アロゥの死去より、二週間が経過した。一か月は喪に服すことになっているが、人々の悲しみも少しは落ち着き、皆に明るさが戻ってきていた。
 アロゥの死後、誰しも慌ただしく仕事に追われていたのもあっただろうが、次ぐ噂に、皆興味を持っていかれていたこともある。
 皆が注目したのは、これまでさんざんサボりまくり素行の悪さに睨まれていたハヤテが、大人しく執務をこなしていることだった。事実は瞬くまでに城中に広まっていき、それを耳にした他の隊の隊長たちが冷やかしがてら様子を見に来るほどで、アロゥが最後に魔術をかけていったのではないか、と推測する声まで出た。しかしハヤテはアロゥの死に際に惰眠を貪っていたのだから、そんなはずがあるわけがない。
 らしくもない行動をしているのは自覚していたが、眠れぬ日々が続いており、どうせそれで苛々するならと仕事をしているだけに過ぎなかったが、いちいちそれを説明する気にもなれない。好奇の目は鬱陶しかったが、これまで通り周囲の視線など気にしないとハヤテもろくに周囲と関わろうとはしなかった。
 今日は外に出る日なので、フロゥに手伝ってもらいながら支度を整える。といっても寝台の上に並べた装備品をただ手渡してもらうだけだ。
 腕を翼に変形させることもあるため、ハヤテをはじめとした鳥系獣人の制服は袖がない。そのため外回りようにつける外套も袖がなく、裾がゆったり広がっているものになっていた。
 いつもは邪魔になるからと外套は羽織らないハヤテだが、今日はフロゥが許さなかった。

「ねえハヤテ、本当に休まないの?」
「しつけえぞ。大丈夫だって言ってんだろ」

 最近ろくに寝ていないせいか、ひどく顔色が悪くなってしまっていた。それを心配したフロゥは、休暇を取るようしつこく食い下がる。
 それでもハヤテが首を立てにふらなかったため、せめて温かくして出かけてくれ、と外套を差し出されたのだ。
 これ以上休んだほうがいいとせがまれるよりはましだと、普段は身に着けることのないそれを羽織ることにした。

「文字ばっか見てて疲れただけだ。身体を動かしてたほうが気分転換になる」
「……うん。でも、無理はしないで」
「おれを誰だと思ってんだよ」

 頭をぐりぐりと撫でくり回せば、いつもは笑顔を見せるフロゥだが、今日は最後まで浮かない顔だった。
 出立の時間も迫り、不安げな顔のフロゥを置いて部屋を後にする。
 あそこまでハヤテのことを心配するフロゥは初めてだったかもしれない。これまでにも目敏くハヤテの体調不良に気がつくことはあって引き留められることもなかったわけではないが、ハヤテが大丈夫だというと不本意そうにしながらも見送っていたのに。
 それほどひどい顔をしているのだろうか。あまり主に心労をかけたいとは思わなかったが、しかし今日はタイミングが悪かった。
 フロゥには見回りだと言っていたが、本当は魔物の討伐が今回の任務である。
 ルカ国を目指していた他国の商隊が魔物に襲われたらしく、行商人の護衛とその旅に同行していた民間人が六名襲われ死亡、他にも十数人の怪我人が出ていた。
 途中騒ぎに気付いた当時外回りの警護をしていた九番隊が応援に駆けつけたが、襲った魔物のうち一体しか仕留められず、残る二体は逃げてしまったという。
 そこで今回ハヤテには逃走した二体の討伐が命じられた。また人を襲う可能性があるし、このままでは旅人の邪魔になるからだ。
 中級の熊型魔物なのだが、同じ種を以前倒したことがあるし、最上級を一人で相手してしまえるハヤテにとっては肩慣らし程度の相手だ。油断さえしなければ苦戦する相手ではない。
 ハヤテがいるということで、討伐部隊はごく少数の六名の精鋭で構成された。本来中級の魔物には数十名必要であるが、隊長が一人いるだけで戦力は大きく変わるのだ。
 今日の部下は皆優秀な者たちで、ハヤテの動きを熟知し邪魔をすることのなくそのフォローに回れる、ハヤテにとっても陣形を組みやすい者たちだった。
 ハヤテの性格も知っており、あまり口うるさいことを言わないのだが、今日は顔を合わすなり皆気遣わしげな表情をした。
 彼らもまた、フロゥと同意見だったのだ。別の隊に仕事を任せようかという提案を一蹴し、ハヤテは予定通り国の外に出た。
 目撃情報と魔物たちが逃げて行った方角から、潜んでいる場所を予測した地点に向かう。
 馬を置いて森の中に入ると、足元も悪さから無駄に体力が消耗される。普段であればその程度では然程の影響は出ないが、今日はやけに身体が重たかった。
 無意識に息を荒げるハヤテに気づいた部下たちは、これまで見ることのなかった明らかなハヤテの不調に沈黙を破る。

