今すぐでなかったとしても、今後なにかがあるかもしれない。
日を跨いでも一向に不安も罪悪感も消えなかったデクは、現在の仕事場としている森と町との境に出向く前にまず町中へと足を運んだ。
目的は町の東寄りに位置するユールの職場である理髪店だ。
まだ朝が早いとはいえ、朝食作りのための買い出しに出ている女や、すでに仕事に向かう男など、通りは決して人通りが少ないわけではない。そのなかでデクは頭ひとつ分どころかふたつもみっつも飛び抜けて高く、上から人々を見下ろす。猫背になったとしても自分の視界がやや低くなるだけで誰かと目線が合うこともない。
慌ただしい時間帯ということもあり、人々は忙しなく行き交う。そんななかでデクはゆったりと歩くも、まず歩幅からして周囲とは違うため、早足の人間にもなかなか通り抜かされることはない。
町でこの半巨人の存在を知らぬ者などいない。誰もが異様な長躯のデクを見慣れており、今更その姿に驚く者はいなかった。
ときに急く者同士が肩をぶつけることもしばしある道のなか、デクに服を掠れさせる相手は誰一人としていない。それどころか自ら避けていくため、デクの進む先は勝手に波が割れていく。
それがいつものことだった。あからさまなほどの距離をとりはしないが、それでも決して触れぬようにと誰しもが避けていく。そうして生まれた道を、デクは一人ときの流れが違うかのようゆったりと歩くのだ。もしこれでデクが周囲に同調しようものならば、たとえただの早歩きだとしても、人間の彼らにとっては突進してくるように見紛うだろうからと。
軒を連ねる店のなかに目的の理髪店を見つけた。こぢんまりとした建物はまだ開店前ということもあり扉は閉ざされ、取っ手には札がかけてある。入り口の窓には垂れ布も下がっていた。だが店内を覗ける壁に取りつけられた窓を遮る布はない。
デクは歩調を一切緩めることもなく、すれ違いざま店内を横目で覗いた。
棚の道具を整理する店長の姿が見える。他に一人理髪師の男がいたものの、それはユールではなかった。
それほど広くはない店はあっという間に通り過ぎてしまう。
しばらく流れに身を任せていたデクは、途中自分の巨体でも通れる脇道に逸れ、大通りを避けながら今度は自身の仕事場へと足を向ける。
期待はしていなかったが、やはりユールを確認することはできなかった。今度は仕事の帰り際にでも店の横を通ってみようかと計画をする。それとももしかしたならばまた昼食時に訪れるかもしれない。
黙々と歩き続け、もうじき仕事現場に差し掛かろうとしたところでふと、向かう先にこれまで頭に思い浮かべていたはずの、探していたはずのユールの姿を見つけた。
彼はデクに気がつくと、それまで民家の壁に預けていた背を起こし、唇を引き結んだまま距離を詰めてくる。
前髪に隠れがちな目で、気がつかれないようとその姿を盗み見る。足取りはしっかりとしていて迷いもない。瞳に鋭い光を宿す顔もいつもと相違なく、具合が悪そうにも見えなかった。振られる腕の動きも勢いがある。
本来の効果を現さなかった矢の副作用を警戒していたが、どうやらそれは杞憂に終わったらしい。
人知れず内心で安堵し、今度こそユールから目線を道に落としてそのまますれ違おうする。しかしいつも皆が避けるデクの正面にユールはわざわざ足を運ぶと、行く先を阻むようそこで立ち止った。
道を譲る気のないユールにデクも一旦足を止める。
向かい合った二人だがそこに言葉はなかった。デクが無口なのはいつものことだが、いつも一人で話しているはずのユールも口を閉ざしたまま、デクの喉辺りに睨むような強い視線を向けてきている。
しばらくの沈黙の後、先に折れたのはデクだった。
「――なにか用か」
珍しくデクから声をかけてからようやく、ユールはわずかに顎を上げて目線を合わせる。すぐに一度逸らすものの、再びデクの顔を見上げて拳を突き出してきた。
「これ」
わけがわからずただその手を見詰めれば、ぶっきらぼうな言葉が急かす。
「早く手を出せよ」
言われるがまま掌を上にしてユールの拳の下に差し出せば、緩められたそこから握られていたらしいものが落ちてくる。
