この作品には多くの残酷的描写や、差別的表現が含まれます。
苦手な方はご注意ください。





 どこかで水がもれているのか、ぴちょんと音がする。日が差し込まない地下のせいか空気は淀んだ湿気を帯びており、こちらの気分まで湿っぽくなるような気がした。
 着心地の悪いがさがさとした布地は、少し身じろぐだけで肌に掠ってかゆみを覚える。掻いてもいいのだが、きりがないし、なによりそんなささいな行動を起こす気力にすら今はなかった。

「ここ、どこなんだよ……」

 膝に顔を埋め、何度も何度も呟いた直人の言葉は、誰の耳に届くでもなく口先で溶けていく。
 幾度も頭を上げては、これが幻でないかと疑った。しかし蝋燭の明かりだけの仄暗い地下室に変わりないし、自分が鉄格子のなかにいることもまた現実だ。しかしこれまで特別な暴走行為も過ぎた悪ふざけもなく、ごく平凡な男子学生の一人だった自分にはあまりに無縁のもの過ぎて、やはり現実であるとは思えない。
 すっかり石床と冷えた空気に熱を奪われて、足先も身体の芯さえも冷え切っている。しかし体温を保つのに自分の身体しか頼れず、膝を抱える身体をきゅっと丸くするしかできなかった。

「オゥ・エモゥ! ホゥ、ホゥ!」

 向かいの牢からがしゃりと音が立ち、びくりと身体が跳ねる。それを見た騒ぎの元の男は意地汚い笑い声をあげて、同じく牢に囚われている直人の反応を楽しんでいた。
 突然この牢に押しやられたときから、向かいの牢の頭皮がつるりとした男は下品に笑ってはなにかを語りかけてくる。しかしなんと言っているのかまるでわからない。

「ナコジサレサ!」

 騒ぐ男がいる向かいの鉄格子を、直人の牢の前に立つ男が持っていた警棒で叩いた。があん、と鈍く音が響く。
 禿げた男はなにか抗議するように怒鳴っていたが、直人は耳を塞いでそれ以上聞こえないようにする。だがそれしきのことで完全な防音が成立するはずもなく、男と、警備員らしい男の口論はいやでも鼓膜に突き刺さった。
 そのどちらもが発する言葉がわからない。英語でないのも確かだった。もとよりそれほど英語が得意なわけではなかったが、それでも発音の違いは明らかだ。
 ならばここはどこだというのだろう。男たちの顔は彫りが深く、アジア系の顔立ちではない。これまで出会ってきた人に今のところ肌の黒い人はいなかったから、欧州などだろうか。
 そんなことを考えても答えなど出ないし、自分が何故か牢に押し込められている事実も変わることもなく、理解さえできない。
 なぜ、こんなことになってしまったのだろう――今朝普通に家を出て、いつものように大学の講義を受けていただけだ。それからバイトに向かう道すがら特別な寄り道はしなかったし、仕事を終えたらこの間買ったばかりのゲームソフトで夜を明かそうと呑気に考えていたくらいで。
 それが、こんなところに押し込まれるとは、想像すらしなかった。
 泣くものか、と歯を食いしばっていたのに、ついに鼻の奥がつんとする。警備員らしき人を挑発する男の耳障りな笑い声がどこもかしこも冷たい空間に響き渡る。
 牢に放り投げられたときにぶつけた腰が痛いし、強く掴まれた腕は薄らと手形に鬱血している。少しでもあのときを振り返ると、屈強な男たちの恐ろしい形相を思い出してしまう。
 押さえつけられ、抵抗しても身体がまったく動かせなかった。鍛えられた大男たちに囲まれて、知らない言葉で怒鳴られて。わからないんだと言っても聞き届けてはもらえなくて。
 そんななかで、地に顔を押しつけられた直人を見下ろしていた一人の男。
 まず目についたのは、原色で染められたかのような鮮やかで強烈な印象の赤髪だった。
 自然となる色でないからか、普通ならセンスのよい着こなしでもしないと仮装のように滑稽になってしまう。けれどその人の赤髪は、その色が彼にとっての自然なものだと思えるほどしっくり似合っていた。それは彼の容姿があまり他人の美醜に興味のない直人でさえ思わず呆けてしまうほどに、夢の人のような美丈夫であったからかもしれない。
 彫像のように整った顔立ちを厳しくして、一度たりとも直人から目を逸らさなかったその人。その髪色のせいか、はたまた目の冴える美形だったからか。彼のことだけがやけにはっきり鮮烈に脳裏に刻まれていた。
 そして彼は、ここにきて初めて顔を合わせた相手でも、初めて触れた相手でもあった。
 彼もまた、なにを言っているかまるでわからなかったが、よく通る声をしていたことだけは覚えている。真っ直ぐで迷いないあの声音は、まるで彼自身の人柄をも表しているのではないか、なんてよく知りもしないのに考えた。

