きみのこころ


 新人の指導と同僚の病欠によって仕事が立て込んでいたユールが、三日ぶりに家にやってくる。
 その事実に、デクは椅子に腰を下ろしながらも落ち着きなく、玄関の扉と机においた自分の手に視線をさまよわせた。
 準備はできている。大丈夫だーーそう自分に言い聞かせても、どこかが抜けているのでは、と思い記憶を反芻する。
 掃除も細部までこだわったし、食事の下拵えも済ませた。溜めてしまっていた洗濯物も畳んで衣装棚にしまってあるので、衣服の山もない。飾ったことのない花瓶も用意して、小振りな一輪の花を差して机の上に置いてあるし、自身の身なりもいつも着回しているものではなく、真新しいものにしてある。とはいえ、ユールが作ってくれたものではあるのだが。
 普段の倍以上に気を使って家を整えたデクは、満を持してユールを待っていたのだ。
 すべては、あの話を持ち出すために。
 いつも今度こそはと意気込み、当人を目の前にすると結局言葉が出てこずに終わってしまっていた。それを幾度も繰り返して、いい加減自分にはその話を持ち出す根性がなかったのだとあきらめればよいのかもしれないが、そうはしたくなかったのだ。
 伝えて、そしてその返事をどうしても聞きたい。たとえそれが、よりよいものでなかったとしても、彼の気持ちを聞けるのであれば構わないーー。
そう気合いを入れていたデクのもとに玄関の扉を叩く音が届いた。
 勝手に入ってきてもいい、と言ってあるが、そういうわけにはいかないと態度に似合わず律儀な恋人は必ず合図をする。デクが扉を開けるまで、自ら入ってくることもない。
 椅子から立ち上がり、深呼吸をひとつして取っ手に手をかける。
 ゆっくりと扉を押し開くと、顔を見るより先に声が飛びこんだ。

「おはよ、デク! 今日はおれもいるから、よろしくなっ」

 明るく大きな声と、満面の笑み。
 低い位置にある顔を見下ろし、デクは膨れた気合いに穴があいてしぼんでいくのを感じとった。
 胸に広まる感情にデクは心の中でため息をつく。
 やはり今日も伝えることができなさそうだという落胆と、久方ぶりにテイルと過ごせる時間への淡い喜びだけでなかった。待ちかまえていたはずの機会が先延ばしにされたことによる、ささやかな安堵も確かに存在していて、そんな自分を情けなく思ったからだ。

「悪いな。突然おやじたちが出かけることになって。一晩空けることになるらしくてよ。こいつ一人で家に置いておく訳にもいかないからつれてきちまった」
「問題ない。よくきたな」

 兄という立場の保護者として、テイルの背後に立っていたユールは苦笑する。
 デクは巨体で塞いでいた道をあけ、家の中に二人を招き入れた。

「なあデク、釘の打ち方教えてくんない? 今授業で椅子を作ってるんだけどさ、どうしても曲がっちゃうんだよ」

 いつもの壁際に背負っていた泊まり用の荷を置きながら、テイルは困った顔を見せる。

「わかった。教えよう」
「よっしゃ、デクありがと!」

 浅いうなずきに対して、握った拳を振り上げたテイルは上機嫌だ。

「外でやんだろ? ならおれは中にいっから。テイル、くれぐれも気をつけろよ。あんまり迷惑かけんじゃねえぞ」
「わかってるよっ」

 兄の心配を小言として受け取ったテイルは、尖らせた唇をユールからつんと背ける。
 デクの手はテイルの小さな手にとられ、前に引っ張られた。

「いこ、デク!」

 どんなに引かれたところで、子供であるテイルの力ではデクの身体はびくともしない。そう知っていたとしても、彼は力強くデクを連れ出そうとする。
 そんなテイルに、幾度救われたことだろう。
 ふと出会ったばかりの少年の怯えようを思い出し、小さく苦笑しながらデクは自らの意志で歩き出した。
 外に出て、デクがいつも薪割りや日用品制作の作業をする庭に向かった。
 たどり着くなり腕を引く力は急速に弱まり、けれども手を握る力だけを強めて、足を止めたテイルが振り返る。
 その表情はこれまでの明るい様子はなく、どこか物悲しそうだ。

「なあデク、もしかしておれ、ジャマだった?」

 言葉によって彼の心中を知り、デクは申し訳なさに頬を打たれる。
 ほんの一瞬の落胆であったが、しっかりと見抜かれてしまっていたらしい。元気がよかったのはそう振る舞っていただけで、今見せている顔こそが本当の気持ちなのだ。

「そういうわけではない」
「でも、おれの顔見てなんか変な顔したろ?」

 出会ったばかりの頃はなにを考えているかわからないと怯えられていたというのに、今ではデクの小さな変化にも気がつかれてしまう。それほど距離が縮まったことを喜ぶべきなのか、それともまだ幼い少年に気遣わせてしまった情けない己を悔いるべきなのか。

「その、ごめんな、おしかけちゃって。本当は兄ちゃんと二人っきりがよかったんだろ?」

 デクとユールの仲をすでに知る理解者の一人であるからこそ、恋人たちの逢瀬の間に入ってしまったことをもとより気にしていたのだろう。そこへ顔を合わせるなりデクが戸惑ってしまったから、テイルも反応してしまったのだ。

「そうじゃないんだ。本当に、迷惑とかそんなものは思っていない。一人で家に残してしまうより、家にきてくれたほうが安心できる。食事は、人が増えるほどに美味しいと思えるしな。ーーただ、今日はあいつに、言おうと思っていたことがあって……」
「兄ちゃんに? そしたらおれ、昼だけでもどっかに行ってようか?」 

 テイルの感じる責任が少しでも減るようにと、デクは口数が少ないなりに言葉を重ねていくうちに、ついよけいな言葉まで出してしまう。
 しまった、と思ったときにはすでに遅く、純粋な好意からテイルは提案をしてくれた。

「いや、いい。気合いを入れていたつもりが、いざあいつを前にすると言えそうにもなかった。……実は、これが初めてではないんだ。どうせいつも失敗しているし、今日伝えなければいけないわけではないから構わない」
「なんか大事な用だったのか?」
「ーーその、同棲を申し込もうと思って」
「えっ!? まじか! デクやっるぅ!」

 興奮したテイルは指を鳴らそうと擦り合わせるが、まだ鳴らすことができないのか皮膚が滑る音しかしなかった。しかし本人は気にすることもなく、今度はひゅーひゅーと口ではやし立てる。
 もしユールがデクの申し出に頷けば、兄は家から出てしまうことになるのに、テイルの歓迎ぶりにデクはつい苦笑してしまう。

「まだ言えていない。それに、断られる可能性もある」
「今だって半分一緒に暮らしているようなもんだろ? 大丈夫だって!」
「そうだといいが」

 失敗するかもしれないという疑いは一切ないテイルだが、デクの表情が晴れないことに気がついたのだろう。
 腕を組んでしばし唸りながら考えて、なにかひらめいたのかはっと顔を上げた。

「そうだ! 贈り物とかはどう?」
「……贈り物?」

 テイルは大きく頷いた。

「そう! えっと……ほら、指輪とか! うちのお母さんもさ、お父さんからもらった結婚指輪、ずっと大事にしてるんだ。二人だって、ようは結婚ってことなんだろ? ならちょうどいいじゃん!」
「い、いや、結婚というわけでは……」