音も立たない、重みもまったくないそれをまじまじと覗き込めば、大きな自分の手の上には編まれた紐があった。
まるで夕陽に染まる湖で染め上げたような美しい色合いに、一瞬目が奪われる。
「――これは?」
一呼吸を置きデクは尋ねた。その頃にはいつの間にか腕を組みそっぽを向いてしまっていたユールが、相変わらずどこか不満げに答える。
「おまえ、今の髪紐大分使い込んでるだろ。いつ切れてもおかしくないし、そんなもんつけ続けてみすぼらしいんだよ。ちったあ見た目に気を使え」
吐き捨てるように言い切ると、ユールは背けた顔の方向へとそのまま行ってしまった。遠ざかる背を眺めていたが、それもすぐに建物の影に消えてしまう。
デクは改めて掌のものに目を落とし、しばらく思案した後、後ろ頭に手を伸ばした。
髪を括っていた紐を解き、代わりにユールから受け取ったばかりの鮮やかな色味のそれで結び直す。視界に映りさえしなければ色もわからず、紐は紐であり使い心地もそう変わらない。しかし心が浮ついているかのように落ち着かなかった。
夕陽色と入れ違いで手のなかに落とされたのは真っ黒の紐だ。後ろ髪をただ結わえるためだけのそれは、幅があるわけでもなく、髪と同色でもあるため余程注意して見ていない限り襤褸になっていることは気がつかないはずである。確かによく目を凝らして見れば、解れて今にも切れそうに細くなっているところがあったが、毎日使っているデクでさえユールに指摘されて初めてそれに気がついた。
理髪師という職業柄よく髪に目が向くのだろう。己に無頓着で髪も伸びっぱなしにしているデクと違って、ユールは服装は勿論のこと、腕などの装飾品にまで気を使っているように見える。腕輪などは日によって変えているようだが、首に垂らした蒼い輝きを持つ玉はいつも身に着けていた。どうやらそれが彼のお気に入りらしい。
自身が身なりに気をつけているからこそ他人にも目がいき、いつかデクの髪紐に気がついたのだろう。そして新しいものを寄越すくらいなのだから、余程見るに堪えなかったのだろう。
肌と蒼い瞳以外はすべて髪も服も黒づくめであるデクに、新たな色が加わる。
自分には少し明るい色ではないかとは思った。もらったものは自身の趣向にかかわらずなんでも使うデクだが、やはりいたたまれない気持ちになり一度は後ろに手をかけるも、外すのを止めた。
これまで使っていた黒色の紐を肩に担いでいた道具の入る鞄に突っ込み、ようやく仕事場に向かって歩みを再開させる。動き出しても後ろが気がかりで、数歩進むごとに手を伸ばした。
ユールは一体なにがしたかったのだろう。あの場所でなんの用があったのだろう。
思い返してみるも、ユールが立ち止っていた場所は特にこれといってなにもない場所だ。デクの向かっているほうに用があったとしても、そこには森が広がるばかりで理髪師に関わるようなものなどない。町中からは離れた場所であるし、わざわざ出向かなければ来ることもない住宅地だ。
何故ユールはあんな場所にいたのか。頭を捻ってみるも答えなど出るわけもない。
ユールの顔色が悪くなかったことに少なからず安堵しながらも、デクは自分でもよくわからないまま、ぐるぐると同じことばかりを考え続けた。
いつものように相手に聞こえているかもわからない小さな声で挨拶をし、デクは先に来ていた仲間たちの荷物が置かれた民家の影に自分の鞄も置いた。
中から道具を取り出しているところに背後から声がかけられる。
「お、なんだデク、雰囲気が違うじゃねえの」
振り返った先に現場監督である親方のグンジが立っていた。
微かにデクが首を傾げれば、グンジはちょんと自分の後ろ頭を指差してみる。
「おまえさんにしては珍しい色を選んだな。いつも黒ばっかりだろう」
ああなるほど、とデクは合点がいった。
グンジは気さくにデクに話しかけてくるものの、普段それほど会話があるわけではない。デクの反応が鈍いせいであり、大抵は仕事に関することばかりだった。それなのに世間話をするように声をかけられたものだからなおさら首を捻ってしまったが、グンジが気にかかる話題があるのであれば納得がいく。
「もらい、もので」
