15

 

 直人をかどわかすように指示を出したのは、以前から彼の代身としての素質に執着していたザルスウェルだった。ガルディアスに直接直人を引き渡すよう交渉を持ちかけることはあったが、まさか犯罪に手を染めるほどに欲していたとは、彼の果てない我欲を甘くみていたようだ。
 彼はまず、直人のいる部屋付の警備兵であり、護衛も兼ねるコウェロを引き込んだ。コウェロはもとからガルディアスの熱心な信者として同僚の間では有名で、それは直人に携わる人間の身辺を調べたときにガルディアス自身も把握していたことである。
 それが何故ガルディアスにとって重要な立場である代身たりえた直人を拐うことに協力をしたのか。それは保護をして様子を見るというガルディアスの言葉に従えぬほどに、主である王の未来とその身の安全を強く願うほどの忠誠心の持ち主であったからだ。その高い忠誠心を見込み部屋付きにしたが、それがあだとなる結果を迎えてしまった。
 コウェロは、ガルディアスのためならば命惜しくないと、いつか自分に目を向けてくださるときが一瞬でもあればそれで満足だと公言していた。だからこそ代身たる資格を失いながら、ただ現状を漫然と過ごし日々を無駄にする直人が我慢ならなかったのだろう。それならば子種を残し、一人でも多くの代身の資格を持つ者を陛下に献上すべきであると周囲に不満を吐き出していたという。
 ザルスウェルは彼の、たとえ疎まれることになっても王のためになすべきをなすという覚悟、意固地なまでの生真面目さと君主に対する高い忠誠心、そして直人に対する憎しみともとれる嫌悪につけこんだのだ。自分なら直人を丁重に扱い、そして陛下の未来を支える礎たる子を多く産ませてみせようとでも声をかけたのだろうか。
 降臨祭で城内の人の出入りが多くなる機を狙っていたようだ。本来であれば直人が用を足しなどで部屋を出たときに攫う予定であったが、ガルディアスの配慮から城内を歩き回れることになったため、事は思いの外順調に運んだ。
 直人の付き人のセオリともう一人の護衛であるタギの意識を奪った後、直人は予定通りかどわかされて――そして結果としてザルスウェルの企みは失敗に終わった。
 計画に携わった手引き者であるコウェロは、外部の協力者であり金で雇われた傭兵の二人組とともに息絶えた状態で発見された。そして直人は怪我を負い重傷ではあったが命に別状なく、王の側近であるロウェルに保護された。
 直人が発見された現場は、二人の傭兵の肉片が飛び散り辺り一面が血に染まるというおぞましい様子だった。その原因となる強力な呪いが渦巻いていたことから、二人は呪いによって殺されたのであろうというのが宮廷呪術師の暁月の君の見解だ。
 原型も留めないほどに千々になった肉片が何故彼らだと判断されたかというと、同じように刻まれた衣類と残された武器から推測したことだ。それ以外に彼らを証明するものは見つかっていないが、あれだけの呪いから逃れることはできなかっただろう。しかし首が切られた状態で見つかったロウェルについては、呪いによるものではなく、男たちと意見の対立などがあり殺されたのだと結論がつけられた。
 あくまですべて状況判断からの推測に過ぎない。誰しもがあの場所で何があったのか、近づけば細かな肉片になってしまうほどの恐ろしい呪いが何故直人を中心に渦巻いていたのか。あの惨状を生み出すきっかけとなったザルスウェルさえも、連行されて見せつけられた現場を目の当たりにした直後の青い顔で何も知らないと、どうか呪いの嵐などに放りこまないでくれと、すでに暁月の君によって解呪されていると説明されたのも忘れて錯乱して命乞いをするばかりで答えは出なかった。
 すべてを知る可能性があるとすれば、それは唯一あの場で生き残った直人だけ。しかし彼から話を聞ける状態にはない。それは直人の言葉を理解できる者がいないからというだけではない。
 生ける証人は、命こそ助かった。しかし縛り上げられ、腿には深い刺傷、そして下半身に残る暴行の痕跡を知れば彼に何があったかは明白だ。実際、しばらくして目覚めた彼の混乱はすさまじく、たとえ言葉が通じていたとしても話を聞けるような精神状態になかった。
 あれから直人の細かな怪我は大方癒えており、一番深かった上腿部の刺傷もまだ安静にする必要はあるが、表面上傷口は塞がりつつあると昨日医師から説明を受けていた。今日もその直人の様子を見にロウェルを伴い部屋を訪れていたガルディアスは、窓際の寝台にいる直人に向けて言った。

