扉をノックすると、中から返事が帰ってくる。
 二枚扉を押し開け中に入ると、この部屋の主である王と彼の獣人であるネル、そして先程会ったばかりの岳人と真司、そして彼らの息子であるりゅうが揃っていた。
 去り際王の私室に戻ると言っていたので、もしかしたらまだいるかもしれないとフロゥと話したが、どうやら予測は当たっていたようだ。
 現れたハヤテとその腕に抱えられたフロゥを見て、王は意外そうな顔をした。フロゥはともかく、ハヤテは堅苦しいのが苦手なのでなるべく王の前には顔を出さないのだ。しかしすぐにフロゥが泣きはらした顔をしているのに気がついて、まずは座れと皮張りの長椅子を進めた。
 そこにはすでにりゅうが座っていて、ハヤテを見るなりにっこり能天気そうに笑う。
 面映ゆい笑みにやや逃げ腰になりながら、その隣にフロゥを下ろし、自分は背後に回る。
 ハヤテから少し離れた場に立つ真司は不安げな顔をしていた。フロゥが涙した原因は、先程自分が話した内容にあるのだろうと勘付いていたからだ。

「どうかしたか。休養はもう勘弁だ、というのは聞かないぞ。他の隊長どももまだ時期ではないと言っているしな」
「そうでえ、大人しくしとけえ」

 ハヤテがぼやいていることを誰かから聞き及んでいたのだろう。不敵に笑う姿に、それだってとっとと解除しやがれと思うが、ハヤテの代わりにフロゥが首を振る。

「そうではないのです、陛下」

 畏まって向かい合うフロゥに、思うも背もたれに預けていた身体を起こし、緩んでいた表情を引き締める。

「ふむ――なにか大事な話があるのだな。申してみろ」

 促され、フロゥは先程真司から得た情報を説明し、そして再びジィグンを出現させる可能性を提示した。

「ジィグンを呼び戻したいぼくたちの私情は大きいですが、この国にとっても、これまで影ながら多くの功績を支えてきたジィグンが戻ってくることは有益なはずです。だからこそジィグンを呼び戻すために、召喚の儀を行っていただきたいのです」
「――ふむ。理屈はわかった。あり得ない話でもないだろう。しかし可能性があまりに低いな。誰がジィグンを呼べるというのだ? 出てくるまで、やみくもに儀を行うとでもいうのか」
「そ、それは……」

 ハヤテも指摘した通り、シュヴァルにも同じ問題点を突かれてフロゥは言葉に窮する。

「フロゥ。ジィグンを呼び戻したいおまえの気持ちはよくわかる。できることならわたしとてそうしたいと思う。しかし、これまで同じ獣人が呼び出された記録は残されてはいない。獣人はそうやすやすと呼べるものではないのだから、ジィグンだけのためだけに儀は執り行えない」

 優しく諭す王の言葉に、フロゥは唇を噛みしめて俯く。どうにか説得する言葉を探すが、焦りばかりが先行して考えを滅茶苦茶にしてしまう。
 主の焦燥を感じ取るも、フロゥが黙ってしまうのに自分が告げられる言葉などあるはずもなく、ハヤテもまた、なにもできないもどかしさに拳を握る。
 諦めるしかないのか、とほぞを噛んだそのときだ。
 これまで沈黙で場を見守り続けてきていた男が、ついに口を開いた。

「一度くらいならば、挑戦してみてもいいだろう」
「岳里?」

 隣に立つつがいの言葉に、真司は驚いて振り返る。
 皆の注目を集めながらも、相変わらずの読めない表情のまま淡々と語る。

「可能性が限りなく低いとはいえ、ありえない話ではない。ならばもっともジィグンを呼び出す可能性のあるものを一人選出して儀式を執り行えばいい」
「……まあ、一回くらいなら、できねえこともないだろうけどよう……でも、だったら誰を契約者にするんだあ? ジィグンと相性がよさそうなやつを選ぶったって、そうわかるもんでもないだあろ?」

 ジィグン当人を呼び出すのは、万に一つよりさらに低い確率となる。それをたった一度のチャンスに賭けて望みを叶えるなど、どんな剛毅な賭博師といえども勇み足を踏むようなものだ。
 すべては契約する者によってすべてが決まる。だがジィグンとの相性など目に見えるものではない。それがわかっていれば、王とてすぐに快諾していたのだから。
 岳人以外の全員が、たった一度の賭けに挑戦する者を想像してみた。しかし、自信を持って推薦できるような者は思い浮かばず、誰もが渋い顔をしたそのときだった。