「ああなるほど、おまえさんに似合うようにってわざわざくれたのか。いいんじゃないか、たまにはそういう色もよ」
なにがそう楽しいのか、グンジは豪快な笑い声を上げデクの肩をばしりと強烈に叩き、そのまま去っていった。
叩かれた場所を擦りながら、デクは残された言葉の意味を考える。
くれたもの。デクに、似合うようわざわざ、くれたもの――贈り物。ユールが、デクに。
ようやく出てきた自分とは縁遠い言葉に、一瞬なにかが掴めた気がした。それはすぐにデクの頭からすり落ちてしまうものの、浮かんだ言葉にはっきりと動揺する。
切れそうな髪紐を見兼ねて新しいものを渡してきたのだと思い込んでいた。何故ならデクとユールはそれほど仲がいいわけではなく、ましてや贈り物など互いにし合ったことはないからだ。
先刻出会ったユールの様子はいつもと変わらないように見えた。きっと偶然休んでいたところにデクがやってきて、どうもデクの無頓着さが気に入らずに手持ちの紐を渡しただけのことだろう。そこに恋をしている気配などまったくなかったし、彼はいつまでも一緒にいられるかと言わんばかりに早々に立ち去った。
だがもし、魔女から与えられていた矢が効果を発揮していたならば。もしユールがデクに少なからずの慕情を抱いているという、幻を見せられていたとするならば。贈り物、という言葉はデクたちの間で違和感ある言葉でなくなるだろう。
そこに好意的な態度は一切なかったとはいえ、ユールがデクに物を渡すという行為自体今回が初めてだ。こんなことは今まで一度たりともなかったからこそ、グンジに言われるまで贈り物などという言葉は思い浮かばなかったのだ。
二人の間になにかがあったわけではない。それなら関係も変わっていないはず。だが、これまでと今までの違いがひとつだけある。効果が現れることなくどこかへ消えてしまった、確かにユールに刺さったはずの魔女が与えた魔法の矢の存在だ。
もし、矢に触れたユールがデクに恋をしているならば。わざわざあの場所にいたのも待っていたのだと理由をつけられる。あの髪紐がユールの気まぐれではなく、贈り物だったというグンジの言葉もあながち間違いではなくなる。だがやはりどうしても解せない部分があった。
ユールは決して、デクに好意的ではない。渡すときも以前とそう変わらぬ目つきに言葉遣い、態度だった。
考え過ぎなのだろうか。やはり単なる気まぐれなのか。
きっとそうだ、だがもしかしたならば――ぐるぐると頭を巡るそんな言葉たちを呟きそうになるも、薄い唇は重たく閉じたままだった。
仕事を終え、外に仕掛けていた罠にかかった猪の処理まで終えてから家に入ったデクは、手早く寝衣に着替えて結んでいた髪を解いた。
落ちた黒髪が肩を撫でる。いつもならば結んだ跡がついた後ろ頭をがしがしと掻くのだが、今日ばかりは手にある、髪を結わえていた紐に向けられる。
よくよく見てみれば、それはしっかり編み込んで作られたものであり、無頓着なデク相手に渡すには勿体ない上等なものだということに気がついた。少なくとも、今まで衣服を作る際に余った切れ端を適当に捩って使っていたものの代用品には、土埃にまみれる男の髪紐などには到底相応しくない。
てっきりなにかに使われていたような、偶然持ち合わせていた代物かと思っていた。だが改めて考えてみると、やや見え張りするきらいがあるユールが、いくらデク相手とはいえ、一度でも使用されたものを、ましてや粗悪なものなど渡すだろうか。
そこまで考えてようやくデクは後ろ頭を乱雑に掻いた。乱れた髪をそのままに家のなかを進み、寝室への扉を開ける。
一部屋を埋め尽くしてしまうほどの寝台に、デクは飛び込んだ。元はデクよりもさらに身体の大きかった巨人族の父ユグが使用していたものだ。受け止めたデクの巨体に多少軋んだ音を慣らしただけで、その後は破壊することもなく沈黙を始める。
しっかりとした土台を持つそこは安心して身を任せられるが、巨人族さえ使える寝台はデクといえどもあまりに広く、まだ熱を移していないから冷たくて。ここへ横たわるときは一日の疲労が広まると同時にデクの孤独も増した。しかし寝つきのいいデクは、その言いしれぬ薄ら寒さとともにいつしか眠りについているのだった。