 じわりと頬が熱くなるのを感じて、デクは俯いた。しかし下がった視線の先ににんまり顔のテイルがいたものだから、今度は空を仰ぐように上を向く。
 珍しくも考えがわかりやすいデクの反応がおもしろかったのか、デクはいたずらげな笑みを浮かべて足をつついてきた。

「デクってば、照れてんのかよ~? でも、そういうことだろ?」
「それは……まあ、そうかもしれないが……」

 思わず曖昧に濁してしまうが、もはやテイルに誤魔化しなど通用するわけもない。赤くなった顔を見せてしまったこともあるが、デクとユールの関係をすでに知っているからだ。
 この地方の風習では、異性だろうが同性だろうが、恋人に同棲を申し込むことはすなわち結婚の申し込みと同義である。同性であるデクとユールは実際に婚姻を交わすことはできないが、もし同棲を受け入れてもらうことができたのなら、事実上の伴侶となるのだ。
 まだやんちゃ盛りの子供ではあるが、色恋沙汰を知らないわけでもない。だからこそ、テイルから結婚の言葉が出てきたのだろう。しかし言葉にするのは簡単かもしれないが、実際に行動に出るのにはかなりの勇気が必要だった。それが足りないから、未だにデクはユールになにも言えていない。

「そうだ、叔母さんに相談してみたらどうかな? いいまじないを教えてくれるかも!」
「彼女にか……」

 テイルとユールの叔母は、魔女である。瞳の色がユールによく似た、美しく穏やかな女性だ。
 彼女の魔法がきっかけとなり、デクとユールの仲が大きく発展したと言ってもいい。大きな恩がある相手でもあるが、もう彼女のまじないにも魔法にも頼るつもりはない。魔法はあのとき限りで、これからは運命の流れと、自分の努力で歩いていくと決めていた。
 だが、相談くらいは許されるだろう。これまでも時折ユールのことで悩んだときには、彼女に打ち明け、そして助言をもらっていたこともある。今回のことも女性ならではの気遣いがあるかもしれないと、デクは魔女のもとに行くことを決めた。

 

 

 


 森にある魔女のもとへ至る道は、デクが心より必要としているときにしか開かない。そんな彼女の家へと続く道が開いたということは、デクの悩みが受け入れられたということでもある。
 魔女は、いつものようにすべてを見透かすようにほほえみをその口元にたたえながら、家の前でデクを待っていた。
 すでに出迎えの準備は整っていたようで、家の中に招かれると紅茶のよい匂いに満たされている。
 焼き菓子も用意されていた席に腰を下ろしたデクは、傍らに自身の伴侶である雄鹿を控えさせる彼女にことのあらましを説明した。

「ーーそれで、ユールに同棲の申し込みをしたいけれど、どう伝えてよいかわからないと」
「ああ……」

 魔女は紅茶を一口含み、一度遠くを見るように思案する。

「そうですねーーなにも、難しく考える必要はないと思いますよ。あなたの思いをちゃんと伝えれば、その答えがどうなるかはともかく、あの子はきちんと受け止めてくれるでことしょう」

 少々意地っ張りで口の悪いながらに、律儀なユールのことだ。了承するにしろ、拒否するにしろ、きっとデクの思いに真摯に応えてくれようとするだろう。それはデクもわかっていた。だがやはり、気持ちを伝えることができたのなら受け入れてもらいたいと思うのだ。だがデクにはまだ、自信がない。もし断られたらと思うと足が竦んで言葉が出てこなくなってしまう。
 同棲の申し込みをしようとして、でもなにかしら都合が悪く伝えられないと、意気込みの行き場がなくなり落ち込むものの、その反面答えが先延ばしになって安堵する自分がいるのも確かだった。
 一緒に暮らそうと言ったら、もしかしたら関係が大きく変わるかもしれない。そこまで人生をともにするつもりはなかった、と言われてしまったらどうしよう。
 けしてユールはデクを悪いようにはしないとわかっていても、染み着いた後ろ向きな考えはそう明るく捉えることができず、最悪の事態を考えてしまう。もし本当に駄目だったとき、少しでも傷を浅くするための予防策だ。ここまでになったら立ち直れないという事態を想定して、それよりはまだ受け入れられる苦い現実にぶつかったほうが、まだましだったと思えるからだ。
 まるで、ユールときちんと向き合う前のちっぽけな自分に戻った気持ちになる。大きな背を丸くして、なるべく邪魔にならないように目立たないようにと、のっそりと一人で歩いていたあの頃の亡霊のような頃。灰色の世界にいながら、いつも彩り豊かななかにいる人々を眺めるばかりだった。与えられることを待つばかりで、自ら踏み出そうとしなかった臆病な自分が、心の中でじっとこちらを見つめている。
 ーーきっと大丈夫。でも、もし断られたら。
 間違いなく自分は落ち込んでしまう。ユールは平気でも、気持ちを切り替えられないデクが気まずい雰囲気を作ってしまうかもしれない。
まだユールがどういう答えを出すか検討もつかないのに、もしもの想像が明暗めまぐるしく回って、最近のデクの気分は浮き沈みがあまりに激しい。
 今だって、ユールに頷いてもらうために助言を求めてやってきたのに、いざ言葉をもらったら、だめだと言われることが頭をよぎってしまう。
いっそのこと、まだユールには一言も告げていないのだから、まだ後戻りはできる。そんなことさえ考えてしまった。

「ーー……伝えるということは、難しいですね。でも、言わないと相手はあなたの考えがわかりません。どんなに愛されているかも、思っている以上に伝わっていないこともあります。わかっている気になっているだけで、言葉にされて初めて気がつくことはたくさんあります」

 カップのなかに映る浮かない顔の自分を見つめていたデクは、顔を上げた。
 自分から見た、以前のユールを思い出す。ユールはずっとデクに想いを寄せてくれていたのだが、あの頃のデクはあまりに鈍感で気がつかなかった。今になって思い返せばユールなりに必死に訴えてくれていたのだが、それを知ったのは彼が素直に打ち明けてくれたからだ。

「デクさん。これから起こることは、きっかけなのですよ。良くも悪くも関係は変わるでしょう。いいえ、変わらないかもしれません。ですがそれでも、きっかけから意識は変わるのです。それはユールだけではなく、あなた自身もなのです」
「おれの、意識……」
「ええそうです。ですからあなたは今、きっかけを前に戸惑っている。でも、あなたの申し出次第で二人の関係が終わることはありません。だって、まだあなたがたはお互いの考えを打ち明けていないのですから。まずはデクさんから自分の気持ちを伝えて、それからちゃんとユールの話を聞いてあげてください。同じ道を歩むにしても、違えるにしても、すべてはそれからです。始まらなければ、望むほうへと修正することだってできません」

 まるで聖母のような、慈愛に満ちた微笑みで魔女たる彼女はデクを諭した。

「変わる変わらないも、それから努力して挽回するも諦めるも、まずはユールの気持ちを知ってからです。そしてそれを聞いたあなたがどう思うかなのです。進むべき道は、今の一歩を踏み出してから決まります」

 答えははいかいいえだけではない。一人で出した答えならそれもありえるが、今回のことは二人の意思だ。本当の結末はお互いの考え次第、デクの行動次第でいかようにも変化する。

「答えを恐れないでください。あなた方はただ、通過点の前で立ち止まっているだけのこと。もし問題があったのなら、話し合ってください。あなた方は思慮深いお二人ですから、お互いが納得のできる道にきっと進めます」