「――そっか、わかった!」

 ぱん、と手を叩いて、フロゥの隣に座っていたりゅうが弾けた声を上げた。

「ジィグンを呼べるのは、ハヤテだよ。ハヤテが呼べばいいんだ! ね、そうでしょ、がっくん」

 実に楽しそうな笑みを息子から向けられた岳人は、正解だ、と言わんばかりに稀少な微笑を返す。しかしその間に、真司が割り込んだ。

「ちょ、りゅう! なに言ってんだよ、ハヤテは獣人だぞ?」
「うん……?」

 真司の戸惑いがわからないりゅうは、こてんと愛らしく小首をかしげて見せた。
 真司を隣に戻しながら、岳人はりゅうの言葉を補足する。

「獣人が獣人を呼び出すことができないと、誰が決めた。誰も結果を知らないなら、試す価値はあるだろう」
「た、確かに……獣人は人間が呼び出すものであって、そんなこと誰も考えたことすらなかったけどよう、まさか、そんなことが……」

 通説に捕らわれ始めから可能性を想像すらできなかったネルは唸る。隣の王も新たな切り口からの提案に深く思案する。

「実際におれが言おうとしたのは、フロゥに二重契約をさせてみることだった」
「二重契約だあ!? そっちも十分とんでもねえ話じゃねえか!」

 りゅうの無邪気な発言にも驚かされたが、岳人の本来の提案もまた衝撃的なものだった。契約は基本一人まで、という固定概念を覆すものだったからだ。

「だがりゅうの言葉で気づかされた。獣人であるハヤテに試させるのも無駄ではないかもしれないと。この国の者を見る限り、ジィグンととくに相性がよいのは、この二人のどちらかだ。ならばおれは、どちらかに絞るのであればハヤテを推薦する」

 獣人同士による契約か、もしくは一人の人間による二重契約か――。
 どちらも前例のないどころか想定されたことすらない事案であり、各々黙りこくった。

「なにもおれが言っているのは、単なる思いつきではない。確証があるといえないが――アロゥが言っていたんだろう、〝ジィグンを呼んでみろ〟と。あの人は根拠のない無責任な発言をしないだろう。だからこそおれは、試す価値があると思う」

 決めかねている王の背を押して、岳人はそれっきり口を閉じる。
 その後押しにアロゥの名を出したのに、王には効果がてきめんだった。
 アロゥは先見の力があったわけではないが、彼の言葉は時折すべてを見透かしているようで、予言めいていたことがよくあった。そして実際彼の予測通りに物事が運んだことは少なくはない。
 そんなアロゥが遺した言葉は、まるで導きのようである。さあその道を進みなさいと、二の足を踏んでいる皆の背を押してくれる。

「確かに、アロゥの言葉があるのなら……獣人による獣人の召喚に、二重契約、試してみる価値はあるかもしれない」
「ほ、本当ですかっ!」

 これまで浮かない顔を続けていたフロゥに、ようやく希望の色が戻った。

「ああ。折角だ、二人で試してみるといい。しかしこれでジィグンを呼び出せなければ、素直に諦めて、召喚された別の獣人をしっかりと面倒みることだ」
「もちろんです! ああ、ありがとうございます陛下」
「待て、フロゥ。まだ礼を言うのは早い。今回の件を実行するにあたって、条件を出そう」

 シュヴァルの言葉に、フロゥは困惑して乗り出しかけた身体を後ろに退いた。 
 乗り気になっていたのに、今更条件を出のか、とハヤテも王の思惑が読み取れず思わず眉を寄せる。
 そんなハヤテに何故か王が目を向けて、しっかりと視線が絡み合った。
 なんだ、と思っていると、そのままシュヴァルは宣言した。

「全十三隊の隊長全員の賛同を得てみせよ。そしてその説得は、ハヤテ。おまえがやるんだ」

 王が提示した条件に、当事者であるハヤテとフロゥ、それだけでなく、ネルや真司、岳人までもが目を見開いた。

 

 

 

 早速行って来い、と締めだされる形で王の私室を後にする。
 フロゥも同行しようとしていたが、王がそれを認めなかった。りゅうが会いたがっていたと子供を言い訳に使ったが、隊長たちへの説得にフロゥに手助けさせないためだというのはハヤテでもわかる。
 呼び出したがっているのはフロゥであるのに何故おれが、と納得のいかない気持ちながらも、指名されてしまったことに諦めて、まずは今日が非番であるヤマトのもとへ向かうことにした。
 途中で捕まえた兵にヤマトの居場所を聞きだし、自室にいることを知って真っ直ぐそこへ向かう。
 〈9〉と書かれた扉の前に立ち、そのまま開けようとしてぐっと押し留まる。
 そろりと手を持ち上げて、扉をノックした。
 中から返事が帰って来る前に、自ら名乗りを上げる。