だが今日は、いつもは寝転がればすぐにとろとろと落ちてくる瞼もどういうわけか開いたままでいる。妙に目が冴えて、眠気がやってくる気配は一向にない。
居心地が悪いのかと寝返りを打てども変わらず、しばらくすれば長い溜息を鼻から吐いた。
ふと、あの夕陽を溶かしたような色の紐を、右手で握ったままでいることを思い出す。
日は完全に落ち、火を灯していない室内は暗い。月光が窓から薄らと差し込むも、それで視界がはっきりするわけでもなく、ただ掌の感触でしか存在を知ることができない。ましてや色など当然判断できないはずなのに、目を閉じればその色がどこかにちらつく。
結局デクは一睡もできないまま夜を明かした。もしかしたならば時折眠っていたかもしれない。だがそれは極浅いものであり、日が昇りきる前についにデクは身体を起こした。
眠たいはずなのに眠れなかったせいか、頭がぼうっとして重たい。気を抜けば今にもぐらぐらと揺れてしまいそうだ。
今日の仕事が休みでよかったと安堵しつつ、欠伸をひとつ零す。それから大きく背を伸ばし、前髪を掻き上げながら寝台から降り立った。
玄関に向かい、あらかじめ棚の上に用意していた小袋を手に取って、寝衣のまま外へと足を踏み出す。
日が頭を出したばかりのため、辺りはまだ薄明るい。皆が寝静まっている時間ということもあって家の周囲はしんと静まり返っていた。
デクの家は町の西南の端に位置している。町の森との境にあり、家から出て何歩か進むだけで森の中へと入り込むことができるのだ。
慣れた道を進んでいれば、遠くから羽ばたきの音が聞こえた。複数の音が重なり合いながら、やがてそれらはデクのほうへと近づいてくる。
しばらくして姿を現したのは、五羽の小鳥たちだった。
小鳥たちはデクを見るなり、まだ歩いている最中にも関わらずその肩や頭上、好きな位置にとまって羽を休める。居心地のよい場所にそれぞれ収まると、まるで挨拶をするよう囀った。
デクは言葉で返すことをしない代わり、それぞれの頭を指の腹でそうっと頭を撫でてやる。小鳥たちは優しく動く指先にうっとりと目を細めていた。
歩き続ければまた一羽、さらにもう一羽と次第に数を増やしていく。いつしか誰よりも広いはずのデクの両肩は沢山の小鳥で埋め尽くされていた。
肩に空席がなくなった頃にデクは足を止め、一本の木の根元に座りそこに背を預ける。立てた片膝に腕を置いて、もう片方の足は投げ出すように伸ばす。するとそれまで肩にいた小鳥の数羽は今度足へと身を移した。
手にしていた袋の口を開けて中からパンの屑を取り出す。それを掌に広げれば小鳥たちはすぐさま群がった。
押し退けあう様を見つめながら、デクは目を細める。
「まだある。喧嘩せず食え」
口の開いた袋を傾け、上から一気に鳥たちの餌を足してやる。もうやる分がなくなれば、まだ掌を突く嘴を感じながらも、幹に頭を預けて目を閉じた。
食べ終わり満足した者から、再び思い思いの場所へと移動する。なかにはデクの腹の上や、急斜面であるはずの胸の辺りに足を引っ掻けて身体を預ける者までいた。あれほどあった餌のパン屑が綺麗に消え去った掌の上で落ち着いてしまった者もおり、デクは目を閉じながらその小鳥の身体をそうっと撫でた。首に身を寄せる者もいて、小さな温もりを感じる。
森は静寂だった。腹を満たした小鳥たちも大人しく、他の獣の気配もない。
直に小鳥に触れている首や掌だけでなく、時を置くにつれて彼らが乗る肩や足にも服越しに熱が伝わってくる。それが心地よく、もとより寝つけなかったせいで寝不足だったデクは、次第に眠りの沼へと引きずられていく。それに抗おうとはしなかった。
このままこの場所で眠ってしまうのもいいかもしれない。風邪をひくほど寒いわけでもないし、盗られて困るような貴重品も持ち合わせてはいない。ましてやいくら無防備に寝ているとはいえ、自分のような身体つきの男を狙うような輩がいるとは到底思えなかったのだ。
デクが完全に寝入ろうとしたそのとき、身体にとまっていた小鳥たちが一斉に羽ばたいた。何事かと内心では驚きつつも、そのわりにゆっくりと瞼を持ち上げれば、視界の先に人影が見えた。
