もとめるこころ

 

 行ってくる――そんな短い言葉を残してデクが家を出たのは、一週間前のこと。

 デクは今、隣町からの応援要請を受けて橋の修繕を行っているのだという。どうせ行くのだからと他にも細々とした仕事をやらされるらしく、泊りがけで三週間ほど滞在すると説明を受けた。
 その間に留守にするということで、ユールが家の管理を任せられている。ユールの両親は旅行から帰ってきていて、弟の面倒もみなくていいからと、家を三週間空けっぱなしにするというデクにユール自らが申し出たのだ。
 管理といっても防犯のためにここで生活して、ほこりが積もらない程度に軽い掃除をするだけでいいし、勝手知ったる家の中は、他人の居場所といえどもそれほど苦にはならない。
 ユールも初めのうちは騒がしい弟のいない日々を満喫して、一人自由気ままに暮らしていたが、一週間も経った頃には気がついてしまう。
 この家は、あまりに静かだ。
 デクの父ユグが暮らしていたということもあり、家は巨人の大きさに合わせて建てられている。半巨人のデクにすら広い家は、当然一般的な人間であるユールの背に合うはずもない。ときには扉ひとつ開けるのでさえ重たく思えて苦労する部屋もあった。
 とはいえ、母のメリアもともに住んでいたことから、それほど不便があるというわけでもない。規格は巨人のものといえども人間も暮らしてゆけるような工夫は随所に見られた。そんなところに、この家を自ら建てたユグの妻への愛情が感じられる。
 それでもやはり、たった一人には広すぎる。
 いつもこの家に入るときには、家主であるデクがいてあまり気にはならなかった。むしろユールは暖炉の前に敷かれた絨毯の上にごろごろとだらしなく転がってのんびりすることが好きだったし、たとえその姿をデクが少し離れた場所に設置してある食事をする机から眺めていても、距離を感じても広いとは思わなかった。
 けれど一人家で留守を任されているとまるで変わってしまう。デクの存在を感じるだけで落ち着いた雰囲気だと思えていたが、ユールだけの空間ともなればどことなく薄ら寒さを感じてしまうのだ。
 デクは毎日、両親を失ったその日から、一人でこんな場所に暮らしてきた。ユールやテイルが帰った後も、訪れなかった日でも、彼の家はここであるのだから当然だ。
 生家なのだから、ユールほど孤独に似たものを感じることはなかったのだろうし、あのデクのことだから、慣れてしまっているのかもしれない。だがユールからしてみれば、そうであったとしてもそれはデクが無意識のうちに気づかぬ振りをしているようにしか思えなかった。
 大柄で物事に動じない心臓の持ち主そうに見えて、案外繊細な、けれども自身の心ながらに変化の機微に疎いところがデクにはある。慣れたからといって、平気だと思っていても、デクならば自覚がないまでにも孤独を感じているであろうことも十分にあり得るだろう。
 今はここにいない、無愛想な面の男を思い出してユールは緩く息を吐いた。