「ザルスウェルだが、少なくとも財産没収は免れないだろう。余罪次第では爵位剥奪もありえる」
「そうですか……」

 毛布をすっぽりと頭まで被った直人は反応することはない。そもそも何を言われているかもわかっていないはずだ。代わりに、傍に控えて報告を聞いたセオリが複雑げに俯いた。
 王命に背いてまでの強行だ。反逆と捉えられてもおかしくはないだろう。貴重な代身なりえた者の身を王の庇護下から奪い、あげく危害まで加えた。その上城内にならず者を引き入れ、忠誠心の篤い若者をそそのかし利用したその罪は軽視できるものではない。今後再び暗躍するとも限らず、財産没収は元老院全員の賛同も得てすでに決定している。しかしザルスウェルの罪がすべて暴かれたわけではなかった。もとより爵位を上げるためにあくどい手を使っていたとの噂もある。今回の事件を機に家の中を改めるきっかけにもなったため、それらもそう遠くないうちに白日のもとに晒されるはずだ。まだ未確定ではあるが、伯爵の爵位も剥奪になることはほぼ決まっている。ただし余罪次第では家名断絶のみならず、一族もろとも命を落とすこともあるだろう。
 ザルスウェルは、王を、ひいては国の未来を思ってのことだと涙ながらに訴えており、周到なことに日頃からも王の身を慮る発言をしていた。その腹を知るガルディアスからすれば白々しい戯言でしかないが、一部では彼の忠誠心は評価されており、献上品も多くある。今となってはそれの出所も怪しいものであるが、表向きには人々に疎まれている赤き王に尽くす忠臣のように振る舞う彼の立場は罪の酌量に値するという声も上がっていた。
 余罪がすべて洗い出されれば誰もが口をつぐむことではあるが、まだ膿を出しきれていない現状のうちは彼の伯爵という立場の取り上げがせいぜいだ。それでも十分に重い罪であり、地位や名誉に執着してのしあがることを夢見ていた男にとって、命だけが助かったことが王からの恩情となるかはわかりかねるところではある。
 ザルスウェルは、直人に手を出せば同じ目に遭うという見せしめでもあった。彼の他にも直人を利用して代身を増やせないものかと画策している者は、身を潜めて様子を窺っていただけ多くいる。無論それは国のためでもガルディアスのためでもなく、自らの地位の向上の道具としてだ。
 今回の一件で大方は諦めただろう。ザルスウェルに与えられる罪状に対する償いの重さだけではなく、原因不明の呪いの嵐の発生の噂はすでに広まっており、わざわざおぞましい死に寄りたい物好きはそういるものではない。
 ガルディアスはその奇特な物好きに部類されるのだろう。祭りの後処理と今回の騒動の始末に追われて多忙であるなかでも、可能な限り直人の様子を見に来ているのだから。
 あの日以降、直人は身を守るように丸くなりこんこんと眠り続けた。ようやく起きている姿を見てもまるで人形のようにじっと動かずいるか、取り乱し暴れる姿ばかりで、一度もガルディアスと目を合わせることはなかった。それでもガルディアスは通い続けて、時おり話しかけては返ってこない反応を苦しく思うばかりで。
 それでも直人のもとに通うガルディアスに、周囲の反対は事件前とは比べものにならないほど激しいものとなった。比較的ガルディアスの行動に異を唱えることなく従うロウェルでさえ、呪いの発生原因を突きとめるまでは控えるようにと進言してきたほどだ。
 みな、口に出さないまでも考えているのだ。あの強力な呪いは、直人が己が身を守るために生み出したものなのではないかと。
 直人を守るように、彼を中心に巻き起こった呪い。それに近づこうとした者のみが死んでいった。発見されたときの直人の身に起きたことを思えば彼が恐怖にかられて作り出したと思うのが道理だろう。
 ガルディアスも直人の関与を認め、呪いの発生源ではないかとひとつの仮説を立てている。専門家である暁月の君も断言はできないが十分ありえる話だと認めていた。しかし確信に一歩近づいたとしても、ガルディアスの胸はただ痛むだけだった。
 本来ならば危険視しなければならない対象としてその処遇を改めねばならない。だがそんなことよりも、それほどの恐怖が直人の身を襲ったということがつらかった。
 近づくものすべてが傷つけばいいと願うほどに、たとえ相手が死んでしまっても構わないと思うほどに恐ろしかったのだろう。傷だらけの身体に、今もなお他人にひどく怯え取り乱す姿はあまりに痛ましい。
 全部がおまえのものだと伝えても、セオリの分の菓子を必ず残していた直人。一生懸命に言葉を覚えようとして、一人でも文字を練習していたのは一夜限りのことでなかったのをガルディアスは知っている。放っておけばすぐにでも枯れるはずの摘み取られた花を愛でて、嫌っていた相手でも目の前で倒れられたら必死に抱き止めてくれて。
 思い返す直人は真っ直ぐに優しい男だったのに、今や見る影もない。
 それでも、今の直人は随分と落ち着いたほうだった。
 あの事件後、目覚めたばかりの直人はすぐにまどろみから抜け出せずにとろんとしていたが、身体を起こそうとして全身を駆け巡った痛みに現実を思い出したのだろう。頭を振り乱し暴れて、手当たり次第に手の届く場所にあるものを投げた。誰にも聞き入れることのできない言葉でわめき、自らの肌を掻きむしった。
 その時ガルディアスは直人の側にいた。様子を見るのに部屋を訪れたときに偶然彼は目を覚ましたのだが、痛ましい半狂乱の姿をただ眺めるしかできなかった。
 ガルディアスは王である。それが自我を失った手負いの獣のように暴れる者に近づくなど周囲が許すわけもない。取り押さえられ、さらに怯えた直人は暴れ続けて、セオリが姿を見せるその時まで止まることはなかった。