寝ぼけているせいで朧だったそれも、相手が一歩踏み出せばはっきりとしてくる。一度瞼を擦り改めて目を向け、デクは硬直した。
「――寝ぼけてこんなところまで来ちまったのかよ? 不用心だな」
溜息混じりの言葉を放つのはユールだった。右手に籠を持ち、傍まで歩み寄ってくる。デクの身体は無意識に逃げようとするも、すでに腰を下ろしていたがためにただ身じろぐだけだった。
頭に過る魔女の矢。それの効果がユールに出ているのか、未だに答えは出ていない。
まだ日が昇り切っていないような早朝だ。それなのに何故、こんな時間にユールは森にいるのだろう。何故、よりにもよってデクのもとへ来てしまったのだろう。
表情にはおくびに出さないまでも、まどろんでいたところにやってきたユールに対する混乱は大きかった。すっかり眠気など吹き飛び、どうしたものかと目を泳がす。
流石にどこか落ち着かないデクの様子に気がついたユールは眉を寄せる。しかしすぐに眉間に寄った皺を解すと、デクの頭上に目を向けた。
「随分、懐かれてんだな」
すぐにはその言葉の意味が解らなかった。答えを求めてユールと同じ場所へ目を向け、ようやく合点がいく。
デクが背を預ける大木の枝に、ユールが訪れる直前までデクに寄り添っていた小鳥たちがいたのだ。まるで二人の様子を窺うように、時折小首を傾げながらつぶらな瞳で見下ろしている。
視線を下したユールは口の端を持ち上げていた。
「野鳥に懐かれるなんて、おまえ、木かなんかと勘違いされてんじゃねえの?」
「――餌をやったら、近くにくるようになった。動いていても来るから、勘違いはされていないはずだ」
単なる冗談に大真面目に返事をしたデクに、ユールは、ふは、と笑い声をもらした。
「なるほど、おまえが餌さくれる甘ちゃんだってわかってるってわけか。鳥相手じゃ面は関係ねえからな」
半分だけ同じ人間には怯えられる顔なのに、とそう言われているわけでもないのに、デクは顔を俯けた。だがそれとは対照にユールは再び顔を上げ、口の脇に手を添えて小鳥たちに向かって声を放つ。
「別に、おまえらの友達をいじめるつもりはねえよ。邪魔して悪かったな」
どこか優しげな声音に、デクは無意識に顎を上げてユールを見つめていた。ユールは向けられる視線に気がつくと、どこか気まずげに顔を歪めて鼻先を逸らしてしまう。
小鳥に対するユールの行動は、デクにとって意外なものだった。あまり動物に興味がない男だと思っていたのだ。ましてやああして小鳥相手に声をかけるなどする人物とは、それも穏やかな声音で接するとは予想もしていなかった。デクを小鳥たちの友達、と言うとは。
自分でもらしくない言葉を使ったことに悔いているのか、それともデクの視線が煩わしいのか。ユールは顔を逸らしたままデクに背を向ける。
「こんなところで寝て風邪ひくなんて馬鹿のすることだぞ。行き倒れだと勘違いされて騒がれたくなけりゃ、とっとと家に帰って寝てろ。ここじゃ身体の疲れだってろくにとれねえだろ。仕事中ばてたらおやっさんたちの迷惑だ」
口早に告げると、挨拶もなしに細身のユールの背中が遠ざかろうとする。
慌ててデクは幹に預けきっていた背をわずかに浮かせた。
「――おまえは、なにしに来たんだ?」
二歩ほど進んだユールの足が止まる。そこでようやくデクは、自分が彼に声をかけ引き留めたことに気がついた。先程自ら放ったはずの台詞は無意識のうちのものだったのだ。
これまで幾度かユールと接したことがあるが、去っていく彼を留めようとしたことなど一度としてない。今度は自分に向けて困惑がぶり返す。
一人内心で取り乱すデクを余所に、ユールは首だけ捻って顔を向けた。
「山菜採ってんだよ」
「こんな、時間にか」
「こんな時間はお互いさまだろ。おまえだってこんな時間に家じゃなくて外で寝てんじゃねえか」
ユールの視線が下がる。それを辿るようデクは自身に目を向け、ようやく寝着のままだったことを思い出した。だが服装にはとんと無頓着なデクは大して気にも留めぬまま、そうだな、とぽつりと呟きのように応える。
それきり、沈黙が二人を包んだ。