 デクはゆっくりと頷いた。
 わかっていた。恐れ立ち止っていたら、結局はそれまでなのだと。なにも変われず、ただ臆病な自分自身に苛立ち、そして余計に自信は萎んでいく一方で。
 だが、すっかり失っていた自信は、テイルと魔女に背を押され、再びデクの中で大きく勇気とともに膨らんだ。
 気力を取り戻したデクを見て、魔女は目を細める。

「ふふ、そうですね……あと、なにか助言させていただくとすれば――言うべきときはちゃんと考えたほうがいいですね。とはいえ、あの子の機嫌がいいときがいい、という程度のものですが。ユールは恥ずかしがり屋さんですから。家の中がいいでしょう。それでいてあの子が笑顔のときです」
「笑顔……」
「ええ。それにそのときのほうがあなたも伝えやすいでしょう?」

 今思えば、伝えようとすることに必死になって、二人きりで言えそうな時ばかりを狙おうとしていたことに気がつく。相手の機嫌がいいときというのは当たり前であるのに、自分のことばかりですっかり失念してしまってた。
 自分の失態に気がつきしゅんと広い肩を落とすデクに、魔女は紅茶のおかわりと淹れてくれる。
 ふわりと香る優しいにおいはまるで、彼女のようだと思った。

「大丈夫ですよ。もしもうまく行かなかったとしても、そのときは一緒に作戦をたてましょう。わたしはあの子がおむつをはいていた頃から知っているのです。どれだけ意地っ張りなのかも、どれだけあなたがすきなのかも、どうやってあなたに振り向いてもらおうかとした努力も、たくさん知っていますよ。そんな私はあなたの味方ですから、ユールなんて恐れるに足りません」
「それは………心強いな」

 冗談か本気かわからないが、片目を閉じた魔女の茶目っ気ある笑顔に、デクもつられて口元を綻ばせた。





 魔女の助言により気合いを入れ直したデクは、もう揺らぐことなく、ただユールに同棲を申し込むということだけを考えるようにした。どんな答えが返ってくるとしても、まずは相手の反応を見ないとどうしようもないのだと、勝手に憶測してもただ疲弊するだけで、いつまでも悶々と考え込むだけだとようやく踏ん切りがついたのだ。
 魔女の言葉を要約するなら、ぐだぐだしていないでさっさと答えを聞いて、だめなら解決策を考えろ。まずは同棲を申し出てからだ――ということだ。彼女は優しくやんわり諭してくれたが、きっとユールならその一言で片づけるだろうと思うと、不思議と元気が出てくる。
 魔女の優しい物言いも気遣いがあり、ありがたく思えるが、ユールのきっぱりとした物言いは清々しく、鈍感でのろまなデクを動かすのにちょうどいいのだ。だから時々、ユールだったらこう言うだろうな、と想像する。そして自分の頭の中の彼に発破をかけられて奮起するのだが、そうしたときはいかに自分がユールを好いているのか実感するのだ。
 最近はユール相手に悩んでいたせいもあって頭の彼は沈黙していた。それが魔女の家から帰って、彼女の言葉を反芻していると、そうまとめてきたものだから、うっかり笑ってしまったものだ。
 おかげで、デクの心は久方ぶりに晴れ渡っていた。そのおかげで少し意識も変わり、テイルと魔女に続き、他にも誰かに相談してみようと考えた。
 そこで白羽の矢が立ったのが、上司であるグンジだ。
 少し前までのデクは自分自身を疎み、同僚たちと自ら距離を置いていたが、ユールに背中を押されたおかげで、彼らと談笑したり、一緒に昼食をとるよい関係を再構築することができた。
 相談相手として同僚の誰かも頭によぎったが、自分の悩みを相談するというのは気が引けた。彼らのことを信用していないわけではない。少々大ざっぱで気が短く、手が出るのも早いところがあるものの、基本的には気のいい頼りになる仲間たちだ。しかしそれでも二の足を踏んでしまうのは、語る内容だけに、要はデクが恥ずかしく思ってしまうからだ。
 公言したわけではないが、デクとユールの関係は周知の事実である。どこから漏れたのか、それとも見ていてわかりすかったのか、ある日から二人の関係を知った同僚たちには、それはもうからかわれた。といっても別にデクだからというわけではなく、誰かに恋人ができたり、好きな人ができただの、結婚だの、そんな話があがるたびにみんなで冷やかすので、いわば恒例行事のようなものだ。
 しかしデクはそれに加わったことがなかったし、いざ自分が当事者となりからかわれたら、どう反応してよいかわからない。なにより下世話なところもある彼らが黙って悩みだけを聞いて助言してくれるとは思えない。
 それに、以前にうっかり昼休憩を同じ時間帯にして、昼食を一緒にユールととる約束をしていて、みんなと食事には行かないことを伝えたことがあったときでさえひどいめにあったのだ。昼休憩をとる前に小休憩だのなんだのわけのわからないことで言いくるめられて囲まれたかと思ったら、四方から色々なことを聞き出されそうになった。関係はうまくいっているのだとか、よく会うのかとか。一緒の休日はなにを過ごすかだとか、そんなものならまだいい。よく泊まっているのかとか、体格の差はどうなんだとか、そんな込み入ったことまで遠慮なく聞いてくるのだ。それにひとつひとつデクが生真面目に答えてしまったものだから、デクが遅いことを気にかけ迎えに来たユールに状況を知られてしまい、それはもう怒られ、そしてしばらく口もきいてもらえなくなった。
 これまで人付き合いの乏しかったデクでは、まだ上手く躱すこともできず、最終的には泣きつきなるべく気をつけるからと約束をして許してもらえたが、次こそはどうなるかわかったものではない。
 ――というわけで、ユールも信頼しており、下世話なからかいをしてくることはなく、さらには既婚者であるグンジを相談相手に選んだというわけだ。
 仕事の小休憩中、資材の影に隠れて二人でしゃがみこみ、顔をつきあわせながら相談をする。

「そういうことなら、雰囲気が大事だ!」
「雰囲気……」

 胸の前で拳を握り、グンジは張り切って答えた。

「おうとも。いいよって頷きたくなるような、いい雰囲気を作るんだよ。おれもかあちゃんに結婚の申し込みしたときは、いろいろ考えたもんだ」

 デクに聞かれるまでもなく、グンジは語る。

「おれんときはなあ、かあちゃんの誕生日に申し込むんだって気合いいれてよ。あいつの好きな花を年の数分用意して、これから毎年一本ずつ増やしていくから、ずっと傍にいてくださいって言ったんだ。そしたら、あいつなんて答えたと思う?」
「いいと言ってくれたんじゃないですか?」

 結婚して久しく、時々派手な喧嘩をしたらしい頬を腫らしたグンジを見かけることがあるものの、愛妻家で通っている彼の今の結果を見れば当然の答えをデクは出した。しかしグンジはわざとらしく肩を竦めて首をふる。

「それが、いらんわって言われちまったんだよ! 年の分だけ重くなるなんて、年齢を重ねた実感なんかしたくないと!」

 ははは、と声を上げて笑うグンジからは、結婚の申し込みを突っぱねられてしまった当時の絶望は伺えない。しかしデクには少しわかる気がした。十分に悩んでも未だにどう言葉をかければいいかもわからないのに、なにをすればいいかを考え、勇気を出して告白をしたのに断られてしまうのは、やはり想像しただけで胸がぎゅっと悲しくなる。