「ハヤテ隊長、やはり戻られたほうがよろしいです。今回の目標は怪我をしており、かなり気性が荒くなっていることが予測されます。万が一のこともありますし――」
「うるせえ!」

 怒鳴り声に、進言していた男は口を噤んだ。

「帰りたけりゃてめらだけで帰れ。どうせおれ一人で十分だ。てめえらの助けなんざいらねえよ!」

 吐き捨てた言葉に息をのむ部下をきつく睨めつける。
 情けなくも身を竦ませた彼らに苛立ちを隠さぬまま舌を打ち、前に直って一人先を歩いた。
 後ろをついてくる気配がしたが、もう振り返ることはない。
 どいつもこいつも、なんだというのだ。
 身体は動いている。ならば戦える。どうせ戦うことしか能がないのだから、役目を果たせと命じればいいものを、何故引き返させようとする。
 どうせ自分よりも早く魔物を仕留められるものなどいない。ハヤテを最も有効に利用できるのは今のような場面だけだ。椅子に座って他人の助けを借りながらでなければ仕事を行えない部屋の中などではない。
 ならばこそ、ハヤテが撤退を選ぶはずもないのだ。
 ふと、部下のものとは違う気配を感じて、ハヤテは足を止めた。
 周囲は静かすぎるほどの静寂に包まれ、鳥の羽ばたきすら聞こえていないことに今更ながらに気がつく。それどころか小動物たちの動きを一切感じない。
 さっと右耳に着けていた神武玉をとり出して、形状を変える。光の粒子が手元に集まり、やがてそれは細長く伸びて霧散していく。
 そして残ったのはハヤテの武器である槍のグラーディアだ。
 森の中は得手の長いグラーディアとの相性が悪いが、戦えなくはない。
 槍を構えて重心を低くし、耳を澄ませる。
 ハヤテの様子が変わったことに気がついた部下たちは、距離の空いた場所で足を止め、自分たちが襲い掛かられてもいいように武器に手をかけながらも、邪魔にならぬようにと息を殺す。
 一瞬無音になった世界で、小さく唸る獣の声を聞き、ハヤテは駆け出した。
 獣道の脇に抜けると、さらに足場は悪くなり、行く道を幹が阻む。それを軽やかに避けて進むと、丁度茂みから顔を出した目標の魔物を見つけた。
 九番隊の隊員が切り落としたという片耳がないので、この魔物に間違いない。
 ハヤテは飛び掛かり、グラーディアの穂先を突きつける。しかし紙一重で魔物が後退して避けてしまう。
 槍頭が地面に突き刺さるが、ハヤテはそのままグラーディアに伸びろ! と命じる。
 別名跳躍の槍、伸縮の槍とも呼ばれるグラーディアは、ハヤテの意志で自在に柄を伸ばすことができるのだ。そして今も勢いよく後ろへ伸びていき、ハヤテの後ろに回って襲い掛かろうとした魔物の胸を石突が強く突いた。
 鋭くはないので貫くことはできないが、一点集中の重みある一撃に魔物は悲鳴を上げてよろけた。その隙を逃さなかったハヤテは地面から穂先を抜き取りそのまま魔物目がけて空を滑らせて魔物の喉を掻き切ったのとほぼ同時。
 横から部下が鋭く叫ぶ。

「ハヤテ隊長!」

 そしてその声に重なるように、魔物が唸りをあげた。しかしそれはたった今絶命した魔物ではない。
 近くに潜んでいたもう一体の討伐対象の魔物が、ハヤテ目がけて牙を剥く。
 もう一体の存在をいつの間にか失念していたハヤテは、攻撃に身構えることもなくもろに脇から突進を食らってしまった。
 身体が投げ飛ばされて、これまでどんな厳しい戦いにおいても決して手を離すことのなかったグラーディアまで手放してしまう。

「かは……っ」

 幹に激突し、背中を強打する。その衝撃に一瞬息が止まった。
 根元に倒れ込んだところを、再び魔物が恐ろしい形相で迫ってくる。避けようとするが、腕に力が入らず、咳き込むと喉の奥から血が飛び出た。
 部下たちがハヤテの名を叫び駆け寄ってくるのが遠くに見えた。しかしもう、勢いづいた魔物を止めるのには間に合わない。
 急速に意識が遠のいていき、目の前が遠く暗くなっていく。
 しぬのか――
 こんなところで、まものにやられて、しぬのか――
 魔物の次なる攻撃を受けるよりも先に、ハヤテは気を失った。

