ぜひとも頼むよ! ……ああっとどこにおいたかな……ま、待っていてくれ、すぐに見つけ出すからっ」
おれには何のことだかわからないまま、二人の間で話が進む。
ジャスは山の影に隠れてしばらくがちゃがちゃと音を鳴らして、それからようやくまた顔を上げた。
満面の笑みを浮かべるその手には、薄青い液体の入る小瓶を持っている。それが岳里の話しておいた薬とやらで、きっと今から、おれたちが使うものだ。
「使い方は以前話した通りだが、注意事項も含めまた説明しようか?」
「いい」
相変わらず愛想ない岳里の返事に、ジャスは困ったように眉を垂らす。
「えっ、ここで試してはくれないのかい!?」
「結果は知らせる、それでいいだろう」
残念がるジャスから、岳里は瓶を奪うようにして受け取ると、そのまますぐに背を向けてしまった。
驚くジャスを尻目に、部屋から出て行こうとしてしまう。
いくらなんでもそれはないだろうと、おれが踏ん張って岳里を止めようとすると、それに気づいたジャスが首を振った。
「何か事情があるみたいだね。それなら残念だけれど、わたしはここで大人しく待っているとするよ。でも、いいかい。いくら獣人で試してあるとはいえ、きみたちとは、竜人とはまた違うからね。何かあったらすぐにここへ来てくれ」
「ジャス、ありがとう」
「こちらこそ」
にこりと笑っておれたちに手を振ってくれるジャスに、おれは岳里に手を引かれながらも頭を下げた。
それから部屋に戻ってきてようやく、岳里はおれから手を離し向き直る。
握られた薬の入る小瓶に、二人して目を移した。
「それ、何の薬なんだ?」
「おまえの力を一時的におれに移すためのものだ」
「おれの、力を……?」
ただ目だけをおれに向けて、岳里は頷いた。
「――おまえの力は、神の質に近い。本来人は魔力か治癒力か、どちからひとつしか持ち得ない。だがおまえの場合はふたつ混ざり合ったものになっている、ということは知っているな。そうした混合の力を持つのは、神しかいない」
「おれが、神さまの……」
信じがたい話だとは思った。けれど岳里はこんな時に冗談なんて言わないし、それにアロゥさんにも以前、おれは治癒力だけじゃなくて魔力も持っているって、そう言われていた。
岳里の言葉はつまり、魔力と治癒力それぞれふたつ別のものとして身体にあるわけじゃなくて、ふたつが混ざった力として、おれの中にあるということ。そしてその混ざった力は、神さまだけが持つもの。
まだ、本当におれにそんな、神さまの力の質に近いものを持っている実感はわかなかったけれど、今はそれを置いておくことにした。
岳里の、続く言葉に耳を傾ける。
「おまえの持つ力は神の力に近いもの。そして、おれの瞳は本来金色だ。――コガネの話を思い出してみろ」
おれの力に岳里の金の瞳。そしてコガネの話。その言葉に思い出すものがひとつある。
ヴィルが魂の消耗に耐え切れず暴れた時、コガネは、満月を再現して止めることができる。その時に使うのが、コガネの持つ金の瞳と、そして神さまの力に近いコガネの魔力。そうして一時的にヴィルを抜け殻の状態にして魂の消耗を抑える、というものだが――
おれはそこでようやく、岳里のしようとしていることに気づいた。
「もしかして、岳里の瞳で満月を作って、それをレードゥに見せるのか……?」
「そうだ。コガネの瞳で、一時的な効果をヴィルハートに与えられることは証明されている。うまくおれの瞳が作用し、コガネの瞳に代わるものになれたのならば。それをレードゥに見せれば、満月の夜ほど長くでなくても一時的に遥斗が姿を見せるかもしれない」
岳里が言うには、以前ジャスが獣人とその主との魔力を入れ替える薬を開発したという報告を思い出してその方法を思い浮かんだそうだ。
おれには金の目はないが、神さまのものに近い質の力があるはずで。岳里は魔力等はないが金の目がある。だからこそ、おれの魔力を岳里に移すことができたのならば、もしかしたら。コガネの瞳と同じ状況を生み出せるかもしれないと、そう思ったそうなんだ。
「だが、うまくいくとは限らない。それに、薬もまだ確立されたものではなく、どんな副作用があるかもわからない状況だ。いくら獣人どもで試されているとはいえ、おまえに影響が出るかわからない」
「それでも、やってみる価値は十分にあると思う」
