真っ直ぐ来たのは個別の病室が連なる一角で、一番奥の扉、目的となる場所の手前でようやく身体を下してもらえた。けれどすぐには動けずその場で立ちすくんでしまうおれに、先に岳里が動く。
扉を叩くこともなく無言のまま取っ手に手をかけたと思ったら、無遠慮に開けてしまう。そのまま躊躇う素振りも見せず先に中へ入ってしまった。
慌ててようやく動いた身体で後を追えば、すぐに、椅子に腰かけた十五さんの背が目に映る。その先にはベッドがあって誰かが横たわっているも、その背に隠れて見えない。でもそこにいるのが誰か知るおれは無意識に息を飲んだ。
岳里は足取りさえ迷いなく進めると十五さんの傍らで動きを止め、そして振り返った。
「真司」
名前を呼ばれ、ようやくその場から一歩を踏み出す。岳里に見守られながらまた一歩進んで、少しずつ前に行く。
近づけばそれだけ見えていく、ベッドに横たわる人の姿。見えてくるだけ自然と足は早まった。
岳里の隣に辿り着けばもう何にも遮られることなく、まみえた兄ちゃんの寝顔。
相変わらず血の気の失せた青い色の肌だけれど、毛布の掛けられた胸は確かに上下に動いている。呼吸をしていることが何よりの兄ちゃんが生きている証拠だった。
「兄ちゃん」
静かに出したはずの声が掠れる。それでも構わずもう一度名前を呼んで手を伸ばした。顔に触れてみれば、確かに温かい。
――よかった。
胸広がる安堵に、こみ上げた思いは反対につかえて口を閉じさせる。不安にあれほど染まっていたというのに、今はとても穏やかな気持ちで兄ちゃんを見つめることができた。
本当に、よかった。
無事、とは到底言えないけれど、生きてきてこの手が触れられる場所に戻ってきてくれて。他に言葉が浮かばない。
嬉しくて、でもどうしても拭いきれない罪悪感があって。ふたつの感情に板挟みになる。それでも今は兄ちゃんの手術が終わったことを心から安心した。
溢れる思いのあまり何も言えずにいるおれの背後で、岳里は兄ちゃんの顔を確認してから、それから十五さんに声をかける。
おれも振り返れば、十五さんも同じく岳里へ目を向けているところだった。
りゅうの分も合わせ三人分の視線を浴びる岳里は、相変わらずの無表情を引っ提げたままだ。けれど拳を握ると、十五さんに深く頭を下げた。
「すまない、十五」
それは謝罪の言葉。
声のない十五さんに岳里は頭を下げたまま続ける。
「悟史を傷つけることはおれが考えたことだ。無事助かったとはいえ、危険な状況に陥ったのも、すべておれに責任がある」
おれは何も言えず、ただ二人を見守るしかできなかった。
岳里だけの責任でもなければ、岳里だけが悪いわけでもない。もし責められるならおれも一緒に罰を受けるべきだ。だって実際行動したのはおれなんだから。
そう、わかっているのに。一緒に謝らないといけないのに、それなのにどうしてかそれができない。
はじめから岳里が一人で全部を背負ってしまったからなのか。それとも、岳里を見つめる十五さんの瞳を見ているからなのか。
十五さんは未だ治療を受けていないようで、前に見た姿のまま、傷だらけのままずっと兄ちゃんの傍らにいる。
心配そうに肩からあがるりゅうの声と重なるように、岳里はまた口を開いた。
「――すまなかった」
その謝罪から少しの沈黙を置いて、十五さんはゆっくりと立ち上がる。
岳里から目を逸らすとそのまま兄ちゃんの枕元へ足を運ぶ。未だ目を閉じたままの顔に手を伸ばすと、額を覆う少し伸びた前髪を払い、露わになったそこへそっと口付けた。
すぐに唇を離した十五さんは、名残惜しげに最後兄ちゃんの頬を撫で、それからもう一度岳里に向かい直る。頭を下げ続ける姿を一瞥し、その次におれへと視線を流した。
岳里とそっくりな顔は目が合うと扉の外を指さす。
