絨毯の上で胡座を掻いたラジルは剣の手入れを、セツはその背にもたれて読書していた。
互いに作業に埋没し、静かな時間が過ぎ行くなかで、ふとラジルの鼻がむず痒さを覚えた。
「……くしゅっ」
堪えきれずに小さくくしゃみをする。小さな振動だったが、完全にラジルに身体を預けきっていたセツはずるりと滑った。
続けざまもう一度くしゃみをしたラジルを、セツは体勢を立て直しながら振り返る。
「大丈夫か?」
「ん、ああ。ちょっと風邪気味っぽくてな。大したことない」
鼻をすすりながらも笑顔を見せるが、深い黒に染まる瞳は不安げに陰った。
「風邪……」
「ほらこの間、昼間に雨が降ったろ。そんとき外で訓練中だったんだけど、身体は熱くなってたからちょうどいいって続けてさ。その後もろくに拭かず過ごしたから、たぶんそれが原因だろうな」
ラジルが言い終わるやいなや、セツはすくりと立ち上がり、そのまま奥の部屋に引っ込んでしまった。
そちらには作業場があるはずなのだが、何かひらめきでもしたのだろうか。
これまでもセツは天啓のように降ってきたひらめきにより、読書の途中であっても、食事の最中でも、恋人との甘い一時でさも中断して研究や作業に没頭することがあった。うとうととまどろんでいたかと思えば、突然目を見開いて作業に取りかかったこともある。なんでも、眠りの縁を歩いてるときのほうが発想しやすいのだという。
そうなればいくら引き留めようが声をかけようが無駄で、彼が満足するところまで待つしかない。
恋人としては寂しくはあるが、興味があることには周りが見えなくなるほどのめり込んでしまうのはセツの性分であり、常人よりも凄まじいその集中力があるからこそ、最年少の呪術師として王宮に上がることができたのだ。彼の才能は本物で、その一瞬のひらめきに期待する声は多い。この間もいい雰囲気で二人でベッドに入る直前に放置された時も心底恨めしくも思ったものだが、その時のもので後遺症の残る重い病の治療に効果がある薬が生まれたのだ。
実際に成果も出ているのだから、わがままは言ってられない。ラジルはセツの恋人であるが、この国の騎士でもあって、愛すべき自国のためにできることがあるなら、例えそれがセツとの逢瀬の最中でも、涙ながらに耐える覚悟は持ち合わせていた。ただし、後日きっちりと耐えた分の精算させてもらいはするが。
とはいえ、不摂生が得意のセツである。寝食を忘れて没頭してしようものなら、さすがにラジルも腕力に任せた強行手段に打って出るが、食事はさっきとったばかりだし、まだ日が昇っているので眠る時間でもない。
気を揉んで止めるには早すぎるので、ひとまず剣の手入れを再開した。
剣の手入れが終わったら、ちょっと構ってもらってじゃれ合おうとは思っていたものの……まあ仕方ないと諦める。
磨き上げた剣を掲げると、窓から差し込む陽光に柔らかく光を纏う。その美しさに満足していると、奥の扉が音を立てて開き、セツが足早に戻ってきた。
ラジルの隣に膝をつくと、手にしていたカップを差し出す。
「薬だ。飲め」
「薬?」
ぐいっと顔に近づけられたそれから香る特濃の草の匂いに、無意識に顔が歪んだ。
飲んでもいないのに、喉の奥から苦味が込み上げてくるようだ。
「風邪なんだろう。これを飲めば一発で回復する」
なんとなく予想はついていたが、案の定セツはそれを勧めてくるので、ラジルは胸の前でやんわり手を振った。
「いや、大したことないって」
「だが……悪化させたら大変だ。寝込むと、苦しいし、つらい」
今まさにその苦痛を浴びているように、変化の乏しいはずのセツの顔がわずかに歪む。
以前に水を被り、風邪を拗らせ寝込んだ時のことを思い出したのだろう。
だがそれは大前提として日頃の積み重なったセツの不摂生が祟ったことが大いに影響していて、日々健康に気を遣い身体を鍛えているラジルとでは根本的に体力が違う。今の風邪がこの先悪化するにしても、少々気だるくなる程度だろう。
しかしセツは本気でラジルを心配してくれていた。そのためにわざわざ大急ぎで薬を用意してくれたほどに。
いつも冷静で動じることのない瞳を揺らしている。そんな健気な様子を見せられたら、純粋な善意を断れるわけもない。ましてやそれが人に優しくされることはもちろん、人に優しくする方法も知らなかったセツからの行動であるなら、なおさら。
人を避け、関わらないように一人でひっそりと生きていた彼からは想像もつかなかったことだ。それが人を心配するのも、世話を焼こうとするのも、セツの心が育まれているからで、この青臭い薬は目に見ることのできるその証である。
薬を受け取り中を覗き込んでみれば、濃緑色に濁ったどろりとした液体がたっぷり入っている。なにかつぶつぶと浮いているが、薬草をひいたものだろうか。
何が入っているのか、聞こうとして止めた。そんなものを教えてもらっても、自分はこれを飲まなければならない。勢いでいくためにも、その足を引っ張るような情報は必要ない。
「ラジル?」
薬を手に動かないラジルを不安に思ったセツが顔を覗き込んでくる。ただ一心に自分を想ってくれている愛しい恋人に、ラジルはにかりと笑顔を見せた。
「ありがとうな。それじゃ……いただきます」
一気に薬を煽った。たった一口含んだだけで危うく吹き出してしまいそうなのを根性で堪えて、最後の一滴までとにかく勢いで飲み干す。
「効果は期待してくれていい。風邪なんて一発で吹き飛ばして……ラジル?」
大丈夫、セツの腕前を信じているから――そう答えたくても、口を開くことはできなかった。開けば、声ではなくて出てきてはいけないものが出てきてしまう。
もう一度自分の名を呼ぶセツの声を遠くに聞きながら、ラジルは後ろにひっくり返った。
悶絶を通り越す薬の味に気を失ったラジルだったが、優秀な呪術師セツの言う通り風邪は一発で治った。むしろ平常時よりも気力が溢れに溢れて困惑したが、元気になったラジルの様子に安堵しているセツに感謝するとともに、二度と体調は崩さないと心に決めた。
そしてその日の夜、身体が高ぶるあまりに、ラジルは逆にセツを寝込ませることになる。
――後日、城では凄まじく不味いがとんでもなく強力な精力剤が開発されて、夜の営みに悩める者たちを救ったらしい。
しかしあまりに効き目がありすぎたため、程なくして制限が設けられたとかなんとか。
オマケ
「もうちょっと、味の改良をしてくれたら、また飲みたいかも……」
「……味の改良より、もっと効果を抑えないと死人がでる」
「…………その節は、その……下のほうもお世話になりました」
「ら、ラジルには二度と飲ませないからなっ」
おしまい