「……ああ、ちくしょう。寒くて仕方ねえ……」

 言うほど寒いわけではなかったが、なんとなくぼやいて、ユールはそれまで寝そべっていた絨毯から起き上がり、デクの寝室に向かった。
 窓から差し込む光も赤色を滲ませていることだし、今日はもう寝てしまおう。どうせ一人でいてもやることなどない。
ユールのためにとデクがいそいそと集めた酒があり、自由に飲んでいいと言われていたが、そんな気にもなれなかった。
 寝室に辿り着き、すぐにでも大きな寝台に身を投げようとしたとき、ふとその脇に備えつけてある棚が目に入る。
 一度は寝台に乗り上げた足を戻して、そっと棚に近づき、引き戸を開ける。中は十分な収納があるにも関わらず、数着しか入っていなかった。
 上着を吊るせる広さのある開き戸の下、三段ある棚の一番上は、デクが仕事をするときに着る作業着をしまっている。
 仕事柄身だしなみに気を遣う必要はなく、むしろ穴が開いていても誰も気にしないからか、デクのものも解れや生地が薄くなっているところが目立つような状態だ。なおかつ不器用なデク手ずから縫いあげたその服は、黒い布地に黒い糸で粗が誤魔化されたものである。
 今はユールが縫製してやっているので、しっかりとした作りのものを着ているが、作業着だからこそデク作のものでも着ることを許してやっていた。どうせ破けたりしてしまうのだし、ユールが耐え切れなくなるほどに襤褸になったときには雑巾にでもしてやればいい。デクが限界まで着回さずとも、もう簡単にユールが新しいものを用意してやれるのだから。
 今回は三週間も家を出るということもあって、デクの作業着は今までのではなく、新しくユールが作ってやったものを持たせた。もし万が一、破れかけのものを着ていって、それこそそこで駄目になったのならばデクにできる手立てはない。そうならないように先手を打っておいたのだ。
 手に取った古い作業着を目に向けて、これはもう処分してしまおうと決める。どこにひっかけたのか裾は裂けているし、小さいとはいえども穴が開いているし、肩口なんて今にも縫い目が緩んでいて分解されそうだ。
 先程も感じた薄ら寒さに思わず身が震える。もう日はほとんど落ちているから、夜の訪れの影響もあるのだろう。
 手にした洗いざらした服を幾度か手で揉み、その感触を確かめる。しばらくそれを眺めていたユールは、頭からデクの服を被った。
 服の中でもがくようにそれぞれの出口を探して、ようやく両腕と頭を通す。
 半袖として作られていたが、半巨人の身体に合わせて作られたそれは、ユールにとっては七分丈ほどの袖になる。
 大きく開いた襟が肩からずり落ちそうになって、手で押さえた。
 以前にも一度着たことがあるが、やはり体格の差があることを再認識させられる。ここまで違うと同性としての妬みもなく、ただただよくもまあそんなに育ったもんだ、と感心してしまう。
 手を使わずに足で靴を脱ぎ捨て、今度こそ寝台に身を投げた。
 しっかりとしたばねがユールの衝撃を吸収しきれず、一度跳ねる。けれども音は上げないままあとは静かに受け止めてくれた。
 デクとユールがその上で少々暴れても軋まぬ台は、作り手ユグの大工としての腕を証明しているようだ。
 朝起きて端に蹴ったままの毛布はそのままに、ユールはデクの服に顔を埋めて、ゆっくりと息を吸い込んだ。
 洗い天気のよい日に干したからか、陽の香りがする。けれどそれでも消えきれないデクの匂いが染みついていた。
 多少薄れてはいるが、日頃仕事で汗水吸わせている作業着であるからなのかもしれない。臭いわけではないが、ユールよりは男臭いような、力仕事をしている者らしい匂いだと思う。
 顔を埋めたまま目を閉じれば、まるですぐ傍にデクがいるように錯覚する。だがいつも抱きしめられるときに感じる窮屈さも、熱も、もっと濃い相手の匂いもここにはない。所詮は彼が残した服なのだから、当然だろう。
 まだ、一週間だ。帰宅するのはあと二週間残っていて、折り返し地点にさえ辿り着いていない。
 こんなに離れることになったのは、今まで一度もなかった。デクとユールがまだ恋仲になる以前でも、少なくとも一週間に一度はユールのほうからそれとなく会いに向かっていたのだ。
 夜が訪れたとはいえ、まだ大人たちが眠るにはいささか早い。ましてや仕事明けの男どもが集まっているともなれば、酒を飲みにでも出ているかもしれない。デク自身はそれほど得意ではないようだが、彼の上司のグンジをはじめとした周囲の仲間たちは無類の酒好きばかりだ。強引に連れて行かれている姿は容易に想像ができた。
 デクの本心を知ってからというもの、以前のように仲間たちと昼食の時間をずらすこともなくなったし、ときには今ユールが想像しているように、仕事が終わった後に夕飯がてら店に行くことも増えた。
 そうなるよう仕向けたのは、他ならぬユール自身である。望んだ変化は喜ばしく、今夜は仕事仲間と食べに行く、といそいそと準備をする無表情の下で、実は浮足立っている心があることに気がついたときには嬉しかった。
 だが今は、それを思い浮かべるだけでどうも面白くない。
 ――おれは独りでいるってのに、今頃あいつはわいわいやってんのかね。ま、どうでもいいけど。
 別に、デクが楽しくしているのはいいのだ。仲間との交流も、不器用ながらにやっているようだし、それを邪魔する気も疎ましく思うつもりもない。ただ――だだ、デクがユールを忘れているのではないかと、そう思っただけだ。
 しんと静まり返った家は、空気さえも冷えている気がする。
 ますますデクの服に身体を収めて、もう一度深く息を吸い込む。胸いっぱいに詰め込まれたデクの匂いに、ユールは薄らと目を開けた。
 隣町への泊まり込みということで、三週間分の準備で出掛ける直前まで忙しくしていたデクとは、あまり触れあうことができないままだった。
 別にユールはそれでもいいのだが、これまでは大体一日置きにデクの家を訪れては、ときには泊まって一緒の時間を過ごしてきていたからか、ほんの少し、物足りない気持ちがある。デクのほうから勝手にユールを抱え上げて膝に乗せたり、身体を押しつけてきたりしていたせいだ。体温の高いデクの傍らにいることに慣れてしまったから、だから今肌寒さを感じてしまうに違いない。
 ユールはここにはいない男のことを思い出し、誰もいないのをいいことに小さく舌打ちをした。服を重ね着しただけで、求める温もりは感じられないではないか。
 甘えるなと言っても、デクは勝手に引っついてきた。後ろから抱きしめられ、腹に腕を回されて。軽く手を叩いてもまるで気にする様子もなく、上半身を屈めてユールの耳に口づけられた。逃げようとすると、咎めるように耳朶を甘噛みされて、デクの吐息がかかって――。
「――っ」
 一度思い出してしまえば、慌てて振り払おうにももう間に合わない。ユールの頭の中には、二人きりでこの寝台の上で過ごした濃密な夜が勝手に流れていく。
 ごつごつとした肉刺でかたくなった皮膚。節くれだった太い指とともに素肌を撫でて、手全体を使ってユールを感じようとしてくる。結局は自分も流されて、でも素直に受け入れるのは癪で、しょうがねえなあ、と笑ってやるのだ。
 けれどもすぐに、デクにユールが追い立てられてしまう。
 熱くて、苦しくて、全てを曝け出すのは恥ずかしくて。でもその果てにあるものはどうしようもなく気持ちがいいもの。我を忘れあの広い背に縋ることを、幾度繰り返しただろう。幾度泣くまで責めたてられただろう。
 デクが準備で忙しくなる前は、ユールのほうの仕事が立て込んでいて、すっかりご無沙汰になっていた。きっと、そのせいだなのだ。
 普段であればこんな、デクを思い出しただけで、熱など集まることはないのに。そんなこともあったなあとすぐに記憶を振り払うことだってできたろうに。
 寒いと思うのも、その姿を思い浮かべてしまうのも、こうして困ったことになってしまったのも、すべてデクのせいだとユールは歯噛みした。そうしたところで熱を感じる身体をどうすることもできない。
 しばらくじっと目を閉じた後、ユールはそろそろと自分の下半身に手を伸ばした。
 服をずらして、昂ぶりの前兆を見せるゆるく勃ち上がったものを取り出す。
 いつもしつこいくらいにデクに触れられていたからか、自分でするのは久しぶりだ。その代わりユールはよくデクのものを握っていた。だからこそ、彼とのそれの差をまじまじと体感させられる。
 無意識のうちにデクの大きな手を思い出しながら擦り上げ、今までのように欲を発散させようとした。けれども、身体は高ぶっていっても気持ちが追いつかない。そのせいなのか、しばらく扱いていてもなかなか達することができなかった。