 

 


 息苦しさに目を覚ます。ぼやけた視界の先には、これまで幾度か世話になったことのある医務室の天井が見えた。薬品の匂いに満ちていて、つんと鼻が痛い。
 息苦しさの正体である胸の上の存在は震えていて、彼の嗚咽が耳に届いた。
 かさついた唇で、彼の名を呼ぶ。

「――フロゥ」

 ふっと重みが消えるとともに、泣きはらしたぐずぐずの顔でハヤテを覗き込むフロゥと見える。視線を合わせると、大粒の涙が激しく落ちた。

「よかった……ハヤテ、目を覚ました……っ」

 首に擦り寄り、涙で肌が濡れる。生温かな感覚に、まだ自分が生きていることだけを理解した。
 まだ覚醒しきらない頭は考えることを拒絶するよう、ただぼうっと天井を見つめる。するとそこへ、今度はヴィルハートとレードゥが顔を現した。

「気分はどうだ? セイミアに治癒術をかけてもらってはあるけど、痛むところはあるか?」
「ねえ」

 フロゥ同様ハヤテの目覚めに安堵したらしい表情を浮かべながら問いかけるレードゥに、ハヤテは素っ気なく返した。

「それより息苦しい」

 首に縋りつくフロゥの額が、時折喉を押す。言外に退かしてくれと伝えると、レードゥはフロゥの肩に手をのせた。

「フロゥ、ハヤテが苦しいってよ。気持ちはわかるけど、離してやってくれ」

 優しく宥める声をかけるが、フロゥは全身を震わせながらも離れまいとより強くハヤテにしがみつく。
 いつもよりも熱い身体で、今にもまた意識を手放しそうなハヤテを必死に繋ぎとめようとする。

「ハヤテのばか、ばか! む、無茶して、怪我して、なにしているんだよ! ――は、ハヤテまでなくなったら、ぼくは一人になっちゃうよ……」

 最愛の師が亡くなり、慕っていたジィグンももういない。
 深く信頼にしていた二人を同時に失くし、さらには弟のようなハヤテまでいなくなれば、彼は心の拠り所を失う。
 心に深く根を張る者たちを連続でなくしていけば、どれほどこの少年が傷つくことか。
 フロゥの悲しみが、レードゥたちには痛いほど伝わった。我をも忘れてハヤテに縋り泣く姿は、アロゥとジィグンを失ったあの日に堪えていたものが今決壊してしまったかのように激しい。
 しかし、これほどまでに全身で想いを訴えているフロゥの重みを感じてもなお、ハヤテはすべてを察することができない。知れるのはその一端のみで、フロゥがどれほど、残った唯一の愛する者への喪失の恐怖に囚われているのかわかっていないのだ。ましてや、自分がそれほど大切にされていることすら理解していなかった。
 ハヤテはフロゥのことをただの契約者の少年としたか思っていないし、フロゥもハヤテをただ己の獣人だと考えていると思い込んでいた。それ以上のそれ以下でもない、他より少し関わりがあるだけの相手なのだと。
 時折ハヤテ自ら手を伸ばすフロゥは特別な存在であるのに、自身の気持ちにも、他者の気持ちにも疎いハヤテは、そのことに気がついてすらいない。
 ただフロゥが泣いていることに息苦しさとは違う胸の痛みを覚えて、重たい手をそろりと伸ばして、頭を撫でる。

「……悪かった」

 責められていることはわかっていたので、謝罪する。それにますます縋る手は強くなるが、再びレードゥが声をかけた。

「フロゥ、ハヤテはもう少し休まなくちゃならねえんだ。気持ちはわかるけど、もう大丈夫だから。おまえも少しは休め」
「そうだぞ、説教はまた今度じっくりしてやるとよい。おぬしも一度落ち着け」

 隊長二人から静かに諭されて、これまでハヤテの服を巻き込み握りしめていた拳をそうっと解く。
 レードゥがフロゥを抱え上げて、背中を擦ってやった。

「フロゥを部屋に連れて行く。ヴィルはハヤテのことを見ていてくれ」
「うむ」

 去り際、レードゥの胸から顔を起こしたフロゥが、ちらりとハヤテを見た。
 真っ赤になった目元はまだ湿っていて、ぽろりと新たな雫が垂れていく。なにかを求めるような、まだハヤテを責めているようなまなざしに、けれど言葉をかけることはできなかった。
 レードゥたちが去り、ヴィルハートとハヤテだけが部屋に残される。