出てけ、ということなのか。そんな不安を抱くも、すぐに示した扉に自ら向かう十五さんを見てそれは違うのだとわかった。
どうするべきかわからないおれに、十五さんは扉の手前まで行くと手招きをした。そこで初めて、さっきの行動の意味がついてこい、というものなのだと理解する。
おれの表情で意図が伝わったのがわかったのか、十五さんはそれ以上留まろうとはせず部屋から出て行ってしまった。
謝るべき相手が消えたとわかっているはずなのに顔を上げない岳里の肩を、そっと叩く。
「岳里、十五さんがついてこいって」
「――わかった。おまえはここに」
「いや、おれも行く」
ようやく顔を上げ、すぐにでも一人で歩き出そうとした岳里の服の裾を掴み、引き留める。岳里は何か言いたげだったけれど許してくれたようで、何も言わずにおれへと目を向けた。
反対におれは岳里から目を逸らし、ベッドに横たわったままの兄ちゃんを見る。
「行ってきます、兄ちゃん」
久しぶりに告げる言葉がひどく懐かしい気がして。
早くまたいってらっしゃいという声を聞きたくて。
それはまだ叶わないけど、また近いうちにできる会話なんだと思うと、なんだか喉が震えた。
こみ上げそうになるものをどうにか抑えこみ、ようやくまた前を向く。
「――引き留めてごめん。行こう、岳里」
「ああ」
肩に乗っていたりゅうを手に移してやりながら、おれたちは先に出た十五さんを追うため部屋を後にした。
十五さんについてきてやってきたのは病室から一番近い城の中庭だった。渡り廊下からそこへ出ると、ようやく足を止めておれたちに振り返る。
同じように止まって向き合えば、十五さんは岳里だけを見てちょいちょいと手招きをした。それに従い岳里は前に踏み出し、手が届く場所まで行く。
何があるんだろう、と不安になる心を落ち着けるためにも手の中にいるりゅうの背を撫でる。りゅうも岳里の姿をじっと見つめ、一緒になって二人の様子を見守った。
二人はしばらくの間じっと微動もせず見つめ合うと、やがて十五さんが左腕を持ち上げる。
それがぎゅっと拳を握ったかと思うと、そのまま岳里の頬を殴りつけた。
「岳里っ……!?」
咄嗟に一歩踏み出しながら上がったおれの声をかき消すように、殴られた勢いで岳里は、文字通り吹っ飛ばさて少し離れた地面に転がる。
あまりのことに呆然とし、上がる土煙を見つめながら動けずにいるおれを横に、拳を解いた十五さんが岳里へ歩み寄った。そして傍らへと辿り着いた頃には、岳里は顔を歪め頬に手を当てながら上半身を起こしているところだった。
そこへ、あいかわらずの無表情を引っ提げた十五さんが左手を差し出す。じっとその手を見つめた岳里は、そろりと自分も手を伸ばした。けれど触れる寸前で止まってしまう。すると僅かな距離を詰めてその手を掴んだ十五さんは、そのまま持ち前の腕力だけで岳里の長身を引き起こした。
引かれるまま立ち上った岳里の手を離すと、そのまま十五さんは同じくらいの位置にある頭に今度は手を伸ばす。そこに掌を置くとわしゃわしゃと髪を掻き撫でた。
お互い無表情で、岳里は土まみれで十五さんは傷だらけで。言葉さえもそこにはないのに“会話”する二人に。
二人は兄弟なんだと、家族なんだと改めて確認できた気がする。
たとえ何度喧嘩したって、嫌なことをしてしまったって。何度だって許しあえるしわかり合える。二人の間に長い空白の時間があったとしても、言葉がなくてもそれは変わらないんだろう。
おれと兄ちゃんとは別の兄弟の形を持つ、岳里と十五さん。でもだからこそ外野が心配することなんて何ひとつなかったんだ。
十五さんに揉みくちゃにされた頭のまま、岳里はおれたちに視線を向けるとそのまま歩み寄ってくる。おれからも近づいていけば、傍らまで辿り着いた頃には岳里は殴られた頬が早速腫れだし、さらには鼻から血を出していた。