――ナオトさま……!

 コウェロによって気絶させられて、別室で寝かされていたセオリは目覚めてすぐに直人の部屋にやってきたらしい。そして周囲が止める間もなく直人のもとへ行き、ためらうことなく彼を抱き締めた。

――もう、もう大丈夫ですからね……怖いことなんて、ないですからね。

 まるで幼子をなだめるように優しく触れるセオリの言葉は、たとえ意味が通じなくてもその想いは届いたのだろう。直人は暴れることをぱたりと止めて、そのままセオリの腕のなかで再び意識を失った。
 それ以降は目覚めても暴れることはなくなったが、常にひどく怯えた様子で、少しでも誰かが近づこうとしただけで悲鳴のような声をあげて物を投げつけることもあった。それはセオリが相手でも例外ではなく、セオリだときちんと判断できるまで直人は裸足のまま逃げ出そうとする。
 眠っても悪夢に追われるのか、うなされて飛び起きることも珍しくはない。ろくな睡眠もとれず、起きていても付きまとう恐怖感に直人は日に日にやつれていった。
 この部屋に閉じ込めてからというもの、常に世話をするため傍にいたセオリには少なからず心寄せているのか、それとも自分よりも小柄な相手であるから安心できるのか。セオリだけが直人の傍まで行くことができた。
 それを感じているからこそセオリも献身的に直人の介抱を続けているが、一向に回復する兆しはない。直人が心を閉ざし続けるほどに気遣う周囲も疲弊し、もっとも傍にいるセオリの疲労の色は特に濃いものであった。笑みを絶やさぬように心がけてはいるものの、ふとした瞬間に静かに息をついている。
 たとえザルスウェルの処遇が決まろうとも、それを知ることさえできない直人の気持ちが晴れない以上、セオリの心労も尽きることはないだろう。

「――ああ、忘れるところだった。いつものを持ってきたんだ」

 今もまた溜息をつきそうになっていたセオリを横目に、背後に控えるロウェルから持たせていた籠を受けとった。それをそのまま横流しにセオリに手渡す。
 籠の中を覗き込んだセオリは先程までの憂いげな瞳を輝かし、弾んだ声を上げた。

