残り香

106ワンライ
お題「香り」


 

 玄関の扉を開ければ、部屋のなかに明かりはなく真っ暗だった。

「ナギくんっ」

 靴を脱ぎ捨てリビングに向かうが、そこにも光はなくしんと静まりかえっている。ライトをつけながらラビチャを確認すれば、探している相手からのメッセージが五分前に入っていた。
『時間なので仕事に向かいます』
 どうやらぎりぎりのところで間に合わなかったようだ。
 せめて顔を見て送り出すことくらいならできるだろうかと思い、駐車場から急いて帰ってきた龍之介は深く息をつく。それは走ったせいで荒くなった呼吸を整えるためもあったし、落胆の溜息でもある。
 本当なら、今日はナギと日中をともに過ごせるはずだったのだ。
 しかし龍之介が主演を務める現在撮影中のドラマが、脚本の変更により一部撮り直しとなった。その調整でオフだった龍之介は急遽駆り出されることになったのだが、それでも四時間以内には撮り終わるはずだったのだ。それであれば、いくらかナギの一緒にいられるはずだった。しかし機材のトラブルや他の出演者の不調によるリテイクが重なり、終了予定時間は大幅に押すことになった。
 ナギにも夜からテレビ番組の撮影があったので、もともと帰る時間はわかっていたが、かろうじて間に合うだろうと信じて帰ってきた分、想い人がいないことに肩を落としてしまう。
 互いの仕事に忙しくタイミングが合わなかった日々が続いていて、ようやく会えるこの日を指折り数えて楽しみにしていた。誰も悪くないのだが、恋しく思う気持ちは止められない。まだ少し人のいた気配が温もりの残る空気から伝わってくるのが余計に切なく想わせた。
 今日のお詫びと見送りの挨拶くらいでもいいから、顔を合わせてしたかった。ナギにその旨を伝えるラビチャを送った後に、彼のアイコンを指先でなぞる。そこにいるのはナギの顔ではなく彼の今ハマっているアニメの主人公であるが、金髪碧眼で華やかな笑顔を見せている少女はどことなく彼に似ている気がした。
 ただでさえ今日のオフまで働きづめで、結局それもつぶれてしまい、龍之介はどっと押し寄せた疲れに体を重たくしながらベッドに向かう。
 食事も風呂もまだだが、今日はもうなにもする気になれなかった。たまにはこんな日があってもいいだろう。
 朝にシャワーを浴びる時間を計算して、明日の仕事に間に合うようにスマートフォンでアラームをセットする。
 服を脱ぎ捨て、下着一枚になって毛布の中に潜り込む。枕に頭を預けて、ふと香った匂いに一度顔を起こした。
 枕からする良い匂いを改めて嗅いで、龍之介は口元をほころばせる。

「ナギくん……」

 それはナギが好んで使用している上品な香水の香りだった。どうやら彼は龍之介が不在のうちに、このベッドを使用したらしい。
 龍之介がいない間は、まじかる★ここなのDVDを観直すのだと言っていたのに。それに休息程度の居眠りならいつもソファでしているはずだ。それをあえてベッドにまで足を運んだのだとしたら。
 もしかしたら、ナギも少しくらいは龍之介を恋しく思ってくれていたのだろうか。
 答えはわからない。でも、今くらいは自分の都合のいいように解釈してしまおうと、龍之介はナギの残り香がする枕を抱きしめ目を閉じた。


 おしまい

 2018.10.20

 

永遠は誓わない top 初めてのキスは