服の裾で迷いなく垂れた血を拭う岳里に、思わず頬を緩めてしまう。
「そんな顔、初めてみた」
「――初めてだからな、こんな顔になったのは」
相変わらず声まで愛想がないけれど、でもどこか晴れ晴れとしたもののように聞こえる。少なくとも、おれの心にかかっていた雲はもう完全に消え去った。
服に着いた土を払ってやっているうちに、十五さんはおれたちの脇を通り兄ちゃんのもとへ帰ろうとする。それを慌てて呼び止めれば、金の片目がおれを見た。
足を止めてくれて身体ごと向いてくれた十五さんに、今度はおれが、岳里とは違う意味をもって頭を下げた。
「色々とありがとうございました、十五さん」
伝えるのは感謝の言葉。
「十五さんのおかげでおれ、岳里と向き合うことができました。忘れていたことを思い出すきっかけもくれましたし、兄ちゃんが――エイリアスに乗っ取られていることを知りました。助けてくれたりもして。兄ちゃんのこともずっと守ってくれて、本当にありがとうございました」
ずっと、伝えたいと思っていた。次会えたら、落ち着いて話せるようになったらと。
多分。十五さんが助言をくれなかったらきっと兄ちゃんを偽るエイリアスに気づけなかった。岳里と今のように落ち着けてないし、りゅうも生まれてなかっただろう。今回の作戦のことだってうまくはいかなかった。
色々迷惑をかけ、色々手助けしてもらった。だからこそ深く頭を下げる。
手の中のりゅうが不思議そうにおれを見上げていると、そっと肩を叩かれた。顔を上げれば無表情ながらもどこか穏やかな顔をする十五さんがいて。
肩に置かれた手はすぐ離れ、そのままおれの頭へと向かう。掌がそこに置かれると、さっき岳里にしたみたいにぐしゃぐしゃと髪を撫でられた。
十五さんの手が退かされた頃には、おれと岳里は揃って掻き乱れた髪型になっていて。それに一番に笑い声を上げたのは、手の中で大人しくしていたりゅうだった。
「ぴぃう! ぴぃっ」
笑い声、とはちょっと違うのかもしれないけれど、楽しそうなその声におれも堪らずふきだした。それにつられるよう、岳里も、十五さんも。小さくだけれど微笑みを浮かべ、みんなで笑い合う。
しばらくしてそれが落ち着いたと頃、ようやく手の中の存在を前に出した。
「十五さん、ご紹介します。おれと岳里の子の、りゅうです」
今も上機嫌で鳴く子竜をそっと十五さんへ差し出す。するとりゅうはそれまでの声を止めて、自分を見つめる十五さんを不思議そうに見上げていた。それから一度岳里へ振り返り、また十五さんへ目を向けて。小首を傾げてまた岳里を見て。
傷や髪の長さ、色なんかが違うけれどそっくりな顔をしているということはわかるらしい。
しばらく交互に見ていると、不意に十五さんの方から手が差し出された。りゅうは指先に鼻を近づけすんすんと匂いを嗅ぐと、躊躇いがちにもぺろりと舌先でそこを舐める。それから恐る恐るおれの手から身を乗り出し、十五さんの掌へと前足を乗せた。
「りゅう、岳里の兄ちゃんだ」
「ぅ?」
「兄ちゃん、だよ。家族で、おまえの伯父さんの一人だ」
こんな説明さすがにまだ早いだろうし、理解できないこともわかってる。それでも説明してやり、大丈夫だよということを教えてやった。
りゅうはおれの言葉もあってか、もともと人懐こいおかげか。そろそろと十五さんの手へと移り、広い掌の中でちょこんと座りって改めて十五さんを見つめる。
十五さんはというと、翼や尾の付け根といった竜が触れられると心地いいと言われる場所を指先で擦るように撫でだした。するとようやくりゅうも十五さんがどういう人なのかわかり始めたのか、うっとりとその行為を受け入れていた。それどころかおれと岳里にしかやらないはずの、身体に尾を絡めるというものまでやってみせる。
「ぴぃるる、ぴぃ」