「スィラの包み焼きですね! 以前にナオトさまが美味しそうにお召しあがりになっていたので、きっとこれなら喜んでくださることでしょう」
「そうだといいがな」

 あの日以降、直人は食事もほとんどとれなくなり、無理に食べさせようとしても戻してしまう。かろうじて花の蜜を溶かした茶だけは口にできるので、それで命を繋いでいるようなものだ。
 だがそれもセオリが淹れたものしか受けつけない。だからこうして差し入れを渡しても、今のところほとんど手をつけられないままだ。それでもなにか食べるものをガルディアス自らが運ぶのは純粋に栄養をとらせたいからであるが、なにより直人の身を守るためでもあった。
 直人の力を恐れ、恐怖にとりつかれた人間がなにをするかわからないからだ。一部では呪いは直人によるものだと断定し、危険視している者もいる。万が一にでもあの力が自分の身に振りかざされることを恐れているのだ。もしくはザルスウェルが裏で手を回し、少しでも自分に不利な証言を減らすために直人を抹消しようと動くとも限らない。
 基本的に直人は部屋から出ないし、外に出たとしても必ず見張り兼護衛をつけている。そうなると直人に手を出すのは難しい。そのため現状で直人を始末するのに最も有効なのは食事に毒を混ぜることなのだ。
 直人の食事にも毒味役をつけてはいるが、なるべくガルディアスの信頼がおけるものに調理と給仕は任せている。それでも不安は拭いきれず、あえてガルディアスのために作るよう指示を出したものを直人に運ぶという小細工をしているのだ。
 今日渡した果実の包み焼きも、もとはガルディアスの休憩のともにと嘯き作らせたものである。今回用意したスィラの実の包み焼きは以前に手土産にと用意した際に直人がとくに美味しそうに食べていたもので、菓子さえも手を出そうとはしない現状でも、甘酸っぱいスィラの実の香りに誘われるのではと思ったからだ。
 籠に入れて持ってきたのは周囲に食べものを運び入れていると悟られないためである。ガルディアスがいそいそと食事を運び入れていることが知れたならば、小細工をした意味がなくなるからである。

「いつもありがとうございます」

 受け取ったセオリは、お茶の用意はあっても、食器の準備まではしていなかったことを思い出したようだ。受け取った果実の包み焼きが入る籠と直人を交互に見て、どうしたものかと困った様子を見せた。
 まだ温もりを残し甘い香りを漂わせている出来立てのパイを食べさせてやりたいが、王を残し退室することは気が引けるのだろう。

「ああ、食器のまでは気が回らなかったな。手が空いているようなら取りに行っても構わないぞ。その間くらい、代わりにこれを見ていてやる」
「えっ」

 思いがけない提案だったのか、思わず驚きの声を上げたセオリは不躾な行為に慌てて頭を下げた。

「す、すみませんっ。ですが、陛下にそのようなことをさせるのはっ」
「戻ってくるまでそう時間はかかるまい。少し休憩したかったから丁度いい。それに、ロウェルがいるのだからなにかあれば対処もできる」

 セオリはちらりとガルディアスの背後に黙して立つロウェルに目を向けた。呆れたように小さく息をつきながらも、ロウェルも目線で行っていいとセオリを促す。どうせ異を唱えたところで君主が譲ることはないと理解しているのだ。

「そういうことでしたら……では、すぐに戻ってまいりますので!」
「慌てることはない。転んだりしたら大変だ」
「はい、気をつけます。それでは少しお傍をお離れいたします。ナオトさまをよろしくお願いします」
「ああ」

 頭を下げて部屋を後にしたセオリを見送った後、ガルディアスは再び直人に目を向けた。
 相変わらず人の大きさに膨れた布に動きはなかった。セオリが退室したことは遠ざかった足音でわかったはずだ。眠っていて気づかなかったかもしれないと考えたが、うなされている様子はないので起きてはいるのだろう。
 となればガルディアスが訪れていることにも当然気づいているはずだが、顔を出す気はないようだ。本来であれば国王が訪れたのであれば寝た子も起こすものであるが、以前にガルディアスがそのまま直人のしたいようにやらせてやれと指示をしていたため、セオリもあえて声をかけずにいた。ガルディアスももともと格式ばったことに興味はなく、直人の精神的状況を慮れば当然の配慮ではあるが、そのせいであれから彼の顔を見ることはほとんどなくなってしまった。
 こんもりとした膨らみからふと視線をずらすと、寝台の上から寝転がりながらでも手を伸ばせば届く位置にあるカップに目が留まる。

「陛下」

 引き寄せられるように一歩踏み出すと、すぐに不用意な行動を咎める優秀な側近から声がかかった。

「大丈夫だ」

 背後の溜息を聞きながら、カップの中を覗き込む。容器に注がれているのは薬湯だが、減った様子はなく、傍に置いてあったポットを持ち上げてもたっぷりと中身が入ってた。
 どうやらまったく飲んでいないらしい。先程の気落ちした様子のセオリの理由もこれだろう。
 しばし薬湯に満たされたカップを眺めたガルディアスは、背後を振り返ることなく名を呼んだ。