「こ、断られたのか……」

 もし、それが自分であったのなら。そんな想像から浮かび上がった恐怖が声音に滲んでしまう。
 グンジもそのときのことを思い起こしたのか、大きく開いて笑っていた口を閉じると、小さな微笑みに変え、どこか遠くを見るように明後日の方向を一度見る。すぐにデクに視線を戻すと、鼻の下に指を当てて、へへっと照れくさそうに笑った。

「でもよ、そのかわりに、その年から一本ずつ花を増やしていくなら、二人の記念にするんならいいって言ってくれたんだよ」

 そうして夫婦になった年に、その記念に一輪の花を用意した。翌年は二輪、その次はもう一本足して、今では大きな花束となって、毎年欠かさずず愛する妻に贈っているのだという。
 万年無精ひげを伸ばして日々汗だくに働く姿では、花束を持つ姿を想像することも難しい。しかし愛する女性のために考えたその行為は、デクの胸のなかできらきら輝く美しいものに映った。
 自ら積極的に語ったが、やはり言い終え恥ずかしくなったのか、グンジは先に立ちあがる。
 ちょうど小休憩の時間も終わり、散っていた仲間たちもそれぞれ作業の続きに戻っていく。デクもグンジにお礼を言い、自分の持ち場に向かった。

(雰囲気か……)

 歩きながら、グンジの言葉を胸の内で反芻する。彼だけでなく、テイルや魔女のことも思い出しながら、どうしたものかと思案した。
 まずは指輪を用意しなければならない。ユールのこれからの人生の半分をもらうのだから、彼が喜んでくれるようなものがいいが、あまり飾りものに興味のない自分がはたして相応のものを贈れるだろうか。
 飲み歩きもしなければ遊びに出ることもないデクの稼ぎは、生活費を差し引いた分のほとんどが貯蓄に回してあった。いざとなれば王国の宝石店で価値ある石のついた指輪を買うことだってできるが、ユールの喜びが金で買えるようなものではないことは理解している。
 彼は、心のこもったものであれば何だって嬉しそうに受け取ってくれる。新しい棚がほしいと言うから、要望に合わせて作ってやったことがある。グンジからもらった少々値の張るらしい酒や、罠でしとめた獣のお裾分けも、そのどれも嬉しそうに受け取ってくれるのだ。
 時々、デクからの贈り物を受け取るとき、不思議な顔をすることがあった。贈られたものをじっと見つめて、まるでむずがゆそうに、なぜ贈られたのかがわからないかのように、戸惑ったように複雑な表情をしながらお礼を言ってくれる。そのときデクは、困るようなものだったかとつい最近まで落ち込んでいたのだが、実はそうではなかったのだと知ったのはテイルが教えてくれたからだ。
 ユールの瞳の色に似ているからと贈った爽やかな色の花は、丁寧に押し花にされて、今ではユールの読書のともとして活躍をしているそうだ。町の祭りで、恋しく想う相手に贈るお守りも、渡して以降ずっと見かけることはなかったのに、鞄の底になくさないようにしまわれて、いつでも持ち歩いてくれている。
 木を削り作った揃いの椀は、デクの前では最初に作りを一度誉めただけで、デクの家で過ごすユールの日常にすぐに溶け込んでいた。だが実は時々、テイルに自慢していたという。テイルが自分もほしいと言ったらユールは、おれの特権だから駄目、と答えたそうだ。そうとは知らずにテイルにせがまれ、彼にだけでなく兄弟らの父母にも作ってしまい、一時期ユールが不機嫌になったことがあった。当時は理由がわからずなにをやらかしてしまったのかと困惑したが、理由を知ってしまえば素直になりきることのできないユールらしいと安心し、微笑ましく思ったものだ。酒や食い物といった食品や実用的なものは素直に喜んでみせるが、デクが手ずから制作したものや、花のようなふと思い立った贈りものはどうやら照れくさいらしい。
 その価値に関わらず、たとえ道ばたのどこにでも見かける野花でも、言ってくれることこそないが大事に保管してくれている。そんなユールだからこそ、高価であればあるほど良しとするわけでないことがわかるのだ。むしろ倹約家であるユールのことだから、あまり金をかけすぎれば無駄な出費と注意されてしまう可能性もある。この間、彼の家に招かれた際に手土産で少々値の張る菓子折りを持って行ったら、滅多に来れないわけでもないのにそんな見栄張るものを買ってこなくていいと言われたばかりだ。デクとしてはおいしいと評判の焼き菓子をユール一家と味わいたかったといえば、それならなにかの記念のときにでもしろ、とばっさり言い切られてしまった。

(――なんでも喜んでくれるというわけではないな)

 改めて考えて、あまり高価すぎるものは思惑とは反対に拒否されてしまいかねないことに気がつかされる。結局振り出しに戻って指輪について考えて、はっと思い立った。
 どうせなら、自分で作ってみるのはどうだろうか。
 指輪の製作などしたことがないので、これから作り方を学んでいくことになるためすぐに完成させることはできないだろう。凝ったものも無理だ。それでも、それが一番ユールのあのわかりづらい照れた顔が見られる気がする。
 理容師としての仕事に差し支えるからと、ユールは装飾品を身につけるとしても指輪をつけることはない。だから首に括るための紐も用意するつもりだったが、それも自分で編み込もうとも考えた。一度出てきた案に引かれるよう、次々新しい案がそうするための手順が浮かんでくる。
 指輪となると、自宅の作業場でできるものではない。どこかの工房を借りるしかないが、グンジに相談してみようか。彼ならば顔が広く、どこか紹介してもらえるかもしれない。
 一歩前進したことにようやくデクの心がふわりと浮いた。今が仕事中だということも忘れて、そのままさらなる思案にふけろうとしたそのときだった。

「危ないデク!」

 誰かの叫び声が聞こえる。
 はっと顔を上げたデクは、目の前に迫った角材に思い切り喉元を叩かれ、そのまま後ろにひっくり返った。






 グンジの指先が包帯を巻かれた喉元から離れて、デクは上に向けていた顔を前に戻した。

「おまえがひっくり返ったのには驚かされたが、幸い大したことはなさそうだな」
「……すみません」
「おうおう、存分に反省しろ。現場で考えごとしてたおまえが悪いんだからな。今回はこのくらいで済んだからいいものの、次があったら承知しねえぞ」

 もっともな注意を受けて、デクは肩を落としながらもう一度ぼそりと謝罪した。
 指輪のことを考え込むあまり周りを見れなくなっていたデクは、木材を肩で担いで運んでいるところに自らつっこんでしまったのだ。すっかり油断していたデクは、木材が喉に当たった痛みと衝撃にたまらず倒れ込んだ。そのときに後頭部も打ち付けて一瞬目が回ったが、気を失うことは辛うじて避けることができた。
 念のために喉元には薬を塗って包帯も巻いているが、強い衝撃を受けたため痛みも腫れも多少あるものの、潰れることなく声もしっかり出すことができる。それより頭にできたこぶのほうがひどく、冷やすためにあてている濡らした布の重みですら痛みを感じるほどだ。
 丈夫なのかそうでないのか、とグンジは苦笑する。休憩所に移動しているときも、怪我の具合を確認している最中でも上司としての十分な注意をしたグンジだが、デクの反省を認め、一個人として語りかけた。

「――ったく、おまえがこんなぽかやらかすなんて珍しいな。やっぱり例のことを考えてたのか?」
「はい……すみません。どうしたらいいだろうって考えていたら、止まらなくて……」