(――不可抗力だったとはいえ、ぶつかっちゃった場所は大丈夫だったかな)

 万国共通の呻き声を聞いてしまったから、少しだけ心配だった。その後牢に放り込まれた自分が他人を思う余裕などあるわけがないのだが、彼と接したとき、直人を目にして見開いた男の瞳が、芽吹いたばかりの命を思わせる新緑色の瞳が頭から離れない。
 まだ向かい牢の男がなにかを話しかけてくる。その声から耳を塞いで、直人はここに来たばかりのことを、あの赤髪の男のことを思い返した。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




 それは、突然のことだった。
 バイトに向かう道すがら、とくに何も考えずに歩いていた直人の足もとが突如として消え失せ、底の見えない真っ暗な穴となった。逃れようにもすでに穴の上で、足掻いて伸ばした手は空を切ったまま直人は抗うことも許されずに落ちたのだ。
 すぐにやってくる着地の痛みはいつまで経ってもこなかった。ただひたすらに、何にも当たることもなく落ちていくばかり。
 自分の身体さえ見ない光のない闇の中で、体感する時間から、恐ろしいほどまでの深さを落ちていることを悟り直人は死を覚悟した。
 駆け巡る走馬灯の隅で、ふと別のことが頭をよぎる。
 きっとぺしゃんこにつぶれて、一瞬にして自分の命は散るだろう。その後に、誰かに見つけてもらうことはできるだろうか。こんなにも深く暗い地の底に来てしまっては探し出すのさえ困難かもしれない。そもそも直人かどうかわかるほど身体の形は保ってくれるだろうか。
 周囲の状態もまるでわからない極限状態に晒され、妙に冴えた頭がそんな不安を抱えた。そしてこんな状況下にもそんなことを考えられる自分がいることに、直人は少しだけ驚く。
 もし自分が事故かなにかにあって、死に直面したら。誰しも一度くらいは考えたことがあるその間際には、きっと自分は頭が真っ白でなにも、それこそ走馬灯ですら出てこないと思ったのに。実際は幼少期からの記憶にあるようなないような思い出が頭を巡るし、冷静に自分のことを考えていられている。
 こんなときに新しい自分を知るなんて、のんきと思っていいのかなんなのか、わけもわからず笑いがこみ上げてきた。いつの間にか走馬灯も消え去っている。
 ――冷静になっていると思ったのはたぶん、正常な状態にないから。冷静であるわけがなく、本当はとんでもなく動揺しているのだ。わかっているからこそ、口を歪めながらも涙が込み上げそうなのだろう。

(そりゃそうだろ、落っこちてんだから――)

 落下は続く。深く、深くまで。

(……というか、いつまで続くんだ?)

 景色が見えず、どれ程落下したのかがわからないとはいえ、いくらなんでも落ちすぎではないだろうか。これまでの十九年ばかりの人生を振り返って感傷に浸り、自己分析までしたというのにいっこうに終わりが訪れない。
 そもそも、なんの変哲もない公道で、そこまでの深さのある穴があることも疑問だ。
 いや、はじめからおかしかった。毎日のように通っている道路には穴なんてなかったし、そんな話を聞いたことも注意書も見たことがない。仮に直人が通ったそのときに道が陥没したのだとしても、なんの音もしないことなどありえるだろうか。
 ――もしかしてこれは夢じゃないか。そんな考えに至り、それならば不可解な現象も腑に落ちる。
 たとえ頬で感じる風が冷たくても。全身が強ばりに震えていても、恐怖から握った拳がほどけなくても。滲む涙がやけに熱く感じられたとしても。
 これが、夢であるならば。
 現実から逃れ願望にすがろうとした直人の頬を打つように、突如として光を感じた。