引き留めたはいいが、自分でしたことなのにその理由もわからず、話しかける内容も見当たらずにデクは唇を引き結ぶ。引き留められた側のユールはデクの言葉を待っているのはわかっていたが、やはり口元は重たく閉じたままだ。
ついに見兼ねたユールは鼻で息をついた。緩慢に顔を持ち上げると、ユールは首だけ振り返っていたのを身体ごとデクへ向け、そのまま毅然とした足取りで歩み寄ってくる。
木の根元に座り込むデクの前までやってきて、ユールはその場にどかりと腰を下した。胡坐を掻いた足の上にそれまで脇に抱えていた籠を置く。その中にはユールが目的として告げていた通り、摘んだばかりの山菜が四分の一ほどの場所をとっていた。
「今親が旅行に出てっから、飯の用意してんのおれなんだよ。あいつ考えもなしに馬鹿みてえに食うから食費だって洒落になんねえし、節約しようと思ってな」
「あいつ?」
「弟。ちびの癖におれより食うんだよ」
ユールの両親が旅に出て不在なことは勿論のこと、彼に弟がいたことさえ知らなかった。そして弟の食事の面倒もみて、わざわざ朝早くから山菜採りに精を出していたことにデクは驚かされる。
「――毎朝、しているのか?」
「まさか。休みの日だけ」
肩を竦めてみせたユールは、籠の中にある一本の葉を摘まみ、それをつまらなさげに眺めた。
「結構採れんのはいいけど、いい加減草ばっかで飽きてきてんだ。おれそんな料理得意じゃねえし、作れるのなんて限られてるし。でも買ってくるんじゃ金がかかっからなー……久しぶりにがっつり肉が食いてえけど、給料出るまで我慢するしかねえや」
ユールは溜息混じりにぼやきながら、手にしていた葉を放るように籠へ戻した。それから両親が残していった食費の少なさに唇を尖らせる。実際ユールの給料からも出さなければ到底足りないほどのだろう。でなければ食費を切り詰めるために山菜採りなどくるはずもない。
今も周囲から食べられるものを探しているのか、ユールは視線を下に彷徨わせる。座りながらでも手の届く範囲にあったものを根元から掴みちぎっては籠の中へ放り入れた。その様子を見ながら、デクは悩みながらもそろり声を上げる。
「――肉、いるか」
顔を上げたユールは目を瞬かせた。足りぬ言葉を促されているようで、デクは前髪に隠れた蒼い目を逸らしながら続ける。
「……昨日、猪を捕まえた。もう捌いてある。いるなら、やる」
必要最低限の言葉。抑揚もない平坦な声音だったが、ユールはデクが言い切るなり目を輝かせた。
初めて見る表情にデクは面食らう。だが思いがけぬ申し出に興奮するユールが、ほとんど隠れた目に変化に気がつくわけもない。
「まじかよ! 肉ならもらう、いる!」
よっしゃあと拳を突き上げてまで手放しに喜ぶ姿は、なんだか無邪気にはしゃぐ子供のようで、デクは目を細めてユールを眺めた。
ユールの初めて見る表情、初めて見る行動――初めてまともに交わす会話。数少ないデクの返事はいつもどこかぎこちなさが拭えないのに、今日はまるで淀みない。
どれもが慣れないものであるからなのか、まるで指先でそうっと肌を撫でられているかのようなむず痒さを覚えた。それが落ち着かない。
「――でもいいのかよ。なんも礼なんて用意できねえぞ」
はたと気がついたように、それまで破顔していたユールは一変して、見慣れた訝しむような眼差しをデクに向けてくる。それに少し安堵しながらデクは緩慢に頷いた。
「肉は、礼だ」
「なんのだよ」
「もらった髪留めの紐の、その礼だ」
なんの飾り気もない率直な言葉は、デクの裏表のない本心を真っ直ぐにユールに届ける。
夕陽色の紐の礼以外の理由はないと、見返りが欲しいわけではないというデクの真意を感じたのか、ユールの鋭かった眼差しをやや緩む。
「……別に、そんなつもりでやったんじゃねえよ。でも、くれるってんなら遠慮はしねえからな」
「礼だ。遠慮はいらない」
わかっている、とデクは軽く顎を引く。
「今から取りにくるか」
「――おまえがいいって言うならな」
いつしか完全に険の消えた緑の瞳を見ていると、自分に向けられるそれにデクの胸の内には原因のわからない戸惑いが生まれる。胸を抑えてみてもざわつきは収まらず、答えも出てはこなかった。