 大きな身体をますます小さくさせていくデクに、グンジはガシガシと乱雑に頭を掻いて深く息を吐いた。

「まあ、気持ちは分からなくもない。そんなに考えなくたっていいっつっても、やっぱりいろいろ考えちまうし、緊張もするよな。おれもそうだったよ」

 グンジの求婚は成功をし、今でこそ仲むつまじく二人は夫婦として長いときをともに歩んでいる。しかし当時はそんな未来を知る由もない。どう言ったら喜んでくれるだろう、どうしたら頷いてもらえるだろう。時期は合っているか、心は通じ合っているか。彼女との結婚に夢膨らます反面、実は不安でたまらなかったとグンジは言った。

「でもよ、一緒にいたいってやつがいるんなら、やっぱり根性見せないとな。でも切り替えも大事だぞ。四六時中悩みっぱなしってのもよくないもんだ。仕事中は仕事に集中すんだ。ただでさえおれたちのやっていることは危ねえんだから気をつけろ」
「はい……」

 もっともな忠告に頷いていると、荒々しい足音が聞こえてきた。

「デク!」

 振り返ると、血相を変えたユールがデクたちのほうへと駆け寄ってきてるところだった。
 今は仕事中のはずの恋人の姿をみて、なぜここにいるのだろうという素朴な疑問に内心で首を傾げる。そんなことをのんびり考えていたすデクのもとへ辿りついたユールは、よほど急いできたのか、ひどく息を切らしていた。大きく上下する肩になんて声をかけようかと悩んでいたデクだが、走ってきた疲れからではない動揺に揺れる緑の瞳に狼狽えた。

「怪我、したって、聞いたから……」

 喘ぐように息をしながら、包帯を巻かれたデクの喉もとをじっと見つめ、眉間に寄ったしわが深くなる。

「――喉を打ち付けたのと、頭にこぶができたくらいだ」
「自分から運搬物につっこんで喉に当たったんだ。その衝撃でひっくり返ってこぶ作ったが、包帯は宛て布が落ちないためにやったもんだし、まあ見た目の印象ほどひどいもんじゃないぞ」

 言葉の足りないデクをグンジが補完し、ようやく現状を理解したユールの身体から力が抜けていく。

「……大丈夫、なんだな?」
「ああ。すまない、心配をかけた」

 くしゃりとユールの顔が歪む。泣くかもしれない、とデクは直感的に思った。
 小さくうつむき深く息を吐いたユールは、次に顔を上げたときには眉を吊り上げ、キッと音が鳴りそうなほどきつくデクを睨んだ。
 くわりと口が開く前から、どんな言葉が飛び出すかが想像がつく。非は自分にあるのだからと甘んじて受け入れる覚悟を瞬時に決めたデクだが、二人の間にさっとグンジが割り入った。

「おれのほうからたんまり説教はしてやったし、デクも十分反省してるようだから、今回のところは勘弁してやってくれ」
「だけどっ……いや、それもそうだよな。わかったよ。今回はおやっさんの顔に免じて」

 明らかに不満げな顔ではあるものの、ユールは言葉を飲み込み、怒らせていた肩からゆるゆると力を抜いていく。
 グンジの取りなしのおかげで二時間はかかったであろう説教から逃れられたことに感謝しつつも、どれほどの心配をかけてしまったかを改めて反省した。
 勢いを削がれ、抱えていた衝動のような感情は行き場をなくして深いため息とともに吐き出される。気持ちとともに身体も落ち着けようとするユールは疲れ切った様子だった。
 どのように話が伝わったかわからないが、おそらくはデクのことで報告を受けたユールは、仕事を放り出してまで会いに来てくれたのだろう。よほど慌てていたのか、大事な仕事道具の入った腰巻きの小さな鞄が開いたままで中身が見えている。ユールは道具をとても大事にしていて、外に出るときはその小さな鞄は必ず蓋を閉じるし、必要がなければ別の鞄にしまって持ち運ぶ。ましてや開けっ放しのまま走るなど、道具を落としかねないようなことは決してしないはずだった。
 未だに汗は引かずに首筋に今にも垂れそうに玉となっている。それほどまでにデクのため必死にここまで駆けてきてくれたのだ。瞳がわずかに潤んで見えるのも、走ったせいなのか、それとも感情の表れか、デクには判断つかなかったが、申し訳なさに息苦しさを覚える。そしてその申し訳なさと同じくらい、ぎゅうっとユールを抱きしめて、彼の頭に頬をすり寄せたい気持ちが膨れ上がった。しかし今は二人きりでないし、言葉はのみこんだがまだ熱い感情を腹に抱えているユール相手に抱きつくわけにもいかない。

「デク、今日のところはもう上がっちまえ」

 自分のなかに生まれた衝動をデクがなだめていると、グンジがぽんと言った。

「……ですが」

 仕事はまだ残っている。それにこぶは痛むが身体に問題があるわけではないので、動くことに大した支障はないのに一人現場から抜けるのは気が引けた。

「でもでもなんでもだ。早く悩み事解決して、すっきりしないとまた繰り返すぞ」
「悩み事?」

 グンジの言葉にユールが片眉をあげる。

「いや、たいしたことでは……いや、たいしたことでもあるんだが……」

 探るようなユールの眼差しに、顔には出ないながらも内心で冷や汗を掻く。その様子を傍から愉快そうに眺めるグンジが目に入り、わざとユールに聞かせたのだと気がついた。

「ユール、おまえこの後は仕事に戻んのか?」
「そうだな……一応、早退って言って帰らせてもらったけど」
「そうか。それなら悪いがデクのやつを家まで送ってやってくれねえか。おれはちょっと仕事に戻らないといけなくてよ」

 にやにやとした顔をするグンジに気づいたユールは、一度デクを振り返り、二人を訝しげに見ながらも浅く頷いた。

「ああ、デク。念のため明日も休みだ」
「そこまでしてもらわなくても、明日までなんて」
「頭打ってんだから油断するな。なんかあったらすぐ医者のところに行けよ」
「……わかりました」

 それまでのからかいの笑みを消し、グンジは厳しさを滲ませる顔つきを見せた。有無言わせぬ圧力にデクが引き下がり了承すると、復帰したらこき使うからな、とからりとした笑顔を残し仕事場に戻っていった。
 これからデクの開けた穴と騒動で一時中断してしまった作業の調整をするのだろう。
 今すぐにでも自分の作業に戻りたいと思うが、今はグンジの言うとおり自宅で待機しておくしかない。職業柄怪我はよくあることで、なかには大怪我をする者もいるが、とくに頭を打ち付けた場合は、最初は平然としていても後からなにかしらの症状が出ることもある。喉のことだけならよかったが、頭のこぶの存在は無視できないものだ。彼はそれを心配したのだろう。デクよりも怪我人の対応をしてきたグンジの判断は正しいものである。

「ひとまず、おまえの家に帰るか」

 ユールはふと自分の腰へ目を落とし、道具の入る鞄の蓋を閉じた。それから何事もなかったかのようにデクの家の方向へ歩きだそうとする。

「ユール」
「なんだよ?」

 振り返ったユールに息の乱れはもうない。汗も引きつつあり、デクへの怒りも落ち着けたのか涼しい顔をしている。
 けれど、デクの頭にはここに駆けつけたときのユールの大切なものをなくしたような心もとない不安げな表情が離れずにいた。