さらには甘えた鳴き声まで出始める。しかもそれはただの鳴き声とは違い、初対面の人にはまず見せないもので、頻繁にりゅうに顔を見せていたネルでさえなかなか聞けなかったはずのものだ。
それなのにりゅうはすっかり十五さんの掌の中、緊張を忘れ甘えきっていた。
「さすがだな、十五さん」
「……」
それが嬉しくて岳里に振り返れば、どこか複雑げな表情がそこにあった。
どうしたんだろうと首を傾げれば、それに気づいた岳里が拗ねたような声を上げる。
「おれにより、甘えてないか」
それは尋ねてきているというよりどこか確信めいていて、ああなるほど、とおれの口元に浮かぶ笑みは増々深まる。
「気のせいだって」
笑い声を滲ませながら背中を叩いてやるも、それでもどこか岳里は不満げに二人の様子を見ていた。
あえて、岳里に対しては親であるおれたちにしかしない鳴き声のことを思い出すも言わずに、それを伏せたままに十五さんに向き直る。
「十五さん、よければなんですけど、治癒術をかけさせてもらえませんか?」
その言葉にりゅうから顔を上げた金色の一目がおれを見た。
「もう兄ちゃんも大丈夫みたいだし、傷も放置しっぱなしじゃ悪化しちゃいます。何より起きた時そんな傷だらけの十五さんの姿を見たら悲しんじゃうかもしれませんから」
そう説得するために言葉を重ねていけば、十五さんは思いのほかあっさりと頷いてくれた。
気が変わらないうちにとすぐに治癒術を身体全体にかけるように発動し、今目に見えていない傷まですべて癒していく。当然だが十五さんには普通に治癒術の効果が発揮されているようで、兄ちゃんは極稀な体質だったからとわかっているけど、内心ではそっと胸を撫で下ろした。
一通り終わったところで十五さんに声をかける。
「傷は治りました? 痛いところがあったら遠慮なく言ってください」
あくまで見える範囲のものしかわからないから、服の下に隠れている傷や打撲なんかまで完全に治癒したかはわからない。だから本人にどうかを尋ねればゆっくりと首が振られた。
そこでよかった、と安心したおれと変わるように今度は岳里が声をかける。
「これからまた部屋に戻るんだろう。身体を拭くものと着替え、飯も用意する。他にほしいものはあるか」
それにも十五さんが首を振ったところで、背後の渡り廊下に誰かが駆け込む足音が聞こえた。
思わずおれが振り返れば、そこあったのは走るセイミアの姿。
兄ちゃんのことについて詳しく聞きたいし、お礼も言いたいと思っていたおれはちょうどよかったと片手を振り上げ声も張る。
「セイミア!」
渡り廊下からは少し遠かったけれど、十分おれの声が届いたらしいセイミアは足を止めた。
肩で息をしているのを見ながら、おれはセイミアへと駆け寄る。
走っていた、ということは忙しいんだろう。せめて話を聞く約束の取り付けとお礼だけでも、手短でいいから話さなければと近づいているうちに、その様子がおかしいことに気がついた。
セイミアは余程慌てていたのか、未だ肩でする息が収まらず、汗も噴き出るように掻いている。髪も乱れていた。でも何より、青ざめひどく動揺したその顔が、今にも泣き出しそうに不安げに揺れる瞳が胸をざわつかせる。
「セイミア、どうかしたのか?」
「し、真司、さんっ」
悲鳴のような声を上げながら、セイミアはおれの胸に飛び込んできた。訳もわからないままその身体を受け止めれば、微かに震えていることがわかる。
とにかく落ち着かせないと。そう思って背中に手を回しそこを撫でてやろうとしたところで、セイミアはついに涙を零れしながら悲痛な叫びを上げた。
「ジャス、さんが、ジャスさんが……っ!」
話をしていたら突然、ジャスに黒い靄が降りかかり、そして自らをエイリアスと名乗り消えてしまったと。
セイミアはおれの胸に顔を埋めたままくぐもった声までをも震わし、やがてその場に蹲ってしまった。