岳里が、迷っているのはたぶんこのせいもあるんだろう。おれに何かあってからじゃ遅いから。それが自惚れだとか勘違いじゃないのは、もう知っている。きっと岳里は自分一人なら迷わずその薬を飲んで、効果を試しているはずだから。
じっと、おれの目を見つめる岳里に。おれも同じくその目を見返した。
どれほどそうしたか。先に岳里はおれから目を逸らすと、左手で掴んでいた小瓶を胸のあたりまで持ち上げて、右手を蓋に掛ける。
小さく音を立ててそれが開いた。そして、岳里は迷わずそれを煽る。
「――これを飲め」
すべてを飲んだのかと思ったけど、薄青い液体はちょうど瓶の半分ほど残っていて、岳里はそれをおれに差し出した。
小瓶を受け取り、おれも唇をつけて、残りを一気に飲み干す。苦い味でもあるかと思ったけれど無味無臭で、すこしとろみがある水を飲んだ気分だ。
唇に少しついた液体を服の袖で拭うと、唐突に、腹がかっと熱くなる。それが瞬時におれに、毒を飲んでしまった時のことを思い出させた。熱いといっても、耐えられるくらいだ。それでも顔を青くさせたおれに、傍らに来た岳里が肩を抱いて励ましてくれる。
次第に腹の熱が収まってきて、代わりに頭がぼうっとし始めた。霞がかかったように、意識が濁っていくのがわかる。
どうなるんだろう、どうするんだろうと回らない頭で考えようとしたのとほぼ同時に、岳里の方へ顔を向けさせられた。そして、唇が重なる。
「……ん」
触れ合ったそこから何かが岳里に流れていくのがわかった。身体にある熱っぽい感覚が吸い取られていって、それと同時に身体の力が末端から抜けていく。
ついには立っていられなくなって、岳里の胸に寄りかかった。腰を抱えてもらいながら、近くの顔を見上げる。
「ど、うだ……?」
「――おまえの力が全身に巡っている。これは……」
自然と荒くなる息にはばまれながら問いかければ、金の瞳と目が合う。さらには髪も本来の岳里の持つ紺色に戻っていた。
重たい手を持ち上げ、その髪に触れる。
「はは、おれ、こっちの姿のおまえの方が、かっこいいと思う。好きだなあ……」
「おまえに言われるのなら、悪くない」
柔らかく微笑む岳里に、おれの頬も緩む。けれど力ないそれを見ながら、岳里はおれに問う。
「このまま部屋で休んでいるか」
「――いや、おれも行く」
答えを聞いた岳里は、おれを抱え上げ、そのまま部屋から出た。
廊下に出て向かうのは、ふたつ隣にあるレードゥの部屋だ。式典の後一緒に歩いていた時、今日はずっと部屋にいるっていうことを聞いていたから、きっと今もいるはず。
岳里がおれを抱えたまま、目の前に来た部屋の扉を叩いた。
返事が中から返ってきて、すぐに扉が開き、その隙間からレードゥが顔を出す。
「誰だ――って、真司に、が、くり……」
レードゥは抱えられたおれに目を向けてから、次に岳里の顔に視線を移す。すると中途半端に言葉を止めて、目を見開かせ岳里の金の瞳を見つめた。そして、前触れもなく瞼を閉じると、そのまま前のめりに倒れ込む。半端に開かれていた扉を押し退けるようにして身体を見せたレードゥを、片腕でおれを抱えたまま受け止めた。
大きく開いた扉から中に入り、すぐの扉脇の壁にレードゥの背を預けるように座らせる。一度岳里が立ち上がり離れたその瞬間、ざわりと髪の色が変わった。鮮烈な赤から、黒に。
無意識に息を飲み、それが根本から毛先にかけて変わっていく様を見守る。やがて髪全体が黒に染まり、薄らとレードゥは目を開けた。開いた瞼から覗く瞳も、赤から黒へと変わっている。
それが、そこにいるのはもうレードゥじゃないことをおれたちに教えた。
「――これは、どういうことだ? 満月、ではないはずだが」
満月という単語にやっぱり、今ここにいるのが遥斗だと確定した。
どこか眠たそうに髪を掻きあげ、遥斗は立ち上がる。
遥斗には岳里から、どうして今満月でもないのにレードゥを押しのけ遥斗が出てこられたのかを説明した。と言っても、コガネの話は一切出さず、ただジャスの薬からこの方法をひらめき、そして実行した、とだけだ。
「そうか、なるほど……おまえたち二人だからこそ、満月の再現ができたというわけか」
話を聞き終えた遥斗はどこか疲れているかのように、深く息をついた。その姿を見つめながら岳里が口を開く。
「率直に言う。ヴィルハートに会え」