「心配かけた。すまなかった」
「――それはもうさっきも聞いたっての。別にそこまで心配したわけじゃねえし、次同じことがあってももう来てやんねえからな」

 そう憎まれ口を叩きながらも、デクになにかあったら、きっとユールはまた駆けつけてくれるのだろう。でももう意地っ張りなこの恋人に泣きそうな顔をさせたくはない。自分の不注意はもちろんのこと、どんなに小さな怪我であろうと、なるべく傷を作らないように細心の注意を払って作業をすることを改めて心に誓う。

「ほら、ぐだぐだやってないでとっと帰るぞ」

 そっぽを向くように先に歩き出したユールの後を、デクは追いかけ、隣に並んだ。





 家に帰り、ユールはデクの代わりにたまっていた家のことを済ませていった。
 干したはいいが取り込んでそのまま山にした衣服は折り畳まれて、後でまとめて洗おうとしていた食器は汚れをきれいに落とされ、うっすら埃が積もっていた部屋の隅まで掃除をしていく。仕事にかまけておろそかにしていた家事を任せるつもりなどなかったが、ユールは一人すべて終わらせてしまった。デクが手を出したほうが時間がかかるとわかっていてもじっとはしていられず手伝おうとしたのだが、ベッドの上で反省会をしてろと追い返されれば言うとおりにせざるをえない。
 ユールが働いてくれている中で寝るわけにも行かず、指示通りに今日あったことを振り返り反省をしていると、扉が叩かれる。
 返事をするとすぐにユールが顔を出した。その手にはトレーがあり、少し遅れて美味しそうな温かい匂いが鼻先に届く。
 夕食も作ってくれたようだ。寝台脇の棚に置かれたトレーの半分は鍋が占領している。食器は二人分用意されているので、ユールもここで食べていくのだろう。
 ユールは木椀に鍋のなかのスープを注ぎ、片方に匙をつっこんでデクに差し出した。

「ほらよ」
「ありがとう」

 受け取った椀の中をのぞき込むと、ふわりと温かな湯気が顔にまとわりつく。いつもよりも細かく切られた野菜と、普段はスープに入れられることがない鹿肉が入っているのを見て、ユールの気遣いを感じた。食べやすく、かつきちんと栄養がとれるようにとデクのことを考えて用意をしてくれたのだろう。
 自分の分のスープもよそい、ユールは近くの椅子を引き寄せどかりとそこに座り込む。

「――気分は悪くないか? 吐き気とかは?」

 いつまでも椀の中身をのぞき込んでいたデクは、声をかけられてようやく顔を上げた。

「ない。大丈夫だ」
「……そっか」

 ユールは見間違いかと思うほどわずかに口の端を持ち上げると、そっと目を伏せる。
 家事の合間にもユールは時々デクの様子を見にきてくれた。そして体調を確認しては、とくに問題ないことが確認できると必ず目を伏せる。それはまるで、密かに胸を撫で下ろしているかのように穏やかで。視線が合うわけでもないが、それが自分に向けられているものだと知るデクは、目を奪わずにはいられない。
 何度かの瞬きの後、顔を上げたユールはトレーの上に取り残されていたパンに手を伸ばした。

「ほらよ、パンも」
「――ユール」
「なんだよ?」

 ありがとう、と言って受け取るつもりが、気がつけば名前を呼んでいた。
 首を傾げながら目線を上げたユールと視線が絡まり、デクはパンを持つ彼の手に自分の手を重ねる。

「一緒に暮らさないか」

 ずっと言えなかったはずの言葉が、すんなりとこぼれ落ちた。

「……は?」
「あ……いや……これは、その」

 ぽかんと呆けるユールが漏らした声に、デクはようやく自分が発した台詞の意味を理解した。理解したからこそ、自らが生み出した混乱が深まっていく。
 なんだが景色でもいい場所で、ユールは上機嫌で、なんとなくいい雰囲気になったところで用意した指輪を差しだしながら、同棲を申し込むつもりだった。
 間違いなく、パンを受け取る際に言うつもりなどなかったのだ。それなのに、どうしようもなくユールの傍にいたい、これからもずっとともにいたいと願った瞬間、ぽろりと告げていた。
 何故よりにもよって今なのか。代わり映えしない自宅の寝室で、デクは喉にも頭にも包帯を巻いる情けない姿で、ベッドの上で、ユールから差し出されたパンを挟んで。これまで何度も伝えようとして、そして喉の奥に張り付き出てこなかったというのに。いくら気持ちが伝わればいいと言ってもあまりにも格好がつかなさすぎる。
 驚いて停止したままのユールの表情を見ていられず、デクは重ねていた手を離して逃げるように俯いた。
 いい雰囲気もなく、贈り物ものもなく、ユールの特別な笑顔もなく。折角の助言はことごとく反映されていない。せいぜい二人きりで、ということくらいしか達成していないだろう。
 だが、もう出してしまった言葉を取り消すことはできない。
 不意に飛び出してしまったものに心の準備が追いつかないし、自己嫌悪でいっそのこと毛布の中に隠れてしまいたかったが、それでもう引き返すことはできないのだと、意を決してデクは顔を上げてユールを見つめた。

「その……突然、すまない。だがずっと、言おうと思っていた。おまえがいない日はあまりにも静かで、空気が、冷えていて……ユールがいないことがより堪える」

 ユールが家にいても、二人はずっとくっついているわけではない。会話が多いわけでもなく、お互いに仕事道具の整備をしたり、好きなことをしたりして自由に過ごしているので、ユールがいるからといってデクが一人でいるときの日常と大きく変わることはない。
 それでもユールがいない日は家の雰囲気が変わる。明かりの数は同じはずなのにどこかくすんだように見えるし、デクの動きでしか音が立たないからやけに静かに思うのだ。空気もなんだか少しだけ冷たく感じる。食事だって味気ない。なんだがやる気が起きなくて、早く床についてしまう。
 でも、ユールがただそこにいるだけですべてが変わる。
 家の中は柔らかい明かりに染まり、ユールが時折立てる物音が心地よい。どんなに寒い日でも、ユールといるだけで不思議と気にならなくなるし、なにを食べても最高の一品に変わるのだ。それまで各自由に過ごしていても、寝る間際だけは少しの時間恋人らしく過ごして、満たされた気持ちで眠りにつく。そして朝は、愛しい者の顔を真っ先に見ることができるし、二人そろって早起きできたときには朝から甘い幸福に浸れるのだ。

「よく泊まりに来てくれるし、なにが変わるというわけでもないが――それでも、傍にいてほしいと思う。ずっと、これから先も、この家でともに」

 らしくもない歯の浮くような気障な台詞だって考えていたのに、結局はいつものデクが出すような飾り気のない言葉を並べていく。ユールの顔からはもう驚く様子は抜けていて、かわりにじっとデクを真っすぐに見つめていた。その視線に逃げずに向かい合う。