「……くそっ」

 だって、なにもかもが違う。
 触れる手の大きさも、力加減も。覆い被さる巨体もなければ、他を愛撫するあの無骨な手もない。はあ、と欲を溜めた息を吐き出す音も、蒼い瞳の奥にぎらつく欲も。
 自分自身の身体の熱さえも。あいつが、デクが傍にいないだけで、こうも違うなんて。
 こうも、物足りないだなんて。
 いつの間にか、デクの手が与えていた快感を追いかけるようにユールは手を動かしていた。自身を撫でる手はそのままに、腹辺りで服をきつく握りしめていた指を口先に運び、自分で舐める。それにさえ、ゆすぐようにユールの口内をくすぐる太い指先を思い出してしまう。苦しくてそれを伝えるためにユールが身体を殴るまで、上顎をくすぐったり、舌に絡んだりと散々に遊ばれた。
 指に唾液を絡めて、十分に濡らしてから、それをそのまま下半身に向かわせる。後ろの窄まりに触れた。
 彼との行為を思い描いで自分で慣らしたこともあるから、今更入れることにそれほど抵抗はない。普段からデクのもので慣らされているそこは、細いユールの指など簡単にのみ込んでしまった。
 以前は自分の指を拒絶するようにきつく狭かったはずのそこが、今では柔らかく受け入れることを覚えているようだ。
 予想以上に変化してしまった己の身体に戸惑いながらも、指を伸ばして奥を探る。探していた場所を撫でれば、びくりと身体が跳ねあがった。ここもまた、以前よりもより敏感にさせられているようだ。