「まぶし……っ」

 それは一瞬にして瞼の裏に隠れた瞳を刺激し、あまりの光の強さに閉じているはずの目がくらむような錯覚を起こすほどだった。
 すがめながら目を開けるが、真っ白な光が溢れるばかりでなにも見えない。行き着くはずだった奥底ではあり得ない状況に理解が追いつかず、ただでさえ小さく丸めていた身体にさらに力をいれたそのとき、突然誰かに腕を捕まれる。
 驚きに肩が大きく跳ね上がった。咄嗟に腕のほうを見たとき、ぐわんと身体が大きく揺れる。
 捕まれた腕を引かれたかと思ったら、次の瞬間には放り出された。

「わあああっ」

 強い力で放たれた身体は弧を描く。今度こそどこかにぶつかると覚悟した直人の目の先に、ふと鮮烈な色が現れた。
 暗闇から光へと移ったなかでようやくまみえた別の色は鮮やかで、そして原色のような力強さがある。周囲に馴染むことのないその赤い色は、よくよく見ればそれが馬に乗っている人の頭であって、彼を取り囲むように他にも騎乗する人の姿があった。
 さっきまでも落下していたが、明らかに集着地が見えているのとはまた状況が違う。
 しかも、直人が落ちる先はあの赤毛の人を目指している。

「ど、どいてくれー!!」

 我にかえってようやく絞り出した声はあまりにも情けなく、そして切迫していた。
 直人の声にはっと顔を上げた地上の人たちは、声の主を見るなり一様に目を丸くする。しかし彼等が気づいた頃にはすで対処のしようがないほど接近しており、直人は燃えるような赤髪の男のもとに吸い込まれるよう落ちた。
 息が詰まるほどの強い衝撃が全身に叩きつけられる。咄嗟に直人を腕に受け止めた男もろとも落馬し、地面に転がった。

「ぃ……ってー……」

 頭がぐわんぐわんと揺れて、あちこち強打の鈍い痛みを感じる。しかし建物の二階よりもさらに高い場所から落ちたというのに意識ははっきりとしており、動けないほどの怪我はなさそうなのは奇跡的だった。
 ひとまず身体を起こすために手をつけば、やけに地面が温かく弾力がある。
 下に目を向けてようやく、赤毛の男を下敷きにしていることに気がついた。

「え、あ、わるいっ」

 どうやら、彼をクッションにしたために落下の衝撃が和らいだようだった。その代わりに直人が一人で受けるはずだった痛みを分かたれた男は、苦しげに顔を歪めながらもしっかりと直人を見つめていた。
 彼の視線が重なり、その瞳にふと目を奪われる。地に散った長い苛烈なまでの赤髪が見事で、根本から毛先まで痛みなく燃えるそれは獅子のたてがみのように豊かであったこともあるし、鼻筋の通った精悍な顔立ちにも驚いたが、なによりその芽吹いたばかりの新緑のような艶やかな瞳が美しかったからだ。
 硝子玉のように澄んでいて、それでいて意志の強そうな力を感じるその目に惚けていた直人だが、脇から手が伸びてきて無理矢理立たせられる。
 強引な力に捕まれた腕が軋むように痛み、思わず顔が歪んだ。逃れようと腕を引くが、直人の倍ほどはあるのではないかと思えるほどのたくましい太い腕がそれを阻んだ。

『おまえは何者だ!』

 怒鳴られている、ということは相手の険しい顔つきと鋭い声音でわかった。しかし彼が発した言葉が理解できず、直人は困惑する。
 声こそ厳しいものであるが、その発音自体はふわふわとしたもので、聞いたことのある言語で当てはまりそうなものがなかったのだ。

『陛下、ご無事ですか!』
『大事ない。馬は平気か』
『今なだめておりますが、幸い怪我はないようです』

 周りの男たちが口々に発する言葉もやはり理解できない。しかも彼らの服装はまるでゲームの中で見た中世時代風の人物のような、胸の真ん中に揃いの紋章が描かれた丈長の青い上着を皆で揃いの制服のように羽織り、その腰には剣が携えられていた。現代の要素はなく、まるで映画の世界に迷い込んだ気分にさせられる。
 彼らは平均的な背のある直人よりも頭ひとつ分は高く、服の上からでも鍛え抜かれていることがわかる厚みある身体はただでさえ威圧的だ。それをさらに敵意をむき出しに睨まれているためにひどく居心地が悪い。登場の仕方を思えば警戒されるのも無理はないが、直人とて好きでああした登場をしたのではないのにと内心で言い訳をする。
 そういえば、あの赤毛の男はどうしたのだろう。逃げようがなかったとはいえ、高所から落下した直人を受け止め落馬までしたのだ。彼のおかげで直人は多少の打ち身で済んだものの、代わりに怪我をしていたら申し訳ないという気持ちでは済まされない。
 目立つ彼の姿は、腕を掴んでいる男の背後で見つけた。周囲の手で助け起こされているところで、服についた泥土を払われている様子は落ち着いており、幸いにも怪我はなさそうに見受けられて安堵する。