「おれ、だ……ハヤテだ」
「――え、ハヤテ?」

 扉が開き、中からヤマトが顔を出した。ハヤテを見るなり目を瞬かせて、奇妙なものを見るように戸惑っていた。
 これまでハヤテが合図をしてから入室することなどなく、ましてや名乗り出ることすらなかった。せいぜいおれだ、と言う程度で、そんなこれまでの状況を鑑みると、礼儀正しくするハヤテはそれはそれは、不気味にすら見えることだろう。

「話がある。説得させろ」
「せ、説得? よくわからないけど……コガネさんもいるけれど、構わない?」
「用があるのは隊長全員だ」

 ヤマトの主ではあるが、今この時間帯にコガネもいることは想定していなかった。だがこれで後ほど向かう手間が省ける。
 部屋に招き入れられると、席に座っていたコガネが、やあ、と声をかける。
 机には食事が並べられており、どうやら早めの昼食を二人で摂っていたらしい。ヤマトと食べるためにわざわざ部屋に戻ってきていたようだ。
 二人に勧められて椅子に腰を下ろしたハヤテは、早速本題に取りかかる。
 拙い説明ながらも、先程の王たちとのやり取りをすべて伝えた。
 ジィグンを召喚するための儀式を行うことへの賛同を得るため、ハヤテが隊長たちのもとを訪れていることも話すと、二人は先程のハヤテの言葉にようやく合点がいったようだ。
 思案顔になったコガネの隣に座るヤマトは、ハヤテと真っ直ぐ向き合い、言った。

「ハヤテはジィグンを呼び出して、それでどうするの?」

 言葉に詰まるハヤテに目を細め、さらに追い立てるよう厳しい口調で続けた。

「仕事を押しつけて、乱暴に抱いて。これまでと同じようにジィグンを都合よく扱うつもりなら、おれは賛同できないよ」

 流されがちで人のよいヤマトが反対をしたことに、顔には出さなかったもののハヤテは驚いた。
 これまでジィグンと上司と部下として交流の深かったヤマトは真っ先に賛同すると思っていたのだ。ジィグンが戻ってくることでもっとも利益があるのも、もともと彼が副隊長を務めていたヤマト率いる九番隊だ。否定される理由などないと思っていた。
 否定の理由はこれまでの自分の行動にある――そう言われて、しかしハヤテは言葉を返せない。その通りだからだ。

「いくらジィグン自身が許していたとはいえ、ときにきみの行動は目に余った。ハヤテ、きみは甘え過ぎていたんだよ。やってもらって当然、受け入れてもらって当然、ジィグンならまた受け流されてくれると思っているのか?」

 実際にハヤテに注意をすることはなかったが、実のところヤマトは腹に据えかねていたのだ。
 確かに、都合のいいように扱うために呼び戻そうとしていると思われても仕方がない。
 だって、答えられなかった。どうしたいのかと聞かれて、なにも言えなかった。
 また同じようにジィグンを振り回したいのか、そうでないのか、ただそれだけですら、自分の心から答えは見つけられなくて。