「――っ、は……あの、やろう……」

 罵りながら、今の横になっている体勢では動かしづらいと、膝を立てた。両手は塞がっているため、肩を敷布に押しつける形になってしまう。
 腰を高く上げたせいか、ユールには大きすぎるデクの服がするすると下がってくる。
 指先でそこを突く度に腰が震えた。増々に熱が渦巻いていき、息が荒くなっていく。前を扱う指先が、先走りに滑った。
 けれど、そこまでだ。

「なん、でっ……」

 以前であれば、今頃は達していてもいい頃なのに、それでもユールのものは張り詰めるばかりで吐き出す気配はない。ただ留められた熱に苦しみが増していく。

「っ、ん……は、ぁ……」

 ちがう、足りない。
 もっと奥だ。もっと深いところを抉ってもらわなければ。狭いここが、いっぱいにまで満たされなければ。息苦しいほど、はち切れてしまいそうなほどに。
 今指で押している場所だって、もっと太くて、硬いものを押し当てられたときのほうが気持ちいいのを知っている。それはユールの指ではできないのだ。
 デクでなくてはだめだ。デクでないと届かない。
 もどかしい熱に、これほどまでにデクを求める身体に、けれども縋る相手はいなくて、ユールは目尻をほんのり濡らす。
 少しでもここにいない相手を感じたくて、纏わりつくような黒衣に鼻先を埋めて匂いを嗅いだ。けれども焦燥のような思いが重なるだけだ。
 吐きだせない苦しさなどいらない。腹の中に満ちすぎて、肌を撫でる手が気持ち良くて、デクを全身で感じて溢れすぎた想いに、そんなものに追い詰められたいのに。
 激しく出し入れしても、前を扱いても駄目で、いよいよユールが泣き入りそうになったとき、不意に膝が滑った。
 体勢が崩れ、思いがけず手にある自分のものを強めに扱ってしまう。だが、それがきっかけとなった。

「んっ、く……っ」

 手で覆うよりも早く、敷布に白濁が飛び散った。後ろに入れていた自分の指が、ぎゅうっときつく締められる。

「ふ……は、ぁっ」

 一瞬詰めた息をゆるりと吐き出し、咄嗟に丸めた身体の強張りを解いて、濡れた身体をそのままに寝台に倒れ込む。
 先程は、きつく握ってしまったと一瞬焦ったのに。たまに力加減を間違えるデクのせいで、多少の痛みさえも快感への刺激に変換される身体になってしまったことを恨まざるをえない。
 汚してしまうのも今更だと、滑る手のままデクの服を引き寄せ、鼻先を覆った。
 自分の放った精の匂いに混じる男の匂いに、身体はすっきりしたはずなのに、それでも心の奥底が燻る。

「……早く帰って来いよ、のろま……――」


 

 予定では三週間だと言っていたのに、デクは二週目にして帰宅した。
 夜中に玄関で物音がしたとき、強盗かと身構えていたユールは、手にしていた戸口のつっかけ棒を下してデクを見詰めて目を瞬かせる。

「なんだおまえ、帰ってくるのは、来週だったんじゃねえのかよ」
「早く終わった。だから帰ってきた。留守の間すまなかったな」
「別に……大したことはしてねえよ」

 デクはユールに土産の酒と、店員に勧められて買ったという髪飾りをひとつずつ寄越した。
 酒はともかくとして、髪飾りは若い女の髪を彩るもので、ユールが仕事柄こういったものを集めているからと買ってきてくれたのだろう。
 この半巨人の仏頂面が、華やかな飾り物が並べられた店に顔を出し、そしていつもの無表情のまま店員と話してこれを選んだと思うと、つい頬が緩みそうになる。きっと内心では色々と戸惑っていたに違いない。

「ありがとな」

 素直にお礼を言って、ユールはまず酒瓶をしまいに家の奥に向かった。
 居間に戻るとデクの姿はなく、寝室の扉が開いていることに気がついてそちらに向かう。
 なかを覗き込んでみれば、早速デクが荷ほどきをしている最中だった。寝台の上に荷を広げ、ひとつひとつ整理をしている。
 しばらくその背を眺めた後に、ユールは自分も靴を脱いで寝台にあがりこんだ。