「気を失ったおぬしを救出してすぐにセイミアに診てもらったのだがな、外傷はさほど深いものではなかったが、それよりもおぬし自身に問題があったようだ。――ここ最近、ろくに寝ていなかったのだろう? それに、食事を摂っているところも見かけていないと報告を受けておるぞ。昨日の朝も、出かける前にフロゥが引き留めるほどひどい顔色をしていたと」

 淡々と続くヴィルハートの言葉で、魔物との交戦中に気を失い、そして意識がないうちに城に戻ってきたことを知る。そしてそれから一日は経過しているようだ。

「体調管理もろくにできぬとはな。武だけが取り柄の男が戦場で倒れていれば価値などないぞ。おぬし一人を主力した部隊でおぬしが倒れれば、他の者も道ずれだ。部下を殺したかったのか」
「――……」

 うるせえ、と返す気力もなかった。ヴィルハートの言葉が正しかったからだ。
 執務はからきしで、素行も隊長に相応しくないと散々言われてきた。しかしハヤテの魔物討伐による功績は大きく、良くない点を差し引いてもかろうじて隊長であることを認められていた。
 それすらできなくなったら、ハヤテにはなにひとつ残らない。
 なにも隊長の座にこだわっているわけではないし、譲れるものなら誰かに譲ってしまいたいと思っている。それでも自分がやれることをするまでなのだからと。
 しかし、ハヤテにとって隊長の座から下ろされると言うことは、同時になにもできない不要者であるという烙印を押されることに変わりなかった。戦えるからこそハヤテは特別な扱いを受けるが、怪我などが理由で戦えなくなり価値がなくなれば役立たず同然なのだ。

「今回、おぬしの様子がおかしいと、フロゥがヤマトに申し出てくれたことで事なきを得たのだ。ヤマトが後を追いかけ、そしておぬしが倒れて陣形が大きく崩れているところを立て直し代わりに魔物を打倒した。後で感謝を伝えることだな」

 その口調のように、まるで年寄りのアロゥと同じように物事を語るヴィルハートを、ハヤテはやや苦手としていた。普段はのらりくらりとしているのに、時々真実を突きつける。そういうところもアロゥに似ていた。

「失ったものの大きさはわかる。みなそれでも生きていかねばならぬから、気丈に振る舞っているのだ。悲しんでいるのはおぬしだけではない。ちゃんと飯を食ってしっかりと休め。今のままでは他の者に示しがつかないぞ」

 もう説教は十分だと、ヴィルハートに背を向けるよう寝返りを打とうとして、止める。思わぬ言葉についヴィルハートに振り返ってしまった。

「悲しんでいる?」

 悲しんでいるのはおぬしだけではない――おれが?
 珍しく驚いた顔をするハヤテに、ヴィルハートは憐れみに息をついた。

「――わかっておらんか。まったく、あやつもこんなに厄介なものを片付けずにいってしまいおって」
「なにぶつぶつ言ってんだよ」
「おぬしを休ませられるのは、あやつだけだという話だよ」

 理解のできない言葉を続けるヴィルハートを、ハヤテはいつものきつい眼差しで睨みつけた。

「わけわからねえ。おれはなにも感じてないし、休めないのもただ眠れないだけだ。仕方ねえだろ」

 相手にしていられるかと、今度こそ背中を向ける。魔物がまともに体当たりをしてきた腹の奥が鈍く傷んだが、セイミアの治癒術のおかげかさほどつらくはない。
 これならばすぐに復帰できるだろうと考えるハヤテに、なおもヴィルハートは声をかけてきた。

「それでも休め、ハヤテよ。わしとてこんな短期間に何人も仲間を失いたくなどない。きつい物言いをしてしまったのは、それだけおぬしを心配しておるからだ。おまえも、もうフロゥを悲しませたくはないだろう」
「……寝りゃあいんだろ、寝りゃあ」

 無理矢理目を閉じ、毛布を頭まで被る。背後で呆れた溜息が聞こえたが、知らないふりを決め込む。

「――まるで迷子になった子供のようだな。どこに行けばいいかわからず、立ち止った場所で蹲って。とても不安定で、危うげだ。再び歩き出さねば、状況は変わらんぞ」
(またわけのわからないことを言って、うるせえんだよ)

 心の中で反論しながら、すり、と首を撫でる。
 身体は重たく疲れ切っているのに、眠気はいつまで経ってもやってこなかった。

 

back main next