「ロウェル」
「はい」
「これからわたしがすることを止めるなよ。これは命令だからな」
「は?」

 二度めに返されたものが返事ではないと知りながら、横暴に命じたきりガルディアスは直人が被る毛布に手をかけ、一気にそれを剥いだ。
 ばさりと床に毛布が落ちるとともに丸まっていた身体が晒されたことにびくりと震え上がる。反射的に振り返った直人とばちりと目が合った。
 瞳には瞬時に怯えが滲み、ガルディアスがいるのとは反対の窓側に転げ落ちるよう逃げ出そうとする。しかし逃げきられる前に手を捕まえて、引き寄せるように無理やり直人を立たせた。
 動かず食わずいたせいで肉が落ちて痩せ衰えた身体は簡単に釣り上がる。何が起きたか理解が追いついていない直人はされるがままだったが、腰を抱かれてようやく状況を理解したのか、ガルディアスの胸を突っぱねた。
 両腕を伸ばそうとしたところで、腰に回るだけのガルディアスの片腕からさえ逃れることはできない。単純な膂力の差が大きいが、直人自身の体力が著しく落ちていることも要因のひとつだ。
 暴れる直人をものともせず、ガルディアスは傍にある薬湯の入った杯を手に取ると、それを直人の鼻先に突きつけた。

『放せっ』

 顔を逸らして腕に力を込めてくる。それでもガルディアスは薬湯を直人に向け続ける。
 毛布がとれて暴かれたのは痩せ細った身体だけではない。大きく顔を背けているせいで直人の首筋は無防備に晒されて、自ら掻きむしった爪痕が痛々しく肌を裂いた痕もはっきりと確認がとれた。最近出来た傷は生々しく皮膚が剥げているが、時間が経っているものもまだかさぶたがとれてはおらず傷の治りが遅い。それも当然だ、食事はおろか薬すらまともにとっていないのだから、これでは若さがあっても治るものも治りはしない。
 思い浮かぶのは憔悴しきったセオリだ。事件の傷は癒えていっても、こうして自傷行為が繰り返されて新たな傷が増えていくのはさぞ心苦しいものがあるだろう。なにより、セオリは守れなかった側だ。自分が守護する立場にある人間がさらわれて、心身ともに大きな傷を負ったことは彼にとってもまた見えぬ傷を心につけた。
 セオリだけでなく、ともに護衛についていたタギもあの日以来ふさぎ込むことが多くなった。今も部屋の外に控えて扉の番をしているが、以前のように溌剌とした様子はなくなってしまった。彼もまた傷を負った一人だ。とくにタギの場合は兵士として何もできなかったことも、仲間に裏切られたことも大きな悔いを残しているようだった。

「おまえはこれを飲まなければならない」

 ガルディアスの言葉が通じなくとも、差し向けられたカップの中身を知っているはずの直人はその意図を理解はしているはずだ。それでもなお頑なに拒絶する。
 直人が足を止める以上、関わった者たちも進むことはできない。直人が負った心の傷は深いものではあるが、しかし彼は生きている。生きている以上、人は歩まねばならない。今の直人にはそっとしておいてやることよりも、誰かがその背を押してやる必要がある。
 顔を背け続ける姿に目を細めたガルディアスは、直人に向けていたカップを自ら煽った。
 口に含んだ薬湯を飲み込むことはせず、逃げる顎先を掴み前を向かせ、顔を寄せる。
 なにかをわめく直人を無視して、唇を重ね合わせた。

『んっ、ぅ――』

 開いていた直人の口に、ガルディアスは口に含んでいた薬湯を流し込む。咄嗟に離れようとした後ろ頭に手を回して固定して、直人が飲み込むまで逃がさない。

「ん、んんっ」

 はじめは抵抗して飲み込まずにいた直人だが、ガルディアスが決してそれを許さないことを悟ったのか、それとも息苦しさに限界を迎えたのか、やがて諦め少しずつ飲み込んでいく。
 直人に合わせて、ガルディアスも自分のほうにまだ残していた薬湯を少しずつ注ぎ入れ、すべてが互いの口から消えたことを確認して顔を起こした。