遥斗は顔を俯かせると、長い沈黙が続いた。動くことなくじっと口を閉ざす遥斗に、おれたちはただ待つ。
さらに時間は過ぎていく。それだけの苦悩を、これまでに積み重ねられた時間を、言葉なくして教えられているようで。
関係のないはずのおれの胸が締め付けられるように痛んだ。
「――あいつが、悠雅が、それを望んでくれる、なら」
掠れた声で、今にも消えてしまいそうな声で、小さく開かれた口で。ついに聞けたその答えに、おれは岳里と一度目を合わせる。
「おまえの存在を明らかにさせる必要がある。それでもいいか」
「……ああ」
それっきりまた口を重く閉ざしてしまった遥斗を置いて、おれたちは部屋から出た。
岳里から聞けば、ヴィルも部屋にいるそうだ。
一番端の部屋の前に来て、そこで岳里は目を瞑る。岳里の目は今満月と同等の効果がある。それの影響をヴィルが受けてしまってはいけないから、それを防止するためだ。
岳里の腕の中から身を乗り出して扉を叩けば、すぐにヴィルが顔を出す。おれたちを見て、不思議そうにした。
「二人揃って、わしに何か用か?」
「遥斗に会え」
「……な、にを」
何の前置きもない岳里の言葉に、けれどよく知ったその名に、ヴィルはその動揺で確かに瞳を揺らす。
でも岳里は、そんなヴィルを気遣う様子は見せず話を続けた。
「あれは、レードゥの中で存在し続けている。今もだ。満月の夜だけ、意識が表面上に出てくる。身体はレードゥのものだが、その意思紛れもなく遥斗だ」
「――だが、わしは満月の夜には記憶がなくなってしまう。だから会えぬ」
「それが、できるとしたら」
僅かに、ヴィルの目が見開く。
そこでようやく、今岳里が目を閉じている理由をヴィルに説明した。満月を再現してしまうから、ヴィルがそれで影響を受けてしまうから。すでに、遥斗はこの瞳で表に出てきているということ。
「ならば、まことに……遥斗が今、いると、いうのか」
「ああ」
「ヴィルがそう望んでくれるのなら、会うって言ってる」
震えるヴィルの声に岳里が頷き、おれも背中を押すために口を開く。
けれど、反対に閉じてしまったヴィルに、始まったばかりの沈黙に、妙な焦りを抱えたおれは答えを待つことができなかった。
「ヴィル、お願いだ。会って、会ってちゃんと話をしてくれ」
「――――」
「遥斗は今もヴィルを待ってる。それに言ってたんだ、会いたいって。でも、会えないって。ヴィルだって、ずっと、ずっと遥斗を探してただろ……!?」
満月の夜に会った遥斗の顔が、空っぽになったはずのヴィルから零れた声が、ずっと頭から離れなかった。会いたいけれど、お互い会えない場所にいたから。だから諦めるしかなかった。でももう、二人は会える。会って、話しができるんだ。
今こうしている間にも時間は過ぎていく。おれたちが再現した満月の効果がいつまで続くかわからない。もしまた同じことをしたとして、次も遥斗がちゃんと表に出てきてくれるかもわからない。
時間は、ないんだ。
そう焦れているのはおれだけじゃなかった。
「今しか機会はないと思え。たとえ一時でも遥斗と触れ合うことができるということが、おまえにとってどれほどのものか。見極め、決断しろ」
淡々と紡がれる岳里の言葉。けれどそこに、岳里なりの想いが込められている。それが伝わると信じてヴィルの答えを待った。
始まった沈黙はあまりに長く、けれど簡単に決めることなんてできない二千年近くの深い溝は、飛び込む勇気もそれだけいる。でも、おれができる手助けはもうない。あとはヴィル自身が決めるんだ。
どれほど待ったか。ようやくヴィルは、薄く口を開いた。
「――……部屋に、おるのだな」
ようやく聞けたヴィルの決断に、おれは心の中で深く息をつき、一人肩を震わせた。
言葉が出ないおれの代わりに、岳里が頷く。
「ああ。レードゥの部屋に」
「そうか……すまぬな、おぬしらに気遣わせてしまって」
「――おれたちのおせっかい、なんだろうけど。でもどうしても、今のままでいてほしくはないんだ。悲しいのは、一人で抱え続けられるものじゃないから」
おれの言葉にヴィルは小さく微笑んで、それから岳里の隣を通って扉を開ける。
「ありがとう、真司、岳里」
去り際に、小さく呟くように告げられた言葉に。扉が閉まった後、おれは岳里の首に目を押し付けて、不安な気持ちを押し殺した。