『おい、聞いているのか!』
「いっ――」

 捕まれていた腕に籠る力が強くなる。まるで骨ごと捻り上げるような容赦のない痛みに顔を歪めると同時に、叩きつけられるよう身体をうつ伏せに引き倒されて、頭を上から押さえつけられた。
 胴の上に一人乗り、膝を立てられて痛みと圧迫に呻くが、追いたてるよう両手を左右別の者に捕まれた。

「――っにすんだよ!」

 屈強な男どもに怯んでいたが、横暴な扱いに頭に血が上った直人が彼らを睨む。しかし男どもは語尾こそ荒いものの、その動きは冷静で、あっという間に直人の手足を拘束してしまった。
 荒縄が肌に食い込むほどきつく縛られ、芋虫のように動くしかない直人はとにかく周囲に訴えた。

「な、なんなんだよ、いったい! そりゃぶつかったのは悪かったよ。でもいきなり縛り上げることないだろ! こっちの事情だって聞いてくれよっ」

 必死に訴えるが、言葉を重ねるほどに周囲の眼差しは険しくなっていく。
 やがてぽつりと、赤毛の男が一人ごちるよう呟いた。

『なんと言っているのかわからんな。――おい、わかる者はいるか』

 男の言葉に、周囲は一様に首を振った。

『……そうだな。わたしとて、どこの言葉さえわからん。今判断はできんだろう』
「おいっ! あんたらだけで話してないで、とにかくこの縄をほどいてくれよ。別にあんたにぶつかったのはわざとじゃないんだって」

 直人が再び発言をすると、男たちの視線が突き刺さる。不信感を抱き探るような眼差しは無遠慮で怯みそうになるが、なんとか意志疎通を図ってみようと必死になった。
 英語なら伝わるかと、片言で並べてみるが、周囲の表情はますます険しくなるばかりだ。もとよりあまり得意ではなく発音も確かに怪しいものであったが、一般的な挨拶の言葉にさえ顔を見合わせられては、早々に諦めるしかなかった。
 それでもなんとか状況を打破しようとそのための策を巡らせるべく唇を噛んだそのとき、視界の端できらりと光が反射する。

『もう一度だけ問おう。おまえは何者だ』

 きらりと光ったのは、男どもの腰に携えられた鞘の中身。
 抜かれた刀身がひやりと喉元に当てられて、奥のほうから、ひゅと音が零れる。それが息を吸ったものなのか、吐いたものなのかさえ判断ができないほど、直人は一瞬にして恐怖に支配された。
 これは本物なのか――そんな疑問は肌が感じる殺気が、肌に触れる冷たさが持たせない。少しでも動けば肌が裂けるのではないだろうかという恐れに、ごくりと息をのむその動きですらできなかった。
 本物の剣など見たことがない。それどころか、刃物を向けられたことさえこれまでの人生でなかった。子供の頃の新聞紙を丸めたり、そこらに落ちていた枝を拾ったりしてやっていたチャンバラごっことはわけが違う。これは冗談ではなく、直人が少しでも行動を誤れば恐ろしい目に遭うのだと、彼らが皆一様にして纏う気迫が教えた。
 あまりにも日常とかけ離れた現状に頭が真っ白になる。どうすればこの場面を切り抜けられるかというよりも、どうしてこうなったという疑問がぐるぐると頭を渦巻き、こめかみに冷や汗が垂れた。

『――威勢がいいのは一瞬だったな』

 どれほどこの状況が続くのだろうか。震えることさえも、息も忘れていた直人の耳に届いたのは、この場で唯一、取り乱すことのなかったあの赤毛の男だった。
 視線だけを向ければ、ずっと直人を見ていたらしい男はすっと目を細める

『これを連れて帰るぞ』
『ですが』
『ひとまず身体を調べ、牢に入れておけ。処遇はゼルスと話合い決める』

 淡々とした男の言葉に、逆毛立っていた周囲の様子が落ち着いていく。ただ言葉を理解できない直人だけが取り残されていた。
 喉元からようやく剣が離れていっても、再び彼らに噛みつくほどの勇気はない。ただされるがままさらなる拘束をされて、荷物のように担がれても大人しくしているしかなかった。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

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