「すまない、すぐに終わらせる」
「別にまだ寝ねえし、ゆっくりやれよ」

 ユールに気がついたデクは、肩越しにちらりと目を向けただけで、すぐにまた手元に視線を戻す。
 ユールはデクの背後に座り込むと、そのまま広い背に頭を預けた。
 それまで動いていたデクの手が止まったことを、繋がる身体の振動がぴたりとなくなったことで悟った。

「どうかしたか。なにか、あったか」
「別に。なにもなかったよ」
「そうか……」

 なにか言いたげにするデクに気がつかない振りをしていれば、のっそりと作業は再開された。
 触れあう場所からデクの体温がじわりと伝わってくる。目を閉じれば、デクの匂いを感じた。仕事を終えてすぐに帰路に就いたのだろうか。汗の匂いも混じっている。
 帰ってきたら、色々と文句を言ってやろうと思っていた。
 よくも人の身体を作り変えてくれたものだと。けれどデクの存在を確かめられた今、そんな言葉はどうでもよくなる。
 それに、実際口に出したところで、その文句が飛び出す経緯を話さなくてはならないだろう。口が裂けてもこの二週間のうちにあったことなど言いたくもない。
 ゆるく口で息を吐いて、鼻で吸い込む。デクが帰ってくる直前まで感じていた薄ら寒さはどこへやら、荒みがちだった心も落ち着きを取り戻し、温かいものに満たされていく。
 ぐりぐりと頭を押しつけてみれば、いよいよデクは手を止めユールに振り返った。
 もの言いたげな視線を感じて目を開けて見れば、身体を捻ってつらそうにユールを見ている青い瞳があった。相変わらず物言いたげにしているものの、口が動く気配はない。
 仕方ないな、とユールは内心で笑った。

「片づけはいいのかよ」
「――明日、やる」
「そうかよ」

 上に向けていた頭を下げて、ぽんと寄りかかり直した。
 しばらくして、ひっそりとデクが声をかける。

「その……まだ、渡したいものがある」
「土産、まだあったのか?」

 ユールはようやく身体を起こして、そのままデクの肩に手を置き、彼の手元を覗き込む。するとそこには小粒の蒼い玉が三連に括られた亜麻色の紐があった。

「足飾りだ。好みに合うかはわからないが、おまえに。それなら仕事の邪魔にもならないだろう」
「……ありがと」

 振り返らないまま後ろに回された手から受け取り、ユールはまじまじとそれを見つめた。
 玉と紐だけの、簡素な作りのもの。これはきっと、デク自身が選び用意してくれたものであるのだろう。そう、言葉はなくとも態度でなんとなく察した。
 ユールは受け取った紐を握り締め、デクの背後から立ち上がって正面に向かった。
 前に座り込み、渡されたばかりの紐を差し出す。
 一瞬、デクは悲しげな顔をした。きっと突き返されたとでも思ったのだろう。誤解させてしまったと、内心で慌てながら口を開かせる。

「折角だし、おまえがつけてくれよ」
「おれがか?」
「ああ。おれのために買ってきてくれたんだろ?」

 にやりと笑えば、デクも苦笑するように頬を緩めた。
 ユールの左足を掬い上げて、胡坐を掻いた己の膝の上に乗せる。踝の辺りを飾り紐で囲って、結び目を作り始めた。
 大きな手は、相変わらず不器用らしい。苦戦しているようだが、それでも自分でやってくれ、と投げ出すことはなかった。
 何度も失敗する姿を眺めていると、不意にデクが手元を見つめながら呟くよう告げた。