「――わかんねえんだよ」

 はっきり出したつもりの声は、絞り出したかのようにか細い。そんな自分が情けなく、答えが見つからないことが苛立たしくて。苦しくて。

「おれだって、あいつをまた呼び戻して、それでどうしたいかなんてわかんねえんだよ……!」

 内に溜まる鬱屈を吐き出すよう、ハヤテは叫んだ。
 どうしても性に合わない仕事を押しつけたいだけなのかも、また抱きたいのかも、ただそばにいてほしいのかも、考えても考えても結局答えは出ない。
 フロゥに、会いたくないのかと尋ねられて、それでも自分の気持ちがわからなかった。けれど、ひどく焦ったことだけは確かだったのだ。
 消えた彼ともう一度会える可能性がわずかに生まれて、早く連れ戻さなくては、と思ったのだ。これ以上遠ざかってしまうまえに、早く引き留めないとと。
 たとえ王に命じられても、意にそぐわなければハヤテは従わない。これまでだって誰相手であろうとそっぽを向いていた。だから今回も指名されても、そんなことやってられるかと投げ出すことだってできた。
 それでも言うことを聞いてこうしてヤマトのもとまでやってきたのは、目の前にある唯一の可能性に、ハヤテ自身が縋りたかったからだ。
 ジィグンが再びやってくる可能性は低いままで、もしかしたら獣人が獣人を呼び出すことすらできないし、二重契約さえできないかもしれない。そんなあやふやな状態に賭けようとするのは、他からみれば馬鹿げたことなのかもしれない。だがそれでも、それでもいいから試したかった。
 そんな気持ちが、もしフロゥと同じであるというのなら。
 きっと自分は、ジィグンに会いたいと望んでいるのだろう――その後のことなどどうでもいい。ただ、それが叶うことだけを願っているのだ。
 自分の気持ちが確定しつつあっても、それでもハヤテは上手く言葉にすることができなかった。頭のなかがぐちゃぐちゃで、わけのわからない沢山の感情が暴れ回って、それなのに説明できるはずがない。
 それでもどうにか説得する言葉を探すハヤテに、コガネが問いかけた。

「ジィグンを呼べたとして、もし期待とは違って彼に記憶がなかったらどうする。おまえの横暴に耐えてくれていたジィグンは、おまえと出会う以前の積み重ねた記憶で懐が広がっていただけで、新しいジィグンはおまえに耐えきれないかもしれないぞ」
「……いつまでも、あいつの世話にはならねえ。これまではあいつが勝手に構ってきただけで、おれがなにもできなかったわけじゃねえんだよ。向こうがいやだってんならそれまでだ」
「確かに、最近は頑張っていると聞くな」

 頑張っているわけではなく、気が向いたからやっているだけだ、と心の中で悪態をつく。
 自分もフロゥに問いかけた言葉だ。自分自身にも同じよう質問をして答えを出そうとしたが、仮定の話を想定する難しさに匙を投げていた。
 しかし、実際自分が質問されると、不思議と答えることができた。

「それじゃあ、もし来たのが彼じゃなかったら、おまえはやっとの思いでこの世界に呼び出してもらえた獣人をどうする」

 無意識にハヤテは応えていた。

「――あいつがくる」

 これまでの歯切れ悪い言葉と違って、はっきりとした口調にコガネは首を傾げた。

「なんでそんなことがわかる? おまえも言っていただろう、可能性は極めて低いと。それでもジィグンが来てくれると、本当に思っているのか?」
「ごちゃごちゃうっせえな! おれに飽きずに突っかかってくんのは、あいつだけだからだよ!」

 自棄になって怒鳴るハヤテに、ヤマトもコガネも目を瞬かせ、やがて呆れたように頬を緩めた。

「確かに、それもそうだな。おまえに付き合えるのはあのジィグンくらいなものだ。――よし、おれはおまえに賭けてみてみよう」
「はっきり言え」
「二番隊隊長コガネは、ジィグンの再召喚の案に賛同しよう」
「九番隊隊長ヤマト、同じく賛同します」

 正式な宣言に、高ぶっていたハヤテの気はするすると落ち着いていく。
 肺に溜めこんでいた息をすべて吐き切るような深い溜め息をして、背もたれに身体を預けた。

「いいのかよ、本当に」

 これまでのことを責められても、問いかけられてもなにひとつ上手く答えることができなかった自覚のあったハヤテは、二人に疑いの目を向ける。

「ああ。だって、おまえがこうも必死な姿など見たことがない。少しからかい過ぎたが、このハヤテが変わろうとしてまでジィグンを呼び戻そうとしているんだ。応援したくもなるさ」
「そうですね。おれもこんなハヤテ、初めて見る」
「ジィグンが戻ってきたらおもしろいことになりそうだ」

 主従のハヤテをからかうやり取りは、途中から当のハヤテの耳には入ってきていなかった。
 それよりも、コガネの発言に困惑する。
 変わろうとしている――自分が?
 そんなつもりはどこにもないのに、コガネたちの目にはそう見えているというのだろうか。自分が変わろうとしている、と。
 戸惑いを隠しきれず、つい首の右側を擦ったハヤテに、ああ忘れていたが、と切り出した。

「さっきのは保留だ。条件があった」
「……条件?」

 王のことを思い出し、また厄介なことを提示されるのではと警戒するハヤテ、コガネは珍しく上機嫌の極上の笑みを見せた。

「おまえには勉強してもらおう、帰ってきたジィグンに、愛想をつかされないためにもな」

 その発言には、ハヤテのみならず、主との意思疎通ができているはずのヤマトでさえもきょとんと目を瞬かせた。

 

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