「――だから、おれと一緒に暮らしてくれないか」

 もう一度、今度はうっかりではなく自分の意志で、長いこと自分の中で暖めていた願いを口にした。
 あまりの緊張に、デクは自身がどれほど恐ろしい形相になっているか気がつくことができない。切れ長でややつり上がるただでさえ目つきの鋭い瞳は人を視線で射殺しそうなほどに強い感情に光り、顔もひどく強ばっている。
 赤子はもちろんのこと、すっかりデクに慣れているテイルでさえうっかりすれば怯えそうな凶悪的な顔つきのデクを前に、ユールはなにも言わずにただじっと、なにも語ろうとしない目で見返すばかりだ。
 デクの申し出をなんと思っているのだろう。彼の表情に色はなく、そんなはずはないとわかっていても、勇気を出して告げたはずの言葉が届いていないのではないかと不安がよぎる。
 つい勢いで言ってしまったが、いきなりのことに呆れているだろうか。それとも、そんなつもりはないと返答に困っているのか――少しは同じ気持ちを持ってくれているのか。
 読めないユールの表情にじれる気持ちに神経が削られていく。
 心臓は距離のあるユールにも聞こえてしまっているのではないかと思うほど、ばくばくと強く高鳴っている。強まっていく一方の緊張感に無意識に呼吸が浅くなっていたのか、だんだんと息をすることが苦しくなったデクは、ついにぷはっと呼吸をした。
 いつのまにこんなにも息が詰まっていたのだろうかと驚いていると、大きく息を吸ったデクとは対照的に、ユールは大いに噴き出した。

「くくく……っ」

 手の甲で口元を隠し、デクを見ながらユールは声を抑えて笑う。
 呆然とするデクに気がつき、ユールは一度深呼吸をして気持ちを切り替える。わずかに丸めていた背を起こすと、笑いすぎてうっすら目尻に浮かんだ涙を指先で拭った。

「ああ、悪い。でも、なにをそんな緊張してるんだって見てたら、まさか息も忘れるほどとは思わなくってよ」

 馬鹿にするとか、そんなつもりじゃないんだ、と弁明する彼の口元にはまだ笑みが残っている。だがデクは自分が貶されているわけではないことは理解していた。ユールは少々言葉が荒いときもあるが、無闇に人を傷つけるような男ではないとわかっているからだ。
 だが、傷ついたわけではないが、不満はある。

「……大切なことだから、おれだって緊張する」

 そうでなければ、たった一言を伝えるのにこんなにも悩みはしなかった。
 結果として用意もままならないままにぽろりと伝えてしまったが、本当なら周到な用意の上で、あまりこだわりのないデクといえども多少の見栄を張った場面を整えるはずであったのに。
 ちゃんとした場所で、ちゃんとした状況で、そうしたらデクはここまで緊張感を高めることもなかったかもしれないし、ユールがこうして笑うこともなかったのかもしれないと思うと、余計に自分の失態に心がえぐられた。
 自己嫌悪に落ち込み出したデクに、ユールは片頬を持ち上げる。

「おまえ、自分がわかりやすい自覚はあんのかよ?」
「おれが……?」

 デクはゆっくりと瞬く。思いがけない指摘に驚いたのだが、よくなにを考えているかわからないと称される表情に特別の変化はなかったし、言葉が早くなるような動揺もない。だからこそデクは自分とは真逆の言葉に内心で首を傾げざるをえなかった。

「これだけのつき合いともなりゃ、おまえの仏頂面もある程度はわかるんだよ。ここ最近、ずっと落ち着きがなかっただろ。テイルにも叔母さんにもこそこそ話にたりしてさ。なにか隠し事しているとは思ったけれど、まさかこんな話だったとはな」

 いつ見られていたのだろう。ユールに悟られないようにしていたつもりが、しっかりと行動は把握されていたようだ。 

「もしかしておやっさんの言ってたおまえの悩み事って、これ関係か?」

 今更隠す意味もなく素直に頷いたデクに、ユールはやっぱりなと不敵に微笑んだ。自信に満ちたそれとは対照的にデクの顔は花がしおれるように下がっていく。

「――一緒に暮らすのは、その……いやだろうか」

 ユールからの答えを待つのに耐えきれず、自ら立てた予測を口にする。
 デクの様子に楽しんでいるのは見てわかるが、そこに同棲を申し込まれた喜びが見える気がしない。 
 声に出してしまったら、つきんと胸が痛んだ。申し出に頷いてくれること以上に何度も想像したユールの拒絶が頭を巡る。
 頭が下がっていくほどに悪い方向へと考えを深めていくデクに、ユールは顔を上げるよう言った。

「おれの返事を聞いてもないのに自己完結すんな。おまえの悪いところだぞ」
「すまない」

 ユールと付き合う前の自分を思い出す。周りと馴染もうともせず、勝手にこうしたほうがみんなのためだと線を引いて一人離れた場所で皆を眺めていた。本当はその輪に入りたくて、どうしようもない自分を理解してもらい、そして愛してほしかったあの頃。
 ひょんな事から魔法の矢を手に入れたデクは、それがユールに刺さったのをきっかけにそれまでさほど仲がよかったわけではない彼との交流が増えて、そして自分自身を変えるきっかけを得た。
 デクが思っていたよりも周りはデクを恐れていたわけではなかった。ただデクの拒絶を感じて、どうすればいいかわからなかったのだ。半巨人としての高すぎる背を気にして丸めていた胸を張るのはとても気持ちがよかったし、職場の仲間との食事はデクがいても盛り上がるし、なにより自分を嫌っていたと思っていた男は、実のところ誰よりもデクを見てくれていた。
 今の幸福とも言える穏やかな環境を作り出してくれたのはユールであり、だからこそ彼にはいくら感謝したとしても足りることはない。だからこそ、彼に自分の過去から続く悪癖を指摘されるのは苦いものがあった。
 さんざんに注意されてもいまだ矯正しきれていない性格にいい加減愛想を尽かされても仕方なく、いよいよユールにも見放されてしまうのだろうか。
 不安を抱えながら顔を上げれば、いつもであればすぐそこにある二対の瞳が見えなかった。いつも真正面からデクを見上げるユールが、珍しく顔を逸らすように斜め下に俯いている。緑の瞳の代わりに見える彼の真っ赤になる耳に気がつき、思わず息をのむ。

「――いいよ」

 ぽそりと聞こえた声は、一瞬自分の願いがもたらした幻聴かと思った。ユールの耳が見えていなかったらきっと、そうだろうと納得していただろう。

「一緒に、暮らしてくれるのか」
「……ああ。おまえがこんな風に怪我したり、風邪引いたりしたら面倒みてやるよ」
「そのために誘ったわけでは……」
「わ、わかってるよ!」

 わずかに眉を垂らしたデクに、睨むようなきつい眼差しが向けられる。だがすぐにふっと和らぐと、言葉を探すように目線がゆらゆら下のほうで揺れる。

「おまえは、別におれに自分の面倒を見させるために言ってくれたんじゃないって、わかってる……でもおれにとっては、そういうことが大事なんだよ」

 揺れていた瞳が、包帯の巻かれたデクの喉を見た。立ち上がったユールは指先を伸ばし、そっとそこに触れる。次に頭のこぶに向かい、そこに指先が掠めただけで感じた痛みに思わず反応してしまうと、すぐに手が離れていく。

「大丈夫だ。こぶはまだ痛むが、大したものじゃない」

 デクは自ら頭を差し出すが、ユールが少し歪む後頭部に触れることはもうなく、代わりに前髪を掻き上げ、額にそっと口づける。そこには過去、デクとユールの人生が交わるきっかけとなった傷があった。今ではすっかり傷跡すら残らず治っているのに、ユールは今でも当時を思い出しては気にかけていた。
 一人きりの家で怪我と高熱に苦しんだデクのことをは、きっと生涯ユールの中から消えるわけではないのだろう。
 慈しむ指先が心地よく、自分を想ってくれる彼の心が嬉しくて、デクは目の前のユールの身体を抱きしめた。普段はデクの背のほうが高いが、今は寝台に座っているので、ちょうどユールの心臓の位置に耳が当たる。
 聞こえる鼓動の音が、たまらなくいとおしかった。