「――いつも、おまえが身に着けている首飾りがあるだろう。それが蒼い色だったから、今回のもそれにしてみた」
「……ふーん。そうかよ」

 蒼い玉を選んだ理由を聞かされたユールだったが、素っ気ない返事をする。けれども手元に集中しているデクはあまり気にしていないようだった。
 だからこそ、蝋燭に照らされたユールの頬が、赤い光とは別に色づいていることに気がつくわけもなかった。
 きっとデクは、この首飾りの秘密についてなにも察していないはずだ。もしも勘づかれていたとしたのならば、ユールは今すぐにでもここを飛び出していたかもしれない。
 デクと想いを通じあわせるよりもずっと昔から、ユールは蒼い玉の首飾りを身に着けていた。気分で装飾品をよく変えていたが、これだけはいつも離すことはなかったのだ。
 今も胸にぶら下がっている首飾り。もちろんこれを大事にしているからなのだが、その理由はデクにあった。
 長い前髪に隠されたデクの瞳。その色と同じ蒼をした玉だったからこそ、こうも大切に身に着けているのだ。ただ、それだけだ。
 もの自体はユールが購入したものであるし、有名な硝子細工師のものではあれども小粒であるからそれほど高価だったわけでもない。ただ好いた男の瞳と同色であったがために、余程のことがない限り外すことはなかった。実際にこの首飾りをつけるようになってから、首元から退かしたのは一度か二度ほどだけだったろう。
 話していないのだから、無論デクはこの事実を知らない。今足につけてくれているのが、自分の瞳を似ているなどと思いもしていないだろう。
 この土産も、もうそうそう外すことはないだろう。ましてやデクに着けてもらったのだから。
 デクが顔を上げるまでに頬の熱を引かさなければ、とユールはむず痒く歪む口元を抑えていると、ふと、不器用な手先に落とした視界の端に映るものがあった。
 ちょうど結び終えたらしいデクが、よし、と満足げな声を上げて屈めていた身体を起こす。それと同時に、ユールは胡坐の下に隠されるように下敷きにされていた紐のはみ出た部分を摘まみ、引っ張り上げた。
 見つかったものにデクが慌てたように手を伸ばすがもう遅い。

「これは……」

 デクの足の下から引き抜いたのは、ユールが先程足に着けてもらった飾り紐に酷似ているものだった。違いがあるとすれば、括られている玉が緑であることと、ユールのものよりも長いくらいだ。網目も、亜麻色も同じである。
 自分に贈られ足に結ばれたものと、隠されていたものを目を瞬かせながら見比べた。
 デクは諦めたように溜息をひとつつく。

「――緑色のほうは、おれのものだ」
「おまえの?」

 目を合わせないようにデクは頷いた。

「その、おまえが揃いのものはいやと言うなら、着けるのはやめておく」
「……いや、別に構わねえけど」

 デクの膝に乗せていた足を退かして、今度はユールが胡坐を掻いているデクの片足を引っ張り出そうとする。けれども重くて、一人で動かせそうにはなかった。
 ユールがなにをしようとしているのか気がついたデクは、引っ張られている右足ではなく、左足を伸ばして差し出した。

「つけるのはこっちでいいのか?」
「ああ」

 身を屈ませで、デクの足首に自分と同じように色違いの紐を結んでやる。当然、デクと違って何度もやり直すようなことなく、一度で終えた。
 蝋燭の火にちらちら光る小さな玉を見つめながら、ユールは問うた。

「なんで緑にしたんだ?」

 すぐに返事はなかった。意味がないのであれば、別に、とすぐに返ってきたはずだ。つまりは、なにかしらの事情があるのだろう。
 言葉を待っていると、ぼそりと答えが返ってきた。

「――……おまえの、瞳だ」
「は?」
「おまえの瞳の色だからだ……」

 あまりに小さかった声は聞き取りづらく、思わず聞き返したが、二度目の言葉ははっきりと聞こえた。
 一度は収まった熱が、じわじわと頬を染めていく。
 堪らずユールは俯いて、ぎゅっと拳を握った。そうでもしないと寝台の上でごろごろと転げ回ってしまいそだった。
 しばらく身悶えて、ようやく落ち着きを取り戻した頃に、ユールはデクの右足に身を移して、そのまま背中を預ける。
 肩に頭を押しつけて、迷った挙句に、そっと腹の辺りに手を置いて、服を握り締める。

「――おかえり、デク」
「ああ。ただいま、ユール」

 ぽんと、頭にデクの頬が押しつけられる。そっと身体に回された腕に、ユールは目を閉じ、少しだけ頬を緩めた。


 翌日、ユールはグンジから、出張先の町でデクが鬼のような気迫で仕事を片づけたのだという話を聞いた。
 その後に家でデクに、なにか帰ってきて用事でもあったのかと問いかければ、何故か彼は顔を逸らしてしまって。

「――……早くおまえに、会いたかったからな」

 ぽつりと呟かれた言葉に、視線の先でじわりと赤くなっていく耳。
 デクの髪を切ってやって気づいたことだが、この半巨人はどんなに照れていても顔色を変えることが滅多にないのだが、耳だけは真っ赤になるらしい。
 ユールも俯いて熱い頬を隠すことしかできなかった。


 おしまい