「――ありがとう」

 ずっと見守っていてくれて、ありがとう。
 なりたい自分に変わるために手を引いてくれて、ありがとう。
 一緒に住んでくれると言ってくれて、ありがとう。
 こんな自分を愛してくれて、ありがとう。
 たくさんの感謝を込めた言葉では到底足りない。だから、言葉だけでなく、これからのデクの一生をかけてこの恩を返していこうと胸に誓う。

「デク……」

 腕の力をわずかに弱め、頭上にある最愛の者を見上げる。わずかに身を屈めた彼に応えて、デクのほうからも顔を寄せた。

「は……」

 満ち足りた吐息を漏らしたのはどちらだろうか。
 触れるだけのキスを繰り返しているうちに、するりと服の下に入ってきたユールの手に、デクは慌てて顔を上げた。

「ま、待て。飯が冷める」

 しっとりと色づいた唇から必死に目を逸らす。
 べりっと身体まで引きはがされたユールは、明らかな不満に顔をゆがめた。

「はあ? いいだろうが、そんなもんまた温めれば。そもそも、もうとっくに冷めてんだろうが」
「だが……せっかくおまえが作ってくれたから」
「――わかったよ! でも覚えておけよ、腹ごしらえが控えてんだから動けないほど食うなよ」

 瞬時に駆けめぐるあられもないユールの姿に力強くデクは頷くが、それだけのことだったがくらりと視界が揺れる。
 その様子をしっかりと見ていたユールは、すっと表情を改める。

「前言撤回。その怪我、治ってからな」
「……わかった」

 力ないデクの頷きと声音があまりに素直なものだったので、ユールは苦笑する。
 脇に避けていたスープの入るデクの分の皿を手に取り、中につっこんだままの匙を握る。
 すっかり冷めて熱くもないスープは、ほら、とデクの口元に運ばれてきた。
 思わずじっと差し出された匙とユールを交互に見たデクに、ぶっきらぼうに彼は言った。

「まあ、怪我人には優しくしてやんないとな」

 今回だけだからな、とやや語尾を荒くしてぶっきらぼうに続けたユールに、デクは驚きにかたまるが、すぐに我に返って口を開く。ぽかんとしたままでいれば、照れが勝ったユールにすぐにそっぽを向かれてしまうからだ。
 スープを食べさせてもらいながら、デクは促されるまま、同棲を申し出すまでのいきさつをすべて打ち明けた。いったいいつから話を出そうか悩んでいたのか、誰に相談をしたのか、どんな助言をもらったか。ユールからよい返事をもらうために奔走したのを知られるのは恥ずかしかったが、ふーんと興味なさげな相づちをうつわりに、ほんのり染まる頬を見ていれば情けない自分を晒すのも惜しくない。自分の見栄よりも、意地っ張りな恋人が見せる愛らしい姿のほうがよほど価値がある。
 指輪も用意する予定だったことも教えた。今すぐに差し出すことはできないが、近いうちに必ず贈ることを誓う。

「おまえが指輪を作っておれにくれるっていうなら、おれもそうする」

 グンジに誰か指輪づくりを教授してくれて、場所も貸してくれる者がいないか知り合いに当たってもらうつもりだという話を聞いたユールは、ちょっとそこまで買い物についていく、というくらいの気安さで言った。

「……おまえがか?」
「なに驚いてんだよ。おまえがおれにくれるなら、おれがおまえにやるのは当たり前だろうが」

 深く考えるまでもなく、当然のことだから、ユールの口からはすんなりと言葉がこぼれたのだろう。
 受け取るばかりは良しとしない律儀なユールらしく、二人はいつでも対等であると教えてくれる。
 ――といっても、まだデクのほうがもらう幸せが大きい。ずっと見守ってきてくれていたユールの愛情はわかりづらかったがとても深いものであり、それに気づけるようになった今となっては、なにをしてもらっても強い幸福を感じる。
 今はまだ自分が差し出せる精一杯の愛情を全力で注ぐだけだが、いつかユールにも、デクがもらっただけの震えるほどの幸せを感じてもらえるようになりたい。
 そう願うものだが、はたしてユールに敵う日は来るだろうか。
 今だって、ほら。

「なんだか話を聞いてると、おまえばっかりに勇気出させちまったな。――その。ありがとよ。一緒に住もうって言ってくれて」

 語尾に行くにつれて声は小さくなり、ユールは顔を俯かせていく。口先で消えていく言葉はとてもか細かったが、それでも巨人の血をひくがゆえに常人よりも優れた聴力を持つデクの耳にはしっかりと届いた。

「これまでもしょっちゅう来てたわけだし、一緒に暮らしたところでたぶん、特別なにが変わるってわけじゃないだろうけどさ。それでも、まあ……おまえの家族になれるのなら。すごく、嬉しいよ」

 じんわりと腹の底が温かくなる。すっかりさめていたスープの優しい味わいが身体中にとけ込んでいくように、心の奥底まで入り込むユールの愛情に指先まで、毛先まで満たされていく。
 今はまだ用意できていない指輪の代わりに、ユールの手を取り薬指の付け根に唇を寄せた。
 きつく吸い上げ、まるで彼は自分のものであると主張するような赤い跡がそこに残る。ユールはなにも言わなかったが、迷惑そうな顔をした。しかしそれがわざと見せた表情であるのは耳まで赤くなっている姿が教えてくれる。
 ユールが自分をどこまでも許してくれているのだという証明がほしかったのだ。
 早くに両親を亡くしてから、デクはずっとひとりぼっちだった。誰とも交わろうとしなかった。自ら周りを拒絶していたのだ。
 そんななかで唯一突っかかてきたのがユールだ。彼だけは孤独に憂うデクの本心に気がつき、変われるはずがないと自らを諦めていたデクにひねくれた言葉ながらもきっかけを与えようとしてくれていた。
 ユールのおかげでデクは変わったのだ。そして、変わることで色々なものを得ることができた。新しい友も、心から笑いあえる仲間そうだ。誰かと食べる食事のおいしさも、なにかを協力し合うことの楽しさも、なにげない会話の尊さも、時に人を頼ることも、何気ない日常を思い出した。
 愛されることの喜びも、愛するからこその苦しみも。肌を重ねることの心地よさも、全部ユールが教えてくれたのだ。

「そうか……」

 自分でも無意識に声が漏れていた。

「そうだな……これから、もう……ユールはおれの家族なんだな」

 言葉にすればよりいっそう、現実がしみこんでくる。デクでは抱えきれない幸福の滴が、ぽろりと瞳からこぼれ落ちた。

「――馬鹿だな。泣くほどのことかよ?」

 心底呆れたようにユールは笑った後、デクの顔をのぞき込んだ。

「……なあ、まだ飯続けるつもりか?」

 答えるよりも先に顔を寄せる。触れるだけですぐに唇を離したが、すぐにユールのほうから追いかけてきた。
 折角作ってもらったユールの料理は、申し訳なく思いつつも端に寄せる。
 名実ともに自身の半身とも言える存在となったユールを抱き寄せ、彼の指先に涙を拭われながら、デクは腕の中の幸福に身を委ねた。

おしまい